エア花束
こんにちは。みなさまのおしゃべり読んでます。私にとってもだんだん敷居が高いっていうか、いろいろ考えることはあるんですが、なんかここではひとことひとことがえらく大切そうな雰囲気なんで遠慮しときます。
でも霊的花束のやりとりとかは、なかなかすてきだなあ、と思いました。
いわばエア花束ですね。
ここにいらっしゃる方みなさんに私も「霊的花束」っていうほど上等じゃなくても、エアブーケをお贈りします。青紫色と白の小花が組み合わさっているやつです。好みでない方は適当にアレンジしなおしてください。
今、神の存在証明について刺激的な論考を読んでて、その中でのキリスト教の意味を新たに考えているところです。あのユダヤ教からこのキリスト教が成立したのは奇跡的だなあ、と思い、はっきりいって、キリスト教には「one of them」宗教ではなくて愛によってのみ神や信仰や救いを語る革命的な本質があって、それを確認する度に衝撃を受けます。
ユダヤ人たちがその衝撃を緩和するために「犠牲」というレトリックを使い、それがストア的心情にも親和性があったから、「捧げる」とか「自己犠牲」とかが強調されてしまいましたが、ほんとに愛しあってる状態を「犠牲」って表現するのは間違っているなあと思います。
あ、これは別に私の個人の意見じゃなくて、現教皇のラツィンガー時代の『キリスト教信仰の今昔(1969)』にも書いてあって、「父なる神が独り子の犠牲を要求した」という行きわたったイメージは間違っているとあります。
愛の結果として、自分が犠牲になる、あるいは命を賭するということはあるわけで、そういうヒロイックな行為は尊敬しますが、たとえば自分で「自己犠牲」なんていう場合はほとんど常に欺瞞か自己愛の裏返しの場合が多いです。「愛から来る行為」はどんな場合でも、犠牲という一種悲劇的な諦念に拠るんじゃなくて、やはりそれは「やむにやまれぬ愛の行為」であって、根っこはシンプルな歓びにつながっていると思うんですよ。だからこそ聖餐は続いているんだと思います。
あれ、結局、口をすべらしました。
でも、いろいろ書くと長くなるんで、とりあえずエア花束だけ受け取ってください。
でも霊的花束のやりとりとかは、なかなかすてきだなあ、と思いました。
いわばエア花束ですね。
ここにいらっしゃる方みなさんに私も「霊的花束」っていうほど上等じゃなくても、エアブーケをお贈りします。青紫色と白の小花が組み合わさっているやつです。好みでない方は適当にアレンジしなおしてください。
今、神の存在証明について刺激的な論考を読んでて、その中でのキリスト教の意味を新たに考えているところです。あのユダヤ教からこのキリスト教が成立したのは奇跡的だなあ、と思い、はっきりいって、キリスト教には「one of them」宗教ではなくて愛によってのみ神や信仰や救いを語る革命的な本質があって、それを確認する度に衝撃を受けます。
ユダヤ人たちがその衝撃を緩和するために「犠牲」というレトリックを使い、それがストア的心情にも親和性があったから、「捧げる」とか「自己犠牲」とかが強調されてしまいましたが、ほんとに愛しあってる状態を「犠牲」って表現するのは間違っているなあと思います。
あ、これは別に私の個人の意見じゃなくて、現教皇のラツィンガー時代の『キリスト教信仰の今昔(1969)』にも書いてあって、「父なる神が独り子の犠牲を要求した」という行きわたったイメージは間違っているとあります。
愛の結果として、自分が犠牲になる、あるいは命を賭するということはあるわけで、そういうヒロイックな行為は尊敬しますが、たとえば自分で「自己犠牲」なんていう場合はほとんど常に欺瞞か自己愛の裏返しの場合が多いです。「愛から来る行為」はどんな場合でも、犠牲という一種悲劇的な諦念に拠るんじゃなくて、やはりそれは「やむにやまれぬ愛の行為」であって、根っこはシンプルな歓びにつながっていると思うんですよ。だからこそ聖餐は続いているんだと思います。
あれ、結局、口をすべらしました。
でも、いろいろ書くと長くなるんで、とりあえずエア花束だけ受け取ってください。