2007年の投稿

歳末のご挨拶

朝川 渉 · 2007-12-30 21:55:37 UTC+9 · 投稿 #437

竹下さま、管理人さま。
今年はどうもお世話になりました。来年は「イエスさんは宇宙人だった」という学説を立証するために全力投球することを誓います。努力目標はともかく、おかげさまで現実的なキリスト教文化というものが少し分かりかけてきました。

聖女に囲まれて

太陽丸 · 2007-12-25 09:22:19 UTC+9 · 投稿 #436

お返事ありがとうございました。まずは、ディメンジョンという単語をあわてて調べさせて頂きました。そうですか、寸法ですか、否、広がりですよね。
教会では大きく二つに分けるとしたら、ご近所的な「あらまあ、なにさん、おほほほ」派か、ごく自然に人間関係をゆるやかに、しなやかに、広げていく微笑ましい派に整理されると思います。私は、できれば、後者の方でありたいと思っています。趣味の問題だとは思いますが。
スピリチュアルな場所に知人、親しい人と行くと、また、違った感慨がありますよね。そこが、面白いなあと感じます。私の父親は、極めてノーマルな典型的サラリーマンで、宗教的にも標準的というか、無宗教で、ついてきたことに驚きました。やはり、家のあちこちに、キリスト的な読み物やスローガンをはってばらまいていたので、深層意識になにか、刷り込まれた効用があったのかもしれません。
そして、まさに、父はお説教の最中に、すやんすやんと実に気持ちよさそうにお眠りになって、リフレッシュされていました。父は前方に4、5人の聖女達と右にわたくし、後ろは例の音楽教師、最後、左側への逃げ道を防ぐような形で牧師さんがいらしたのですが、その重圧にも負けず、みなさんに温かく見守られるなか、お眠りになりまして、ささやかな汗を感じました。丁度、いい温度だったとのこと。
スピリチュアルな場というのは、私の信じるイエス・キリストの神様だけでなく、きっと、他の神様や武術的な霊場として、複数存在するのかなと思っています。また、それは、地理的なものだけでなく、サイトという電気的な場や交流のなかにも、当然、立ち現れるだろうと考えておりまして、例えば、まさに、ここであったりしますよね。一つの福音に感謝いたします!
そうですよね。たしかに、教会にいける立場のありがたさに鈍感になっておりました。金銭、時間のみならず、ある種の啓示的な恵みも頂いているのですから。これからは、来れない人全てのために、少しでも祈らさせて頂こうと思います。
積極的な思いやりの想像力はイエス・キリスト的ですよね。最近、つくづく、身にしみます。自分の想像力の鈍感さが。

なんですか?

Sekko · 2007-12-23 04:52:40 UTC+9 · 投稿 #435

なんですか? 喜びのビスケットって。
教会で食べるもんなんですか? まあ、喜びって言うんだから、分かち合いのシンボルなんでしょうね。よろしいんじゃないですか?
お父様とそういうところへ行くというのも、時間に追われたり功利的な考えにとらわれるのと別世界でのリフレッシュみたいでいいのでは、と推察します。
私は教会で結婚式した人が結婚記念日にその教会のミサに行くとかいうのはすごくいいなあと思います。神さまが仲人って感じで、素直に初心に帰れたりして。
教会の活動のコアになって活躍してる人、みたいなのは個人的には苦手なんで、教会で誰かに会いに行くというより、そういうスピリチュアルな場所に誰かを連れて行って、人間関係のディメンジョンをちょっとひろげるという感じが好きです。
スピリチュアルなパワーのある場所というのは確かにありますね。古い教会だの寺社などは、もともとそういうところに建てられているのでしょう。
宗教質問箱に質問が来てましたが、日本のような国で、日曜日に教会に行ける人というのは、仕事とか時間とか地域の面でも恵まれた人なんでしょうね。
そういうことを思うと、それができる人は感謝しなくては、と思います。でも、行けなくても気にしなくてもいいのでは? ていうか、行ける人は来られない人すべてのために祈ればいいんで、来れない人を排除するようになりませんように、って感じます。

竹下様へ

太陽丸 · 2007-12-21 19:59:27 UTC+9 · 投稿 #434

あれからも、時おりですが、例の教会へいっておりまして、適度に献金もしております。
教会での教えや雰囲気に対するささやかな違和感は別にしても、教会にいくと神様の存在を感じやすいと思うのです。このことを、「国家の罠」で有名になったインテリジェンスの佐藤優さんという方も指摘しておりまして、少し確証が強くなったのですが、竹下さんはどうお感じになりますか?一人で本やインターネットなどから神様との関係を継続していく方法も良いかなと思っていましたが、やはり、教会という場所で共に祈る行為、思いを共にする場の力はなかなか素晴らしいと思うのです。
ちなみに、先日、教会にいく前に、勇気を奮って、父親を誘ってみたら、そういうことにわりと無関心な方なのに乗り気の返事が返ってきたので一緒に行って参りました。
横で共に祈る父親との姿を見て、これまで、このような情景は想像外だったので現実感希薄な映画のような感覚を覚えました。

それと、喜びのビスケットを召し上がられてるのでしょうか?是非、お聞かせください!

巡礼さん

朝川 渉 · 2007-11-28 22:01:11 UTC+9 · 投稿 #433

>「ガイアの思い出に」と献辞を入れたのは、その猫の名前です。
ねこちゃんも天のルルドの泉のほとりにいて、癒されているでしょう。「アメリカに「NO」と言える国」にもねこちゃんとその母親のお顔が写っていますが、このねこちゃんは、ガイアではなさそうですね。

巡礼地での情熱といえば、四国八十八個所のひとつで休憩したときを思い出しました。仕事で移動中だったんですが、なんとかという寺で一休みしていたら、20歳くらいの若者が、小さな石仏やほこらを拝んでいました。静かな様子なのに、どことなく近寄りがたい雰囲気がただよっていました。ちょっと、言葉では説明しにくいですが。

朝川さま

Sekko · 2007-11-26 09:02:17 UTC+9 · 投稿 #432

お返事おそくなってごめんなさい。

ルルド、来年は、御出現150年記念ですね。行ってみようと思います。
2000年の大聖年のヴァチカンには巡礼者が1000万人訪れたと言いますし、メキシコシティのグアダルーペのノートルダムの聖堂も訪れる人が年間700万人だそうですが、いずれもローマやメキシコへの観光客と純粋な巡礼との区別は難しいかも、です。ルルドは、ほんとに何もないところに泉が湧いて巡礼地が出現したので、そういう感じの所ではやはり群を抜いて人気なんでしょうね。
2002年に非キリスト教信者の大学生たちといっしょにルルドに行った時の話を『聖女の条件』という本の中で書いたことがあります。
『奇跡の泉ルルドへ』は、大分前になります。執筆中、ちょうどその頃いた猫が医療過誤で死んでしまい、「そこいらの野良猫は生きてるのにどうしてうちの可愛い猫が死ぬんだろう」という不当感に襲われていたところだったので、病気を抱えた人、病気に負かされる人や、その家族の思いなどがひときわ切実に感じられました。
「ガイアの思い出に」と献辞を入れたのは、その猫の名前です。

こういう巡礼地にいくヨーロッパの人の情熱は、一部のアメリカ人の持つ宗教への情熱とはちょっと違う感じがしますね。つまり、宣教とか布教的な情熱はなくて、まあ、迷信的といって悪ければ人間的な「何かにすがりたい」という気持ちでしょう。それがカルト宗教などに取り込まれないで、懐の深い解放的なルルドのような巡礼地に受け入れてもらえるというのはラッキーですね。

こういう巡礼地では、誰でも一種のイニシエーション体験があって、死生観が刷新されるところがいいです。「病も死もまた、生の一部である」ということを気づかせてくれます。
ルルドにいっしょに行った学生が、「こんなとこで死にたい」ってつぶやいたのを思い出します。

おくればせながら

太陽丸 · 2007-11-25 22:27:37 UTC+9 · 投稿 #431

そうですね、自分のロジックで神様を捉えていたようです。多分、神の愛は、深くさりげないので、気づきにくいのかなとも思います。
大羊さんの指摘のように、もう少し素直に感性豊かに捉え直してみようと思います。俗にいう、左脳タイプかもしれませんので。聖書にかぎらず、どんなアドバイス、教えも、その人の感性、センス次第なところがあると思っています。

本能と理性のバランスをうまく、愛の精神、決断の方向へ統合、昇華していきたいと思っています。常に、未熟さ、罪深さを意識しながら。

お忙しいなか、レス、ありがとうございました!

ベルナデットのこと

朝川 渉 · 2007-11-24 20:51:32 UTC+9 · 投稿 #430

NAOさま、ありがとうございます。竹下さんの著書は、1冊ずつについてどうこう批評するのではなく、それぞれの著書を関連づけて、トータルで眺めれば良いのでしょうね。なんて大きなことを言っていると、手に負えなくなりますが。
それと、ルルドの泉の元になったベルナデットは記憶力はさておき、すごく利発な少女だったのかなという印象をもちました。

お礼

nao · 2007-11-24 09:05:45 UTC+9 · 投稿 #429

朝川さまのサイト、本の解説がわかりやすく、とてもたすかります。ありがとうございます。

ルルド

朝川 渉 · 2007-11-23 12:02:15 UTC+9 · 投稿 #428

いま「奇跡の泉ルルドへ」を読んでいる途中です。70ページあたりまでは小説として読んでも面白いです。つくり話という意味ではなくて、竹下さんはすぐれた表現力をお持ちだという意味です。
ハリソン・フォード主演の映画「インディ・ジョーンズ」シリーズで聖杯伝説と十戒を収めた神輿(みこし)の伝説が使われていますが、これらは単なる子供だましだと思いこんでいました。だからルルドの泉も、日本でいえば岐阜県の「養老の滝」みたいなものかと思って読み始めたら、そうではないですね。世界最大の巡礼地なんですか。
ヨーロッパは一般的に、宗教への情熱はアメリカよりも冷めていると理解していたのですが、認識を改めたほうがよろしいでしょうか。

信用と危機管理

Sekko · 2007-11-17 01:45:34 UTC+9 · 投稿 #427

多分、私たちがある人を「信用してもいいかな」と測るのは、過去のデータの分析とか経験知による、危機管理の問題なんでしょう。世の中には残念ながら悪意も満ちているので、分別や理性的判断を私たちが失わないようにするのは大切なことではないかと思われます。

で、神による赦し、信頼の回復って、危機管理と関係ないんですよ、きっと。

神さまは理性的でないんです。

理性って、人間の智恵ですよ。すごく大事だと思いますけれど。私は智恵の実を食べるのは大好きです。

太陽も危機管理をしません。

すごく悪いやつにでも平等に、惜しみなく 光を注いでくれます。悪いやつを日のあたらない独房に閉じ込めるのは人間なんです。
幼い子供を虐殺した者の一日にも、子を失った母のそれと同じように陽が昇る。

私たちは何かを受け取る時に、あるいは要求する時に、期待するときに、「ふさわしい」かどうかを測ります。

今の世界の成果主義とか、コストパフォーマンスなんかの考え方と似てます。

自分があることに、「ふさわしい」かどうか、人は自問しがちです。
同じ刃を外に向けて、「ふさわしくない」他者を排除しようともします。

それは、生存上の自己防衛のシステムもあるのでしょう。

多分、神はそういうロジックでは動いていません。

神には、命令し、査定し、懲罰を与える神もいるようですが、キリスト教の神は、イエスに罪を購わせてチャラにして、そういう懲りないゲームをやめてしまったみたいです。
そのおかげで、私たちは、「ふさわしいかどうか」を裁かれることから解放されたようです。「ふさわしい」からではなく、「必要としている」から、信用してもらえる、赦してもらえる、与えられるようになったのでしょう。

多分、愛というのも、理性やふさわしさの次元を超えたところにあるんでしょう。理性を働かせる時にも、万人の上に注がれている太陽の暖かさを常に感じていたいなあと思います。

太陽丸さんは、おかあさま思いなんですね。おかあさまによろしく!

わりに福音派、歓迎いたします

太陽丸 · 2007-11-16 16:33:31 UTC+9 · 投稿 #426

自己紹介のあと、「・・歓迎いたします・・」と言われて、顔・表情筋は全く歓迎していないことも分かりました。
献金のときには、その有無も言わせない、押し寄せるうねりの中で、まさに不可抗力ともいえる抗いたい場の誘惑に負けて、小額ながら献金して参りました。もし、献金しなければ、それこそ、マイノリティ・オブ・マイノリティになる不安と(参考書代と質問代とトイレ使用料の件もあるし、とマッハで理由をこしらえました。)

・・そうですよね!素直によってこない人は面倒くさいみたいな雰囲気は敏感に伝わります。もし、その教会、牧師さんの器が真に大きいならば、様々な器の人をおおらかに冷静に対処できるはずだと思うのです。牧師さんが、イエスの言葉を体現化するようなレベルに達していたなら、こんな若造がちょっとそっと、疑問に思うことを率直にぶつけたところで、くさいものにふたをするようなことはしないで、もっとおおらかにいつでもカモン、いつでもどんな下らないことでもレディOKと余裕をもって対するのではないかと思うのです。竹下様のように?
なので、わたくしも、節子様のように、そのような集団とは距離をおきまくろうと思います。もちろん、イエス様への信心には心を開いたままに。まあ、何派に属していても、大切なのは、イエス様への真摯な姿勢ですよね。とうか、紳士な心の実践?(紳士が座右の銘です。父のは、言えません)
求めよ、されば与えられん、に従って冷静な距離感覚や判断力はまめにチェックしながらも、イエスやキリスト教へ近づく気持ちは大切に保ち、さりげないメッセ-ジへの感度は上げておきたいと思います。実際に、勘違い、思い込みの類かもしれませんがキリスト教に意識がコミットしだしてから、ささやかなメッセ-ジらしき事が明らかに増えております。仏教のときには、そういう感じはなかったのですが。思い込みだったら、笑えますね。いや、泣けますとも。
赦しについてですが、信頼は信用と置き換えてもよいのでしょうか?日常的にもうあいつのあの面はもう絶対信用しない、油断しないと用心することはあります。例え、神様でも、なにも、その人の例えば、盗みだったり、暴力への悪い傾向そのものへの信用レベルは低下させてもよいのではないかと思うのです。人間存在の根底は深い次元で愛して、しかし、その愛している各人の各々の罪的傾向そのものは油断はしないで充分だと思うのです。
まあ、私の当座の感覚、感性で充分だと感じるだけで、神様の感性ではちっとも充分じゃない、ピントはずれなおかしな人ね、なのかもしれませんが。
そもそも、人はある意味で膨大な傾向の集積を発露しうる存在ですよね。卑近な例では、几帳面か否、笑顔が多いか否、食べるのが早いか否。そうした延長でいじめる傾向が強かったりするとき、神様でも、その発露する傾向そのものはその人に呼応するイメ-ジとして認識して、なにも、あえてその悪しき傾向まで信用しなくていいと思うのです。あなたの存在は根底部分で愛するけれども、あなたの抱えている、発露しうる膨大な思言動の内のその罪的、悪的傾向そのものは、愛さないよ、信用しないよ、油断はしませんよ、というスタンスでもよいと思うのです。もし、曲解していたらごめんなさい。(かなりしつこいですね。バプテストでなくとも、誰でもめんどくさいやつと感じるだろうけれども、そこをなんとか)

でも、神様があえて、その悪しき傾向が起きやすいと十二分に認識、予測し、悲惨な不利益、被害を被るのも覚悟したうえで、その悪しき傾向も含めてその人全体への新鮮な良感覚を再び呼び戻すならば、まさに常人の真似できない神業ですね。普通は、恨み、怒り、不安、トラウマなど完全に消去して、その人への真に100パ-セント新鮮で良い感覚(信頼ポイント100)を賦活するなんてできませんものね。
放蕩息子のお話も現代では、引きこもり促進への不安もあるし、そう心安らかに信用できるものでもありませんよね。ネコならともかくおっしゃるように。
信用、信頼を完全復活は難しくとも、仏教であるような、諦観(あきらかに見極める)というぐらいの、完全ポジティブではないが、極力ネガティブを排除した妥協、許容ラインを維持するというのもク-ルで良い知恵だと思います。ちょっと、五木寛が喜びそうですが。
まあ、竹下様クラスならば、ひそやかに、神様に告げ口してもらいたいものです。(危険なので、子供は真似しないように)
誰かに、お前のことはリスペクトしているといわれたら、手放しで喜べませんね。
私も、俗にいう悪い人に、過剰な期待感はリスクがおおきいので、その傾向やそこから派生、予測しうる不誠実な傾向とその認識へは諦観という形で妥協しようかな、やりすごそうかなと思いました。しつこいのですが、神様はその悪しき傾向へも諦観せずに、リスクをしりつつ、信頼ポイント100でもって、高-い期待をもっているのでしょうか??
期待というとすごく近くて過剰な感じで危ういですが、たしかに、希望は、希望の星ではないが距離感がグッとでて安定感をもった視野になる気がします。

信頼とは期待でなく希望である。これまた、名言一句、頂戴いたしました。母に捧げます。
でも、よく考えてみたら、昔、著作を通してお目にかかった、超一流と直感する方が、小さいものから
大きいもの問わず、気軽に広く活発に交流してくださることの、なんという福音でしょうか!!!何デシリオンにかんさんされますでしょうか!否。(少し、その感覚が麻痺してきたので、自戒よろしく)
そして、どれだけ、いろんな形ではげまされたことか!!

ps、猫はお元気でしょうか

赦しはリスペクトで・・

Sekko · 2007-11-14 20:57:55 UTC+9 · 投稿 #425

太陽丸さんへ

「受付のおばあさんからは、無言の行でもうこなくてよろしいですのよ、というオ-ラが背中からスパ-クするのを目の当たりにしました。」って笑えます。
日本では、キリスト教自体がマイノリティだから、その共同体にはマイノリティの共同体特有の雰囲気が生まれやすいってことはあるでしょうね。
「素直に擦り寄ってこない人は排除」的なグループって、何につけ、私は内でも外でも苦手なんで、距離を置きまくります。
そんな真摯な雰囲気があったということはバプテスト派でも福音派系かもしれませんね。カトリックならもっとヌルイだろうなと思ってました。

このサイトの宗教質問箱の方にも、日本でのキリスト教との近づき方について、いろいろ意見が交わされているので参考になさってください。

キリスト者にとっては教会との結びつきは大きいことですが、無理に出入りしなくても、「神に呼ばれるまで待つ」みたいな感じでいいんじゃないですか? また、逆に、ある宗派に属したとしても、自由な感覚を持ち続けることは可能だと思います。それには、全体主義的な指導者のいる共同体は避ける、というのが大切でしょうけど。
存在を丸がかえして欲しい、というような心境や体調の時には、具体的な宗教共同体にとび込まない方がいいかもです。判断力が狂ってますから。信頼できる個人か、書物の方に向いた方が安全です。

キリスト教の赦しについて、私が今までに一番納得したのは、「罪がなかったことになるとか忘れてもらえるのではなく、購わなくてはならないが、赦されるというのは、信頼を100%回復してもらえることだ」という言葉でした。
まさに神業ですよね。それくらいの寛容と信頼の能力がなければとても神さまやってられないだろうなーって感じです。ごめんなさい、悔改めますって言いながら心の中で舌を出している人なんていくらでもいるでしょうから。また、浮気やギャンブルが発覚して奥さんの前で土下座してその時だけは本気で後悔していても、喉もと過ぎれば・・・って人のように懲りない人も多そうです。
私は、個人的には、もしひどいことされたりしたら、その人を100%信頼し治すなんてとてもできません。恨みとかじゃなくて、トラウマが残って、逃げ腰になるでしょう。でも、もし、自分が間違った時に、どんなひどいことをした後でも、神様が信頼ポイントを100%回復してくれるとしたら、すごく励まされます。子供でも「あの子はどうせああいう子だから・・」なんてレッテルを貼られるとますます悪くなりますよね。「うちの子は絶対信頼する」って言ってもらえたら、ほんとに改心できるかも、です。
絶対にうちから追い出さないし、もし出てっても、帰ってきたら無条件で迎えてくれるとかいう「放蕩息子」の話とか信じたいです。でもあの息子も、また懲りずに出てったかもしれないですね。
それで、私は、一応努力して、信頼を回復しないまでも、リスペクトを保つように努力します。たとえば、私や私の大切な人を傷つけた人の「存在をまるごと愛する」なんて、私には不可能ですが、その人は神からは100%信頼を回復されているのだと思えば、愛さなくともリスペクトができますから。まあ、「神さま、あいつはダメ、信頼したらまた裏切られますよ」って老婆心で告げ口したいようなこともありますが。
それで、私が「悪い人」に対して抱くリスペクトなんて、限りなく「あきらめ」の感情に近いんですが、へんに期待するからだめなんで、根拠がなくても希望を持ってればいいのかもしれません。信頼とは、期待でなく希望なのかも。

小さい物

太陽丸 · 2007-11-14 16:01:35 UTC+9 · 投稿 #424

ええと、あわててパンフレットを調べてみましたらバプテスト派でした。一口にキリスト教といっても、いろいろな宗派があることさえ無頓着に3回も参加して、献金してきました。
私は、男性でして、同性の視点から見て、真摯な印象は確かに受けましたが、老若男女バランスよくいていかにも田舎の普通な教会という感じです。真摯な男性ばかりというわけではないと思います。ちなみに、外国人は宣教師のお1人の方しかまだ、みていないです。
雑多で多様の条件は満たしているとは思いますが、違和感や疑問もたくさんあるのも事実で、その疑問を声高らかに、礼拝終了後の余韻あふれるときに、つきっきりのマンツ-マン指導の宣教師にぶつけてみました。納得のゆく応えはあったりなかったりでした。受付のおばあさんからは、無言の行でもうこなくてよろしいですのよ、というオ-ラが背中からスパ-クするのを目の当たりにしました。でも、もう一回くらい論戦を挑みたいと思います。
ちなみに、竹下さんの存在を知っていなかったので、そこでも、ひとつ、不信感が強まりました(笑)。笑えないか。
歌は確かに、みんな上手ですね。ななめ後ろの女性の歌声が、小学校時代の音楽教師そっくりで驚きました。これだけでも、ついていけなそうと弱気になります。確かに、歌が不得意な私みたいなタイプには少しつらいです。いや、歌うこと自体は好きなんですが。
人生の不可抗力ですか・・、それも、時と場合によっては赦されるのでしょうか?父にいっておきます。座右の銘にするようにと。
教会に、あえて、属さない形のクリスチャンとして、バランス感覚と洞察力を、まめにチェックしたり、このような形でチェックしてもらいながら、歩き続けるのもク-ルなやり方ですよね。バランスのとれたクリスチャンって、仏教からもきちんと、良いものを見極めて吸収するような柔軟性を持っていますよね。枠にとらわれずに、他宗派や、いろんな著作、経験からセンスの良い消化吸収ができるようになりたいです。竹下さんは、このやり方はどう思われますか?よろしくないでしょうか?
あと、赦すって、際どいバランス感覚が問われると考えておりまして、なんでもかんでも、私はもう、忘れました。赦しますだけではリスクが大きいですよね。あなたの罪そのものは、すなわち、傾向として生じやすいだろう予測されうる、あなたのカルマへのク-ルな対処は講じるけれども、あなたの存在そのもの、あなたのなかの、イエス(聖性)は深い次元で愛するという理性的な姿勢が大切だと。聖書は字義どうりに、解釈してよいケ-スもばかりではないですよね。まだ、甘いですか?存在そのもの丸ごと愛すべきでしょうか?
あわてて、愛あるフォロ-してくださいまして、こちらもあわててレスポンスさせて頂きました。大忙しいなか、時間とエネルギ-と思いやりを、小さい者に割いていただき感謝いたします。

近所の教会って・・・

Sekko · 2007-11-12 21:46:18 UTC+9 · 投稿 #423

その教会って何系の教会ですか?
疑り深くて我ながら嫌ですけれど、若い女性向きの「真摯な男たち」がいまどき集まってるなんて、それだけでちょっと異様なんじゃないですか?
それともそこは「ナンパな外国人」じゃなくて「真摯な外国人」が集まってるとか?
どちらにしても、人の集まりは人の集まりに過ぎないんで、雑多で多様が基本だと思いますよ。まあ、聖歌を歌うときに真摯になるってのは分かりますけど。歌うのが好きな人たちなんでしょう。歌が嫌いな人は教会に行く楽しみは半減かな、と私は思うんで。
浮気のリスクも、わかんないですよ。そもそも「真摯な人」の浮気は事故のようなもので、人生の不可抗力だったりしますから・・・
すいません、水を差すようなことを書いて・・・
あわててフォローしますが、私は教会は好きですよ。歌うのも好き。場の力とかについて考えるのも好きです。「真摯な人」もたくさん知ってます。教会の内にも外にも。その「真摯」さが信仰と結びついてる人は羨ましいなと思います。それはその人の神への信頼に由来するものであって、他人に見返りを求めるものではないから。そうでないと、その人は浮気しなくても、こっちの浮気も絶対に許してくれないでしょうから。

先日はありがとうございました

太陽丸 · 2007-11-12 21:10:27 UTC+9 · 投稿 #422

実は、まだ、エロイ-ズの手記を読んでないのですが、なるべく早く読もうと思います。
ところで、先生の刺激を受けて、キリスト教への関心が高まり、初めて近所の教会へ行って参りました。
聖歌、賛美歌を歌うのが恥ずかしいと感じると同時に、なにかしら素晴らしい作業だなとも思いました。巷には、なかなかお目にかかれない真摯な雰囲気の方々を見ているだけでも、嬉しくなります。著書でおっしゃっているように、ナンパな外国人フェチなんかやめて、このような真摯な男達に若い女性は目を向けたほうが良いのにと思います。少なくとも浮気のリスクは極めて少ないですよね。
先生の著書は何冊かもっておりますが、興味深い本がたくさんありますので、これからどんどん読んで、感想を送らせて頂きたいと思います。半開きの目で結構です。

そうですか、なるほど

朝川 渉 · 2007-11-11 21:10:08 UTC+9 · 投稿 #421

エゾテリズムを検索したら、うんと怪しげな説明ばかりで閉口しました。だけど竹下さんのご説明だと、わかりやすく明快になりますね。『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実』は未読ですが、本屋か図書館で探してみます。どうもありがとうございました。

エゾテリズムのこと

Sekko · 2007-11-11 05:53:17 UTC+9 · 投稿 #420

別にすごくあやしくないですよ。私の勉強してたのは、16世紀から19世紀にかけてのヨーロッパのエゾテリックな思想の系譜です。まあ、すごく単純にいうと、中世にキリスト教一色だったヨーロッパが、ルネサンスやアラビア文化との接触で、異教を再発見して、それらの流れの中にキリスト教につながる神学の祖型を探ろうとしたシンクレチックな動きで、文化によって表現は違ってもシンボルは共通してたりするんで比較研究もおもしろいんです。ミクロコスモスとマクロコスモスの照応とか、大テーマも見られます。
『カルトか宗教か』(文春新書)の中で、一度分かりやすく説明しました。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実』(中央公論新社)は、エゾテリズムの流れの中で継承されたダ・ヴィンチ像について書いたものです。
オカルトとかとアマルガムされてしまいがちな分野なので要注意なのですが、フランスのエリート文化の中では結構市民権があります。

エゾテリズム史

朝川 渉 · 2007-11-10 20:09:34 UTC+9 · 投稿 #419

竹下さんの著書に「エゾテリズム史」と書かれているのですが、これはどういう意味でしょうか? 秘儀伝授? それとももっと怪しげなテーマなのでしょうか? ただ今、読書感想のサイトを作っている途中でありまして、こちらに載せる感想は後日にしたいと思っています。

アルマゲドン

朝川 渉 · 2007-10-16 19:52:36 UTC+9 · 投稿 #416

先日、テレビで「アルマゲドン」という映画をやっていました。ハルマゲドンを別な言い方をしたのかなあ? どちらにしても、どういう意味なのか知らないので、どちらでも構いません。たぶん竹下さんの本に書かれているでしょうね。
映画は最終戦争というか、宇宙のどこかから岩石が集団で落ちてきて、日本が真っ先に滅亡するSFでした。個人的な願望としては、外国がどうなろうと日本だけは無事な設定にして欲しかったです。

matomosa,

Fusako · 2007-10-01 22:57:37 UTC+9 · 投稿 #414

「まともさの感覚」というのは、実は、鶴見俊輔氏の本(『戦時期日本の精神史』)で出会って、いい言葉だと思って、それ以来、ずっと頭に残っています。その本では、強い主義主張を持ったリーダー的な思想家が権力の壁にぶつかって転向してゆく一方で、主義主張を守るのではなく、自分としてのまともなあり方を守ろうとした人、ということで、マッカーシズムのもとでのリリアン・ヘルマンの例が引かれていました。リリアン・ヘルマンは、ジンネマンの映画「ジュリア」でも、主義ではなく、ただ友情のために、危険に身を投じる人として描かれていました。実際のヘルマンがどういう人であったかよりも、わたしは、この映画で、男性の監督が「女性の友情」をこれほど毅然と描いたことに感動したものでした。
話を戻して、「まともさ」とは、何らかの主義や信念がまともであるかどうか、ではなくて、自分が自分としてまともであるかどうか、という問題のように思えます。本来あるべき自分(及び、自分をこの世にあらしめたなにものか)以外の利害にこだわり、ふりまわされてはいないか、という。竹下さんが、「思い込み」とか「アディクション」と表現していますが、それは、本当の信念ではないのですが、往々にして、そういうものが信念、信仰、と思われがちなような。何かに依存するのではなく、自分の内側の声を聞くと同時に、自分を客観化もしながら、一歩一歩、もらったものを活かすように暮らす、ということでしょうか。歎異抄、読んでおります。

ダブル・スタンダードの弊害

朝川 渉 · 2007-09-29 08:50:49 UTC+9 · 投稿 #413

医者が民間療法や漢方をしりぞけるのは、なぜかなと改めて考えてみました。自分の病気を治すために、医者が漢方薬を飲んでいても不思議ではないですね。
だけど医者の立場では、専門家として患者に向かい合うのだから、民間療法や漢方の知識を正確に知っていないと、処方するのは無理ですね。私たちは、民間療法についてあやふやな知識しかなくても、平気で薬草を煎じたりしますけど。

大学で習った医学の思考方法のほかに、民間療法や漢方を加えると、異なる価値観を切り替えながら使うことになって混乱するのでは。
医者にかぎらず弁護士、学校教師、宗教家なども、ひとつの価値観と一種類の体系だけで考えないと、やっていけないのだと思いました。

難しい話になつていますが・・

nao · 2007-09-27 23:16:35 UTC+9 · 投稿 #412

なにやらむつかしそうな話ですが、体験を一つ。私の妹がよく倒れるようになりました。血圧の上下がはげしく、脳神経外科、循環器科、胃腸科と3名の医師に相談したところ、皆、精神的なものなんだから、安定剤でなおる、といつたんです。確かに安定剤をのむと、一時はさがります。でもまたあがつてくるのです。妹はあきらめず、3名の医師と会話をつずけてゆきました。そのうち、脳神経の医師が「これは本態性になつてるかもしれん。安定剤じゃだめだな・・といつてくれ、降圧剤をだしてくれました。でもだめでした。しかし、医師は2,3種類の薬をためしてくれました。最後にぴつたりあうのに出会いました。それから、彼女の血圧は安定し、外出も自由になりました。妹曰く。「自分の体のことは本人が一番よくわかる。医師がわかつてくれるまで、粘り抜くことが大事だ。そのためには、この医師は信用できるな・・という勘をそだてることが大事。これが人生を左右するよ」
成程。信用できる方について行く、自分の体のことは諦めず訴える。これが、大事だということがわかりました。同じ体験を私もしており、医師を2,3人、かえてみて、やつと行き着いたという経験をしています。「相対的エビデンス」の声をきくのと、同じように、なつ得ゆくまで、医師にくいさがつてゆくというのも、病気をなおすのに、必要なことか、とおもつた次第です。すこし、観点がぼけんましたかね。年のせいにしておきましょう。

エビデンス

Sekko · 2007-09-27 17:48:13 UTC+9 · 投稿 #411

Ppickyさま いつもお世話になってます。

ほんとにエビデンスってなんでしょうね。

治験による一定の基準がないと何も提供できなくなるので数値に基づいたエビデンスが必要なのは分かりますけれど。
例えば90%効くと言われても、自分が残りの10%だったら、ゼロってことだし、自分の病気が「90%治る」とか、「90%生きて10%死ぬ」って状態なんてないんだし。みんな自分の信仰、マイ・エビデンスを信じていくしかないのでしょうか。

でも、きっと、生きるには、エビデンスに拠る期待を捨てるべきかもしれません。何につけ自分の信じていることに「確たる根拠がある」と思った瞬間から、それは思い込みとなり、リアリティがもう見えなくなったり、見えたときは裏切られたという感覚や挫折の感覚につぶされそうです。

これという根拠のないユルイ希望の種火を絶やさないようにしながら、いろんな「相対的エビデンス」の声を聞く、というのが大事ではないでしょうか。
それは現代における、いわゆる「宗教間対話」の必要性と同じです。

エビデンスに拠っている人はすでに「答え」が出ているのですから、対話とは相手を説得することの別名になってたりします。

対話とは、異なるエビデンスに拠っている人が同じ場所で互いに聞くという同じ体験を経ながら、共通のプロセスを構築するという経過自体に意味があるんで、「答え」が分かっている予定調和的なのは対話の意味を成さないと思います。

模索自体が多分人生なんで、ただ、不毛な相対主義に陥らないようにしなくては、と思います。たとえ正解はない、あるいは正解は一つでない、としたって、あきらかに「間違っている答え」というのはあると思うんですよ。対話の中でそれが明らかになっていけば大成功です。

あきらかな間違いを取り除いていく、易しいようでこれも難しいことです。私たちは誰でも小さなテロリズム、小さな絶対主義、小さな覇権主義の誘惑にいつもさらされているんですから。

医者のエビデンス信仰?

picky · 2007-09-27 14:48:34 UTC+9 · 投稿 #410

朝川様、先日はご丁寧にご挨拶を頂きありがとうございました。管理人のPICKYです。
お返事が遅くなり失礼いたしました。
投稿ありがとうございます。
私が持病で通っている病院の主治医は爪もみだとかそういった民間療法のことを話すと、「エビデンスがないから無駄だ」といいます。で、そのエビデンスとは、この薬を使ったら10人中8人に効果があったから効果はあるってことだろう、ということかなぁと思いました。エビデンスを得るには動物実験から治験まで必要なわけで、治験ではひとつの治療法以外のことをできないわけだし、民間療法でエビデンスを求めるのはとっても無理があります。が、まあそういうことはおいといて、とにかくエビデンスがないものはやっても時間の浪費だ、というスタンスのようですね。ちょっとした信仰のようでもあります。