私とキリスト教

私とキリスト教

Fusako · 2007-05-21 21:28:49 UTC+9 · 投稿 #151

私は、中学・高校とプロテスタントの学校に通いました。長老派だったでしょうか。でも、プロテスタントの中の宗派はおろか、カトリックとプロテスタントの違いも定かでない、という程度の興味しか、昔も今もキリスト教には抱いていません。
わたし自身は無宗教、しいて言うなら「自分教」などと人には言っています。
でも、年をとって、昔、学校で学んだいろいろなことが、如何に自分の中に入っているか、不思議なもの、キリスト教の学校で良かった、と思っています。
クリスチャンになる、というつもりはないのですが、学校で教わったことにとても多くを負っています。で、キリスト教自体には肯定的な感じを持っています。その、肯定的な感じは、もっぱら、聖書と聖歌から来ていますね。聖書は好きです。その一番の理由は、聖書がセクトの言語で書かれたものではないこと。教団・宗派、はもとより、閉鎖社会・サークルの中での「業界用語」で閉鎖された社会を作る人々、が好きではないので。それから、聖書について好きなのはその内容。若いときにはわからなかったり、それから納得できなかったことが沢山ありましたが(放蕩息子の喩えとか)、今は、そうした喩えを興味深く思います。
聖歌、というのは、主として賛美歌ですけれど、美しい歌とハーモニーに満ちた学校生活だったのは恵まれていたことでした。ハーモニー、つまり、違う音色の人たちの美しい調和、から毎朝が始まる、毎朝の音楽を楽しみにする暮らし。一番感じやすい年頃にそういう生活を送れたことには感謝しています。感謝は、親と神様に。
で、この「神様」というのが、結局、今に至るまでわたしの中に残っているキリスト教ですね。宣教師の先生も多い学校で、英語教育にも力を入れていました。で、聖書や英語から学んだのが、「与えられたもの」という観念ですね。人は「生まれる」のではなくて、was born 生み出してもらうものですし、人の心の深いところに届くものは、自分で選んだものではなくて、touched、moved のように思いがけなく捉えられるものですね。
端的に、最も大切なものは、人間が自分で選べるものではなくて、与えられた、選択の余地のないもので、そのように、与えられたものを大切にしなければならない、ということが、「神さま」の教えの中心として残っています。誰も、自分を選んで生まれることはできないし、自分の親も子どもも選べない。結婚も、まあ、計算で選ぶ結婚も多いですけれども、恋愛は、自分で選ぶのではなくて、fall in してしまうのが本来でしょうし。
そんなことが、学生時代からの「教え」として入ってしまっているので、逆に、わたしは特定の教義に入らなくなってしまったのかもしれないです。メリット、デメリット、よりも、人間が自分で選ぶ教義、これが他のものよりも良いから、というような説明のつく教義、神様、なんて、逆になんだか変、という気がするんですね。
というわけで、自分で選ぶことなどできないままに与えられた、自分自身や自分の子ども、をはじめとして、与えられたものを大切にすることが信仰であろう、と考えています。
久しぶりにここのやりとりを読んで、ちょっと入れて頂こうと思ったのですが、まとまりのない抽象的な感想になってしまいました。