迷える大羊 · 2007-12-31 14:42:27 UTC+9 · 投稿 #291
この年末は残業、また残業の猛烈な忙しさで、おまけに風邪ひいて寝込んでしまってさんざんでした。
クリスマスはどこの教会もやることは一緒ですね。行きましたよ、カトリックも福音系も・・。まあ、ちょっと福音派の教会については大袈裟に言いすぎたきらいがなきにしもあらずですね、我ながら(私にとってはあの伝道熱心さ、クリスチャンホームへの異様なこだわりが困ったところなんですが)。NAOさん、足が悪い、というのは初めて聞きました。階段の多い都会で何かと大変とは思いますが、この年末年始、不慮の事故には十分お気を付け下さいね。
塩梅さんは元介護職員ですか、大変なお仕事ですよね。で、聞くところによれば、大変な重労働なのに給料が恐ろしく安いらしいですね。同じ大学を出て、介護職員なんかよりはるかに労働条件が楽な一般企業のOLの方がずっと高収入、なんていうんじゃやってられませんよね。介護職員に限らず、今の日本で福祉関係の職はおしなべて、低賃金かつ厳しい労働条件を強いられる場合が多いですね。いつまでもボランティア精神あふれる人の献身に期待するのにも限度がある気がしますが・・。
もっとも、僕は祖母がそういった介護施設に入所していますが、利用する立場からすると、人件費アップで利用料が上がっても困る、というのも偽らざる本音だし、難しいところで、ここでエラそうなことはとてもいえません。
なるほど、ロザリオというのは、教会に行けない人の祈りの場、という意味合いもあるんですね。教会に行ける、行けないの問題は然るべき人に相談したり、工夫次第でなんとかなるみたいですね。
僕はプロ・カト問わずあまりに教会べったり、イエス様べったり(つまり、キリスト教以外の価値観とか世界に対する視野が狭い)のクリスチャンって嫌い、とはいわないにしてもあまり望ましいものとは思わないので、教会に頼らず、信仰を自分なりに工夫して保っていくというのはかえっていいことなのかも、と思ったりもします。
まあ、年末にエラそうな御託をいろいろ並べたててしまいましたが、皆様、良い新年をお迎えください。
Sekko · 2007-12-29 01:31:42 UTC+9 · 投稿 #290
おー、このコーナーはなんだか心優しい人の集まるあったか掲示板化してますね。ありがとうございます。日本のキリスト者の方、みなさん誠実ですね。フランスで葬式カトリックをやってる人たちとはえらい違いです。
でも、私の中で仏教があまりインド的でないのと同じように、フランスにいるせいか、キリスト教って、パレスチナ起源とか、世界宗教というより、コーカソイドご用達だよなあ、という気がします。
それで、
「今や彼は全人類にとつて最重要人物であり
人類に向上をもたらす存在である。」
って言われると、教会報的にはもちろんマルでしょうが、「全人類」とか「最重要」って形容されると、ほんとかよ、と突っ込みたくなることを告白します。
キリスト者のみなさん、「彼」の死後(というか復活後)、2000年も、あなたたちは、彼のメッセージに忠実でしたか? 「向上」しましたか?
すみません、けちをつける気はありません。
軍隊やら戦艦や王たちよりも、長きに渡ってメッセージを発し続けるイエスという存在に感謝します。毎クリスマスに、これでもか、これでもかって、デジャヴの生誕シーンによって、光と希望を与えてくれることにも。
パキスタンでベナジル・ブットがテロにやられましたよね。その後の暴動でさらに20人近くが死んでます。その20人は「その他大勢」あつかいです。そんなことすべてに不条理を感じる年の瀬です。「自分以外の人も大切にする」って、そんな単純な唯一のことを誰も守れないんでしょうか。
この世には権力や経済や政治のパワーゲームがある。環境問題も格差問題もある。それらの問題の答えはもちろん一つではありません。
X+Y=5 という式があったら、それは「不良設定計算問題」です。
マイナスの整数やら少数もOKであれば、答えは無限にあるからです。
でも、計算の拘束条件があれば?
たとえば、自然数だけといえば、可能性はぐっと減ります。
この世の複雑な問題も、「他者を大切にする」っていうルールさえ設定すれば、限りのない相対主義やカオスや憎悪の増幅には向かわないだろうに。
宗教の教祖たる人は、釈迦でもキリストでもみんな口をすっぱくして利他を説いているのに・・・
確かに、「彼」だけは、賛同者にまで見捨てられ、敵になぶりものにされてこの世の第一幕を閉じました。それは、胸を締めつけられる出来事です。だから、「彼」を信じる人はせめて、他者の不幸に共感力を持てる人であって欲しいです。
すみません、なんか、空気を暗くして・・
空頭さま、伝統キリスト教は理性的アプローチを含んでいますよ。ギリシャ哲学の牙城に切りこんでいったんですから、理性をツールとせずにはおれなかったんです。去年の秋、教皇がドイツでうっかり言っちゃったのはそういうことです。カトリックと理性は古くから野合しました。だからこそ、カトリック無神論は大きな力として成立したり、西洋近代が生まれたりしたんです。
その意味で、プロテスタントやイスラムが文句を言ったのは無理もないです。
まあ、内部にこういう絶対のパラドクスをかかえてるところがカトの魅力でもありますが。純然たる「信仰」には、理性は太刀打ちできませんから。
というわけで(どういうわけ?)、お仕事やましてや肉体的ハンディや介護などのため、教会にいけない方、全然気に病むことはないと思います。自分を必要とする他者のそばにいる、ことほど、大切なことはないでしょうから。教会法上、教会に行くことは義務となってますが、あなたのそばにいて助けを必要としている人の役に立つことの方が、「義務を果たすよい信者」でいることより優先すると私は思います。「彼」だって、きっとそう言ってくれると思いますよ。
塩梅 · 2007-12-28 14:41:36 UTC+9 · 投稿 #289
大羊さま
>キリスト教と関わりあいになっていつも疑問に思うことなんですが、土日が休みにならない業種、職業の方はどうするんでしょう?という疑問がいつもあります。
私は昔、介護職員でして、土日休みはまずあり得ませんでした。
当時通っていたところが、超教派で日曜日夜に集会を持っていたため、宿直・夜勤明けとか早番あがりで努力をしていましたが。しかし、それでも、毎週とまではいかなかったです。しかし、そのうち集会で知り合った夜間神学校のスタッフの女性がその学校の聴講に招いてくれるようになり、そこで一種埋め合わす形でした。
ただ不規則勤務でしたので、気力のみで乗りきった感じです。無理はしなかったつもりなんですけど、そのうち持病の発作が頻回になってドクターストップがかかってしまい、職場を辞めて療養の形になり…今に至ります。
当時の同業、また看護士の人たちに聞くと、
「夜間勤務のみにしてもらって、規則的な生活を取れるようにしている」
という人もいました。しかし、そういう条件で雇用いただける場所は限られているのではないかと思います。
介護の仕事を辞めてから、いくつかの仕事、家族介護を経由しましたが、特に家族介護しているときが教会に通いたくても通えない時期でした。そういうことで、私もロザリオを覚えたのです。数珠(…)の扱いが苦手な頃は、両手の指とかでやってました。未だに指でやる癖があります。信者でない家族への遠慮もあって、家ではなるべくそっとやってます。あと、自分のいける日でお聖堂に入れる時間にそっと入れていただいてお祈りさせていただくこともあります。そこは神父さまやシスター、教会事務の方にご理解をいただいてなんですが。私の場合は、率直に相談してよかったようです。
そう言えば、もう年末なんですね。このBBS管理・閲覧者の皆さま、どうぞ良いお年を。
空頭@鰐梨 · 2007-12-28 13:24:18 UTC+9 · 投稿 #288
はじめておたよりさせていただきます。
あまり模範的とはいえないカトリック信者です。
ことしはほとんど教会のミサにあずかることができませんでしたが、ぎうぎうの通勤電車の中でロザリオを唱えるという生活習慣を確立することができて、
自分ではそのことをよろこんでいます。
主日†主がご復活なさった日曜日すなわち土曜日の日没後†に教会のミサにあずかるのは、信者としての義務!であるわけですが、高校生の頃、パブテスト派のともだちと教会とはどのような場をいうのかと、語り合い、それは「建物のことではなく、心をひとつにする人々の居る場所のこと」であると、話がついて以来、どこで祈るかということでは、わたしは心煩うことを忘れました。金祝(誓願50年)を迎えられたC.N.D.シスタ、ホスチアさまにおかれましては、あり得ない信仰態度であっても、ユダヤ系ポーランド人ドミニコ会士懐疑派の主任司祭トマスさまは、肩をすくめて「余計な邪魔が入らないお祈りはさいわいでしょう」と祝福!してくださいます。シスタはわたしの憧れですが、その謹厳さが頑迷にうつることもありました。
竹下節子さんの著作を読むことで、共感的ではあっても、聖なるものに対して理性的なアプローチがありなんだと勇気づけられました。未読の著作もまだありますし、このサイトもたくさん情報が紹介されていて、きゃほう!です。竹下さんに主の祝福がかぎりなく注がれますように!
信仰にしても、妄想にしても、いつも複数のことを頭においておりますし、道草が好きなので、自分がなにを考えて調べていたのかわからなくなることが、よくあります。おたよりすることで、さまざまなことばが連なればさいわいと考えます。どぞよろしく。
nao · 2007-12-28 09:27:57 UTC+9 · 投稿 #287
彼は 小さな村に おとめを母として生まれた。
別の村で成長し そこで30歳まで大工として働いた。
その後 3年の間 巡回説教者として村々を巡り歩いた。
彼は一冊の本も書かなかつた。
選挙に出たこともなく 家庭も 自分の家ももたなかつた。
故郷から300キロ以上遠くには旅したこともなく
ふつうの人が偉大だと考えることは 何一つしなかつた。
自分の身一つ以外に 何の肩書きもなかつた。
世評が彼を攻撃し始めたとき 彼はまだ33歳だつた。
友人たちも彼を見捨てた。
敵の手に引き渡され 形だけの裁判でなぶりものにされた。
二人の泥棒にはさまれ
その真ん中に 釘で十字架に打ちつけられた。
死を目前に彼の唯一の持ち物だつた衣服は、
死刑執行人たちのくじ引きにされた。
彼が死んだ時 死骸は 知人の同情で友人の墓に葬られた。
それからおよそ2000年が過ぎ去つた。
今や彼は全人類にとつて最重要人物であり
人類に向上をもたらす存在である。
今日に至る歴史の中で かつて進軍した いかなる軍隊も
かつて航行した いかなる戦艦も
成立した いかなる議会も
統治した いかなる王たちも
さらにそれらすべてを合わせても
この たつた一人の人の生涯ほどには
地球上の人間の生に 影響を与えることはなかつた。
遅まきながら、主のご降誕のお祝いを申し上げます。
大羊さん、クリスマスはどのように過ごされましたでしょうか?カト教会のクリスマスは如何でした?福音派のクリスマスは?
私は足が悪い老人ですので、周りの方々のご好意がなければ、教会にはいけません。それは日曜日にミサに行けない方々と少し似たところがあります。
私はつれていつて下さる方が必ず、毎週いてくいださるので(人はかわりますし、たのんでいるわけでもないのに)クリスマスの夜のミサに預かることができました。
そして、大羊さんが書いておられた、教会に行けない人々のことを、しつかり心に刻み、お祈りをしました。またいつも私の生活を支えてくださる方々に幸せがありますように、とお祈りしました。
クリスマスはこういう感謝の気持ちや、不遇な方々のために祈る気持ちにさせてくれるありがたい日です。こういう気持ちが常に新たにされる、ということ自体、私の心をすくつているわけで、改めて信仰のありがたさとその不思議さに思いをいたしました。
うちの教会報にこの詩がのつていました。どこからとつてきたものか、かいてありません。どなたか、ご存知のかたがおられましたら教えてください。この「偉大でなかつた生涯」をおくられた方のおかげで、日々暮らしてゆける老女がいるというのは、やはり奇跡です。
SEKKO先生、大羊さま、VINOさま
いいお年をお迎えくださいませ。
迷える大羊 · 2007-12-22 23:53:57 UTC+9 · 投稿 #285
キリスト教と関わりあいになっていつも疑問に思うことなんですが、土日が休みにならない業種、職業の方はどうするんでしょう?という疑問がいつもあります。
一応、カトリック、聖公会の場合ですと、ある程度以上の規模の教会に限りますが、平日も早朝にミサをやっていたりしますし、プロテスタントの場合も主に水曜日に祈祷会をやっていたりします。でも、そういう平日ミサのない地方の教会、プロテスタントの場合は休日がうまく祈祷会に当たらない人は実質的に教会活動は無理ですよね。
まあ、教会に行くばかりが信仰ではないとはいえ、そういう交流がないのはちょっとつらい、というか寂しいものもあるのでは?という気もします。
どうしてこんな疑問を感じるか?というと私の前職が工事関係で土日出が非常に多く、休日数が少ない職業であったこと、特に中小の下請会社、職人となると「いつ休むの?」といった感じの方が少なくありません。
また、警察官、消防官、鉄道バス、コンビニ、デパートなどの流通関係に勤務している人も教会生活は困難でしょうね。でも、こういう人々がいなければ世の中は回りません。過去に転職したり世渡りをした個人的経験からいえば、少々乱暴ですが、なんだかんだいっても現在の日本で土日祝完全に休みで存分に教会活動ができる人というのはわりと恵まれた部類に属する人々ではないかな?という気がします。
諸外国のことはわかりませんが、今の日本で完全に土日祝休みの職、業界といえば、なんといっても事務系公務員、大企業社員、実家暮らしなどで正社員になったり、しゃかりきに働かなくとも、とも生活に困らない人などなど・・、比較的「恵まれた」人が多い気がします。
結局、何がいいたいか?というと、電車を動かし、コンビニで働く、工事などなど、土日祝も休まずに働く職業の人がいるからこそ(人によっては大変ひどい労働条件で)、世の中回っているのに、そういう人々が信仰の恵みに授かりにくく、別にキリスト教信仰の恵みにあずからなくたって十分恵まれていそうな(つまり、土日休みで、なおかつ生活に困らない人々)が存分に教会活動の楽しみを味わえる、というのはなんとも理不尽、とはいかないまでも不条理を感じてしまったりしたからなんですが。
こういう、土日休めない職業に従事しているクリスチャンの方の知人、友人がいらっしゃる方、彼らの信仰生活ぶりはどうなのか知りたいところですね。
迷える大羊 · 2007-11-18 21:35:25 UTC+9 · 投稿 #281
皆様、ありがとうございます。
>信仰が先にきて、理屈はあとからなんとかなる
今日はとあるプロテスタント教会の礼拝に出てまいりましたが、その礼拝で信徒の一グループが受洗に至る過程、経緯をそれぞれ報告されてました。女性ばかりのグループでしたし、信仰に至る過程は皆、様々なのですが、全般的に女性の方々って素直で感性豊かですよね。彼女もそうですが、話を聞くとなんだか自分が理屈っぽい、ひねくれたイヤな奴なのかなぁ、と思えてきます。聖書(特に旧約部分)を読んでも、「うわー、こんなとんでもないこと書いてあるよぉ」とついアラ探しみたいなことはじめだしますし(もちろん、好きな聖句だってありますけど)。
男って信仰のあるなしに関わらず、素直になれない、弱さを出せない、損な生き物なのかも、と思うことしきりですね。
nao · 2007-11-18 11:28:26 UTC+9 · 投稿 #280
大羊さま ご結婚おめでとうございます。毎朝、新妻と共にお食事できるのは、新鮮な喜びでしょうね!!大昔をおもいだしますが、私は働き続けていたので、なんだか、バタバタしたことだけが、記憶にあります。教会には行けなくなるし(夫は反対ではないけれど、日曜一人でいることに抵抗しました)さびしかつたことも思いだします。
今日は七・五・三のお祝いのミサでした。子どもが答唱詩篇を歌いました。「世界よ、神に向かつて喜びの声をあげ・・」という詩篇98の歌でした。朗読も子ども。大人よりきれいです。声が若いつて、素敵でした。ミサのあと神父さまから、祝福を受け、メダイを首にかけてもらい、千歳あめの袋に似せて、聖絵がかかれた、お菓子の袋をもらいました。25名くらい。さすがに小学低学年までの子だけでしたが、別に7・5・3歳でなくてもいいようでした。
信仰の入り口は本当に個性的ですね。加賀乙彦さんは「城塞」のなかで臨終のおじさんに「何故神を信じるようになつたのか」について語らせています。「聖書には一つもまちがつたことが書いてない。だから私はイエスの言葉を100%信じようとした。それを信仰の入り口とした」と。遠藤さんは10%の希望にかけた。遠藤さんは加賀さんの代父だつたかな?安岡さんも。男の人つて、自分の意識できめるんだな~とおもいましたね。私は大学生のころ、3年公教要理(当時はカトリツク要理のことを、こうよびました)の勉強をし、わからんとこだらけで、でも「もういいわ、賭けてみよう」と決心して、親の猛反対をおしきつて受洗。今から考えると、私の精神的自立を果たしたわけです。「賭けてみよう」とおもつたのは、神父さまの生き様に心うたれたからかな・・信仰が先にきて、理屈はあとからなんとかなる、と思えたときが決断の時でした。
聖書の言葉はいまでもわからないところだらけです。でも「信仰の書」として、今わからなくても、深い意味があるんだろう、とレスペクトする精神でよんでいます(さぼりですが)
大羊さん 奥様はやはり神様への橋渡しをしてくださつた、大事な方ですね。二重の意味でおめでとうございます。
迷える大羊 · 2007-11-18 10:58:18 UTC+9 · 投稿 #279
T先生にもいろいろ教えていただきましたし、あちらのオフ会も出たことありますよ。
ネットのオフ会っていうと男性ばかりのことが多いのですが、キリスト教関係はどこも女性が多数派。いつもながら驚きます。
信仰やキリスト教ではいろいろ困惑したり、悩んだりしましたので、いろいろなキリスト教関係者(ただし熱すぎない人)の意見を聞いてみたくて。そう思っていた矢先にこちらやT先生のサイトに出会ったわけです。
思いもよらなかった交友(といえるかな?)関係が広がったのは単純に楽しいですね。
vino · 2007-11-17 15:30:59 UTC+9 · 投稿 #278
大羊さん、ご結婚、おめでとうございます。人生の墓場の先輩として、お喜び申し上げます。いえいえ、墓場はオーバーですが、何がどう回っても、大変な事の方が多いのが人生ですものね。既婚、未婚、子有り、子無し、関係ありません。 間違っていたらごめんなさい。大羊さん、DのK高校、T先生のBBSで時折見かけるノンクリさと同一人物でしょうか?<S・・・な気持ち>なんて表現もされていますし・・・。私もあちらも良く覘かせていただいています。SEKKOさん、<超越的なものの陽光に照らされ・・・>のコメント、本当にありがとうございます。まさに私が言いたくて上手に表現できなかった気持ちにピッタリです。この数年、<夢で観た>ならかわいいほうで、<声を聞いた>とか<姿を観た>とか、何ですか、<霊的出会い>を強調する人の多い環境におりますので、ホッとしました。(すみません、またまた悪口言ってますね。) さて、カト~に七五三のミサがあるように、プロ~にもこの時期、児童祝福式なるものがあります。S公会の人いわく、上手に当てはめたのねとのことです。時の王様が自分が離婚して再婚したいがために作られたS公会、現代の信徒は妙に達観している人が多いような感じです。濃いFの方はS公会のことをMIXなんて呼んでいてこれまた、びっくりしました。信仰の形や色はほんとうに様々ですね。
Sekko · 2007-11-14 00:50:11 UTC+9 · 投稿 #277
へー、七五三のミサなんてあるんですね。知りませんでした。
ヨーロッパの異教はOKで日本のはだめ、ってわけでなく、ローマ帝国の版図にキリスト教が広がる過程で、先行するギリシャ・ローマの多神教とどう折り合いをつけるかという戦略だったんでしょう。
それを見すえて典礼カレンダーを整備したわけです。で、日本に宣教、って時代には、すでに帝国主義的メンタリティだったので、インカルチュレーション、なに、それ? って状態だったんでしょうね。
でも、中南米とか見てたら、やはり帝国主義メンタリティで布教されたにもかかわらず、インディオの宗教とかアフリカからの宗教とかがカトリックと習合してブードゥーみたいなものすごい繁殖力を持ちましたから、何が何でも力で制覇するってのは、心の問題や死生観のかかわる分野では所詮無理なのかも、です。
日本人は真面目だから、そして、中央集権がが確立して来た時代だったから、中途半端な習合に至らずに、完璧追放と弾圧にふみきったのかもしれませんね。仏教を神道と習合させてしまったような業をもう一度使うには、キリスト教は一神教過ぎた、ってことなのでしょうか。
迷える大羊 · 2007-11-13 21:41:38 UTC+9 · 投稿 #276
なるほど、相性が良い風習をうまく調整して取り入れた、というわけですか。でも、やっぱりまだちょっと釈然としないところはありますねぇ。ヨーロッパの異教ならOKで日本の異教はペケですか?所詮は欧米人のための宗教なのね、みたいな感じがして。
実はこの異教のあまりに頑なな排除がキリスト教への大きな抵抗の一つでもありましたから。
そう思っていたら、カトリック教会って七五三のミサやってたりして、お、公平じゃないか、話がわかるではないか、と感心したことが、カトリックっていいよね、と思った理由の一つだったりします。
受洗に至る過程、その時点での信仰度、心境は、また信徒の方にアルファコースで出会った際にじっくりお話を聞いてみよう、と思います。
Sekko · 2007-11-13 03:15:24 UTC+9 · 投稿 #275
結婚されたんですね。おめでとうございます。
奥様のカトリック観も軟化(?)したみたいでよかったですね。受洗は到達点じゃなくて出発点だと考えるといいのでは?
結婚生活もそうですよね。大羊さんの毎日がすてきなことでいっぱい満たされますように。
迷える大羊 · 2007-11-12 23:50:59 UTC+9 · 投稿 #274
現在、とあるカトリック教会の信徒有志が運営する、アルファコースという学びで様々なカトリック信徒、予備軍の方々と交流してますが、思ったより面白いですね。単に仲良くやっていけそう、というだけではなく、肝心の宗教観も私とそう大きく隔たっておらず(他宗教に寛容、積極的に理解する姿勢がある方が多いところが好感が持てるところですね)。意外と私と同年代の人間も結構いて、これは教会員としてもやっていけそうかも?という感触が現在のところあります。一緒に参加した妻(いささか保守的なプロテスタント信徒、結婚しました)もカトリック教会への印象が良くなったみたいで、「**(私のこと)ここで受洗してもいいんじゃない」といっております。彼女自身は特に改宗する予定はないですが、身内を預けても問題ないし、教会は違っても同じ宗教に居場所を見出してくれるのは単純にいいこととと思ってくれたみたいです。
ただ、俺は本当に神様って信じてるかな?というと微妙です。もちろん、無神論者なわけはありませんが、強烈に信じている、というより、神様がいる、と仮定して生きた方が人生楽だし、筋の通った生き方ができるかもしれないな、という程度の認識なんですよね。
正直、聖書が「誤りなき神の御言葉」とまでは思えないし(価値は認めてますが)、理解しがたいことは山ほどあります。
ただ、遠藤周作氏の受け売りみたいになるんですが、「90%の疑いと10%の希望。その10%の可能性に賭けてみる」といった感じの心境といったところでしょうか?
こんな感じで受洗なんて可能なんですかね?カト、プロ問わず受洗されたクリスチャンの方の受洗時の心境っていかがなものでしたでしょうか?
Sekko · 2007-11-12 23:33:38 UTC+9 · 投稿 #273
それは、ちゃんと意識的に、太陽神の祭りを置き換えるために教会がわざわざ冬至をクリスマスに設定したんですよ。日照時間が一年で一番短くなり、次の日からまた長くなるので、死と再生のイニシエーション儀式でもあるし、救世主の「誕生」のシンボリズムともぴったりだったんですね。ユダヤ人がエジプト時代に太陽神の信仰に触れたことで、それまでの民族神が普遍的な一神教に進化したという可能性もあるし、もともと、地球上の生物にとって、すべての生命の源のような太陽は「一神教」か、少なくとも「最高神」になりやすいですからね。
教会はたいてい主祭壇が東にあって、朝のミサは、昇る
朝日に向かって捧げられる形でした。太陽の運行の方向や高さや日照時間を無視した宗教なんて、古代には成立しなかったでしょうね。その後も1月1日のヤヌス神の祭りはイエスの割礼の祝日だとか、太陽カレンダーや異教カレンダーをイエスの生涯にうまく当てはめてうまく調整していったわけです。七五三まではちょっと無理でしたね。
迷える大羊 · 2007-11-12 23:17:58 UTC+9 · 投稿 #272
クリスマスが近いんですけど、いつも感じる疑問。クリスマスって元々、キリスト教の祭りではなくて多神教時代の古代ローマ帝国にあった太陽神信仰の宗教のお祭りですよね。
保守的なキリスト教会だと七五三や初詣などを異教のイベント、崇拝として拒否しますが、だったらクリスマスはなんでOKなんだ?といつも思ってました。
冗談抜きで誰かこの疑問にスジの通った説明ができる方、いらっしゃいませんか?
太陽丸 · 2007-10-29 19:48:51 UTC+9 · 投稿 #270
ほんと、竹下さんの、著作やサイト、交流作業によって救われている人はたくさんいると思います。
そして、ご返信ありがとうございました。私には、少し難しくて、深くは理解できません。
でも、思い当たる節としては、例えば、日常生活において、紳士的でない邪念(実に、さまざまな形状、種類がありますよね)が脳内に生じたときに、それを打ち消すポジティブな内語をつかうのですが、容易に打ち消せるときはよいとして、身を切るほどつらい、抵抗感のあるケ-スもあります。
まるで、体中に泣きがはいるほどストイックでつらいときもあります、そして、そんなときにオ-ラみたいなものが大きく立ち上がる感じがするのです。つまり、体、精神の根源的なツボにふれて、正解の合図なのかもしれないなどと感じています。
このような、体中に、泣きがはいるほど辛い、身を切るようなポジティブな打ち消しの内語で対処する作業のときに、もしかして、内臓にも泣きの傷が刻み込まれて、刻印されて、それが、その人の身体性に反映され、その変化した身体性から、その人ならではの、独自の言葉、まさに、マニュアルでない、身を削ったエネルギ-のあるい迫力いっぱいの言葉や響き
言霊がうまれてくるのかもしれないと感じました。
少しは、合っているでしょうか? 末永く、よろしくお願いいたします。
Sekko · 2007-10-29 02:25:59 UTC+9 · 投稿 #269
こんな風に言っていただけると、何らかの形でこのサイトがお役に立ってると思ってうれしいです。
言葉が人を深いところで変革する力を持っているというのは、私も実感しているので、そういう言葉を醸成できるような心の余裕を持ちたいです。今読んでいるChristiane Singer という作家によるエロイーズの手記の中に、啓示とは、幻想の調和世界に亀裂が入ることで、そこから内臓に穴が穿たれた時に、人は、はじめて真実に向き合う用意ができるという意味のことが書いてありました。
言葉って、ただ脳内世界で構築されたものじゃなく、内臓の傷を通して生まなきゃいけないんだなあ、とか思いました。
これからもよろしくお願いします。
太陽丸 · 2007-10-28 18:35:32 UTC+9 · 投稿 #268
質問じゃなかったので、別掲示板に投稿すればよかったですね。
では。
太陽丸 · 2007-10-25 21:55:15 UTC+9 · 投稿 #267
なんだか竹下さんのサイトみていると、毎回、エンパワ-され、元気づけられます。本当に、ありがとうございます。
私が共鳴、エンパワ-された竹下語録を以下に。
1、理想が、戒があるからこそ、人は悪手を少しでも減らすことができる。よって、各種 の戒律、規範はすごい智慧であること。
2、何宗教、名派なんてことより、愛とか連帯、いたわり等の精神の実践のほうが大切。
3、人生は、悪手の山河、嵐、泥沼を渡り歩いているようなものだが、いつしか、来たる 超越の光にてらされるまで、その闇夜をバランスのとれた紳士な精神で、はっきりした理 由は証明しきれなくとも、続けることが大切である。
4、信仰というのは、理性とか利害とかを超えた、突き抜けた行為である。それ故、危険 な面もあり、真実も含まれている。
5、結構、現状が劣勢で、外部が崩壊してきていても、内部を充実させるチャンスである こと。外部が結構、崩壊しても、自己イメ-ジのク-ルな下方修正によって、相応の喜び は得られるという救い。
6、猫の存在から愛の感覚へのインスピレ-ションのありがたいお話。
まだまだ、感謝語録は満載ですが、とりあえず、私の勝手な味付けも加えながら、とっても元気づけられたことを、感謝、申し上げます。
ありがとうございました。 文は下手です。
管理人 · 2007-10-24 11:57:43 UTC+9 · 投稿 #266
サイト管理人です。
このサイトでは、特定の宗教の宣伝は不可とします。
したがって、そのように私がみなしたものについては削除します。
よってこの直前の投稿については削除いたしました。
greencurry · 2007-10-19 10:01:40 UTC+9 · 投稿 #263
Sekkoさま、「弱い父ヨセフ」読み始めました。まだほんの数ページですが、今まで知らなかったことがいっぱい出てきて興味深く読んでいます。
それで、とっても基本的なことをお伺いしますが、プロテスタントは聖人信仰という迷信を排除した、というくだりがあったと思うのですが、
聖人信仰はカトリックだけのものなのですか?
あとギリシャ正教とかにもあるのですか?
Sekko · 2007-10-14 05:05:09 UTC+9 · 投稿 #262
少なくとも今の大手の、いわゆるカトリックって、ローマ帝国の版図に広がったローマ・カトリックだし、今に至るまでのインカルチュレーションのやり方とか、ローマ帝国の広げ方と似てますよね。
そういった古代のギリシャ・ローマ系の土台に、かなり異質なパレスチナの荒野の一神教が接木されてしまったところがハイブリッドで興味があります。
まあ、私のいるフランスなんかは、ラテンとケルトとゲルマンのまざった辺境だったんで、そこを地中海系の高度な文化や宗教が席巻して、それでもある程度自己流に変えてお茶を濁しちゃってます。
日本に道教やら仏教やら儒教やらが大陸から入ってきたのを日本化しちゃってるのと意外と似てるなあと思います。
旧約聖書のヨセフを兄たちが売ったのはどっちかと言うと嫉妬のせいです。貧乏のせいじゃないですよ。
でも貧乏な家族が生き延びるために子を売るなんて、昔は珍しくなかったのでは? 口減らしに奉公にやっちゃうのはもちろん、女の子を遊郭に売ったなんてよくある話です。だからいいってわけじゃないけど。
その金はたいしたことなかったと思うんで、それに比べたら、キリシタン告発でもらえる金はいかにも大金だったと思います。
家族内部でのキリシタン告発でも金をやる、これはけっこう私にとって盲点だったんで、他の国のキリシタン弾圧にはなかったんじゃないかなあ、と思います。誰かに調べてほしいですね。
迷える大羊 · 2007-10-13 16:34:30 UTC+9 · 投稿 #261
>日本のキリシタン弾圧って、聞けば聞くほど、異様に洗練されてる部分があって、弾圧側に少数の天才がいたようです。
イジメにしても欧米がストレ-トなもの言い、行動をするのに比べ、日本は精神的に追い詰める、疎外していく、というパタ-ンが多い感じですよね。しかし、金目当てに家族売るんですか?旧約聖書にも確か、優秀で親の覚えもめでたい末っ子をエジプトに奴隷として売り飛ばす、とんでもない兄貴たちの話がありますが・・。昔は子供を売り飛ばすことって今考えるほどとんでもない話じゃなかったんですかね?
ところで、話変わりますが、私がキリスト教の中でもカトリックに近づいた理由として、もちろん、感覚や考え方に違和感が少ない、ということが第一ですが、古代ロ-マ人の感覚、文化を色濃く残している宗教、教派ってこともあるんですよね。
いささかミ-ハ-で恐縮ですが、塩野七生の「ロ-マ人の物語」とか「スタ-ウォ-ズ」(宇宙が舞台になっていても、皇帝やら元老院やらが出てきたりして、そこで展開される世界はまるっきり古代ロ-マ帝国)、「ベンハ-」、「スパルタクス」、「グラデュエ-タ-」などロ-マ帝国関連の小説、映画が大好きだったりします。
カトリックの場合、マリア崇敬は昔のロ-マ人の女神ビ-ナス信仰がマリアに置き換わったもの、と聞きますし、教皇制はかつてのロ-マ帝政の制度の影響をある程度受けたものなのかな?と思いますし。かつてのロ-マ帝国では国家に貢献した皇帝、軍人、著名人は元老院の承認の上、神に祀り上げられましたが、カトリックの聖人とか福者というのもその名残なのかな?と思ったりします。あと、昔はラテン語でミサを行っていたこともロ-マ帝国の匂いを色濃く感じるところですね。
また、カトリック教会が比較的、異教の風習、文化に寛容で抵抗なく取り入れるところもかつてのロ-マ帝国、ロ-マ人の気質と共通するところを感じるんですよね。
当方の勘違いなのかもしれませんが、こういうカトリックの諸制度や考え方を見聞きすると古代ロ-マ帝国の影響をかなり感じますが、実際のところ、どうなのでしょうね?
Sekko · 2007-10-08 17:58:09 UTC+9 · 投稿 #260
大羊さま、
この夏、江戸時代のキリシタン狩りでキリシタンを告発したら賞金がでて、身分の高い人なら高額、一般人でも今にして700万円ももらえたので、貧乏なうちは家族の一人を無理やりキリシタンとして売った、という話を聞きました。なかには、キリシタンのことに無知で偽物だとばれてしまった人もあったそうです。
日本のキリシタン弾圧って、聞けば聞くほど、異様に洗練されてる部分があって、弾圧側に少数の天才がいたようです。
「えーい、邪魔だ、皆殺し」とか感情的なとこがあまりないんですね。それだけにより怖いとも思います。ヨーロッパの連中の魔女狩りとか先住民狩りの方が単純といえば単純かもしれません。悪における洗練の問題って、倒錯的ですが、必ず傑出した天才が隠れているので、凡人には平凡な悪しか手が届かないみたいです。だからと言って害が少ないわけではないですけど。
Fusako様、vino様、
人生って、生存に必要なメンテナンスと、生活に必要な義務と雑用と、それがメインで、スピリチュアルな部分って、嵐の夜の閃光みたいなものかもしれませんね。でも、逆に、超越的なものの陽光にずっと照らされていたりしたら、かえって誰もそれに気がつかないかも。
一度でも光を意識できた人が、その記憶にすがって長い信仰の夜を生きていく、ていうのが普通かもしれません。マザー・テレサの50年にわたる信仰の夜が最近話題になりましたが、彼女は神がいないといったんじゃなくて、隠れてる、見えない、と苦しんでいたんですね。
「見えないときは気にしない」、天気や昼夜を変えるわけにはいかないんだから、と不可知論的にあしらってもいいんじゃないでしょうか。信仰に基づいた行動規範さえあれば(マザーテレサがそれで50年やってきたように)いいんですよ、きっと。