赦しはリスペクトで・・
太陽丸さんへ
「受付のおばあさんからは、無言の行でもうこなくてよろしいですのよ、というオ-ラが背中からスパ-クするのを目の当たりにしました。」って笑えます。
日本では、キリスト教自体がマイノリティだから、その共同体にはマイノリティの共同体特有の雰囲気が生まれやすいってことはあるでしょうね。
「素直に擦り寄ってこない人は排除」的なグループって、何につけ、私は内でも外でも苦手なんで、距離を置きまくります。
そんな真摯な雰囲気があったということはバプテスト派でも福音派系かもしれませんね。カトリックならもっとヌルイだろうなと思ってました。
このサイトの宗教質問箱の方にも、日本でのキリスト教との近づき方について、いろいろ意見が交わされているので参考になさってください。
キリスト者にとっては教会との結びつきは大きいことですが、無理に出入りしなくても、「神に呼ばれるまで待つ」みたいな感じでいいんじゃないですか? また、逆に、ある宗派に属したとしても、自由な感覚を持ち続けることは可能だと思います。それには、全体主義的な指導者のいる共同体は避ける、というのが大切でしょうけど。
存在を丸がかえして欲しい、というような心境や体調の時には、具体的な宗教共同体にとび込まない方がいいかもです。判断力が狂ってますから。信頼できる個人か、書物の方に向いた方が安全です。
キリスト教の赦しについて、私が今までに一番納得したのは、「罪がなかったことになるとか忘れてもらえるのではなく、購わなくてはならないが、赦されるというのは、信頼を100%回復してもらえることだ」という言葉でした。
まさに神業ですよね。それくらいの寛容と信頼の能力がなければとても神さまやってられないだろうなーって感じです。ごめんなさい、悔改めますって言いながら心の中で舌を出している人なんていくらでもいるでしょうから。また、浮気やギャンブルが発覚して奥さんの前で土下座してその時だけは本気で後悔していても、喉もと過ぎれば・・・って人のように懲りない人も多そうです。
私は、個人的には、もしひどいことされたりしたら、その人を100%信頼し治すなんてとてもできません。恨みとかじゃなくて、トラウマが残って、逃げ腰になるでしょう。でも、もし、自分が間違った時に、どんなひどいことをした後でも、神様が信頼ポイントを100%回復してくれるとしたら、すごく励まされます。子供でも「あの子はどうせああいう子だから・・」なんてレッテルを貼られるとますます悪くなりますよね。「うちの子は絶対信頼する」って言ってもらえたら、ほんとに改心できるかも、です。
絶対にうちから追い出さないし、もし出てっても、帰ってきたら無条件で迎えてくれるとかいう「放蕩息子」の話とか信じたいです。でもあの息子も、また懲りずに出てったかもしれないですね。
それで、私は、一応努力して、信頼を回復しないまでも、リスペクトを保つように努力します。たとえば、私や私の大切な人を傷つけた人の「存在をまるごと愛する」なんて、私には不可能ですが、その人は神からは100%信頼を回復されているのだと思えば、愛さなくともリスペクトができますから。まあ、「神さま、あいつはダメ、信頼したらまた裏切られますよ」って老婆心で告げ口したいようなこともありますが。
それで、私が「悪い人」に対して抱くリスペクトなんて、限りなく「あきらめ」の感情に近いんですが、へんに期待するからだめなんで、根拠がなくても希望を持ってればいいのかもしれません。信頼とは、期待でなく希望なのかも。
「受付のおばあさんからは、無言の行でもうこなくてよろしいですのよ、というオ-ラが背中からスパ-クするのを目の当たりにしました。」って笑えます。
日本では、キリスト教自体がマイノリティだから、その共同体にはマイノリティの共同体特有の雰囲気が生まれやすいってことはあるでしょうね。
「素直に擦り寄ってこない人は排除」的なグループって、何につけ、私は内でも外でも苦手なんで、距離を置きまくります。
そんな真摯な雰囲気があったということはバプテスト派でも福音派系かもしれませんね。カトリックならもっとヌルイだろうなと思ってました。
このサイトの宗教質問箱の方にも、日本でのキリスト教との近づき方について、いろいろ意見が交わされているので参考になさってください。
キリスト者にとっては教会との結びつきは大きいことですが、無理に出入りしなくても、「神に呼ばれるまで待つ」みたいな感じでいいんじゃないですか? また、逆に、ある宗派に属したとしても、自由な感覚を持ち続けることは可能だと思います。それには、全体主義的な指導者のいる共同体は避ける、というのが大切でしょうけど。
存在を丸がかえして欲しい、というような心境や体調の時には、具体的な宗教共同体にとび込まない方がいいかもです。判断力が狂ってますから。信頼できる個人か、書物の方に向いた方が安全です。
キリスト教の赦しについて、私が今までに一番納得したのは、「罪がなかったことになるとか忘れてもらえるのではなく、購わなくてはならないが、赦されるというのは、信頼を100%回復してもらえることだ」という言葉でした。
まさに神業ですよね。それくらいの寛容と信頼の能力がなければとても神さまやってられないだろうなーって感じです。ごめんなさい、悔改めますって言いながら心の中で舌を出している人なんていくらでもいるでしょうから。また、浮気やギャンブルが発覚して奥さんの前で土下座してその時だけは本気で後悔していても、喉もと過ぎれば・・・って人のように懲りない人も多そうです。
私は、個人的には、もしひどいことされたりしたら、その人を100%信頼し治すなんてとてもできません。恨みとかじゃなくて、トラウマが残って、逃げ腰になるでしょう。でも、もし、自分が間違った時に、どんなひどいことをした後でも、神様が信頼ポイントを100%回復してくれるとしたら、すごく励まされます。子供でも「あの子はどうせああいう子だから・・」なんてレッテルを貼られるとますます悪くなりますよね。「うちの子は絶対信頼する」って言ってもらえたら、ほんとに改心できるかも、です。
絶対にうちから追い出さないし、もし出てっても、帰ってきたら無条件で迎えてくれるとかいう「放蕩息子」の話とか信じたいです。でもあの息子も、また懲りずに出てったかもしれないですね。
それで、私は、一応努力して、信頼を回復しないまでも、リスペクトを保つように努力します。たとえば、私や私の大切な人を傷つけた人の「存在をまるごと愛する」なんて、私には不可能ですが、その人は神からは100%信頼を回復されているのだと思えば、愛さなくともリスペクトができますから。まあ、「神さま、あいつはダメ、信頼したらまた裏切られますよ」って老婆心で告げ口したいようなこともありますが。
それで、私が「悪い人」に対して抱くリスペクトなんて、限りなく「あきらめ」の感情に近いんですが、へんに期待するからだめなんで、根拠がなくても希望を持ってればいいのかもしれません。信頼とは、期待でなく希望なのかも。