Pickyさん、ありがとう
Pickyさんは、私の親しい若い友人でした。私とは親子以上の年齢差がありますが、常に頼りにできる方でした。フランス語が上手で古都、奈良のフランス語ガイドグループの責任者、フランス語読書会のリーダー、日仏協会の理事でもありました。またパソコンを自由に使いこなし、そのメンテナンスの技術は、専門家なみでした。我が家のPCのメンテは全部、彼女がやつてくれました。PCの買い物まで付き合つてくれました。またゴスペルグループのメンバーで、読書会ではゴスペルも教えてくれました。皆、そtれをとても楽しみにしていました。
彼女は畑仕事も好きな女性で読書会のメンバーのお家に大きな畑があり、常に手伝いにご夫婦でいつていました。週日はお二人とも、会社員で働いていますが、週末はこのように、又多忙な生活をおくつていました。2年半前、子宮がんの診断が下りましたが、その時お腹に赤ちゃんができていました。彼女は手術を回避しました。なんとか赤ちゃんを助けたかつたのでしょう。しかし、赤ちゃんは流れてしまいました。このとき、手術を受けてくれていたら・・と我々はどんなに嘆きましたことか。「手術を受けてよ」とすでに経験のある私は真剣にいいましたが、それが彼女をひどく傷つけることになりました。赤ちゃんのことを私は後でしつたのです。
彼女は私との関係を一時絶ちましたが、竹下先生のお勧めで、また読書会にでてくるようになりました。2009年の1・15に今から思えば、最後の読書会がおこなわれました。その時使つていたのはピツキーさんが選んで竹下先生がプレゼントしてくださつた、エマヌエル・シュミツトの、<Oscar et la dame rose>でした。翻訳では「神様に出した12通の手紙」となつています。末期がんの少年がマダム・ローズの勧めで神様に手紙をかきます。一日は一年で12通書くうちにかれは大人になり、安らかになくなつてゆきました。
ピツキーさんの本当の苦しみは読書会後の激しい腰痛から始まりました。すでに骨転移をおこしていましたが、彼女はぎつくり腰と考えていたようです。
60代のお母様が地方にお父様を一人おいて、看病に奈良にこられました。それから一年間、主に、在宅闘病、歩けなくなり、一時入院で放射腺治療、また自宅療養をくりかえしました。2009年の暮れには一時よくなり、お母様は地方にかえられましたが、今年1月3日、激しい痛みで再入院。私と友人は1・21にお見舞いにゆきました。
すつかり容貌のかわつたピツキーさんを見た時、私達は胸をつかれました。彼女は口もきけなくなつていました。
友人の渡した「不思議のメダイ」を涙してにぎりしめ、最後まで「これで治るんよ、おかあさん」といつていましたとか。1・31、夜中に「窓を開けて・・外に出して・・助けて、助けて・・」といいつづけたといいます。「朝になつたらね」と夫君が声をかけている間に息が止まりました。
彼女の死は、皆の心に大きな痛みをのこしました。われわれはこれから2度にわたり、供養の場を設けております。今、叩いているPCのある部屋に、彼女は200回以上、きていました。この場で12,3名の友人があつまり、それぞれの思いを語ることにいたしました。
遺影の傍に大浦天主堂のマリア像がおかれることになりました。また聖霊のイコンも架けました。この二つは、皆の心を心配して、わざわざ2時間かけて、遠方からきてくださる精神科医の先生がくださつたものです。この先生はピツキーさんをご存知ありません。しかし、先生を知るおおくの友人の苦しみをご存知で話を聞いてくださることになつたのです。
不思議といえば、こんな不思議な出会いはありません。
竹下先生にたいするピツキーさんの信頼は、終生変わりませんでした。先生は彼女の憧れのお方であり、共に仕事をさせてもらいたいと、常に望んでいました。
このサイトの仕事を最後まで、降りる意志はなく、ここに、希望を持ちつづけていたとおもいます。おおくの方々がお悔やみのお言葉を入れてくださいました。私もいれたのですが、うまくはいらなかつたのです。一番、親しかつたのに、何もできなかつた自分を悲しむばかりですが、多くの友人が夜中まで看病にあたつてくれるなど、彼女のまわりには若い、やさしい友人が沢山いました。この人たちとまた、語り合い彼女の供養をしてゆきたいと、おもつております。合掌
彼女は畑仕事も好きな女性で読書会のメンバーのお家に大きな畑があり、常に手伝いにご夫婦でいつていました。週日はお二人とも、会社員で働いていますが、週末はこのように、又多忙な生活をおくつていました。2年半前、子宮がんの診断が下りましたが、その時お腹に赤ちゃんができていました。彼女は手術を回避しました。なんとか赤ちゃんを助けたかつたのでしょう。しかし、赤ちゃんは流れてしまいました。このとき、手術を受けてくれていたら・・と我々はどんなに嘆きましたことか。「手術を受けてよ」とすでに経験のある私は真剣にいいましたが、それが彼女をひどく傷つけることになりました。赤ちゃんのことを私は後でしつたのです。
彼女は私との関係を一時絶ちましたが、竹下先生のお勧めで、また読書会にでてくるようになりました。2009年の1・15に今から思えば、最後の読書会がおこなわれました。その時使つていたのはピツキーさんが選んで竹下先生がプレゼントしてくださつた、エマヌエル・シュミツトの、<Oscar et la dame rose>でした。翻訳では「神様に出した12通の手紙」となつています。末期がんの少年がマダム・ローズの勧めで神様に手紙をかきます。一日は一年で12通書くうちにかれは大人になり、安らかになくなつてゆきました。
ピツキーさんの本当の苦しみは読書会後の激しい腰痛から始まりました。すでに骨転移をおこしていましたが、彼女はぎつくり腰と考えていたようです。
60代のお母様が地方にお父様を一人おいて、看病に奈良にこられました。それから一年間、主に、在宅闘病、歩けなくなり、一時入院で放射腺治療、また自宅療養をくりかえしました。2009年の暮れには一時よくなり、お母様は地方にかえられましたが、今年1月3日、激しい痛みで再入院。私と友人は1・21にお見舞いにゆきました。
すつかり容貌のかわつたピツキーさんを見た時、私達は胸をつかれました。彼女は口もきけなくなつていました。
友人の渡した「不思議のメダイ」を涙してにぎりしめ、最後まで「これで治るんよ、おかあさん」といつていましたとか。1・31、夜中に「窓を開けて・・外に出して・・助けて、助けて・・」といいつづけたといいます。「朝になつたらね」と夫君が声をかけている間に息が止まりました。
彼女の死は、皆の心に大きな痛みをのこしました。われわれはこれから2度にわたり、供養の場を設けております。今、叩いているPCのある部屋に、彼女は200回以上、きていました。この場で12,3名の友人があつまり、それぞれの思いを語ることにいたしました。
遺影の傍に大浦天主堂のマリア像がおかれることになりました。また聖霊のイコンも架けました。この二つは、皆の心を心配して、わざわざ2時間かけて、遠方からきてくださる精神科医の先生がくださつたものです。この先生はピツキーさんをご存知ありません。しかし、先生を知るおおくの友人の苦しみをご存知で話を聞いてくださることになつたのです。
不思議といえば、こんな不思議な出会いはありません。
竹下先生にたいするピツキーさんの信頼は、終生変わりませんでした。先生は彼女の憧れのお方であり、共に仕事をさせてもらいたいと、常に望んでいました。
このサイトの仕事を最後まで、降りる意志はなく、ここに、希望を持ちつづけていたとおもいます。おおくの方々がお悔やみのお言葉を入れてくださいました。私もいれたのですが、うまくはいらなかつたのです。一番、親しかつたのに、何もできなかつた自分を悲しむばかりですが、多くの友人が夜中まで看病にあたつてくれるなど、彼女のまわりには若い、やさしい友人が沢山いました。この人たちとまた、語り合い彼女の供養をしてゆきたいと、おもつております。合掌