前田達男さま

前田達男さま

sekko · 2016-06-06 03:44:25 UTC+9 · 投稿 #849

私に答えられるかどうかは分かりませんが、個人的な印象では、カトリックの未来に関してまったく悲観していません。

パリでは今月の25日に10人の新司祭の叙階がノートルダムで行われ、30歳の知人もその一人なのですが、彼らへのインタビューをネットで視聴し、一番大切な部分がちゃんと機能しているなあと思いました。カトリックの未来というより、この世界の未来のために頼もしいです。

日本の事情はよく分かりませんが、5月29日に神戸の垂水教会で私の大好きな精神科医で文学者の中井久夫先生が82歳で洗礼を受けられました。

彼の師に土居健郎さん(『甘えの構造』)もカトリックでしたが、中井先生が求めていたものを最終的にカトリックの中に見つけられたというのは、力づけられる話です。

カトリックに構造的欠陥があるというのは、人間の組織である限り避けられない部分は別として、自浄能力は発揮してきたと思います。

アメリカや西ヨーロッパには根強い「アンチ・ローマ・コンプレックス」というのがあって聖職者も信徒も到底一枚岩ではありません。ハンス・ウルスフォン・バルタザールの著書を読んでこのことをいろいろ考察できました。この人の取り上げるテーマはすべて私の関心と重なっています。

そのコンプレックスのひとつに「カトリックは民主主義の敵」というのがあります。これは東欧圏などではむしろカトリックは自由のシンボルであったことを考えると、政治的歴史的なバイアスの違いですね。

で、カトリック教会の組織の「悪」にジャーナリズムがメスを入れると、それは大きくメディアに取り上げられて、経済効果もあります。『スポットライト』もその一つです。

私は個人的には、権威や権力や腕力によって子供や弱者の尊厳を踏みにじる人はすべて嫌悪、忌避します。

ところが、未成年者への性虐待の嗜好を持つ人というのは、少なくとも潜在的には古今東西必ず一定の数存在するようです。古代ギリシャの少年奴隷や日本の稚児など、社会的に容認されているような時代や場所ではハードルは低いのかもしれません。

今の「先進国」でも、そのような傾向を持った人が養護施設、少年刑務所、学校、学校の課外活動、合宿、寄宿舎、などにおいて権力的な立場に置かれた場合、それを利用して子供を尊厳を踏みにじり、子供が泣き寝入りするということは稀ではないでしょう。

多くは闇に葬られるので正確な統計は出ないわけですが、今のフランスの場合、表に出た未成年性虐待の80%以上が「家庭内」で起こったものです。

父や義父や年上のきょうだいなどが加害者です。

カトリックでこういう問題があるとすぐ司祭の独身制などが問題にされますが、そんなことと関係がないのは家庭内が一番の現場となっていることでも明らかです。

要するに、小児性愛など倒錯的な欲望を潜在的に抱く人が、未成年が夜を過ごす場所に居合わせる場合にリスクが最大になるわけです。未成年者に対して「権威や権力を行使できるような関係性」にあり、二人きりにもなり得る、というシチュエーションでは誘惑に負けてしまうということなのでしょう。ほとんどの加害者が他に性的パートナーを持っていることが明らかになっています。

でも、家庭内の事件は背景がばらばらなので一括して糾弾されないし、公の施設での事件も表に出にくいし出しにくいでしょう。

で、「アンチ・ローマ・コンプレックス」がある社会ではカトリックの聖職者による不祥事というのが最も大きく取り上げられるようになったわけです。

しかし、飛行機事故でよく言われる比喩ですが、毎日世界中の空を膨大な数の飛行機が飛び交っていることはあたり前でニュースにはならず、そのうちの一機が落ちたら大々的に取り上げられて耳目をひくというのがあります。

世界中で多くの聖職者が弱者を支援し貧困や社会の不正と勇敢に犠牲的に戦っているのに、どこかで性虐待が表沙汰になれば全部の聖職者がいかがわしいかのように言われたり、全組織のあり方が槍玉に挙げられたりするわけです。

といっても、私はここで、聖職者の不祥事も相対的にみると少数なので大したことではないなどと言っているのではありません。

神に仕え愛を持って人を奉仕することを誓ってその道に入った人にとってこのようなことがより重大な罪となるのは当然で、この種の事件が表に出てくるようになって以来、前教皇も現教皇も謝罪していますし、組織としては絶対に許してはならないと対策が立てられています。
この6月3日にパリの大司教は被害者が訴えることができる専用のメールアドレスをつくり、専任の司祭を2人任命すると発表しました。

しかし、私が一番危惧しているのは、そんなことではなくて、まさに、一番目立って一番叩きやすいカトリック教会にばかり「スポットライト」をあてることで、もっとずっと対策が立てにくく光の当たらない、家庭内性虐待や他の未成年施設における性虐待にどう向かうかという問題が後回しにされたり看過されたりしてしまうのではないかということです。

もう一つ思うことがあります。

それは、カトリック教会が組織のあり方や独身制などを取り上げられて糾弾されているのが気の毒だとか、大したことがないとか、がんばって対応しているのを評価しようとかいうことではありません。

たとえ政治的、商業的思惑で増幅されたのだとしても、権威、権力、腕力のある大人が未成年の尊厳を踏みにじるという「悪」を白日の下に引き出して社会の悲憤を促すという情況の一部をカトリック教会が担うことには、むしろ意味があるのではないかと思うのです。

今のカトリック教会は十字軍やら異端審問やらの過去にまで遡って、数々の人間的な大罪を神と犠牲者に謝罪するという姿勢をとっています。

カトリック教会が矢面に立たされた場合、時には身の保全を図ってごまかしたり、知らないふりをしたりしたことで窮地に陥るとしたら、それこそが、「人は自分の弱さと絶えず戦っていかなくてはいけない」ということを教えてくれるという気がします。

そうでなければ、「未成年の性虐待」などは一部の悪魔が行うことであって、多くの「正しい人たち」がそれを糾弾しているのだという二元論的構図になるでしょう。

ある種の条件がそろいさえすれば人はどんな恐ろしいことでも良心の呵責なくしてしまう、というのは歴史も社会学も心理学も語っていることです。

このスキャンダルを乗り越えて自浄することで、他の密室で虐待されている多くの子供たちを救い出す光を差し出すことが、カトリック教会に課せられた使命なのかもしれません。