sekko · 2017-12-16 17:48:50 UTC+9 · 投稿 #1028
あはは、「恋するシャンソン人形」、流行りましたね。今でも日本語で歌えちゃいます。
私にとって「ロック」はフランスの結婚式のパーティの後で、ベビーブーマーたちと一緒に踊る曲です。若い人だけになるとサルサだとかいろいろな曲になりますが、ベビーブーマー世代のフランス人はとにかくロックをペアで踊ります。ワルツやらタンゴもかかりますが、ロック率多し。私には何が何やら分かりませんが踊るのは好きなので結婚式の度に踊ってます。
ある種のロック歌手の「一貫した自己肯定感」というのはなるほどですね。少なくとも外野からは「教祖」みたいに見えます。ジョニー・アリディにはもっと「サービス精神」がありますね。だから広く受け入れられるのでしょう。
ジョニー関係の特集で一番楽しめたのは『シャルリー・エブド』でした。
ドルメッソンもジョニーも、保守政治家を支援していたエスタブリッシュメント側の人間ですから、権威を揶揄する『シャルリー・エブド』からはずっと笑い飛ばされてきました。
で、彼らはさっそくドルメッソンの特集を組もうと企画していたら、ジョニーが死んだので、ジョニーの特別記事に切り替えたと言います。
それは、2015年のシャルリー・エブド襲撃事件のすぐ後に、ジョニーが自分もそれまでさんざん揶揄されていたにもかかわらず、「私はシャルリー」のカードを持った写真と共にメッセージをすぐに広めてくれたことへの「返礼」だそうです。なるほど。
で、シャルリー・エブドから見たジョニーの葬儀に集まった人々の観察が2ページ見開きになったり、いろいろな記事がありました。もちろん追従記事ではないですが、リスペクトは感じられます。
突出して話題になったある現象に対してどう語るか、の観察としてはいろいろ興味深いでした。
シャルル・アズナブールは93歳かなんかで今も現役、全国ツアーのリサイタルです。舞台には疲れた時のために椅子が置いてあり、医師も待機しているそうですが、座らないとか。アルメニアからの難民出身のエネルギーはすごいですね。私も高校時代かなんかに『イザベル』の熱唱、というか叫びがラジオから聞こえてきたときにはたまげて、絶対に忘れられないインパクトがありました。
ジョニーに関しては、「無関心」だったのです。
「好き」の反対は「嫌い」ではなくて「無関心」だと言われますが、ジョニーを特に嫌いな人などあまりいなかったのかもしれません。付き合うと好かれる人柄だったのだと思います。
「無関心」な人は多かったと思いますが、無関心な人は別に声を挙げずにジョニー特集のTVのスイッチを切る、だけだったでしょう。
私は、ある事象に対しての語られ方や人々の反応自体に興味があるので、ある程度は目を通しましたが…。その文脈では映画は悪くなかったし、ジョニーって「普通のいい人」なんだろうなという感じはしましたね。まあ、あれほど「成功」して何十年も君臨する人たちというのはやはり特別のものがあるのでしょう。
小寄道 · 2017-12-16 11:47:04 UTC+9 · 投稿 #1027
若い頃、日本でもフレンチポップが流行ったときがあります。ジョニー・アリディも日本に来て、いろんなプロモーションをやっていました。一部をのぞいて、まったく受けなかったと記憶しています。「恋するシャンソン人形」あたりがヒットする国だから、アリディ側もやる気をなくして退散したんでしょう。
それにしても、ジョニー・アリディの葬儀の凄さには圧倒されました。こちらでも、とっている東京新聞で紹介されましたが、BSでみた葬儀の模様はまさに国葬なみの盛大さでしたね。彼の人気が国民にあまれく浸透しているのだと、ちょっと意外な驚きをもちました。
私はロックを嫌いではありませんが、ジョニー・アリディには日本の矢沢栄吉や長淵剛のような匂いを感じますね。ここからは偏見に満ちていますので、場を荒らすようなことがあったら削除してください。
彼らのロックには、反骨精神やら権威に対する徹底したアンチな感情は確かにあります。もっといえば、エリートや知性をもこきおろすロック魂があると主張しています。それを支えるのは「愛」と「仲間」です。そして一貫した自己肯定感です。(正直書くと、彼らのロックはあまり聞いていません)
ジョニー・アリディが何を唄っているのか知りませんが、フランス語でロックを歌う彼のパフォーマンスにまったく魅了されませんでした。シャルル・アズナブールの方が小さくてブ男だったけど、凄く惹かれましたね、若いときの私は。
さて、竹下さんが今回の葬儀を冷やかに見ていたこと、それを読んで安心したというかホッとしましたね。フランスに住んでいると、誰もがジョニー・アリディにシンパシーを感じるのかと思っていたぐらいです。
それで、今日ブログを読み、「ジョニー・アリディと白人」というテーマを面白く読みました。お上のつくった権威やシステムには反抗するが、個性や家族、昔ながらのしきたり、よそ者は嫌いだが仕方ないけど条件付きで受けいれてやる寛容さはある、そんなフランスの白人層って、ジョニー・アリディのロックってしびれるほど共感するんじゃないですか?
まったく想像で書いているので、頓珍漢な論評ですが、矢沢栄吉的なロックが大嫌いなので、その匂いを感じさせるジョニー・アリディについて書いておきたかったんです。
私の好きなロッカーは、今は亡き忌野清志郎でした。同じ反体制でも、彼は反原発はじめ根源的なアンチテーゼを突きつけます。栄ちゃんはいい男だけど、義理堅いですから生計をささえる親方日の丸には何もいいません。そこん所ぐらいの差異しかありませんが・・大きい差です。
どうも60男の書くことじゃありませんが、ちょっとジョニー・アリディの葬儀について物申したくて・・。
それと、映画ですが、フランス人の白人からみれば、大予定調和が感じられるヘタレ映画に思うのですが、見ていないので、どうですかね。
乱筆、長文 失礼しました。
sekko · 2017-11-26 02:30:22 UTC+9 · 投稿 #1026
そうですね。権力者は嫌いだけれど「権威」は好きっていうのはベースにあって、だから王権神授説があれほど有効だったんでしょうね。その権力者を引きずり降ろして「権威」をはぎ取って、そのもとにあったカトリック教会を「排除」したけれど、後は「権力」の暴走が起こったので、結局また「権威」をまとうことにしたのがナポレオンだったり、第五共和制だったりというところでしょうか。
マクロンがいまだに、外交の舞台としてエリゼ宮だのベルサイユ宮だのルーブル宮などを使い回していることについて、その「国威」を自分たちのもののように思って満足しているという点では、確かに「フランス人が権威をリスペクトする」のは分かります。
彼らは総論賛成、各論反対、というか、フランスの国威は好きだけれど、生身の権力者は嫌いなんですね。まあそれは健全だと思います。どんな国の独裁者もはじめは民衆の理想を体現していたのが自分を偶像化することに落ち着くようですから。
ミッテランもヴィシィ時代の闇から、社会党政権の初めの希望と改革、そしていつの間にかお飾りになってしまったのですが、事実上の権力を失ったからこそ「フランス伝説のひとつの落としどころ」になったのかもしれません。
ナポレオンについては青土社の『ナポレオンと神』に延々と書いたのでそちらをお読みください。
権力抜きで権威だけがリスペクトされたのがジャンヌ・ダルクと聖母マリア(ノートルダム)かもしれません。
ジャンヌ・ダルク、ルイ14世、ナポレオンという3人の怪物について独自の視点から書きたいというのが昔からの考えでしたが、まだルイ14世だけが残っています。
個人的には、権力も権威も敬して遠ざける、ようなスタンスなので私はやはり「日本人」なのでしょうね。
小寄道 · 2017-11-26 01:08:31 UTC+9 · 投稿 #1025
「フランス革命のアイデンティティが国是なので、一般には権力者嫌い」は、そうだと私は思います。
ですが、革命後のナポレオン、あるいは権力者でなく徐々に権威者になったミッテランという人について、フランスの人はどうなのでしょうか。けっこう、好きというか、シンパシーを感じるひとはいませんか? その辺のところ教えてください。
権力と権威、これも一緒くたにした設問もどうかと思いますが・・。
お手を煩わせて申しわけありません。
小寄道 · 2017-11-26 00:50:17 UTC+9 · 投稿 #1024
生来のおっちょこちょいで、勝手に勘違いしていました。
第三者が介在していたらしいことは分っていたんですが、詩織さんの目線で記事を書いたものだと思ってしまいました。
パリに行ってもいないんですね、詩織さんは。
なるほど、よーく分かりました。このライターは明らかに恣意的に「すてきなおじさん」を選んでいますね。
「市井でまっとうに生きている人」たちのなかには、権威をふりかざす人を、内心尊敬する人もいるでしょう。「そんな奴は、けっ!」と言って唾を吐く人もいる。「好きなこと、嫌いなこと」の違いを明確にすることを、私だって尊重すべしと思います。そんな多様性こそ尊重すべきだと言いましょうか・・。市井で尊敬に値する人には、なかなかお目にかかれない。それも現実です。
ともあれ、私の誤解ですので、詩織さんのエピソードについて竹下さんとの齟齬はブログに書ききれません。あしからず。
しかし、「権威や権力はより尊重されるべきか」という問いと、そのアンケート結果では、フランスと日本では正反対の結果がでています。これについては、日本人、日本文化について考えられる、論じられると思っています。
近いうちにということで、お願いします。
sekko · 2017-11-25 23:06:09 UTC+9 · 投稿 #1023
その本というのは私は読んでいないので何とも言えませんが、
>>あれだけ多くのパリジャンたちを眺めていても、「ふむっ」となるのは移民のおじさんたちばかりというのも非常に興味深い。彼らは深いしわに刻まれた年輪以上に想像を絶する歴史を抱えていたりする。若者おじさんでも、笑顔の奥で深い哀しみをたたえていたりする。彼女は取材相手に寄り添い、その眼はとてもあたたかい。受け入れて共感してもらえると、取材相手も心をほぐす。最後には「孫娘になったような気持ちで」おじさんに肩を抱いてもらう。<<
という「彼女」とは、著者であるインタビュアー・ライターで、『働く動物と』とか『達人観察図鑑』などを書いている方です。つまり、よくある有名人やスポットライトの当たった人でなく、市井の無名の達人の言葉に新鮮な真理を見出そうというタイプの方で、『パリのすてきなおじさん』もその延長にあるのでことはよく理解できます。でも、
「受け入れて共感してもらえると、取材相手も心をほぐす。最後には「孫娘になったような気持ちで」おじさんに肩を抱いてもらう。
という内容なのだったとしたら、そこになんとなく上から目線を私は感じたのです。有名人や権力者にインタビューするなら、こういう書き方にはならないだろうなあと。これは読者レビューなのでますますわかりにくいですが、相手が「目上」であれば、警戒心も働き、相手や読者に誤解もされないように「肩を抱いてもらう」ことなどしないだろうなあ、とも思います。
いや、ますますわかりにくいかもしれませんが、私のつっこみたくなったのは、「こんな人たち」にではなく、ましてや詩織さん(彼女がパリに行ったわけではない)がこの本煮取り上げられ人たちに共感したことではなく、このインタビュアーの描き方、見方、チョイス、タイトル(これは出版社の意向かもしれませんが)の方です。
詩織さんも「こんな人たち」に「優しいまなざしを向ける」という上から目線でなく、多様な価値観の共存とその言語化に共感したのだと思います。
もっとも、「脳内オヤジ」としての私の好みからいうと、詩織さんには「50歳のハゲのクスクス屋のおやじ、かたや92歳の競馬場通いのおじいさん」よりも、弱者のために戦う男たちと連帯してほしいし、肩を抱いてくる権力者たちはばったばったとなぎ倒してほしいですけれどね。
もっともこの本で「50歳のハゲのクスクス屋のおやじ、かたや92歳の競馬場通いのおじいさん」などの「こんな人たち」が日本人だったのなら「すてきなおじさん」としてインタビューしてもらえたのかどうかは疑問ですが。
こんなことを書いたら、私はエリートばかりとつき合っているので「市井でまっとうに生きている人」に対してそれこそ「上から目線」なのだ、と誤解されそうですが、そんなことはありません。肩を抱いてほしいとは思いませんが、もし無理やり肩を抱かれるシーンに遭遇するなら、権力者に肩を抱かれるよりはましだろうと思いますけれど。
権力者がより尊重されるべきか、というのにフランスが3位というのは驚きです。
フランスは今でもフランス革命のアイデンティティが国是なので、一般には権力者嫌いだからです。
でも、「嫌い」だからこそ、尊重すべきだという傾向は理解できます。
「好きでないものでもリスペクトする」というのはこれもかなりの合意事項なので。(「尊敬」と「尊重」はまったく違います。規則を尊重するのと尊敬するのとが別物であるように)
ブログの記事を楽しみにしています。
小寄道 · 2017-11-25 22:20:05 UTC+9 · 投稿 #1022
鄭重なるレスポンス感謝いたします。
若干の感じ方の相違がありましたので、ふたたびコメントさせてください。
他人と違うことを恐れない。地位や人種なんか関係ない。自分の人生を自分なりに全うしている。
伊藤詩織さんはそんな『パリのすてきなおじさん』を「50歳のハゲのクスクス屋のおやじ、かたや92歳の競馬場通いのおじいさん」たちに見出しました。
でも、竹下さんは「こんな人たちはきっとそれぞれの『人生の達人』かもしれないけれど、パリからでも詩織さんを支援するために声を上げてくれるおじさんたちはこんな人たちではない」とおっしゃいます。
確かに彼らには、社会的に、精神的にも弱者を支援する実質的な力はないのかもしれない。
「絶対的に弱者の側に立つ」「すてきなおじさん」とは、ではどんな人か。
エスタブリッシュメントの紳士もいれば、どこにでもいる会社員だが信仰にあつく正義感の強い男もいるでしょう。少なくとも繁華街でくすぶっている男たちなんかではない!
では、詩織さんはなぜしがない「人生の達人」風の年寄りたちに心を寄せたのでしょうか? 詩織さんの行動にネガティブな反応する「差別」する日本女性がいうように、詩織さんには「男を見る目がない」のでしょうか?
だいぶ前になりますが世界価値調査というものがあり、そのなかに「権威や権力はより尊重されるべきか」という各国の比較結果をみたことがあります。(近々、ブログに書きます)
フランスは世界で第3位でした。84.9%の人が「尊重されるべき」という意見だったといいます。
日本はどんな結果だったか? 世界25か国の比較ですが、最下位の25位で「尊重されるべき」とした人が3.2%しかいないという驚くべき結果でした。24位が香港でしたがそれでも22,3%あったのです。
10年以上前の調査で、なおかつこの手のアンケートが信頼に足るものかどうか怪しい限りです。でも、これだけの大差があるというのは、やはり日本人は「権威や権力」に対してそれほど信を置いていない、少なくと全面的にリスペクトすべきではないという一般的な傾向があると思います。
もっと突っ込んでいえば「権威や権力」をふりかざす人は胡散臭いと考える日本人は多い。フランスではその正反対の結果がでているわけですが、詩織さんがパリに行って、パリジャンに何を見たか? どんな男に心を寄せていたか。
「権威や権力」を持っているような男にレイプされた詩織さんは、きちんとした身なり、或は騎士道精神のありそうなパリジャンをみても、ちょっと斜に見ていたのではと・・。
私には女性の気持ちは分かりかねますが、ツッコミどころ満載の「こんな人たち」に優しいまなざしを向ける伊藤さんの心情がなんとなくわかるような気がするんです・・。
私の独り善がりな見方かもしれません。もう少し彼女を見守っていきます。もちろん、竹下さんを非難するつもりは微塵もありませんので・・。
またまた、長文、乱筆失礼しました。
sekko · 2017-11-25 02:53:19 UTC+9 · 投稿 #1021
アメリカって不思議な国ですね。
あれほど昔からポリティカル・コレクトネスだとかレディ・ファーストだとかピューリタン的規範だとかを振り回しているのに、実は、黒人差別だって全然なくなっていないし、セクハラだって横行し放題、なんて、がっかりというか、逆に正直なのか、よく分かりません。
フランスの80年代以降生まれの若い男性も私の近くにいろいろいますが、確かに彼らの多くは、少なくとも「同年代の女性」に対するスタンスが昔より「非-性的」な感じですね。同時にマッチョな「権力」志向も減ったような。この傾向はいわゆる都会のエリート層に顕著なので、彼らが社会を動か頃には確かに少し変わっていくかもしれません。
「枕営業」という日本語、なるほど、こういうと、女性の方が積極的に女性であることを武器にして男を誘惑するという方向で、こっちのイメージが芸能界に定着しているのだとしたら、セクハラは確かにかすんでしまうのかも。
いろいろなリスクから鑑みて、枕営業を受け入れるのも、セクハラするのも、どっちも男の方が悪い、と言いたくなりますが、自分が男の側だったら、と思うと微妙なところです。
詩織さんは、「メディアは完全に男社会」と言っています。
民事訴訟でどう戦っていくのか、それがどう報道されるのか見ていきたいです。
小寄道 · 2017-11-24 22:54:00 UTC+9 · 投稿 #1020
「ワインスタイン事件が日本でも話題になっている割には・・」という竹下さんの受けとめ方でしたが、私はそれほど話題になっていると思いませんでした。
もちろんマスメディアで取り上げられたし、論う識者もいましたが一時的な反応で、ワインスタインという人物の影響力をきちんと把握できた人は少なかったと思います。
また、日本人のコアな映画ファンのなかにはタランティーノと『パルプフィクション』、そしてワインスタインという黄金の三角関係が定着していて、事件の深刻さを積極的に語る人も少なかったですね。
私は折をみて、アメリカ在住の映画評論家・町山智弘氏の情報に耳を傾けていますが、彼を通じて「ワインスタイン事件」のもつ重要性をやっと理解できたというのが正直なところです。
「おそるべし、日本文化の壁」ですが、日本の「性文化」・「性規範」は世界的にみてどうも水準が甘く、ローカリズムの特殊性にはまったままだと考えます。
日本男性の性意識、ジェンダー理解はお粗末で、私も含めてですが、その理由は家庭でも学校でもきちんと教育されなかったことが大きいでしょう。
そういう男たちを育てたのは、もちろん母親=女性たちです。女性たちの意識が変わらないかぎり、男たちの「性意識」は変わらないと思います。
その流れでは、先日の竹下さんの「世代間」のはなしにもありましたが、1980年以降生まれの男たち(フランスでいうYZ世代)が社会のけん引役になってから、少なくとも「セクハラ」という壁が意識されるとおもいますがどうでしょう。
この世代の男たちは、性モラルやジェンダーの理解も通過し、いわゆる「草食系男子」と呼ばれる中心層だとおもいます。なぜ、私がそう思うかというと、彼らは戦略的な生き方として「弱さ」とか「控えめなふるまい」を選択しているように見受けられるからです。
もちろん私の印象論にすぎませんが・・。マイカーを持たないとか、口説かないとか、従来の男性のイメージにはない何か特長がありますよ。
日本の芸能界というところは、たいへん間口もすそ野もひろいし、一般人が簡単に出入りしています。女優業を頂点に芸人、バラエティタレント、アイドル、地下アイドル、さらにAV女優など、「性幻想」を売り物に女性が活躍できる場がたくさんあります。
彼女たちのすべてではありませんが、「枕営業」という言葉が業界が定着しているように、日本の芸能界には「セクハラ」がかすんでしまうという由々しき状況にあることは確かです。そうした芸能界の言説が、一般にもかなり浸透しているのが日本の現実といえます。
そうしたなかで伊藤詩織さんの告発はとても勇気ある行動ですし、個人的にも見守っていきたいと思っています。
ただ、「ネットなどで見ると、ハニートラップだとか、『反戦派=左翼=在日』認定など、あまりにもひどい『セカンド・レイプ』の典型のような誹謗中傷が少なくないことに驚く」とあったように、日本の男たちの偏見や性意識の低さは底なしです。第一に、告発された当事者がマスメディアの上位者ですから・・。相撲界の暴力沙汰に熱心なのは、「詩織さん事件」のような本質的な事柄を避ける習性が身についてしまったんです。世も末って感じです。
いけない、とりとめが無くなりました。乱筆、長文、まことに申し訳ありません。
sekko · 2017-11-22 18:25:53 UTC+9 · 投稿 #1019
私のリテラシーでは「好意的」はありがたい言葉で、悪意などまったく感じませんでした。ですからご心配なく。
でも、なるほど、原理主義の人たちって、主流秩序の側から不当な迫害を受けて硬化したりするケースが多いのだなあとあらためて思います。比較にならないかもしれませんが、弾劾されながら、過激化する一部の人を諫めているダライ・ラマのようなやり方もあり、それも確執を生んでいるから難しいです。難しいのは「宗教」そのものでなく、そこに派生したり寄生したりするルサンチマンかもしれません。
グラ(愛犬の名称) · 2017-11-22 16:28:26 UTC+9 · 投稿 #1018
竹下先生
お詫びします。
「好意的」という表現は、仲間内の感想としは有効かもしれませんが、著者ご自身に対しては不適切で、悪意があることを読み返してみて、感じました。
改めて、お詫びします。
こういうところにも、原理的な福音派の貌が出てしまいます。
私の周りには、先祖がポーランド出身で、カトリックに迫害された、アメリカ人宣教師がいたり、また、ドイツの宣教団体がノルマンディー地方での宣教報告をするという環境で育っているからです。
三つ子の魂百まで、です。
お許しください。
sekko · 2017-11-22 03:19:05 UTC+9 · 投稿 #1017
先日はありがとうございました。
楽器があり荷物が多かったので、いただいた資料は東京に置いてきて、12月に持ってきてもらいます。その後でご連絡しようと思っていました。
私は「日本のカトリック」の方々とまったく接点がなかったので、最初にコンタクトしていただいた時は青天の霹靂でした。でもそれ以来、養護施設でのコンサートも含めて長くお付き合いしています。3年前の築地本願寺でのコンサートを主宰してくださったみなさまや、14年前の最初の日本のコンサートで法然院を使わせてくださったご住職など、仏教の方々にもお世話になっています。
プロテスタントは、やはり14年前に諸聖人チャペルでコンサートをさせてくださった立教大学や16年前にフランスの宗教教育についての講演に招いてくださった同志社大学を通じて少しお付き合いがありましたが、じっくり意見を交換したことはありません。
サイトの掲示板で福音派との関係で迷っていらした方とお話したことはあります。
私の本を好意的に読んでくださっている牧師さんたちがいらっしゃると聞いて光栄です。
来年も4月後半、10月後半に日本に行く予定なので、機会があればみなさんとお話したいですね。この掲示板にも気軽にいらしてください。
「キリスト教は宗教ではない」は、キリスト教の理解を促す紹介書みたいなものには結局限界があると思うようになってきたので、その限界をとっぱらいたくなって書きました。
もちろん、たとえば「ローマ・カトリック」はれっきとした宗教です。
私はローマ・カトリックの文化(特に宗教芸術全般、フォークロアも)のシンパであり、「宗教ではないキリスト教」はプラグマティックな意味で最大に評価しています。
東洋的には、イエスのいったような弱者救済の逆説はどうしても「為政者の徳治主義」に結びつきます。孟子の「民は尊しと為し、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す」のように。最初から上下関係はあるので、ボトムアップには結びつかない、だから、「宗教ではないキリスト教」の方が普遍性があり、しかも、「西洋グローバリズム」のベースだから、有効利用すべきだということをいつも考えてきました。
「キリスト教ってなあに?」というスタンスで今までのように書いていったら、「宗教ではないキリスト教」が見えてこないので。
今書いている本の中で、人はいつも、神、金、思想などをグローバルに拡張していくためにシンボル操作していく動物なのだなあ、とあらためて思っています。
人間によって作られた「聖なるもの」による弊害やその裏にある一部の人の利害関係をどうやって回避するかというのは、大きな課題ですね。
イエスの「生き方マニュアル」というのも、単に弱者に寄り添うというだけではなく、そのような「聖なるもの」の操作の中では常に弱者が切り捨てられたり断罪されたりする構造を否定するというのがベースにあります。「聖なるもの」を一部の人間の利益のための装置とするような形での「宗教」をまさにイエスは否定したのですから。
グラ(愛犬の名称) · 2017-11-21 22:42:44 UTC+9 · 投稿 #1016
改めて、「キリスト教は『宗教』ではない」が、我々のグループではどのように読まれているかをご紹介します。
我々とは、プロテスタントのことですが、この我々は、日本の教会として、無力感と閉塞感を中にあることを実感しております。第二バチカン公会議以降のカトリックに「プロテスト」する理由がないこともあるでしょうし、それ以上に、プロテストする対象も気力も喪っているのではないでしょうか。
私たちの教会は宗教化しております。宗教化している結果、「生き方マニュアル」を求める人たちを締め出しているばかりか、必要としている人たちから見放されているのが現実のようです。
こうした現状に危機意識を持ち、打破しようとする牧師たちには、この本はとても好意的に読まれ、静かな影響を与えてくれております。
sekko · 2017-11-21 20:04:23 UTC+9 · 投稿 #1015
おっしゃるとおりですね。
その辺の事情はちくま新書の『キリスト教の真実』に少し書いたので、今回の新書では触れていませんが、ローマ・カトリック教会がローマ帝国の版図に広がったこととイスラムとの接触で、「修道会の広がり」 + 「大学間の交流、学生の特別通行ビザ」 + 「巡礼ルートの完成」などが、知のグローバル化を可能にしたのが興味深いですね。
そもそも、中世から近代にかけてのヨーロッパのあらゆる「知識人」は、カトリックのネットワークによる「知のグローバル化」に多かれ少なかれ属していたのですから。
その上、カトリック聖職者の独身制や修道者の共同生活と分業化によって、知のコスパが高かったというのも見逃せないと思います。今のイエズス会などを見ていてもそんなことを考えてしまいます。
スイス鉄道のように · 2017-11-21 12:05:21 UTC+9 · 投稿 #1014
『キリスト教は「宗教」ではない』を読ませていただきました。
僭越かもしれませんが、感想を書かせていただきたいと思います。
> 「キリスト者」ではないある人からは、「護教的」だと言われた。
私もそう思いました(もちろん、竹下様が言われた方とは違う理由だとは思いますが)。
私がそう思う理由は、自由や平等,人の尊厳,理性の尊重などの理念は、①古代ゾロアスター教の正義についての考え方,②古代ユダヤ神学,③古代エジプトやメソポタミア地域の文化官僚(書記職(スクライブ))の実務のなかから生まれてきた衡平や公正の考え方,④古代ギリシャ哲学,⑤古代ローマ法の法思想や法哲学,⑥イスラム神学などが、その後さまざまな経路を経て、主に中世ヨーロッパの大学という場所において結晶化したものだと考えるからです。つまり、教会の成果というよりは、中世大学の神学部ならびに法学部の成果が、自由と平等,人権や理性の尊重の主たる直接的な原因なのではないでしょうか。もちろん、ローマ・カトリック教会の司祭や修道士が多く神学・法学の教鞭をとっていたわけで、教会と大学は人という面で重なってはいましたが、しかし、その空間の性質という面で、教会とは異なるものであると思います。
以下、参考文献です。
”自然法思想はキリスト教思想と非キリスト教思想、神の国と地上の国ならびに神の法と世俗の法を結ぶパイプとして、中世を通じてきわめて重要な役割を演じた。もとより、「自然法」という概念自体はギリシアで生まれ、ストアが中心となってローマでもさかんに用いられてきたものである。キリスト教はそれをキリスト教化することによって、非キリスト教世界の法律文化と法思想を、さらには世俗の生活にかかわるすべての事がらをキリスト教化することができたのである。
それゆえに、中世法思想の形成過程を「自然法のキリスト教化」の過程としてとらえることは、中世の法思想をとらえるのに最もふさわしい方法であると思われる。これによって、複雑多岐をきわめる中世の法律生活を、われわれは統一的に理解できるはずである。”(『思想の歴史3 キリスト教とイスラム』 平凡社刊)
”寛容、やさしさ、思いやり、献身はゾロアスター教徒の基本的な義務であったが、ゾロアスターの青年時代の行為がそのモデルとして伝えられている。”
(前田耕作『宗祖ゾロアスター』ちくま新書)
”ゾロアスターは善の原理の正しさとその究極的な勝利に深い確信をもったので、生命あるうちに善を選択してアフラの戦いに尽力した人間は、死後裁判を受けて天国へいくことができるが、逆に邪悪に従った者には地獄の苦しみがあることをはじめて説いた。また善の究極的勝利を画する“時の終わり”があり、この時は死者も生者もすべてを対象とする最後の審判が行なわれ、その後で善の勝利が確立されるのだと主張した。信者たちの日々の悪との戦いを助けて善の勝利を招来すべく、未来には救世主(サオシュヤント)が現れるという希望を与えて信者たちの支えとした。これらのゾロアスターの独創的な思想は、世界の宗教史上画期的なものであって、いろいろな形で、世界の三大宗教たるキリスト教、イスラム教、仏教に大きな影響を与えた。天国と地獄、最後の審判、救世主信仰は、ユダヤ教のなかで成長し、キリスト教に明瞭な結実をみた。”(メアリー・ボイス『ゾロアスター教三五○○年の歴史』講談社学術文庫)
”バビロニアの書記:
書記はその初期には計算、支払い、測量などの商業の基礎教育を受け、ついで、数学、記帳、および商業法規を学ぶ。彼らの仕事は、寺院の財産の収入、支出をつかさどるいわゆる出納責任者で、寺院と商業との連携作業がその任務であった。つまり、司祭と実務家とを兼ねる役割を果たすのである。”
(上原孝吉『簿記の歴史』一橋出版)
”会計の歴史は概して文明の歴史である。高度の発展段階に到達した国民は、いずれも広範囲な商業方式を営んだことをわれわれは知っている。ところで、商業は正確な会計を行うべき多少精巧な方法なしには、これを築き得ないことは明白である。それゆえに、会計は文明の進歩と手をたずさえて来たことになる。商業は文明の侍女といわれたが、同様に会計は両者の侍女であるといっても誤りではない。換言すれば、文明は商業の親であり、会計は商業の子供である。したがって、会計は文明の孫に相当することになる。”(アーサー・ウルフ『ウルフ会計史』法政大学出版局)
”アッバース朝の第七代カリフ、マアムーン(在位813~833)は、バグダードに「知恵の館」(バイト・アルヒクマ)を建設し、ここにジュンディー・シャープールなどから学者を集めてギリシャ・ローマの文献のアラビア語への翻訳活動を組織的に推進しました。スタッフはキリスト教徒(ネストリウス派)やユダヤ人が主体であったようです。この嵐のように展開された大翻訳運動は、中国で行なわれたサンスクリット語の大乗経典を漢訳したことと並ぶ、人類の二大翻訳運動といわれています。”(出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」Ⅱ』祥伝社)
”西洋最初の大学(13世紀)の内とくに、ボローニャ、パリ、オックスフォードでは、アンダルス時代のアラビア語のテキストを大々的に使い、アリストテレスの哲学やイスラムの進んだ科学を学んでいた。”(原田安啓『中世イスラムの図書館と西洋』日本図書刊行会)
”マイムーンの書『当惑する問題への案内』はラテン語訳され、13世紀のスコラ哲学に多大な影響を与えたが、これはトマス・アクィナスの業績に著しく現れている。”(原田安啓『中世イスラムの図書館と西洋』日本図書刊行会)
私が過去に触れた文献の一部ですが、以上です
長くなってすみません。
sekko · 2017-11-21 03:20:57 UTC+9 · 投稿 #1013
>> フランスの文化は素晴らしいな、奥深いな<<
というのは過大評価な気もしますが…。
長く住めば住むほど、彼我の差の大きさを感じたり、本質的な差なんてないやと思ったり、個人差の方が大きいと思ったり、フランスってすごいなあ、と思う時も、フランスってかっこばかりつけていて実は俗物だなあ、と思う時も、振り子がいろいろ振れて、ぐるぐる回るような局面を何度も通過してきました。
でも、確かに、『地獄』のようなテーマの映画をそれなりの俳優が演じたら、かえって一部の日本人には売れるかも、とも思います。これだけ文化や宗教の背景が違う国のわりには、フランスの根っこの部分を感知してくれる人がいつもいたのはある意味驚きですね。
イエネールが観客を神と見立てているかどうかは分かりませんが、観客の重力を感じる演劇空間を、この世とは別の中間地点みたいに思って自分の世界を創出しているのかもしれません。
その点、私がトリオで演奏をする時など、ほんとうに聴いてくださる方との中間地点で織りなされていく何かを感じるので、音楽は芝居よりも連帯感をダイレクトの共有できて幸福感があります。
イエネールは、演じている時に幸せなんだろうか、次に会った時に聞いてみます。
本やブログ記事を書いている場合は、書いている時と読んでいただく時に時間差も空間差もあるわけですが、こうしてコメントをいただくと、不思議な同時性が生まれて、それも味わいがあって感謝です。
sekko · 2017-11-21 03:04:56 UTC+9 · 投稿 #1012
>>>何事においても(特に芸術がらみ)本物を目指すことと商業的になりたつというのは別なのかなと 昔感じたことを 思い出しました。<<<
別と言うか逆方向な気が今でもします。
「ほんものを目指す」人に「商業的な演出、戦略、手配、交渉」を手伝ってくれるプロがついてくれた時にだけ成り立つような。
アートについては、「愛」と同じで、何かにつけて「無償性」がその「ほんもの」度を担保する気がするのです。
無償性は「恵み」でgrace、「恵み」の位相で与えたり受け取ったりすることでしか成り立たないものをますます感じます。
けれどもそれには、「売らなくても食べていける」というハードルがあるわけで、苦労している人が無償性を掲げると「負け惜しみ」だと思われるし、苦労しないで無償性を掲げる人は、「趣味人」「アマチュア」「一握りの運のいい人」、と思われます。
でも、「売れなくともやっていける」人は要するに「恵まれている」わけで、その「恵み」も大きな無償性を支えているわけです。
その上に、才能や時間や時代や体力や健康にも「恵まれている」必要があるわけで、そこには感謝と謙虚が生まれます。
私はついこの前までは、フランス・バロックで納得のいく活動をするという今の贅沢も、70歳になっても続けるなんてことは考えられないなあ、などと思っていたのですが、今は、そんな期限を自分で設定すること自体が傲慢であることが分かってきました。恵みがある限りそれを分け合ったり、伝えたりしたいと素直に思います。
自分で可能性を制限するにはこの世には美しいものが多すぎる、というのが実感です。
sekko · 2017-11-20 21:07:21 UTC+9 · 投稿 #1011
>>>外資系だとボスが部下を連れてくるから、部下は皆イエスマンで、こんなことをいう人はいない<<<
というイメージは私には意外でした。
私のよく知っている日本の「外資系」企業はみな「非アングロサクソン系」だからでしょうか。
世界四大監査事務所のビッグ・フォーなんかはなんとなく、生き馬の目を抜くプロテスタント系新自由主義の権化のような先入観がありますが、フランスを含めてラテン系を中心とする外資系はわりとトップの腰が低いイメージがあります。
組織としてのルールは守り、その中での自由、という志向も、ルールも変えてしまおう、と言う鼻息の荒い若手大統領が君臨しているフランスでは、世代論もこれからどうなるのかなあ、と思います。
小寄道 · 2017-11-20 10:34:32 UTC+9 · 投稿 #1010
[Tout nous sépare]という映画、「地獄」というイエネールの演劇、2日にわたってのブログは、私のフランス・ミーハー魂をキュンキュンと言わせていただきました。
ああ、フランスの文化は素晴らしいな、奥深いな、って単純に脳が反応してしまいましたね。
映画は予告編を見ただけで「カッコイー」と思いました。若い頃から大御所感があって、それほど好きになれなかったドヌーブの存在感も、素直に重厚な演技というか、主人公の女の顔になっていて惹かれました。
さらにサスペンスフルな映画の、演出の小気味いいテンポ、さらにバックに流れる音楽、効果音までもフランスらしいエスプリ、エレガンスが効いていました。
予告編でこれほど感じるですから、日本で公開されたら是非みたい映画です。
「地獄」という演劇も、カトリック国らしいフランスの「本質」を感じました。日本人にははかり知れない根源的な会話劇ですね。
私のようなミーハー人間には恐れおおいのですが、映画化したら例えばジャン・ギャバンとかベルモンドらが(古くてすみません)演じたら、昔の日本だったら結構ヒットするんじゃないかと思いました。
15人ぐらいの小さな演劇空間、まさにミクロコスモスですね。竹下さんんは、観客として「透明人間になったような」錯覚をおぼえたと書いていましたが、私の勝手な憶測を書かせて下さい。
これはもう、観客が「神」の立場になってみるぐらいの劇空間におかれるのではないか・・。それぐらいに切迫力のある演劇をイエネールは意図したんじゃないか、と思えたぐらいです。
竹下さんのブログを読んでそこまで想像してしまったのは、私が不遜で無智な証拠ですが、とにかく「フランス的な知性と粋」を感じました。
以上、熱に浮かされたように一気に書いてしまいました。失礼があったら、お許しください。
これからも、フランスの色々なことを書いていただくことを、心から待ち望んでおります。
吉岡 隆 · 2017-11-18 13:00:23 UTC+9 · 投稿 #1009
>こういう試み(ラモーのオペラから最もミクロコスモス的魅力を引き出せるものを選び、楽譜にして、解釈して、試行錯誤を重ねる)というのは、商業的な世界ではまず成り立たないので存在しない贅沢です。
素晴らしいですね。
若いころアルトサックスでジャズ演奏する友人が、『売れセン』は嫌なんだよと言って、自分の音楽目指していましたが、演奏で生活できるようにはならず、未だに趣味の世界で吹いている友人がいますが。
僕自身は彼の演奏はプロにはない何かを感じ好きな演奏でした。
何事においても(特に芸術がらみ)本物を目指すことと商業的になりたつというのは別なのかなと 昔感じたことを 思い出しました。
吉岡 隆
jean · 2017-11-18 00:08:26 UTC+9 · 投稿 #1008
sekkoさんが1946年と書かれたのは、フランスの事情からだろうと思っていました。やっぱりね。
堺屋太一氏が1976年に発表した小説『団塊の世代』よりも前に、少し上の世代が随分多いことは小学生2年生のころから漠然と感じていました。小学校の朝礼で上級生が整列するのが時間がかかるし、列がすごく長いからです。もちろん、上級生だから体が大きいこともありますが、それにしても、あのゴタゴタはという感じでした。運動会のリレーでも上級生は終わるのが遅いし。
中学校に入ると、教室の後ろに誰も使わない机がいくつも置いてありました。あれ、なんだろうと思っていました。ある時、美術の先生から「君たちの先輩たちは人数が多かった、後ろにある机はその名残だ、教室に入りきれなくて廊下に机を置いている生徒もいた」と聞いたとき、そうなんだ、いっぱいいたんだと納得しました。
世代の違いであれこれ言うことは、あまり好きではありません。世代よりも、その人個人の思いや育った環境の方が影響力がありますから。ただ、会社で若い人たちを見てきたことから言うと、いまの40歳代ぐらいの人は、自分が自由に仕事ができる領域の境界線を明確にしてほしいと迫る人が多いように感じます。優秀な人ほど。組織としてのルールは守るから、自由に考えられる範囲、動ける範囲を明確にして欲しい、線引きを明確にしてほしいと言われました。上司や仲間と没交渉で仕事して、成果を出して、評価されることを望んでいるのでしょうか。日本的なのは嫌で欧米風なのがいいと思ってるのかもしれませんが、外資系だとボスが部下を連れてくるから、部下は皆イエスマンで、こんなことをいう人はいないのでしょうけど。
sekko · 2017-11-16 17:20:05 UTC+9 · 投稿 #1007
ご指摘ありがとうございます。
凡ミスはよくあるので気づいたときには後から訂正していますが、この年代のミスには、別の意味があったような気がするので、ブログに追加記事を載せました。
52年の4月以降に生まれた人は、中学、高校などの1年生に入った時は、もう2年生も3年生も人数が似たようなものだったんですね。51年生まれだと、もうはっきりと、1年生に入ると、3年生だけが数が多いし、50年生まれだと、2年3年に押しつぶされる、という感じだったでしょう。そういう「立ち位置」って、飛び級や落第がなく先輩後輩関係はある日本の学校ではかなりインパクトがありますよね。
フランスでは、公立校が主流で飛び級や落第も多くて、ミクロなレベルでの世代差というのはあまり意味をなしていないというのを教師としても感じました。
このごろは、いわゆる「同世代の人」と「前はこうだったよね。」と話すことも多く、自分が年を重ねると、自分の親が今の自分の年だった頃の心象風景をもっと聞いとけばよかったなあ、と時々思います。まあこれも、個人差の方が大きいでしょうが。
今は逆に、いろいろな方のブログで、昔なら絶対に知り合いにもならず覗けもしなかったような人の「心象風景」などが垂れ流されている時代でもあるので、一定の「物差し」を持っていないと、誤解や思い込みや一般化などのリスクが大きいと、気をつけてはいますが、たいていの人は、そんなリスクなど気にせずに他の人の心象風景を「消費」しているのかもしれません。
jean · 2017-11-16 12:49:17 UTC+9 · 投稿 #1006
L'art de croireの『36歳以下の世代と私に共通点がある?』を読んでて、凡ミス見つけました。
「厳密にいう団塊の世代は1946年から49年生まれだ」
団塊世代は1947年から49年生まれです。団塊世代が生まれるのは、戦争が終わり、男が兵役を解かれて家族のもとに帰ってからだから、スタートは47年。ちなみに、私は52年生まれ。65歳になったので、介護保険証が送られてきました。介護といっても実感ありませんが。
小寄道 · 2017-11-08 08:46:02 UTC+9 · 投稿 #1005
まさしくミクロコスモスともいうべき珠玉の空間のなかで、バロック音楽を堪能したひとときでした。筆舌にしがたい美しい音が、一粒ひとつぶの音たちが全身に沁みこんでくる。
毛穴に染み入るようなとは大袈裟ですが、そんな感覚をおぼえるほどの静かな感動にひたることができました。
生でバロックをきいた経験がなかったこともあり、ちょっと人生を振り返ってみるほどのインパクトはありました。もっと早く知っていたら、違う道を歩んでいたかもしれない・・、などと。
竹下さんのCDはよく聴いています。メンバーの方達が人間的に脆弱だという意味が分かりかねますが(笑)、末永く続けられていくことを心から祈るのみです。
バロック音楽童話、あるいは紙芝居?絵本? CD付きで本になったらいいですね。私だったら絶対買いに走りますね。
最後に、竹下さんのすらりとした体型って、バロックバレエの賜物なんですね。心技体の修練は、女性にも必要なんでしょうね・・。失礼申し上げました。
「双」ギャラリーでの、素晴らしき体験をふたたび! いつかまたトリオ・ニテティスを聴くことができ、お会いできることを楽しみにしています。
ありがとうございました。
sekko · 2017-11-06 18:13:42 UTC+9 · 投稿 #1004
いずれも台風の影響の雨の中の東京でのコンサート、わざわざお運びくださってありがとうございます。演奏者対お客様というのではなく、同じミクロコスモスを共有するという贅沢がフランスバロックの魅力なので、音響の良いギャラリーや小ホールを使わせていただきました。
こういう試み(ラモーのオペラから最もミクロコスモス的魅力を引き出せるものを選び、楽譜にして、解釈して、試行錯誤を重ねる)というのは、商業的な世界ではまず成り立たないので存在しない贅沢です。
音楽教師の国家資格を持っていて公務員の定職があり学校のバカンスも多いフランスだからこそこの情熱を維持できる二人の仲間のおかげです。
多くの人と分け合いたい気持ちとそれが不可能な現実の間でなんとかやっています。
ラモーの新シリーズの録音を待ってくださる方もいるし、今年山陽小野田市でコラボした田村洋さんと来年パリで記念コンサートをやろうという話も出ているのでまだ「終わり」にはなりませんが、企画の世話人のいない私たち(しかもみんなそういう仕事が苦手な純アーティストタイプ)にはいろいろハードルが高くはあります。
今は、遅れている執筆にとりかかり、レッスンとバレエに復帰して頭の整理をする予定です。
ブログにも書くことがたくさん貯まっているので、引き続きご愛読くだされば励みになります。
ありがとうございました。