2007年の投稿

共同体

あんとに庵 · 2007-05-22 20:09:26 UTC+9 · 投稿 #155

どもどもです。

・共同体のこと

いじめの話が出ていますが、共同体というものに付物の宿命ではありますね。教会に限らず、或いは教会もまた一つの共同体なので。だから逃げ道として、複数の共同体を持てるというのが一番いいだろうなぁとは思います。

・ピラトさん

ピラトはトリック・スターですね。彼、個人というより、シンボリズムなんですが。彼的な立場に立つことって往々にしてあるとき自分はどう振舞うか?ということでもあるんでしょう。ピラトさんはあれら物語の中では第三者的な客観的人間として美味しい立場とも言えたり。
ユダのほうが気の毒な気が・・・(^^;

・関係性ということについて

sekkoさん
>今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。

キリスト教というのは関係性の宗教だなとは思います。三位一体の構造からしてそうですよね。ミサもまた「交わり(コミュニオ)」が大切だと言われます。それは神と人との関係でもあり神を通じた人とのかかわりというものが教会でもあり、二千年に渡る多くの人々との交流でもあるなぁと。
聖骸布に関わっていった人々も、その繋がりの中にあるなぁとか、考えてしまいます。なにかそういう過去の、或いは遠いところの人とも同じキーワードで繋がっていける面白さはありますね。

>クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ

このエピソードは笑えた。

・土日のミサ

迷える大羊さんがご指摘の通り、確かに土日の休みがない職場の方だと大変かもしれません。つっても教会もない土地で信仰の話などが出来るネットがある現代はそんなに辛くないかな。

・「与えられた」信仰

Fusakoさんがおっしゃる与えられたってのは「縁・えにし」みたいなものではないかな。なんでもそうですが「出会いに敏感でありたい」みたいな。縁を受け入れる。自然にあるものを素直に受け止めるような、そんな信仰。自然体の信仰。そういうのはいいなぁと私も思います。

迷える大羊さんの人生の中でキリスト教が縁あるものとして現れたのはいま現在ですが、それがまたどういうところに流れ着くかは、これもまた神様にしか判らないことかもしれません。神と大羊さんとで対話していくことなのだろうなと。

あとで

nao · 2007-05-22 09:06:01 UTC+9 · 投稿 #154

どこかに手がふれたらしく、途中ではいつてしまいました。宅急便がきましたので、またあとで、続きをかきます。ピラトのこと、同じことをかんがえていました。あまりにもしつうこい、というか、あんなにやられたら、ピラトがかわいそうです。なんとかしてあげてほしい・・とおもいますよ。

あれこれ

nao · 2007-05-22 09:02:18 UTC+9 · 投稿 #153

いじめにあつた知人という人はプロテスタントの70名位の教会でした。かなり知識人の多い地域の教会です。その中に、自分の考えを押し付ける教会役員がいて、この人にいじめられたんです。その人はいじめとはおもつていなかつたようです。転会するためにこまつたことは、住所がかわらないのに、転会は不可能といわれたことです。それで彼女は教会になつていない、集会にゆき、またそこでも、考えをおしつけられてこまつたというのです。そこは10名もいないところでしたから、毎回苦労したそうです。
考えをおしつけられる・・これが一番こまつたことですね。大羊さんがいつしゃつたように「神」が加担してくるような押し付けはエゴに神を利用しているわけで、許せません。
転会なんて、厄介なことやらなくても、ミサに自由にゆけるというのがカトリツクのいい点なんです。

イジメ、ですか・・・

迷える大羊 · 2007-05-22 00:54:09 UTC+9 · 投稿 #152

>私の知人はキリスト教会でいじめにあつて

イジメ、イヤですねぇ。キリスト教会でイジメって、なんだかなぁ、まさに神も仏もあらへんわ・・って気になっちゃいますねぇ。まあ、クリスチャン、とかカトリックとかいっても別に普通の人間であるわけで、水ひっかけられたり、かぶったりしたくらいで変われれば苦労しないよ、ってところなんでしょうが。しかし、選りによって、信仰の場でイジメに遭うなんてと職場とか学校でイジメられるよりつらいでしょうねぇ、何が原因なのかはわかりませんが。人間関係の苦からは教会でも逃れられないものなのですね。

>なんでもいいから宗教心をきちんと持つことが大切だと考えているようです。母なども同じ考えなので教会に関わることには賛成でした

あ、うちの親もそうです。ちなみに父は無宗教ですが、宗教は好きで、聖書やコーランには詳しいですし、母はとある仏教系新興宗教の信者です。そんなわけで、平均的日本人がキリスト教に関わる際につきものの反対、抵抗はないですね。

>二ケア・コンスタンチノープル信条

近くのカトリック教会で買ったの祈祷書らしきものに載ってました。確かに「からだの復活」とありますね、弱りましたね、これは、どう読んでも生物学的復活を信じろ、といっているようにしか・・。あと、ちょっぴり気の毒な気がするのがローマ総督ポンティオ・ピラト。彼からすれば、何の興味もないユダヤ教内部の内輪もめに巻き込まれたあげく、2000年以上にわたって、基督教が続く限り、ミサや礼拝の度に責められ続けるのですから、たまらないよなぁ、と思うのは私だけでしょうか?素直さが足りませんかね?私。告解した方がいいのかしら??(おっと私はカトリック教徒ではありませんでした)

>そこで神が、2次元の人間たちを救おうとして2次元の世界に入っていく、もちろんそこでは神も2次元的でしか存在できない。この上には神の国という3次元があると説く。

そういえば、詳細は忘れましたけど、少年時代にそんな感じの話のSF小説を読んだ覚えがありますね。

>ますます日本に聖職者なんていなくなります

本当に神父さんって不足してますよね。近くのカトリック教会の神父さんも確かもう70歳近く。年齢の割りにはとてもお元気で精力的に活動されていますが、彼が倒れたり、亡くなったりしたら、あの教会はどうなるのだろう、と心配してしまいます。他にもそんな教会いっぱいあるんじゃないですかねぇ?何しろ、プロテスタントの牧師以上に求められる条件が厳しくてそうおいそれと養成できませんしね。

>自分で選ぶことなどできないままに与えられた、自分自身や自分の子ども、をはじめとして、与えられたものを大切にすることが信仰であろう

趣旨はなんとなくわかるのですが、そういわれてしまうと、もうそれ以上何もいえなくなってしまうし、「与えられた」という機会や実感のない人、未信者で理屈で理解するより仕方がない人間は、そこでもうキリスト教との関わりはお終い、ってことになってしまうのでは?。そんな人(他力本願的に信仰が与えられる人ですね)どれだけいるんだろ?それこそ、日本人の1%以下にじゃないか、困ったものだなぁ、というのが率直な感想です。

ところで、先々週のカトリック教会のミサの説教では、共同体の交わりを大切に、要するにミサにはちゃんと参加しましょう、とのことでしたが、現在の日本で、土日がきちんと休みになる職場の人っているようで、実は少ない気がします。かくいう私も、以前は工事関係で土日完全休みなどとても望めない状況でしたし、他にも仕事がサービス業、警察、消防関係等など、充実した教会生活を送ることが難しい人々はクリスチャンになるのは難しいのでは?私も今は土日が休める職場ですが、将来はわかりません。

一応、カトリック教会では平日の早朝や土曜日もミサをやっているし、プロテスタントでも平日に祈祷会をやっていたりしますが、こういった職業の方はどうしても教会生活からは疎遠にならざるを得ないですよね。
何回か職を変わったり世の中を曲がりなりにも泳いだ実感からすれば、今の日本で土日きちんと休め、それでいて生活をできるだけの定収入がある人というのはわりと恵まれた部類に属する人々ではないか、という気がします。
こうした元々恵まれている人々のみに信仰が与えられ、人が休んでいるときにも働く人々、癒しが一番、求められる人々にはなかなかその恩恵に授かれない、というのもちょっと矛盾しているような気がします。
といって、基督教にとって主日は変えられない、変えようがないものですし、難しいところですね。
なんだかまとまりのない文章ですが、皆様、またお時間あればお相手下さい。

私とキリスト教

Fusako · 2007-05-21 21:28:49 UTC+9 · 投稿 #151

私は、中学・高校とプロテスタントの学校に通いました。長老派だったでしょうか。でも、プロテスタントの中の宗派はおろか、カトリックとプロテスタントの違いも定かでない、という程度の興味しか、昔も今もキリスト教には抱いていません。
わたし自身は無宗教、しいて言うなら「自分教」などと人には言っています。
でも、年をとって、昔、学校で学んだいろいろなことが、如何に自分の中に入っているか、不思議なもの、キリスト教の学校で良かった、と思っています。
クリスチャンになる、というつもりはないのですが、学校で教わったことにとても多くを負っています。で、キリスト教自体には肯定的な感じを持っています。その、肯定的な感じは、もっぱら、聖書と聖歌から来ていますね。聖書は好きです。その一番の理由は、聖書がセクトの言語で書かれたものではないこと。教団・宗派、はもとより、閉鎖社会・サークルの中での「業界用語」で閉鎖された社会を作る人々、が好きではないので。それから、聖書について好きなのはその内容。若いときにはわからなかったり、それから納得できなかったことが沢山ありましたが(放蕩息子の喩えとか)、今は、そうした喩えを興味深く思います。
聖歌、というのは、主として賛美歌ですけれど、美しい歌とハーモニーに満ちた学校生活だったのは恵まれていたことでした。ハーモニー、つまり、違う音色の人たちの美しい調和、から毎朝が始まる、毎朝の音楽を楽しみにする暮らし。一番感じやすい年頃にそういう生活を送れたことには感謝しています。感謝は、親と神様に。
で、この「神様」というのが、結局、今に至るまでわたしの中に残っているキリスト教ですね。宣教師の先生も多い学校で、英語教育にも力を入れていました。で、聖書や英語から学んだのが、「与えられたもの」という観念ですね。人は「生まれる」のではなくて、was born 生み出してもらうものですし、人の心の深いところに届くものは、自分で選んだものではなくて、touched、moved のように思いがけなく捉えられるものですね。
端的に、最も大切なものは、人間が自分で選べるものではなくて、与えられた、選択の余地のないもので、そのように、与えられたものを大切にしなければならない、ということが、「神さま」の教えの中心として残っています。誰も、自分を選んで生まれることはできないし、自分の親も子どもも選べない。結婚も、まあ、計算で選ぶ結婚も多いですけれども、恋愛は、自分で選ぶのではなくて、fall in してしまうのが本来でしょうし。
そんなことが、学生時代からの「教え」として入ってしまっているので、逆に、わたしは特定の教義に入らなくなってしまったのかもしれないです。メリット、デメリット、よりも、人間が自分で選ぶ教義、これが他のものよりも良いから、というような説明のつく教義、神様、なんて、逆になんだか変、という気がするんですね。
というわけで、自分で選ぶことなどできないままに与えられた、自分自身や自分の子ども、をはじめとして、与えられたものを大切にすることが信仰であろう、と考えています。
久しぶりにここのやりとりを読んで、ちょっと入れて頂こうと思ったのですが、まとまりのない抽象的な感想になってしまいました。

日本人とキリスト教

Sekko · 2007-05-20 21:24:33 UTC+9 · 投稿 #150

バロックバレーの研修がようやく終わったのでここを見るとなんか盛り上がってました。ありがとうございます。後、室内楽とオーケストラ、生徒の発表会などというイヴェントが少々あり、その他はいよいよ無神論の本に集中です。
この無神論の本を準備していくうちに、神とか信仰の問題がよりよく分かるようになりました。要するに、神を信じていた人がそれを失うのが無神論なんですよね。最初から無関心とか信じてない人は、否定すべき対象がない。否定するということは、その対象と真っ向から向かい合って対決することなんです。昔、私は典型的な「普通の日本人」だったので、たとえば、大羊さんやあんとに庵さんみたいに、イエスの復活?まさか、あるわけないよね、とか、いまいち信じられない、なんて考えたこともありませんでした。たとえはすごく変ですが、「ミッキー・マウスの耳って、大きすぎて不自然じゃない?」とかいう問いを立てないみたいなもので。
大人になって無神論になった人の「神っていなかったんだ、自分はずっとだまされていたんだ、」という愕然とした恐怖の記録(あるいは呪縛が解けた自由の記録)って、読んでも実感がなかったんです。サンタクロースがいないと知ったって、親がそっとプレゼントを置いといてくれる善意のメカニズム自体がサンタクロースなんだなあ、とか思うタイプなので。
しかし、子供の頃から、困った時の神頼みってのはありました。どうにもならない時「神さま、助けて、」と言うのは。これは「神さま、仏さま」と同義で、別に一神教の神ではなかったのですが。ある日、そういう超越した存在はなくて、すべて「脳内神さま」だったとしたら・・・という仮定をたててみたら、ちょっとショックでした。じゃあ、今まで祈ってたのは一体なんだったんだとか思って、無神論者の絶望をちょっと実感できました。それと平行して、信仰、疑い、棄教、回心、無神論、ニヒリズム、とか、ミニサイクルで、ぐるぐる何回転もシミュレーションしました。もし日本にずっといたら、そういう実感のシミュレーションはできなかったと思います。今は、信仰も無神論も、関係性の中にあるものだと思います。神との関係性や共同体との関係性の中に立ち現れてくるものであって、「自分は・・・を信ずる」と言うこともコンテキストの中でしかあり得ない。私の場合、他のみんながそう言ってる信仰の共同体の真ん中で、「私は実はちょっと、ここのところは信じられないんですけど・・・」なんて敢えていうことで、そこにいる人を不快にさせたり悲しませたりしてはならないという原則が優先的になります。私個人が心の中で信じているとかいないとかはその場ではたいしたことじゃないと思えるんで、優先事項にならないんです。「私の信仰」とか絶対的なものがあるんでなく、文脈や関係性のうちに、他者をリスペクトすることを優先することで選択される感じですね。
でも、トリノの聖骸布とかの話を読んでると、復活もありかなあと思います。いわゆる栄光の体じゃなくて、傷口が開いたまま、では血まみれではなかったのかとか、使徒にさえすぐに分かってもらえなかったというのは、殴られた痣と腫れで面変わりしていたからなのか、いろいろ考えてしまいます。『カトリック生活』という月刊誌の5月号と6月号に知人の写真家と編集者の話が載っています、二人ともカトリックではないんですが、カトリックの巡礼マニアです。6月6日には、『聖骸布の男』というムック(講談社)が出ます。聖骸布の実物大ポスター付。彼らと一緒に去年の夏、実物大精密写真を見に行って、みんな魅せられた感じになりました。私はポジ画像の布の繊維に残った血の跡があまりにも生々しくて、すごく残酷、すごくかわいそうだと思いました。無限の神が有限の人間になるって、結局こういうことなんですよ。あまりいいたとえじゃないですが、3次元の存在の神が、2次元の紙の上でアニメみたいに展開するこの世の出来事を眺めてるとします。その2次元の表面は神の3次元に全面的に触れているんですけど、空間概念はないんですね。そこで神が、2次元の人間たちを救おうとして2次元の世界に入っていく、もちろんそこでは神も2次元的でしか存在できない。この上には神の国という3次元があると説く。でも2次元には結局彼の居場所はないんです。血のしみを残して追い出されるんですね。でもそのしみも、2次元の世界はすべて、アニメ原作者だった神のいる3次元と境界を接していて、いつもコンタクトを受けているんです。ええと・・・話が変なほうに逸れました。あまり深く考えないように。
ここに書きたかったのは、私が「日本人とキリスト教」で連想する二つのエピソードの紹介です。一つはプロテスタントの家に生まれて幼児洗礼を受けた知人(団塊の世代)の話。当然まったく普通の人で、普通にふるまってるんですが、私にとっては、その年代で、プロテスタントであることで、子供の時に自分は他人と違うという意識は相当芽生えたはずだろうとすごく好奇心を持ったんです。質問したら、全然そんなことはない、マイノリティ意識はまったくないと言うんです。私がしつこく聞くと、そういえば、と中学時代のエピソードを話してくれました。昔の公立中学は、制服はもちろん丸坊主におかっぱとかいう髪型の校則のあるところが多かったんです。彼の中学もそうでした。だけど、お母さんが、自分たちはクリスチャンなので、と学校にかけあって、彼だけが3年間たった一人坊主頭でなかったそうなんです。その人はすごく自然に、なんでもないような感じで話すので、私は返す言葉がありませんでした。でも頭の中にはありとあらゆる「つっこみ」が渦巻いていました。えー、それって、めちゃトラウマなんでは・・・ヌーディスト・ビーチでコート着てブーツはいてるような感じでは? いじめの原因にならないかとか、いや、そもそも、クリスチャンだから坊主頭にできないって何だよ、坊主頭と坊主は違うだろ、それをOKして例外を認めた学校側も相当変では・・とか。
私は校則のドレスコードなど、すごく嫌いでした。何度も注意されました。だから、個人の表現に関する校則を守らないというのは気にならないんです。でも、中学くらいでは、たとえ、うちの子には髪型を自由に選択させます、それが教育方針ですので、って親が学校に乗り込んだとしたら、嫌がる子の方が多いんでは。昭和40年代くらいの話でしょう。日本のクリスチャンって、日本人じゃないんだなあ、とか思ったエピソードです。
もう一つのエピソードは、普通の仏教の家に生まれて、自分で思うところあって洗礼を受け、その後でカトリックの司祭になった人の話。日本でカトリックの司祭になる人って、家代々カトリックという幼児洗礼組が圧倒的に多いかと思います。洗礼を受けるのでさえ先祖の墓は誰が守るって話になるのに、生涯独身の司祭となると、もっとむずかしいのは想像できます。でも、その司祭は、両親がそろって洗礼を受けたんですよ。なぜかというと、「お前が司祭になるのに親が仏教では肩身が狭いんじゃないかと思って」というんです。もちろん、両親の宗教で差別されるようなことはありません。そんなこと言ってたら、ますます日本に聖職者なんていなくなります。だから、この人なんかは、親に洗礼を勧めたわけでもなく、逆に、司祭になることに反対されないかということの方が気がかりであってよさそうです。それが、親のこの言葉・・・
私の義理の妹はカトリック・ファミリー(といっても日本の仏教と同じで、他に選択肢のない檀那寺や氏神さま状態の村の話)で生まれて育ち今はチベット仏教の尼僧です。独身誓願もしてます。家族の誰も反対せず、チベット・コミュニティーと交流してます。しかし、彼女の立場がよくなるようにみんな仏教徒になろうという発想は絶対ありえないですね。
「お前が司祭になるのに親が仏教では肩身が狭いんじゃないかと思って」・・・すごく日本的だと思いました。この親にとってはイエスの復活がどうとか、三位一体がどうとか何の障壁にもならなかったに違いありません。神は息子だけじゃなく、両親も呼んだんですね、きっと。

目にみえないもの

nao · 2007-05-19 23:44:36 UTC+9 · 投稿 #149

今「博士の愛した数式」テレビで見おわつたところです。そのなかで「一直線」というのがありました。線分は実は永遠につづく目にみえないものの一部分なのだ、というんですね。イエスは線分、神は永遠。その二つは一つ。でも神は永遠。イエスは永遠で有限。有限が無限と一体。これこそ、考えるに値するテーマですね。三位一体のような判りにくいものをまじめに考えつづけてきたヨーロツパの知性にこちらもまじめにとつくんでみてやろう、とかんがえるのも面白いかもしれません。

カトリツクは人間関係がややこしかつたら、よその教会のミサにゆけばいいという逃げ場所があります。私の知人はキリスト教会でいじめにあつて、よそにゆきましたが、そこでもまたいや・・・な目にあつて、もうどこにいつたらいいんかわからん・・となげいていました。どこの教会にも出入りできるつて、すごいことなんですよね。

あんとに庵さんがはいつてくださつたおかげで大羊さんは、ものがいいやすくなられたみたい。あんとに庵さんて、ブログでもこの魅力ありますね。大羊さんもお邪魔してください。

ではお休みなさい。

どもども

あんとに庵 · 2007-05-19 22:35:47 UTC+9 · 投稿 #148

迷える大羊様

父はクリスチャンではないですが神戸育ちなもんで。聖書も若い頃に読んでいますし、勉強もしたようです。でもバリバリの日本人です。しかも右翼。読んでる本が「正論」取ってる新聞が「産経」・・・ですんで本人は「俺は神道の民だ!」といいながら、永平寺に座禅組みに行ったり、寺の檀家の集まりに行ったり、教会に誘うと大きな声で聖歌をうたったりしています。典型的無節操ともいえるほどの宗教観の日本人です。
あと、子供の頃の環境での馴染があるから抵抗感もなかったのだと思います。父はそのあたりは国境なき思考です。
なんでもいいから宗教心をきちんと持つことが大切だと考えているようです。母なども同じ考えなので教会に関わることには賛成でした。

ヤクザとの関連ですが、ヤクザ組織の家族制って実ははみ出し者を救う機能はありますね。どこにも行けないつまはじきのものを受け入れる懐の深さ故に昔のヤクザ組織は、世間より仁義を大切にしていたわけで。ゆえに失礼ではなく、寧ろ本質ついているかもです。

近代合理主義以降の現代の風潮の欠点を挙げるとするなら、「家族」的なるモノ、血縁でない他者との関わり合いの希薄さが挙げられるかもしれません。やくざもカトリックもその古臭いシステムの中で他者との関係性を大切にするという点では共通してますね。

ま、ローマ時代の伝統的存在といえば、マフィアとカトリック教会。マフィアのファミリーってローマ貴族のあり方が起源だったり。

>でも、それだと、信仰告白の時はどうされたんですか?

信仰告白はミサの度にやります。ニケアコンスタンチノープル信条といいます。検索すると出て参ります。カトリックの教義の全てが詰まっています。「クレド」ってラテン語で言いますね。
そのクレドの「からだの復活を信じます」と言う度に「うにゃぁ@?」となっておりましたので告解したのです。
で、神父様の回答を聞き、判らないことは信じますとは言えないけど信じないとも言えないのが「わからない」ということナンだなと。たぶん自分が死に直面していないから呑気に考えているのかも。でも友人が死んだ時、再び会うために復活を信じたいよなぁと思ったのも事実なので、その「復活の希望」ゆえに信じてみたいとは思っています。

イエスが神になる>

イエスは変身するんではないんですが、笑)生まれた時から完全な人である完全な神って考えるのがキリスト教なんですが、まぁ、普通はなんだそりゃ?ってなりますよねぇ。変ですよ。これは。

この辺り、三位一体論が形成されていく推移を読むとなるほどなぁと思います。ギリシャ哲学的素養を必要とするので、私にはかなり難解で大変でした。あと青野太潮さんというプロテスタント神学者の著作は助けになりました。これを紹介してくださったのはルーテルの牧師さんでしたが、青野氏は福音派の方だったかと記憶します。まぁ、どんなキリスト教派の人も悩みぶつかる問題なんでしょうね。真剣に考えるとわからなくなるから多くの人が、著作書いたり読んだり、2千年間それをし続けているのだと思います。
ゆえにそれがなにかを考えることが信仰の一つの営みだったりします。イエスが神って、それってどういうこった?って考え続けることもまた、祈りの一つなんだと思いますね。

横入り歓迎いたします

迷える大羊 · 2007-05-19 21:11:39 UTC+9 · 投稿 #147

あんとに庵さん

初めまして。信仰歴について興味深く拝見させていただきました。

>父

お父上はクリスチャンなのですか?もし、そうでないとしたら、ずいぶんとキリスト教に理解のあるお父様ですね。大概のクリスチャンでない日本人はキリスト教に悪い印象はほとんどないもっていないけれど、自分や自分の身内が洗礼を受けるとなると抵抗する人が多いじゃないですか。父親ではなく、私の会社の先輩の話ですが、彼女がクリスチャンです、という話をすると、「へぇ~、いいじゃない、でも、日本人なのになんで?」ってな感じの反応をされました。どこか、自分とは遠い世界のファンタジー的な感覚があるんでしょうね、キリスト教に関しては。

>疑似家族的な共同体

まあ、これはジョークですけど、なんだかヤクザ組織に似ているような(笑)。あちらの方々も、見習い(求道者?)から始めて、修行(公教要理教育?)して後、盃を交わし(洗礼?)、構成員(教会員?)になるってプロセス、互いを兄弟に擬して、兄だとか姉だとか呼び合うこと(カトリックではあまり聞かない気がしますが)、シノギ(生活手段、稼ぎ)は各人の自由で上納金(献金)を組織に納める、などなど・・・。

極端な話、違いは悪いことをするとヤクザ、善いことをするとクリスチャンになる、くらいかな、なんてね。最大教派のカトリックはさしずめ山口組みたいなものかな、などとくだらないこといろいろ、考えました。しつこいようですが、あくまで冗談ですよ、怒らないで下さいね(笑)。でも、伝統的教会は高齢化が進み、若年者が不足しているようですが、あちらの方々の世界もそれは同様だったりするなど、妙に共通点があったりして・・・。

>向き不向きの共同体があるんですよね。だから教派がこれだけあるんだと

そうですね、でも、それが逆にキリスト教のいいところだと思います。一つの教会がダメだからといって即、キリスト教の世界から去らねばならない、ってことがないのですから。また、それがキリスト教の奥深さかと・・。組織、人間関係の面倒さなど気にならないくらいの生き甲斐、というか信じ甲斐のあるものを見つけられればいいんですけどね。

>「わたくしはからだの復活、永遠の命ってのが信じられんのです」というモノでしたが神父様はそれは罪ではないし「わたくしも判らないことです」「皆が死ぬまで考えることでしょう」という回答

そうでしょうね。真面目に考えて、信じれば信じるほど却ってワケがわからなくなりそうな気がしますよ。信徒になってもそうなんですね。でも、それだと、信仰告白の時はどうされたんですか?あまり、心底からは信じていないけど、とりあえず「信じます」と答えたとか?また、カトリックの信仰告白ってどんな内容なんでしょう?

>み言葉が神になる」ということがキーワード

うーん、今の私にはよくわかりません。あと、神でもあり人でもあるっていうのも。昔のテレビヒーローの仮面ライダーやウルトラマンみたいに変身するとか??(笑)。あと、それだと、神が神に生贄をささげ罪を償ったってなことになっちゃいそうな気がしますし。
別にふざけたり、茶化しているつもりは全くないのですが、真面目に考えれば考えるほど、よくわかんなくなる、というのが率直な感想です。

>離島

それは大変ですね。離島でも伊豆大島ですとか佐渡島なんかにはカトリック教会があったりしますから、そういうところではないのですね。出張ミサなんてあるんですね。ただでさえ、信徒数のわりに人手が不足し、忙しい神父さんがそこまで行くのもまた大変だな、ご苦労様です、と声をかけたい気分ですね。
お相手ありがとうございます。

信仰の威力

迷える大羊 · 2007-05-19 20:15:28 UTC+9 · 投稿 #146

GreenCurryさん

初めまして。お応え、ありがとうございます。

>「沈黙」

いい作品だと思いますが、発表当初(1966年)はカトリック教会からは猛烈な反発があり、遠藤氏はミサの最中、司祭より名指しで非難されたそうですね。確かに主人公が最終的に踏み絵を踏んで、棄教してしまうクライマックスは保守的なクリスチャンには耐え難いものがあるかもしれませんねぇ。何カ国語かに翻訳され、好評を博し、ノーベル文学賞候補にも上ったらしいのですが、結局受賞できなかったのはキリスト教国である欧米諸国でもこのクライマックスに賛否両論があったのと、あまりに日本人的なイエス、キリスト教理解が、今ひとつ受け入れられなかったせい、と聞いたことがあります。

>信仰って私たちの悲しみを癒してくれるのじゃないでしょうか?

なんとなくはわかりますけどね。ちなみに私の彼女がクリスチャンになったのは、実母が小学5年か6年のころ病気で亡くなったことがきっかけです。彼女にとってつらい時期を支えてもらった「恩義」があるせいか、キリスト教に対する思いいれは人一倍で、私みたいに、やれ奇跡がどうのこうのだとか、聖書にはとんでもないこと書いてあるぞ、みたいな疑義は全く生じる余地がなかったみたいで、本当に素朴に信じてます。
彼女に限らず、熱心な信者の方というのは肉親との死別とか失業、事業の失敗とか何か強烈に日常生活の価値観に疑問を感じる出来事を体験された方が多いように思えます。とある教会で話をした女性信徒の方(私と同年代30代)などは嫁姑などの家庭問題、育児問題に悩んでの末の入信でしたし。あくまで私の見聞きした範囲での話しですが。

>「聖戦」なんていう、人の悲しみを増やすようなのは、宗教の名を利用しているだけだと思います。

大部分はそうかと思います。でも、話をややこしくする原因にはなってるんじゃないかなぁ、とは思います。例えば、パレスチナ紛争におけるイスラエルはどう考えても侵略者の立場ですが、ユダヤ教の経典である旧約聖書では彼の地は「神から与えられた土地」になってますよね、確か。これじゃあ、まともな話合いなど成り立ちようがないですよね。

ちなみに私は旧約聖書があまり好きではないのです。単純に登場人物の相関、状況背景が分かりづらく、読みにくい、というのもあるし、苦労して読んでみても、侵略、虐殺、とんでもない話(同性愛者は死ね、だとか、親に反抗する子供は石投げて殺せとか、兄弟を売り飛ばす話とか)のオンパレードで、こんなおっかなくて、ビンラディンもびっくりの過激な破壊行為をやたらと繰り返す神様を本当に「主」として崇めなくちゃならないの?と聞きたくなってしまうんですよね。
クリスチャンの皆さんは、旧約聖書ってどう思っていらっしゃるんでしょうね?話が脱線しました、ゴメンナサイ。また、お相手下さい。

お礼

nao · 2007-05-19 12:32:02 UTC+9 · 投稿 #145

あんとに庵さま 早速願いを聞いていただき、投稿していただきまして、本当にありがとうございました。なんだか大羊さんの母親になつたみたいな感覚で(失礼!)今回はおおくのかたに是非参加していただきたかつたのです。皆さん、竹下先生から多くをいただいているかたが、この機会にどんどん発言してくださいますよう、先生にかわりまして、お願いもうしあげます。
大羊さんのおかげで、自分の信仰つてなんかな?とかんがえはじめました。うまくかけないのに、驚いている始末です。おかしなものですね!普段は信仰抜きに生活できていないのに!またおもつたことをかかせていただきます。まずはお礼まで。グリーンカレイさん、また新鮮な問題提起でしたね。考えさせられます。

横入り失礼します

あんとに庵 · 2007-05-19 11:45:02 UTC+9 · 投稿 #144

迷える大羊様
はじめまして。
実存世界やなんかで竹下先生にお世話になっているものです。日本の離島(カトリック教会なし)に住むカトリック信者です。
naoさんからこちらでの会話のお誘いをいただき参りました。

いくつかの疑問点、出された命題について記してみようかと思います。まずご質問への回答として。

・キリスト教、カトリックを信じるメリット、信じてよかったことは一体なんでしょう?

メリットという発想がなかったです。子供の頃に教会に通わされ、中高とカトリックの学校に行き、その時洗礼受けようかと勉強したこともあります。しかしすぐに思春期固有の反抗期がきて、シスターや神父に「けっ」てな感じになって離れましたが。
祖母も聖公会之女学校出身で家族の死生観というか、なにか基礎となるアイディンティティ、思考がキリスト教徒だなぁと実感したので、カムアウトする為に洗礼受けたです。うちの父が「お前はどう考えても耶蘇なんだから洗礼受ければ?」と言ったのが教会に再び通うきっかけになりました。
それとわたくしは独身で、しかも自由業という、家族や仕事等のなんらの共同体に属していないので、そういう疑似家族的な共同体にちょいとした憧れがあったんですね。ほんとうは共同体に属するって面倒くさいじゃないですか。嫌な他人(めんどくさい家族)と付合わなきゃならん。でもそういうむかつくことも含め、他者と一緒にいるってのが、まったくの孤独な状況だと憧れになったりするんですよね。で、教会も当然人間の作る共同体ですからむかつくこともあります。なんじゃこいつ?と思うこともありますが、そういう迷惑の掛けあいってのが共同体ってモノなんだと思ってます。あと、親との共同体以外の逃げ場が欲しかったというか・・・。逃げ場って必要かも。

ところで、教会に戻る時にキリスト教会ならどこでもいいや。と思っていたので、近所にある福音派の教会に行こうかなと悩んでいたすが、ふとしたきっかけで知りあった福音派の牧師先生に「君はカトリック以外考えられないから、カトリック教会にいった方がいいよ」と言われまして、カトリック教会に行きましたです。今思えばその牧師先生は本質をついていたと思います。向き不向きの共同体があるんですよね。だから教派がこれだけあるんだと思います。もっともいまやカトリック教会もプロテスタントの日本キリスト教団や、福音派のようなメインラインの教会すらない小さな離島に住んでしまいましたが。(でも隣の島から神父様がうちに来てミサ挙げてくれるんですよ)

・奇跡、復活について

私がかつてした告解の一つが「わたくしはからだの復活、永遠の命ってのが信じられんのです」というモノでしたが神父様はそれは罪ではないし「わたくしも判らないことです」「皆が死ぬまで考えることでしょう」という回答をいただきました。未だそれがなにか考えています。

・人間イエス

迷える大羊さんがおっしゃるように、これこそキリスト教の中心的課題で、あきらかに弱い人間であるイエスがナンで神よ???を考えることが神学のひとつだったり。「み言葉が神になる」ということがキーワードかもしれません。ちなみにわたくしもあきらかに人間だろう?優れた思想家だったんじゃない?と思っておりましたが、今はその「み言葉が神になる」ことゆえに神だと考えています。しかし、ここに至るには30年を要しました。
ちなみに神でもあるイエスが、悩んだり、トンでもなことを母親にいい放ったり、空腹のあまりにイチジクの木に八つ当りをしたりするのは、人でもあるからなんですね。人としてこられた神というのそのように人でなければいけないのです。それこそがまさにキリスッと教の中心を為す神学の根底にあり、迷える大羊さんの疑念はすごく健全で、神学世界の入り口に立っておられるなと思います。

信仰とは?

Greencurry · 2007-05-19 09:24:50 UTC+9 · 投稿 #143

大羊様、皆様、

大羊さんの信仰するメリット・デメリットという疑問が印象に残り、
皆様のやりとりを拝見していて、信仰ってなんだろうなあと思いました。
私はキリスト教徒ではないし、宗教にも詳しくないので、あまり語るべき言葉を持っていません。
ですが、遠藤周作の本は好きでだいたい読んでいます。
『沈黙』に出てくるイエス像が私の考えるイエス像にもっとも近いです。
そういう点では大羊さんと似ているかもしれませんし、ひょっとしたら多くの日本人がそう感じるかもしれません。

それで、今週は、宗教とは?と会社の行き帰りに満員電車に揺られながら考えてました。
ずっと以前、祖母が亡くなったとき、斎場の帰りに見た夕暮れの空がとても美しくて、
その美しい空にひときわ光の強い星がひとつ出ていました。
その星を見て私の叔母(亡くなった祖母の娘)が『見て、きれいな星が出てる。きっとおばあちゃんだよ。』と言いました。そばにいた数人はみんな『ほんとだ、おばあちゃんだ』と言って、小さな感動に包まれました。
その時に私は宗教のはじまりってこんなものじゃなかったのかなぁ?と思いました。
星とおばあちゃんは何の関係も無いのに、何の迷いも無く星がおばあちゃんだと思える。
おばあちゃんが亡くなったのはとても悲しいのに、もう病院のベッドで機械につながれてもいなくて、痛みもなく、きっと自由で楽になっていると思えて、悲しみが少し和らぐ。
(クリスチャンなら「神のもとへ帰った」と思える場面かもしれません)
信仰って私たちの悲しみを癒してくれるのじゃないでしょうか?
そういえば、前に拉致被害者の家族の人が「今まで自分を支えてきたのは信仰だ」
と言っているのを聞いたことがあります。(そこしか聞こえなかったので詳しくは分からないですが)
宗教のよい面はそういうところではないかと思いました。
だから、「聖戦」なんていう、人の悲しみを増やすようなのは、宗教の名を利用しているだけだと思います。

なんだか、幼稚な話で失礼しました。
みなさんが高度なお話をされているので、投稿しようかどうかと迷ったのですが。。。
大羊さんが大いに悩まれて幸せなご結婚をされることをお祈りしています(あ、これも宗教的だなぁ)

クリスチャンあれこれ

迷える大羊 · 2007-05-19 01:56:21 UTC+9 · 投稿 #142

Naoさん
いつも、参考になる話、ありがたく拝見させていただいております。

>私は女ですが、ひどく癪にさわる奴はわすれません。思い出すたびにむかむかします。

いや、ホっとします。こういう話を聞くと。皆が皆、「敬虔」な人々だったりしたら、却って怖くて、引いてしまいます(笑)

>私はキリストが最初はわからなかつたんです

確かにわかりづらいところはあります。私には現在進行形の話しです。まあ、奇跡なんかは信じなくてもあまり差し支えないかもしれないけれど、問題は復活と贖罪思想ですね。これらはキリスト教の核ですものねぇ。

復活なんかも最初はホラー映画のように死体が動きだすんかい?アホラシと思ったものです(すみません)。やがて、そういう意味ではない、精神的なものであることがわかりますが、それにしても、あまりに非合理で、困り果てます。贖罪思想も理屈はわからなくもないけれど、そもそも、2000年以上前のユダヤ人宗教家の刑死が、一体全体、21世紀の日本という、あらゆる意味で一番遠いところにいる自分に一体どう関わってくるのか、今一つ実感が薄いことがありますね。
私も年を取らないとわからないのでしょうかね。

>自分の考えが絶対とおもつているやつかいなひとがいるんです。そんなの、聖人ぶつてて、一番きらいです。そんなひとにであわれることがないように・・とねがつております

まあ、それは宗教に限らず、どこの世界にも必ずいますよね、そういう人。実は私の職場にもそういう人いましてほとほと困ってます。ただ、宗教の場で厄介なのは「神」が絡むことでしょうね。客観的にみれば、明らかに自分の思い込み、意見、偏見を語っているだけなのに「これは神の御心」だなんて神の御威光をバックに自分を正当化しようとする人は確かにいそうです、というかいます。そういう人や出来事をみると「これだから宗教っていうのは・・・」なんて思ったり、思われたりしますよね。まあ、折角、心の洗濯をしに教会に行くのに、また煩わしい人間関係が一つ増えただけだった、なんてことがないように、お祈りするしかないのかな?

>竹下先生と私は20歳の差があります。少しぼけ始めた、老人の独り言とおかんがえください

大体、見当がつきましたが、公の場での明言は女性への礼儀として避けます(笑)。でも、ボケどころか、年代的にIT、パソコン関係が苦手な方が多い中、これだけの書き込みが出来るなんて大したものです。うちの母などパソコン、インターネットはもちろんのこと、携帯電話すら、怪しげです(笑)

>自分をおおいに楽しむやり方が、キリスト教と出会いそうな「時」がきましたら

そうですね、無理をしても仕方のないことですし、長続きはしないでしょうね、まあ、焦らず、自然体で行きたいものです。それにしても、クリスチャンの彼女との出会いがなければキリスト教にこうして関わることもなかったでしょう。やはり、何かしらの縁がキリスト教と私の間にはあるのでしょう。先のことはそれこそ「神のみぞ知る」ですね(笑)

キリスト教あれこれ

迷える大羊 · 2007-05-19 01:17:10 UTC+9 · 投稿 #141

Sekkoさん

いつも、お疲れのところ恐れ入ります。

>日本の場合は、男性は、親の宗派で葬式を出して位牌を守って、というような縛りがあるので、キリスト教の家に生まれなければ、成人洗礼は社会的にも心理的にもブレーキがかかるのでしょう

実はクリスチャンならカトリックと思った理由の一つにこの辺りの問題についての対応が現実的だったことがあるのですよ、カトリック教会って。近くのカトリック教会の神父さんの話では、葬儀はノンクリスチャンの家族とのことも考え、仏式で執り行った後、非公式でカトリック式の葬儀も上げる、という対応もできるし、分骨も可能とのこと。

なんといってもホッとするのはプロテスタント福音系の教会と違い、お焼香などを「偶像崇拝、異教崇拝」などといって拒否したり、タブー視したりする信徒や聖職者が少ないこと。私の近くのカトリック教会の神父さんなどは、むしろ、積極的にお焼香しなさい、という立場です。未信者の分際でいうのもなんですが、お焼香ってそんなにクリスチャンのアイデンティティに関わることなんですかね?ごくごく一般的な日本人でお焼香に信仰を問うたり、踏み絵的な意味を見出している人なんてどれくらいいるんでしょう?それを異教崇拝とかなんとかいって拒否するのは大変自己中心的な、それこそ愛に欠けた行為のように私には映ってしまい、福音派プロテスタント教会から離れた理由の一つになってます。

あと、若い男、働き盛りの男が宗教などに頼るのは女々しい、という感覚は確かにあるかもしれません。私の友達(もちろんノンクリスチャン)も「信じれば救われるなんて甘いんだよ」なんていってますし、カトリック東京教区のサイトの掲示板でも、ノンクリスチャンの夫を持つ女性信徒の相談で、上の女の子が生まれたときは幼児洗礼OKだったけど、男の子のときは「男に宗教はいらない」ってことで幼児洗礼を反対された、なんて話が出てました。

>男の方は自分の親を看取り、引退してから、やっと、次は奥さんに自分が看取られたいということで、ようやく洗礼を受ける人もいるみたいです。

有名人では元巨人軍で野球解説者の故青田昇氏、寅さんの故渥美清氏がそのパターンのようですね。あと、いわずとしれた長島茂男氏(大学は聖公会系ですね、そういえば)の夫人、亜希子氏はカトリック信徒のようですから、茂男氏もそろそろ・・ってことはないか(笑)

>まあ、そんなもんだと思って

信仰のあり方は人様々なのですね。ところで、クリスチャン、カトリック教徒はイエスを「神」(それもあの意味不明な三位一体論とセットで)と信じなければならないのでしょうか?実のところ、私にとってイエスは欠点も弱点もある(聖書にはイエスが故郷では評判が悪く、家族仲も良くなかったことを推理させる記述もあるし・・)、至って普通の人間だと思ってます。その普通の人間が神を連想させる生き方をしてみせた、ひたすら人を愛することに徹してみせたところに意義というか、偉大さみたいなものを感じる、というのが私のイエス観(遠藤周作の「イエスの生涯」の影響が大きいのですが)なのですが、これは「異端」ってことになるのですかねぇ。
イエスが完全無欠で超能力を駆使する「神」だなんて話はなんだか、その辺の怪しげな新興宗教の教祖様みたいで却って信じる気持ちが失せてしまいます。
ちなみに福音系プロテスタント教会では「それではダメなんですよ、あの方は単なる偉大な思想家、宗教家ではないんです」ということでした。

年齢ということ

nao · 2007-05-18 20:26:43 UTC+9 · 投稿 #140

大羊さんはこれから、結婚なさるというとてもお若いかたですよね。まず私の年齢の半分以下であることはまちがいありません。3分の1、かもしれません。「かなりあつくなるタイプ」。けつこうです。男らしいじゃありませんか!でもそれが「キリスト教にむいていない」とはまつたく検討違いだとおもいますよ。
私は女ですが、ひどく癪にさわる奴はわすれません。思い出すたびにむかむかします。でも大羊さんより、半世紀ほども長くいきてきて、やつぱり、自分もひどいや!とおもうことがおおいんですよ。これは年のせいで少しはわかつてきているのと、キリストがやはり自分の内面に絶えず語りかけるものがあるからだ、とおもうんです。自分の償いになるとおもえてきたのはまあ・・この年になつて、やつと・・てところかな・・。言葉がたりませんでしたね。
私はキリストが最初はわからなかつたんです。わかつたのはマリアでした。「マリアを通じてキリストへ」と最初にであつた神父さんがおしえてくださつたので、そのうち、キリストがわかるだろう、とおもつて、何十年もたちました。そして、やつと、いまごろキリストの十字架の意味もわかつてきたようなわけです。こんな信者もいるんだいうことを知つていただけると、うれしいです。
私は大羊さんのように、ご自分の意見を上手に表現される若いかたを最近みたことがありません。嬉しい限りです。サイト上でまじめに応答してくださることは、本当に素晴らしいことですし、年齢をこえて、いろんな方が大羊さんと会話してくださることをねがつております。
内緒ですが、キリスト教会にはへんな自信家がいるんですよ。自分の考えが絶対とおもつているやつかいなひとがいるんです。そんなの、聖人ぶつてて、一番きらいです。そんなひとにであわれることがないように・・とねがつております。大羊さんのような正直なかたこそ、皆キリスト教会にむかえたいのではないでしょうか?もし、私たちの教会に大羊さんのような正直なかたがきてくださつたら、大歓迎ですね。
どうか、なつ得のゆくまで、まよつてください。もうキリストがご縁のない方ではなくなつていますね。竹下先生のご明察のとうりだとおもいます。
それから、『自己実現』ですがこれには自分の能力を最大限にのばしてゆく、ということと、宝石の原石をカツトしてひかり輝くという二つの意味があるとおもいます。若いときは能力をのばす、しかし、やがて、限界がみえてくるときがあります。そんなとき、自分の何を捨てるか、かんがえてゆくのも「自己実現」だとぽもいます。後者のほうがじつはひどく難しい。そんなとき、キリスト教は「愛する」ことを最優先するので、カツトの方針がたちやすいようにおもいます。
大いに、競争OK.でもいつかはそれが空しくなるという引き出しもあると、「時」がくれば、その引き出しをそつとあけてみるということもいいのではないでしょうか?
理想を前面にたて、自分の至らなさに、こんなことでは・・と考えるひとがいますが、それは不自由な生き方だとおもうのです。自分をおおいに楽しむやり方が、キリスト教と出会いそうな「時」がきましたら、どんなに嬉しいかとおもつた次第です。きつとそうなることをねがつております。竹下先生と私は20歳の差があります。少しぼけ始めた、老人の独り言とおかんがえください。

大羊さん

Sekko · 2007-05-18 17:15:53 UTC+9 · 投稿 #139

>でも、ここまで、無私に徹して、神に、人に尽くせる人の心理、気持ちに対しては敬意は持ちますが、「どうしてそこまでできるの?」と思ってしまいます。考えれば、考えるほど私は俗人中の俗人です。こんな私でも、キリスト教的、カトリック的には赦されるのでしょうか?果たしてそのメンタリティを理解することができるのか?なんだか、お話を伺うと自信がなくなってきます・・。

っておっしゃいますが、それこそ、「何々できる人が共同体に入れてもらえる」というメリット(資格という意味で)の問題じゃないんですよ。そうしないと偽善者の集団になってしまいます。でも、利他を頭の隅においとけば、他人への怒りがおさまった時とかに、そこはかとなく自責の念が湧いてくると思うので、そのことで、次の怒りの時に少し陰影が出てくるかもしれない。「自分中心主義」の絶対王政の中に、反対勢力も敢えて温存しとくのは、危機管理としてある種のセーフティネットを用意するためにはいいことですよ。
特に子供には、家族や「お母さん仲間」や先生などとは別にまったく無償で時間を割いてくれるカテキストのおばさんなどが存在しているということを見せるということはすごく貴重だと思います。そうでもしないと、いまどき無償でやさしくしてくれるなんて、それこそカルトの勧誘かと疑ってしまいますから。
どの国でも教会に行くのは女性が多いですね。日本の場合は、男性は、親の宗派で葬式を出して位牌を守って、というような縛りがあるので、キリスト教の家に生まれなければ、成人洗礼は社会的にも心理的にもブレーキがかかるのでしょう。女性はミッションスクールに通って影響を受け洗礼を受けるという「おじょう様カルチャー」もあるので、そんな女性が結婚して、男の方は自分の親を看取り、引退してから、やっと、次は奥さんに自分が看取られたいということで、ようやく洗礼を受ける人もいるみたいです。リタイアして暇な分、教会の共同体という場を与えられて、いろいろ活動を始める人もいるようですね。
まあ、信仰というのは、基本的に「呼ばれる」「召される」ということで、迷われているということは、きっとイエスの方ではもうとっくに大羊さんを見つけて「同行」しているのかもしれません。
私は苦労が少ないせいか、この世で親切な同行者たちにめぐまれてるせいか、「あの方に同行して欲しい」とか切実に思ったことがありません。もし、刑場に向かうとか、激痛で断末魔のとこにいるとかいうシーンになったら、その私より相対的に弱そうな人はもう手近に見つからないと思うんで、その時は、その時こそは、受難のイエスに寄り添ってあげたいですね。一人じゃないってことで慰めてあげたいです。元気に生きてるときはセーフティネットを張っとく、でもそれが敗れたらあっさりあきらめる、で、奈落の底で、手足に釘を刺されて「渇く」と言ってるイエスに、私がそばにいてあげるからね、と言って一緒に苦しむ。そいで、私の方が死んで、イエスもお花畑も視界から消えても、まあ、そんなもんだと思って、「下界?」で私に祈ってる人や私を愛してくれた人たちに何かできないか考えますよ。「だめもと」です。

同伴者イエス

迷える大羊 · 2007-05-18 00:33:03 UTC+9 · 投稿 #138

naoさん、いつも御丁寧にありがとうございます。

>彼が刑場に向かうときにそばにいた人が「ここからはあの方が同行されます」といいます。この小説の一番すごいせりふです。私はこの言葉とともに、生きられることがキリスト教の最大のメリツトだとおもつています

いわゆる「同伴者イエス」という考え方でしょうか?私は個人的にいろいろなキリスト教の本に当たりましたが、遠藤氏のこの感覚、信仰のあり方が一番理解しやすいものでした。一人になっても、あの世へいっても常に側にいてくれ、話しかけることができる相手がいる、というのは人の精神安定にとても大きく寄与するかもしれない、と考えることはあります。
蛇足ですが個人的にメンタルな面でのキリスト教解説書でいいな、と思ったのは遠藤周作氏の「私にとって神とは?」(光文社)と日本基督教団の牧師で同志社大の付属高校で聖書科教諭の富田正樹氏の著作「信じる気持ち」(日本基督教団出版局)ですね。

>キリストに恋するというんでしょうか?

恋、で思い出しましたが、諸外国の場合はどうなのか、存じませんが、日本のキリスト教会の場合、女性比率がとても高いことに驚きます。単に私の気のせいではなく、カトリック中央評議会の統計をみても信徒の男女比は4:6。女性の方が多いんですよね。ネット上の知人であるお坊さんの話によれば、お寺には女性はあまり来ないとのこと。どうして、キリスト教は女性が多いのか、改めて不思議に感じます。

>自分も人に癪にさわる人間かもしれず、その償いに、なにかできるなんて、幸せなことだとおもつているんです

立派だとは思いますが、自分がそんな心境に本当になるものなのか、とても想像がつきません。実は私、短気、というのとは違いますし、普段は怒ることがないのですが、一度「この野郎」と思うとかなり熱くなるタイプでして、徹底的に怒り、ケンカするタイプです。周囲はびっくりしますし、あまりいいことではないのでしょうが、怒るときは徹底的に怒らないと、ストレス溜まってつらいです。まして、そんな相手の為にどうこうなんて絶対に考えないタイプ。そんな自分ですから、上のような心境が実感としてわからないのです(多少反省はしますが)。やっぱり、キリスト教に向いていないのかなぁ、なんて考えてしまいます。

>「愛することだけ」

月並みですけど、結局のところこれに尽きるんですよね。でも、これがある意味では、一番難しかったりして、と思ってしまうのですが(身内だけなら簡単ですけどね)。

うーん

迷える大羊 · 2007-05-17 23:42:34 UTC+9 · 投稿 #137

SEKKOさん、いつも、御丁寧にありがとうございます。

>とにかく、自分のメリットとか、自分の生きがいとか、自分探しとか、自己実現とか、自分の幸せとか、「自分の何々=自分教」の世界から解放してもらえること

つまり、意識を自分中心の狭い視野から開放され、他人や広く人間全体に向けることができるようになるということなのですね?でも、私にできるのか?なんだかとても難しく感じます。
やっぱり私は自分が一番かわいくて関心があります。自分を救う、安定させることで手一杯なのに、他人のことなんて、とつい考えてしまう私は俗人中の俗人、罪な存在としかいいようがないし、信仰を持った場合、現実の自己中心な自分と信仰上の教えとのあまりのギャップに却って悩まされそうな気がします。

>年収とか偏差値とか、数で表されるものばかりです。そんな世界で、なんか、方向が全然違う、「自分は他の人のためにいる」みたいなことをどこかで誰かが声に出して言ってくれること

アメリカのハードボイルド小説のセリフに「強くなくては生きていけない、優しくなくては生きている資格がない」といったものがありますが、信仰とはこの「資格」の部分なのでしょうか。これは分かる気がします。いかに稼いだかだとか、勝ち組入りしたとかしないとかで決まる世の中なんて、考えただけで息苦しい。そんなものと無縁の世界が一つくらいなくては、世の中、本当に殺伐とするばかりだと思います。

>組織の中の権力の誘惑というのはどこでも大きいでしょうが、子供とかいないと少なくとも子孫に権力を残すという誘惑はないでしょうし

それは、なるほど、と思います。例えばローマ教皇が家族を持ち、その地位が北朝鮮のごとく世襲制だったりしたらなんて思うとぞっとしますし、それでは必ず、腐敗、公私混同が発生し、信徒の信頼も得られないでしょうしね。カトリックのように上下関係がはっきりし、組織も大きい教団はこれくらいのケジメが必要なのかな?と思いました。

でも、ここまで、無私に徹して、神に、人に尽くせる人の心理、気持ちに対しては敬意は持ちますが、「どうしてそこまでできるの?」と思ってしまいます。考えれば、考えるほど私は俗人中の俗人です。こんな私でも、キリスト教的、カトリック的には赦されるのでしょうか?果たしてそのメンタリティを理解することができるのか?なんだか、お話を伺うと自信がなくなってきます・・。

愛するということ

nao · 2007-05-17 09:41:39 UTC+9 · 投稿 #136

大羊さんの質問は本当に皆がお返事しなければならない、大切なことだとおもいました。私は竹下先生のように、知的に問題をうまく整理できませんので、思いのままにかかせていただきます。遠藤周作先生の「侍」という小説ご存知でしょうか?支倉常長がローマからかえつたとき、日本はキリスト教弾圧のさなかで、彼は最後に処刑されることになつてしまいました。彼が刑場に向かうときにそばにいた人が「ここからはあの方が同行されます」といいます。この小説の一番すごいせりふです。私はこの言葉とともに、生きられることがキリスト教の最大のメリツトだとおもつています。夫を焼き場の扉が閉まるまでみおくらねばならなかつたとき、私はやはり夫にこの声をかけました。この言葉に慰めをえられるのは、信仰なくして無理なことですね。私も人生の終わりに近い年齢になつて、自分がお棺の中にいる姿を想像することがあります。しかし「あの方が一緒におられる」とおもうと、恐怖がさつてゆきます。信仰というのは「愛する」ということに尽きます。お子様がおできになるとき、「子どもつて、こんなに可愛いんか」とおどろかれることでしょう。これつて、理屈じゃないですよね。ただただ、可愛いんですよ。それと同じでただただ、キリストに恋するというんでしょうか?私は信仰から、はいつて、勉強はいくらしても結局、わからん(学生時代4年熱心に勉強しましたが・・)ということで、飛び込んでみよう、そうすれば、何かがはつきりする、とおもつたんです。それは予想たがわず、はいつてから、信仰は信念をつくり、人生を単純化し、「愛することだけ」かんがえていれば、よろしい、ととても楽になりました。愛する優先順位は竹下先生とのお付き合いで私も単純です。とにかく、身近にいるかたでこまつている人に手をさしのべる。そこにキリストがいる。そうおもつています。少々癪にさわる人にも、彼が弱い立場にいるとき、私は感情を流しその人のためにいうごくことができるようになりました。いつの間にか、「愛」が先行する人生がつくられていつたわけです。信仰がなければ、癪にさわる奴なんて、許せん!といつておればすみますが、自分も人に癪にさわる人間かもしれず、その償いに、なにかできるなんて、幸せなことだとおもつているんです。キリストが一番惨めな姿でなくなつたことはおおきいです。だれもあんな苦しみにはたえられません。すべての苦しみを凝縮させて、人間を救う神つて、他にはみあたりませんよね。私は夫の介護、自分の病気で随分おおくの方の情けをうけました。このときも自分ができることは「この善意の人のために祈る」ということだけでした。それで、「申し訳ない」から「きつとあなたに幸せがおとずれますように、いのつていますから、当てにしてね」ということができるようになりました。お相手もそえれがとても嬉しいようです。「申し訳ない」なんてばかり言われていると、たまりませんからね。それから、戦うべきときには、かなり勇気がでてくるというメリツトがあります。夫の介護中、随分施設の方と、やりあいました。けんか嫌いの私にも「愛する」ということのためにはこんな勇気がでるんか!!とびつくりしました。これもキリストの勇気を感じてきたからでしょうか?竹下先生のおことばのように、信仰はあれか、これかという対立をこえた世界に目がひらかれてくるという、すごいお恵みだとおもいます。こういう世界にひらかれてゆくのは、一定の「儀式」なしには危険なんです。やみくもに無意識界に参入すれば、カルト的にもなりますし、病人にもなる可能性がでてきます。シャーマンが厳しいイニシエーションをへなければ、できないように、洗礼という扉を通ることがひつようなのです。それだからこそ、「神体験」の世界が理性を破壊せずかえつて、するどくさせるのだとおもいます。信仰の世界は広大です。これなくして、見られない世界の広さは人生をたしかに豊かにしてくれることでしょう。献金はまつたく自由にされています。身分におおじていればいいのです。その強制力もどの教会をえらぶかの指針となるかもしれません。あれこれ書きました。老婆の強みは長い人生をどう生きたかおしらせできることですね。少しはお役にたちましたら、幸いです。

メリットについて

Sekko · 2007-05-17 03:18:41 UTC+9 · 投稿 #135

この質問はある意味新鮮でした。別に不謹慎とか思いません。すごく本質的だと、私には思えます。「私にはこういうメリットがあったとかいうお答えもあるかもしれません。でも、私の考えていることを言ってしまいますと、いわゆるメリットはありません。というか、メリットとデメリットでものごとを選択するという当然の処世術や世界と違う世界を見られるというのが、メリットと言えば言えるかもしれません。私たちの世界には、努力すれば報われるとか、強いものが勝つとか、消費した時間や労力には対価があるとかいうのが普通です。でも、信仰の世界には、そういうギヴアンドテイクの物差しはないということ自体が、私たちを別の形で、生かせてくれます。
イエスは、祝福されて神の国にいける義人とは、洗礼を受けた人だとか、献金した人だとか言ってません。飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませ、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねた人だと言っています。最も小さいもの、弱者にしたことがイエスにしたことだと言っています。フランスで8歳の子を対象にしたカテキズムの最初の時間に出た時、担当神父は、「ここで教えるのは、キリスト教的生活とは、他者の生活をより快適にするように努力することだということです」と言いました。私はこれがとても気に入りました。もしみんながこう努力すれば、搾取も戦争もないと思ったからです。そして、宗教の名に値するものは、こういう利他のメッセージを必ず含んでいるはずだと思いました。キリスト教は、全知全能の神の他に、人間として最悪の殺され方をしたイエスを救世主とします。渇いて、裸で、死にました。33歳で磔にされて窒息死するより、80歳で弟子に囲まれて大往生した仏陀の人生の方が、多分、だれでも好むかと思います。でもこの過激さが、「最も弱い人に寄り添う」というキリスト教の根本を作っているのでしょう。
現実には、とりあえず、自分の身の回りで自分よりも困っている人とか、自分よりも弱い人のために、自分の相対的に強い部分を差し出してお手伝いします。絶対的強者とか弱者はいなくて、だれでも病気や老いや自己や障害で弱くなったり、また元気になったりとかします。たとえば、子が小さい時は強い親が助けて守り、子が大きく強くなって親が老いて弱くなれば子が親を助けて守る。恩返しとか義理とか、誰は誰に何々すべしという固定的なものではなく、生きているその時点で、自分より弱いほうをアシストするということです。これに最近、「強い立場の者と弱い立場の者の利害が対立した時は、強い立場の方が譲歩すべきである」というのを私は付け加えました。結構難しいです。でも、迷った時はこれらの原則に従うことにしています。
これさえ守れば、キリスト教的人生です。それと、共同体の一員として期待される振る舞いをするというのはまた別ですが。メリットと言えば、昔は自分を犠牲にして何かに仕えてきた人も目についたでしょうが、今は、みな自分の損得を考えて生きています。価値観も、年収とか偏差値とか、数で表されるものばかりです。そんな世界で、なんか、方向が全然違う、「自分は他の人のためにいる」みたいなことをどこかで誰かが声に出して言ってくれること自体が貴重だと思います。これからご結婚ということで、人生の中で幸せと力にあふれていらっしゃる大羊さんには多分ぴんと来ないかもしれませんが、人は自分では自分を幸せにできないように思います。できるのは欲求充足で、それももちろんできないことだってあるし、欲求が次から次へと湧いてくることもあります。でも、人を幸せにするのは比較的楽です。笑顔とか、優しい言葉とか、仏教でもこれらは金と関係ない布施とされています。大羊さんも、フィアンセの方が、笑顔で優しいことを言ってくれるのが、どんなプレゼントよりも嬉しいでしょう?
私の若い頃は、結婚しても家事を分担するとか、何でも平等にというカップルがたくさんいました。そんな中で、その公平感が仕事や育児などで崩れたら、女性が「損をしている」と思ったり、結婚にメリットがなかったとか言い出したりするのです。その時々に、より疲れていない余力のある方が、寄り疲れている人をフォローしカバーし、助けるだけでいいのに。
とにかく、自分のメリットとか、自分の生きがいとか、自分探しとか、自己実現とか、自分の幸せとか、「自分の何々=自分教」の世界から解放してもらえること、自分よりも他者が大切ということがこの世にあるんだということを忘れないためにこそ、宗教はいいなあと思います。その時に、カトリックのシスターや、司祭さんたちが独身誓願してるってことは、私のような俗人には、彼らがまず他者のことを考えて自分を犠牲にしているというシンボルに見えて、信頼感をそそります。家庭を持ってる人には責任というものが出てくるし、家族が自分のエゴの拡張になることもあるし、一人なら自分の時間を100%捧げるということで、「時間を捧げてこそ愛」みたいな実感もあるので。いくら奇麗事をいっても、誰かがその人を必要にしている時に、「ちょっと待って、忙しいから」と言うのは、寄り添うことになりません。今、この質問を見て、やることをすべて放り出してすぐにレスを書いてるのも、私なりの「キリスト教的生き方」であるのはいうまでもありません。
組織の中の権力の誘惑というのはどこでも大きいでしょうが、子供とかいないと少なくとも子孫に権力を残すという誘惑はないでしょうし、服従とか清貧とか誓ってる修道者もすごいなあと思います。もちろん、聖職者が天使だというわけじゃないし、いろんな人やいろんな状況やいろんな歴史があるでしょうが、私にとっての今のカトリック観の基礎はこんな感じですね。実際、私の日本のカトリックの知り合いの方たちはすてきな人が多くて、それも信頼の根拠ですね。やっぱり、共同体って、一人一人の人間の魅力も必要ですし。取りとめなくなりましたが、一応返事に代えます。他の方のご意見も歓迎です。

信仰を持つメリット

迷える大羊 · 2007-05-17 00:27:46 UTC+9 · 投稿 #133

連続投稿失礼致します。私の背景は下の投稿を参考にしていただくとして。単刀直入にお尋ねしたいのですが、キリスト教、カトリックを信じるメリット、信じてよかったことは一体なんでしょう?
もちろん、キリスト教やカトリックが信じれば、お金儲かる、健康になる、災難から逃れられるなどの、いわゆる現世利益を目的にする宗教ではないことはわかりますし、そんなことはハナから期待していません。

キリスト教の場合、神道などの他の日本の伝統宗教と違い、教義を理解し、信仰を告白し、洗礼を受け、教会員として礼拝、ミサへの参加、奉仕、献金を主体的に行わなければなりませんよね。そこまで自覚的な行動を要求されるからには、それにみあった何かメリットが欲しい(しつこいようですがストレートな現世利益ではなく)、とつい考えてしまいます不謹慎ですかね?

生きがいでしょうか?そうだとして、それは仕事や趣味で得られるそれとはどう違うものなのでしょうか?皆さんの経験、御意見をお聞かせいただければ幸いです。

LET IT BE

迷える大羊 · 2007-05-12 22:27:02 UTC+9 · 投稿 #132

カトリック関係のサイトなら、是非、話題にしてみたいことがありました。実は私、ビートルズ好きなのですが、彼らのラストシングル「LET IT BE」って今にして思うと、讃美歌、それもカトリックの賛美歌みたいだなぁ、と思うことしきりです。「悩んでいると母マリアが現れて、知恵の言葉をささやくのさ、なすがままに・・」だなんて、カトリック教会のミサで流れても違和感のない曲です。

この曲の実質的な作曲者はポール・マッカートニーですが、名前からしてアイルランド系っぽいし、アイルランドはカトリック国ですもんね。調べるとポール本人はどうかわかりませんが、彼の母はメアリーで、熱心なカトリック信徒でした。父親のジムはあまり熱心でない英国国教会信徒だそうです。多分、母親の名と聖母マリアをひっかけた歌詞なんでしょうね。ついでにいうと、ビートルズの主要メンバーで、なおかつ曲を作っていた、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは教会のパーティで出会ったそうですが、どこの教派の教会だったんだろう?と興味が膨らみます。

あと、「愛こそはすべて」だとか「イマジン」だとかいかにもクリスチャン的な感じのする曲だし、「キリスト教なんて関係ない」という顔をしている彼らも、なんだかんだいってもキリスト教圏の人間なのだな、と思いました。ロックミュージシャンというと福音系のペンテコステ(プレスリー、パット・ブーン、ガンズ・アンド・ローゼスのアクセル・ローズ)が多いのですが、カトリックからもビートルズという大物を排出し面目躍如といったところでしょうか。

フランスでも

迷える大羊 · 2007-05-12 09:34:44 UTC+9 · 投稿 #131

福音派は若者が多いんですね。私はその考え方に馴染めず、離れましたが、すべてがイヤなのか、というとそんなことはなくて、先ほども書きましたが、新参者に対する対応ですとか、聖職者と信徒間のコミュニケーションなどは伝統的教会より熱心で上手ですよね。

仮に孤独感や挫折感に悩んでいる、落ち込んでいる若者がいたとして、訪ねても黙って放っておかれ、聖職者は遠くから仰ぎみるだけって感じの教会と積極的に迎え入れ、話を聞いてくれる教会があれば、どちらに安心感、居心地のよさを覚えるかって問題ですよね。少々おかしなことをいっていても居心地が良さそうなところ、楽しそうなところに流れるのではないかなぁ、って気がします。

もちろん、これには個人差があって、私なんかはちょっと様子をみにきただけなのに、あれこれ聞かれたり、礼拝の最中に紹介されたりなんかするのは煩わしいですし、変に熱いのも、なんだかうっとおしく感じるタイプです。

あとカトリックの場合、教会一つあたりの信者数がとにかく多いので、一人一人いちいち相手にしていられないって問題もあるでしょう。カトリックや伝統的教会で聖職者とじっくり話そうとすると、ある程度厚かましさが必要だな、と感じました。フランスの場合は存じませんが。

>清濁、合理、神秘を併せ呑む

そうですね、それがカトリックの魅力ですね。ラテン語OKのベネディクト16世とロック・ミサ神父のコラボレーションですか?みてみたいものですね~。そういうカトリックの層の厚さ、幅の広さみたいな長所が日本でも広く一般に知られるといいですね。私自身、キリスト教に関わる以前は、カトリック?旧教だろ?なんか自殺すると村八分に遭う、恐ろしく保守的な教団だろ?みたいなイメージというか偏見ありましたから。

>「ジーザスキャンプ」

これもみてみたい。怖いものみたさ、っていうかなんというか(笑)。しかし、今のアメリカはこの手のクリスチャンが結構な勢力があるみたいで、笑うに笑えない状況らしいですね。

>独身制

なんだか批判がましく聞えることを述べてしまいましたが、聖職者の独身制は広く宗教全体を見渡せば普通の考え方なのかもしれませんね。プロテスタントの牧師は建前の上では聖職者ではなく、あくまで「信徒代表」だから妻帯OKなんですよね?確か。

仏教も本来、僧侶、聖職者は独身でなければならないはずですけどね。明治になって政府より、僧侶も妻帯して良い、となると皆こぞって結婚しちゃったけど、教義の上で結婚OKなのは確か浄土真宗だけであるはずです。
カトリックの第二バチカン公会議みたいなことをやってこれからは結婚してもいい、という教義を打ち立てたならわかりますが、なし崩しに「お上がいいっていってるもん」てな感じで結婚OKになっちゃうのはいかにも日本的と思うのは私だけでしょうか?

独身だと孤独感がだとか、異性欲などの煩悩をどう克服する、なんて低次元な発想をしてしまう私は俗人中の俗人、信仰というものがわからない、宗教に向いていない人間なのかな、と己の「罪深さ」をちょっぴり反省してしまいました。

子どもの洗礼

nao · 2007-05-12 09:24:31 UTC+9 · 投稿 #130

大羊さん お返事頂きありがとうございました。まだキリスト教模索中でいらつしゃるんですね。お相手のかたが遠藤周作をお読みになるときいて、少し安心しました。遠藤先生が「沈黙」を発表されたときのカトリツクの反発すごかつたですものね。それが、いつのまにか、皆わかるようになつて・・遠藤先生はそれをよく口にしておられました。(少し関わりがありましたので)。福音派についてはよく知りませんので、聖書を物理的にもその通り・・と解釈するのだとすると、これはやつかいなことになりますね。カトリツクは「・・と・・」の宗教で、プロテスタントは「・・のみ」の宗教だといわれてますね。カトリツクは聖人信仰など、多神教にも通じるものをいれこんでいますし、聖書のみでなく、聖書外伝もつかいます。だからふくれあがつて、肥えてしまつて、『マリア信仰』にのめりこんだりする人もでてきます。だから、保守的なヴアテイカンが必要なんでしょうね。プロテスタントは「聖書のみ」で派がおおすぎて、牧師の数だけ、解釈がことなるといいますから、これも大変ですね。日本人の場合、ご縁でどちらかになるようです。私はカトリツク教会しかしらなかつたので、そうなつたんですですが。
子どもの洗礼はその後、思わぬご縁をうむことになりました。娘がカトリツクの方と結婚して、その子ども達3人もカトリツクになり、意外な展開におどろきました。息子もカトリツク式の結婚式をしました。お相手はプロテスタントの大学出身。息子は教会からはすつかりはなれましたが、結婚式で神父さんから、3回講義をきき、その神父さんの話では基本的なことは全部わかつてますよ・・ということでした。息子の子どもがまたプロテスタントの高校にいつていますが、宗教間のややこしさはなにもありません。基本的に彼らはキリスト教的教養だけはあるといつたことでしょう。次の世代はまたどうなりますか、何代か先が楽しみですね。私の霊名はレジナ・マリアです。モニカとおもつてくださつたのは母性を感じていただいたのかも・・それならうれしいですね。大羊さんの悩みは皆考えるべき大事なことだとおもいます。あれこれかいているなかで、何かにご自分の方向性の参考になるものがあれば、幸いです。どのような方向にゆかれるか、これからも発信してくださいね。
竹下先生の知性は幅広く、しつかりした指針があたえられますので、竹下先生なしには、私も生活できない点が多いです。ありがたい先生ですね。フランスにおられるので、ヨーロツパの状況もおしえていただけて、すごく頼りになります。ああ・・そういう方のおられるということも、方向の指針になりますね。ようするに、ひとがどのようにそだつているかということで、自分の所属をきめる。これもいいですね。私は大好きな神父さんが、人生をかけておられたので、カトリツクになりました。いまも大好きなベルギー人の神父さんがいて、この方のような生きた信仰を持ちたいとねがつています。おおくの素敵なカトリツクの友人も支えになつています。おおらかで、芯が強い、そういう友人がつくれそうかどうか、よくお考えくださいね。