ルチア様
ルチア様
読みました。お礼のお言葉に、私こそ感謝します。
「カルメル会~」の本は、聖三木図書館や、四谷の上智大学図書館でみました。
イグナチオ教会2Fの図書館にはあるかどうかわかりません。
私は、ネメシェギ神父の入門講座に学んで、28年前に洗礼を授けていただいたので、とても思い入れが深いです。
以前ご紹介した本には加えませんでしたが、きっと出会われるとおもって、あえて書きませんでした。
35年前に発行された文庫「愛といのち」に始まり、論文まで、多作な方ですし、素晴らしい方です!
ひと通り読まれているなら、仮にでも、「来年受洗」等の心構えをなさって再読されたほうが良いと思います。
私の体験では、心構えを変えると、書かれている言葉も、心への響きかたが深まります。
私の場合、「愛といのち」がそうでした。
ネメシェギ神父の本は、この読み方ができる内容なんです。
だから愛読され続けると私は思います。
---------
○私にとっての、ミサ説教のこと
「聖書と典礼」を持ち帰らない方が沢山います。
読み返して味合わないという意思表示にすら思えます。
その最後には、翌日曜日までの朗読ヶ所がリストになっています。
来週日曜の福音書だけでも、事前に読んで、心の準備をしてから、ミサにあずかる信徒は、どれくらいいるのでしょうか。
1週間毎日読んでも7回。読んでから、説教を聞くと、心のなかで、様々な出来事が起きます。
ルチア様、一度なさってみてください。神様からの恵みを感じますよ。
今日の福音ヶ所では、イエスの「肉と血」を聞いて、弟子をやめちゃう人もいますね。
更に、もっとよいのは、演出家になってみることです。
つまり、その福音書朗読場面を、寸劇として描き、登場人物にどこで何をどのような気持ちをこめて誰に言ってもらおうか、楽しく創造するのです。
それで、神父は、いくら神学を学んでいても、神学部には、コミュニケーションの講座はありません。
説教の仕方の講座はありません。
イメージを伝えるトレーニングをしていなければ、相手には伝わりにくいです。
神父になぜ上手な説教を求めるのか、私にはピンときませんし、私だってうまく話せません。
まして、言葉で伝えられ、響きあうのは、その意味合いの数割でしかありませんし。
神父の説教に上質を求める感情は、私を苦しめます。
御交がその神父にプレゼントした恵みを、他人の私が同様に感じるなんて、もともとできません。
私には、私にあった言い方と愛し方で、イエスは日々語ってくださいます。
だからこそ、同じ福音で、神父と私のそれぞれにくださっている恵みの、一致と違いを味わうのは、ミサの醍醐味です。
神の多様なアプローチに感謝したくなります。
そして、「奉献」をミサ中にしますが、その時に前回のミサ以降にいただいた恵みを感謝できます。
「奉献」はとても大切な部分です。
ミサのなかで、奉献をしてくださる方々と心をあわせて、私の実生活を捧げることだからです。
ミサってみなさん言いますが、ルチア様はどんなイメージですか?
私が「ミサ」という単語を言う時は、「最後の晩餐」しかイメージできません。
あのご受難に向かう前の、最後の晩餐は、まだ続いていています。
終わってなどいません。
ミサ典礼の大前提になっています。
ルチア様、最後の晩餐の中の、イエスの話して下さったことと、今の日々のミサの福音書を重ねあわせてみてください。
私は、福音書の言葉の深まりが育ちつつあります。
同じように、イエスが語ったであろうと想像するイメージと、今の神父の説教を重ねあわせてみます。
今日も、神父という生き方をイエスから望まれて、それに応えようといきている一人の人間が、目の前にいてくださいます。
そして、私も、このミサにいます。
最後の晩餐に共にあずかる私たちを、御交は祝福してくださっています。
私には説教よりはるかに大切な内容が、感じられます。
読みました。お礼のお言葉に、私こそ感謝します。
「カルメル会~」の本は、聖三木図書館や、四谷の上智大学図書館でみました。
イグナチオ教会2Fの図書館にはあるかどうかわかりません。
私は、ネメシェギ神父の入門講座に学んで、28年前に洗礼を授けていただいたので、とても思い入れが深いです。
以前ご紹介した本には加えませんでしたが、きっと出会われるとおもって、あえて書きませんでした。
35年前に発行された文庫「愛といのち」に始まり、論文まで、多作な方ですし、素晴らしい方です!
ひと通り読まれているなら、仮にでも、「来年受洗」等の心構えをなさって再読されたほうが良いと思います。
私の体験では、心構えを変えると、書かれている言葉も、心への響きかたが深まります。
私の場合、「愛といのち」がそうでした。
ネメシェギ神父の本は、この読み方ができる内容なんです。
だから愛読され続けると私は思います。
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○私にとっての、ミサ説教のこと
「聖書と典礼」を持ち帰らない方が沢山います。
読み返して味合わないという意思表示にすら思えます。
その最後には、翌日曜日までの朗読ヶ所がリストになっています。
来週日曜の福音書だけでも、事前に読んで、心の準備をしてから、ミサにあずかる信徒は、どれくらいいるのでしょうか。
1週間毎日読んでも7回。読んでから、説教を聞くと、心のなかで、様々な出来事が起きます。
ルチア様、一度なさってみてください。神様からの恵みを感じますよ。
今日の福音ヶ所では、イエスの「肉と血」を聞いて、弟子をやめちゃう人もいますね。
更に、もっとよいのは、演出家になってみることです。
つまり、その福音書朗読場面を、寸劇として描き、登場人物にどこで何をどのような気持ちをこめて誰に言ってもらおうか、楽しく創造するのです。
それで、神父は、いくら神学を学んでいても、神学部には、コミュニケーションの講座はありません。
説教の仕方の講座はありません。
イメージを伝えるトレーニングをしていなければ、相手には伝わりにくいです。
神父になぜ上手な説教を求めるのか、私にはピンときませんし、私だってうまく話せません。
まして、言葉で伝えられ、響きあうのは、その意味合いの数割でしかありませんし。
神父の説教に上質を求める感情は、私を苦しめます。
御交がその神父にプレゼントした恵みを、他人の私が同様に感じるなんて、もともとできません。
私には、私にあった言い方と愛し方で、イエスは日々語ってくださいます。
だからこそ、同じ福音で、神父と私のそれぞれにくださっている恵みの、一致と違いを味わうのは、ミサの醍醐味です。
神の多様なアプローチに感謝したくなります。
そして、「奉献」をミサ中にしますが、その時に前回のミサ以降にいただいた恵みを感謝できます。
「奉献」はとても大切な部分です。
ミサのなかで、奉献をしてくださる方々と心をあわせて、私の実生活を捧げることだからです。
ミサってみなさん言いますが、ルチア様はどんなイメージですか?
私が「ミサ」という単語を言う時は、「最後の晩餐」しかイメージできません。
あのご受難に向かう前の、最後の晩餐は、まだ続いていています。
終わってなどいません。
ミサ典礼の大前提になっています。
ルチア様、最後の晩餐の中の、イエスの話して下さったことと、今の日々のミサの福音書を重ねあわせてみてください。
私は、福音書の言葉の深まりが育ちつつあります。
同じように、イエスが語ったであろうと想像するイメージと、今の神父の説教を重ねあわせてみます。
今日も、神父という生き方をイエスから望まれて、それに応えようといきている一人の人間が、目の前にいてくださいます。
そして、私も、このミサにいます。
最後の晩餐に共にあずかる私たちを、御交は祝福してくださっています。
私には説教よりはるかに大切な内容が、感じられます。