グラさま

グラさま

sekko · 2017-11-22 03:19:05 UTC+9 · 投稿 #1017

先日はありがとうございました。

楽器があり荷物が多かったので、いただいた資料は東京に置いてきて、12月に持ってきてもらいます。その後でご連絡しようと思っていました。

私は「日本のカトリック」の方々とまったく接点がなかったので、最初にコンタクトしていただいた時は青天の霹靂でした。でもそれ以来、養護施設でのコンサートも含めて長くお付き合いしています。3年前の築地本願寺でのコンサートを主宰してくださったみなさまや、14年前の最初の日本のコンサートで法然院を使わせてくださったご住職など、仏教の方々にもお世話になっています。

プロテスタントは、やはり14年前に諸聖人チャペルでコンサートをさせてくださった立教大学や16年前にフランスの宗教教育についての講演に招いてくださった同志社大学を通じて少しお付き合いがありましたが、じっくり意見を交換したことはありません。

サイトの掲示板で福音派との関係で迷っていらした方とお話したことはあります。

私の本を好意的に読んでくださっている牧師さんたちがいらっしゃると聞いて光栄です。

来年も4月後半、10月後半に日本に行く予定なので、機会があればみなさんとお話したいですね。この掲示板にも気軽にいらしてください。


「キリスト教は宗教ではない」は、キリスト教の理解を促す紹介書みたいなものには結局限界があると思うようになってきたので、その限界をとっぱらいたくなって書きました。

もちろん、たとえば「ローマ・カトリック」はれっきとした宗教です。

私はローマ・カトリックの文化(特に宗教芸術全般、フォークロアも)のシンパであり、「宗教ではないキリスト教」はプラグマティックな意味で最大に評価しています。
東洋的には、イエスのいったような弱者救済の逆説はどうしても「為政者の徳治主義」に結びつきます。孟子の「民は尊しと為し、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す」のように。最初から上下関係はあるので、ボトムアップには結びつかない、だから、「宗教ではないキリスト教」の方が普遍性があり、しかも、「西洋グローバリズム」のベースだから、有効利用すべきだということをいつも考えてきました。

「キリスト教ってなあに?」というスタンスで今までのように書いていったら、「宗教ではないキリスト教」が見えてこないので。

今書いている本の中で、人はいつも、神、金、思想などをグローバルに拡張していくためにシンボル操作していく動物なのだなあ、とあらためて思っています。

人間によって作られた「聖なるもの」による弊害やその裏にある一部の人の利害関係をどうやって回避するかというのは、大きな課題ですね。

イエスの「生き方マニュアル」というのも、単に弱者に寄り添うというだけではなく、そのような「聖なるもの」の操作の中では常に弱者が切り捨てられたり断罪されたりする構造を否定するというのがベースにあります。「聖なるもの」を一部の人間の利益のための装置とするような形での「宗教」をまさにイエスは否定したのですから。