matomosa,
「まともさの感覚」というのは、実は、鶴見俊輔氏の本(『戦時期日本の精神史』)で出会って、いい言葉だと思って、それ以来、ずっと頭に残っています。その本では、強い主義主張を持ったリーダー的な思想家が権力の壁にぶつかって転向してゆく一方で、主義主張を守るのではなく、自分としてのまともなあり方を守ろうとした人、ということで、マッカーシズムのもとでのリリアン・ヘルマンの例が引かれていました。リリアン・ヘルマンは、ジンネマンの映画「ジュリア」でも、主義ではなく、ただ友情のために、危険に身を投じる人として描かれていました。実際のヘルマンがどういう人であったかよりも、わたしは、この映画で、男性の監督が「女性の友情」をこれほど毅然と描いたことに感動したものでした。
話を戻して、「まともさ」とは、何らかの主義や信念がまともであるかどうか、ではなくて、自分が自分としてまともであるかどうか、という問題のように思えます。本来あるべき自分(及び、自分をこの世にあらしめたなにものか)以外の利害にこだわり、ふりまわされてはいないか、という。竹下さんが、「思い込み」とか「アディクション」と表現していますが、それは、本当の信念ではないのですが、往々にして、そういうものが信念、信仰、と思われがちなような。何かに依存するのではなく、自分の内側の声を聞くと同時に、自分を客観化もしながら、一歩一歩、もらったものを活かすように暮らす、ということでしょうか。歎異抄、読んでおります。
話を戻して、「まともさ」とは、何らかの主義や信念がまともであるかどうか、ではなくて、自分が自分としてまともであるかどうか、という問題のように思えます。本来あるべき自分(及び、自分をこの世にあらしめたなにものか)以外の利害にこだわり、ふりまわされてはいないか、という。竹下さんが、「思い込み」とか「アディクション」と表現していますが、それは、本当の信念ではないのですが、往々にして、そういうものが信念、信仰、と思われがちなような。何かに依存するのではなく、自分の内側の声を聞くと同時に、自分を客観化もしながら、一歩一歩、もらったものを活かすように暮らす、ということでしょうか。歎異抄、読んでおります。