吉岡さま
>>>何事においても(特に芸術がらみ)本物を目指すことと商業的になりたつというのは別なのかなと 昔感じたことを 思い出しました。<<<
別と言うか逆方向な気が今でもします。
「ほんものを目指す」人に「商業的な演出、戦略、手配、交渉」を手伝ってくれるプロがついてくれた時にだけ成り立つような。
アートについては、「愛」と同じで、何かにつけて「無償性」がその「ほんもの」度を担保する気がするのです。
無償性は「恵み」でgrace、「恵み」の位相で与えたり受け取ったりすることでしか成り立たないものをますます感じます。
けれどもそれには、「売らなくても食べていける」というハードルがあるわけで、苦労している人が無償性を掲げると「負け惜しみ」だと思われるし、苦労しないで無償性を掲げる人は、「趣味人」「アマチュア」「一握りの運のいい人」、と思われます。
でも、「売れなくともやっていける」人は要するに「恵まれている」わけで、その「恵み」も大きな無償性を支えているわけです。
その上に、才能や時間や時代や体力や健康にも「恵まれている」必要があるわけで、そこには感謝と謙虚が生まれます。
私はついこの前までは、フランス・バロックで納得のいく活動をするという今の贅沢も、70歳になっても続けるなんてことは考えられないなあ、などと思っていたのですが、今は、そんな期限を自分で設定すること自体が傲慢であることが分かってきました。恵みがある限りそれを分け合ったり、伝えたりしたいと素直に思います。
自分で可能性を制限するにはこの世には美しいものが多すぎる、というのが実感です。
別と言うか逆方向な気が今でもします。
「ほんものを目指す」人に「商業的な演出、戦略、手配、交渉」を手伝ってくれるプロがついてくれた時にだけ成り立つような。
アートについては、「愛」と同じで、何かにつけて「無償性」がその「ほんもの」度を担保する気がするのです。
無償性は「恵み」でgrace、「恵み」の位相で与えたり受け取ったりすることでしか成り立たないものをますます感じます。
けれどもそれには、「売らなくても食べていける」というハードルがあるわけで、苦労している人が無償性を掲げると「負け惜しみ」だと思われるし、苦労しないで無償性を掲げる人は、「趣味人」「アマチュア」「一握りの運のいい人」、と思われます。
でも、「売れなくともやっていける」人は要するに「恵まれている」わけで、その「恵み」も大きな無償性を支えているわけです。
その上に、才能や時間や時代や体力や健康にも「恵まれている」必要があるわけで、そこには感謝と謙虚が生まれます。
私はついこの前までは、フランス・バロックで納得のいく活動をするという今の贅沢も、70歳になっても続けるなんてことは考えられないなあ、などと思っていたのですが、今は、そんな期限を自分で設定すること自体が傲慢であることが分かってきました。恵みがある限りそれを分け合ったり、伝えたりしたいと素直に思います。
自分で可能性を制限するにはこの世には美しいものが多すぎる、というのが実感です。