2007年の投稿

ジーザス・キャンプ

Sekko · 2007-06-19 23:48:58 UTC+9 · 投稿 #180

福音派(ここではペンテコスタ教会)の主催する子供の休暇村のドキュメンタリー映画『ジーザス・キャンプ』、日本でも見れますか? それによるとアメリカ人の8千万人が福音派かそのシンパだというのです。地球の人口の3分の1は15歳以下だそうで、彼らを戦士にするのが宗教の使命だというようなことを言ってまして、委員長タイプの女の子が胎児の模型とかを握り締めて涙を流して中絶反対とか叫んでるんです。自分たちの「罪」の改悛に対しても涙また涙です。
あんまりすごいんで、いじめの問題などに直面してる教師とかが、この福音派の女性牧師ほどの演出力や演技力や使命感があればいじめっ子を完璧に改心させられるだろうにとか思ってしまいました。
7歳から9歳の間に刷り込んだイデオロギーは一生残ると言ってました。学校教育を受けないですべて家庭教育という子供が少なからずいて、その75%は福音派だそうです。学校で子供にあんたは動物だ、自然の存在だといわれるより、神に創られた神の子だと言ってあげたいというのです。子供にこそ多様性を呈示すべきなんだし、複数の違ったレベルのディスクールも伝達できると思うんですが。「あんなとこに子供を入れる親が悪い」と思います。中絶にしても、私は女性の選択優先派で、しかしB16が中絶反対というのはOKという立場なんで、結構いろんな人と議論になります。

連帯のフランスでも

Fusako · 2007-06-19 21:34:13 UTC+9 · 投稿 #179

そうなんですか。だとしたら、アメリカ人なんてそういう新約の教訓にもっと反発しそうなものですが、狂信的なプロテスタンティズムはむしろアメリカにあるということが興味深いです。

そうですね

Sekko · 2007-06-19 19:40:33 UTC+9 · 投稿 #178

大体そうです。というより、フランス人は、日本人なら違った反応をするんじゃないかとむしろ期待するんですが、フランス人も日本人も、同一労働の同一賃金とか、たくさん働いてたくさん稼ぐ、というような近代資本主義の労働観がきっちり刷りこまれているんで、同じです。こういう話では、たいていインド人が、そういう刷り込みとは別の宗教観を維持しているみたいなので、インド人の意見を聞きたいですね。

竹下さんにおたずね

Fusako · 2007-06-18 21:56:08 UTC+9 · 投稿 #177

「猫のコーナー」にお書きになっている、不当感を持つ三つの寓話、それは、わたしがやはり若い頃に納得できなくて、今は深く納得するものです。で、これについての田川さんの説をご紹介いただきましたが、日本人だけでなく、フランス人もやはり似た反応をするのですか?

反省無用じゃないですか。

nao · 2007-06-16 10:09:18 UTC+9 · 投稿 #176

投稿を控えられるとおききして、さびしい思いをしております。「不快な点が多々あつたのでは」なんて、誰もおもつていませんよ。きつと。大羊さんの問題は信者自身の問題なんです。みな「言葉」がたりないんです。竹下先生、流れ着いた梅さんには本当に敬意を表します。あんとに庵さんにも。これを見ている多くのかたは発言したくても、言葉に窮するのだとおもいます。

先日「仏教とキリスト教の接点」本多正昭著、行路社、を著者からいただきました。本多先生は師にして畏友。先生は高校の先生をやめて、九大の哲学科に入学、求道生活の末ゆきついたのが、カトリツクでした。すべてをすてて、ドミニコ会にはいり、マニラで神学研究。西洋神学に凄い違和感を感じ、心身症に。ドミニコ会をやめて、帰国。大学の先生になり、仏哲中山延二博士に出会い、仏教の「即」の論理に目覚め、以後キリスト教改心の言葉の表現は「即」をもつてしかできないと考え、それをいろんな論文でかいてこられました。
これはむつかしいのですが、神と人間の関係を表現するのに、ピツタリの言葉をもつています。

ながくなりますので、省きまして、最後にいかに改心の言語化がむつかしいか、この本に紹介されていたハンド神父という方(日本で禅を修めアメリカで禅指導されたかたでつい2年ほど前になくなられました)の言葉をおつたえいたしましょう。これが結論になつています。
ハンド神父の声
1、キリスト者にとつて本質的な特徴は、イエスの神体験に参入すること、イエスを通して神に参入することである。

2、しかし、イエスの神体験に関する教会的表現は、ユダヤ、ギリシャ・ローマなどに特有な知的枠組みによつておこなわれてきている。

3、とりわけ教会史最初の五世紀の間に入念に練り上げられたニケア公会議による信仰箇条は、明らかにキリスト体験の西洋的な表現なのであり、これがそのまま東洋に、したがつて日本にも伝道されてきた。

4、しかしそうした中でも、非西欧的・とくに東洋的伝統の枠組みで表現されてきたキリスト体験を、改めて創造的に再表現するという試みは、最近、やつとごく少数のクリスチアンによつて敢行されはじめたばかりである。

5、アジアの司教団が、初めてこの新しい方向付けの必要性を公言したのは、つい1998(平成10年)4月のアジア・シノドスにおいてであつた。
非西欧の伝統に潜む神の声を、神学的に再構築してゆくという重大な課題は、21世期がとりくむべきキリスト教の重大な使命として受け継げられているのである。

以上です。いかに信仰の言語化がむつかしいか、とくに日本でそれがむつかしいか、おわかりいただけるのではないでしょうか。そんなとき、竹下先生が現教皇の枢機卿時代の信仰問答を訳しておられ、大羊さんにとてもいい、とメールくださいました。ハンド神父とはまたちがつて、西欧知性のはつきりした回答ですが、素晴らしい訳文にできあがりつつあります。まもなく紹介していただけるものと、期待しております・

大羊さん、彼女とうまくいつてるようで、なによりです。お二人の愛情こそ、イエス理解の鍵をにぎつているはずです。神こそ、愛なんですから。どうか、いい愛情をはぐくんでいつてくださいますように。信者になるかならないかは生涯にわたつて、お考えになればいいことで、あせる必要はいつさいないとおもいます。いまは大いに楽しんでいただき、またなんでもぶつけてきてくださいますよう、ねがつております。

まずは反省します

迷える大羊 · 2007-06-11 23:20:18 UTC+9 · 投稿 #175

>そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。

これは、イヤミに聞えますね、我ながら。素直に以後気をつけ、反省します。もちろん、自分が聖書読んでる、エラいのだ、といっているつもりなどないし、思っているわけでもありません。おっしゃるとおり、頭でっかちで、宗教オタクぽくなってしまっている自分をやや自嘲気味にいってみた意味もあるのですよ・・。いや、実は彼女にもそのようなこと言われたことあります。でも、一方で今まで宗教に縁がなかった人間は理屈で理解する以外ないし、「それは理屈じゃないの!」って切られてしまうと、もう何もいえないし、困ったところです。

彼女と付き合いだした当初、正直、なんでこんなこと素直に信じられるんだ~?とも思いましたし、教会の独特なムードに最初は大変緊張したものでした。彼女と宗教の話をする際はそれなりに慎重を期しているつもりではあるけれど、たまにそういう話になると、「なんでこんなことで怒られるのだ?」といった戸惑いもたくさんありました。傷つかないように、というのも十分、分かるのですが、一体、何に気をつければ良いのだろう?という戸惑いもありますし、宗教やら信仰やらに対する反発(つまり、変なことを変といって何が悪い、とか、焼香しないとか、神社行かないって何事よ、何でそんなことに気を遣わなきゃならないんだ??神が人を作ったって、じゃあどこの神?天照大神かい?等など・・)がない、というとウソになります。
一方で私は無神論者ではないし、イエスに対する敬意はあるし(本当ですよ!)、理解してみようという気持ちがないわけではないし、遠藤周作氏の著作のような、理解しやすい信仰のあり方もある。そう思って教会もいろいろいってはみたし、聖書読解も自分なりにトライしてみましたが、でも、その「信じる気持ち」というか、その思考様式はやっぱりよくわからないところが多いです。

そしてそのわからないこと、彼女にとても面と向かっていえない疑問をここでぶつけていた、というのが実情です。未信者なら当然いだく疑問だと自負してはいたのですが、不快な点が多々あったのであれば、素直にお詫び申し上げます。
それも「信仰心」に対する無知ゆえのものです。

最近は彼女も私にクリスチャンになってもらいたい、みたいなことは言わなくなりましたし、私もなんとなく、信仰を持つ人間に対する付き合い方の要領みたいなものを呑みこんできたところがありまして、うまくいっております。
やはり、宗教と政治の話は慎重に行うべきですね・・・。当分、発言、投稿は自粛することにいたします。

ええと、またお邪魔してしまいます。

流れついた梅 · 2007-06-11 13:41:27 UTC+9 · 投稿 #174

昔、私のいた共同体というのが「超教派」でして、福音派からペンテコステ、カトリックの聖霊派の方もいらしたところでした。ですから、大羊さまのお話拝見しておりますと、非常に思い出すところが多いなあ、と思いつつ拝見しています。

大羊さまの彼女である方を通じて、大羊さまは福音派をご覧になっていると存じますが、福音派がアメリカの多数派を占めたのは'80~'90年代くらいのことだと記憶しております。昨年か一昨年引退した、と聞いていますが、ビリー・グラハムという名前をお聞きになったことがありますか?こういったテレビ説教師の成功によって、福音派は今まで多数派を占めていたメインラインと呼ばれる各教派(会衆派、長老派、聖公会、ルーテルなど)から改宗者を得ています。
メインラインの教会の神学と福音派の神学が相容れないところからも、溝が出来たようです。
つまり、聖書を科学的に分析し、批評的な研究・解釈を支持するあまり、処女懐胎やイエズスの神性の否定に至る、そこまで行ってはや宗教性をも失ってしまった自由主義神学への反動として、聖書の一字一句をそのままに受け取るというファンダメンタルが生じてしまった、と。

個人的には、それぞれに行き過ぎたところを感じるところがあります。

>クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」
これは典型的な行き過ぎの一例でしょうね。カトリックでは信者個別の問題として、相談があるならのる、という感じだと思います。

>戦争行為などを正当化したがるクリスチャン
ブッシュ大統領のブレーンを見る限り、軍事産業の関係が多いのではないでしょうか?ブッシュがキリスト教の教えと繋げて、イラク派兵その他の話をしたなら別ですが、アメリカというのは、多民族・他宗教国家ですので、一概にそうは言えないのでは?また、クリスチャンの軍人や従軍司祭・牧師などもいるわけですが、それについてもブッシュ大統領のようにお考えになられますか?

>中絶問題
そもそもは十戒の『殺すなかれ』『姦淫するなかれ』からきているものではないでしょうか。故に「命はどこからはじまるか」という生命倫理の問題として考えている中での流れと解釈します。以下、ご参考ください。これはカトリックの公文書ですが。

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅 いのちの福音
http://www.japan-lifeissues.net/writers/doc/gol/gol_evangeliumvitae-ja1.html

プロテスタントの成り立ちについても、ルターの発表した「95箇条の論題」があくまでも神学的な問題として意見交換を呼びかけたものであるにも関わらず、当時の為政者に政治利用された側面は否めません。事実、ドイツはその後30年間の内戦状態となりました。
ルター派が国教となった北欧などは、そういった問題の発生が無かったようですが、次々と出来てくる教派と既存の教会との共存が困難だったことから、アメリカへの移住があったものと思われます。教派についてはそれぞれに在り方というのがありますが、非常に残念であるのは、プロテスタントの方々が初代教会からカトリックが積み上げてきたものを捨てることで、アイゼンティティを保っているように感じられることですね。
例えば、彼らが捨てていった教会美術、そして典礼。そもそも、欧州ではさほど識字率は高くなかった。羊皮紙本を筆写する時代には、聖書なんてものはなかなか一般人には入手が難しかったのです。そしてかさばります。教会や修道院は、図書館の役割を果していました。字の読めない人たちにも聖書の内容が分かるように、絵画やステンドグラスが作られ、また典礼において人々に分かりやすく伝えることもしていたわけです。

そういった時代の人々の信仰は、非常に素朴であったかと思います。
神学を修めるのは聖職者だけで良かった、みたいな。しかし「無知だった人々のもの」それだけで、その時代の人々がもっていた信仰を否定することは出来ないのでは?
さて、今は、情報に飢えることが考えられない恵まれた時代です。
世俗の者でも信者でなくても、神学オタクにはなれるんですが、単なる神学オタクと信者・聖職者との見分けは、知識云々ではなくどうしてもついてしまうものなのです。そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。
勿論、理性のない信仰は私もどうかと思うのですが、信者さんにとっては「自分と神だけの間の問題であること、そうしたいこと」も多いはずなので、そこはある程度は心やって下さいますと感謝いたします。信仰を持つきっかけについても、その人にとっては大切な部分であるところを論評の的にされてしまっては、大概の方は傷つかれるのではと思いますので。

まあ、私の指導司祭だった方は、「疑って、疑って、疑いなさい。疑う余地が無くなったら信じなさい」と仰ってました。あれこれこだわるタイプも、素直さが足りないタイプも大羊さまだけでは決してないのじゃないか、と思うので、これはお笑いまでに。

聖書の話2

迷える大羊 · 2007-06-10 10:14:37 UTC+9 · 投稿 #173

いつも、参考となるお話、ありがとうございます。

>要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除

私もそう思います。ところで、普通の人は聖書の「変だ」と思うところはそれなりに距離をおいて付き合っている、とのことでしたが、私の見聞の範囲ではどうもそうでない人も結構いらっしゃるようなので、あれこれツッコミを入れたくなるのですね。前にも触れましたが、私が最初に関わりをもったあるプロテスタント教会の牧師さんは、聖書の創造論を、信仰の上だけではなく、物理的にも信じているフシがあって、「進化論という唯物論、無神論をとるか?それとも神をとるか?」などといわれて、とてもついていけない、と思ったものですし、キリスト教会(もちろん教派によるが)の同性愛者、性的マイノリティへの極端な差別、嫌悪はこの旧約聖書の申命記の一節からきているのでは?と思うからです。(別に私もその手の趣味はないが)

今から15、6年前、クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」などという暴言を吐いたとか吐かないとかいうことで揉めた「府中青年の家」事件なんてトラブルも詳しくは知りませんが、あったようですし。
また、戦争行為などを正当化したがるクリスチャン(ブッシュ大統領みたいな)は旧約聖書の「目には目を・・」の部分を強調したがる気もします。要は聖書ってどうとにでも使える部分があるんじゃないかと。確かに貴重な書物には違いないのですが、あまり信じすぎるのもどうか、と思ったりするんですね。

その辺りの聖書への疑問が「聖書のみ」が信仰の対象となるプロテスタント、特に福音派教会への疑問となってしまったわけです。
ところで、私の彼女はその福音派なんですが、いいづらいですね、この辺の話。下で述べたような聖書のダークサイドの話をすると、上げ足をとっている、とかキリスト教をバカにしているみたいな風に思われちゃうみたいで。でも、そういう誤解に対しては「だって聖書にちゃんとそう書いてあるんだけど・・」というしかないですね。

あと、中絶問題はキリスト教関係者の重大関心事と思いますが、聖書に中絶問題について意見を表明している箇所ってありましたっけ?私自身は妊娠中絶に関しては、反対派も賛成派もどちらの言い分も分かる気がして、態度を決めかねる議論ですが。

と、まあ聖書についていろいろ能書きを垂れましたが、実のところ、今まで何人かのクリスチャンの方と話しをしてみましたが、意外と聖書なんて大して読んでない人多いなぁって感じもします。手前ミソで恐縮ですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」なんて思うことも多かったりします。

実際のところ、信仰生活において聖書の果たす役割って意外と小さいのでは?という気もします。私の知る限りでは、クリスチャンホームに生まれてそのまま信仰するようになったとか、身近な神父さん、牧師先生がいい人で、とか付き合いで、とか、もっと切実な、肉親の死(彼女の場合はこれ)だとか失業、だとかで神仏に頼りたくなった時期に出合ったのがたまたまキリスト教だったとか。
それらは教義とは関係ない、単なるきっかけの問題なのかもしれないですね。仏さんを信じる人が皆仏典を読んで、南無阿弥陀仏だとかの意味を正しく理解しているか、っていうとそんなことは全然ないし。

そう考えると、私みたいに妙にあれこれこだわるタイプって、素直さが足りないのかな?と思ったりもします。でも、納得いかないところはきちんと納得いくまで問い詰めないと気がすまないし、わけがわかんないのに信じる、という気持ちは私にはない、もうこれは性格だからどうしようもないですね、、我ながらカワイくない、と思いますが。

聖書の話

Sekko · 2007-06-06 20:38:16 UTC+9 · 投稿 #172

聖書の解釈って、古来、神学論議も哲学論議も個人の思弁もオカルト読解も山のようにあるんで、簡単には紹介できませんが、すごく単純にいうと、キリスト教はイエスは人間として生まれたのだから当然人間の特定の歴史と文化の文脈上の存在なのだから、旧約聖書でそれを明らかにするというスタンスだと思います。でも、イエスが生まれて死んで復活したからには、その前の出来事はもう無視、ではなく、成就したことになって、基本的にその後のことを制約しません。ユダヤーキリストーイスラムの三つの「アブラハム系一神教」ノうちユダヤ教徒イスラム教は戒律がありますが、キリスト教はユダヤの戒律宗教がキリストによる罪の購いで成就されたので、生活の全部を管理するいわゆる戒律はないんです。戒律を形として守るよりも、心の持ち方が大事だということになりました。逆に言えば、自分の行いを自分の良心に照らして絶えずチェックしなければなりません。でもそのおかげで、ローマ法の発達していた世界に広がることができたし、今もインカルチャレーションということで、ローカルな伝統と共存しやすいですね。ヨハネの福音書も普通は一種の象徴文学ということでスルーです。ネロンによるキリスト教迫害とか、執筆時の状況や危機感もあるでしょう。
キリスト教では20世紀前半に、聖書の非神話化という作業が盛り上がった時期があります。精神分析学的解釈というのもありました。今は一段落していますが、原理主義的になったり、恣意的になったり、目をそらしたり、いろんな段階や局面を経ていますから、普通の人は変だと思うところにはそれなりの距離をおいてつきあっているのでしょう。
では、ユダヤ教の人がどうやって破天荒な物語をありがたがっているのかというと、これも、一部の原理主義者は別として、今の普通のユダヤ人には、共同体のアイデンティティというか、帰属性を意識させてくれるよすがというところでしょうね。フランスのムスリムもみんなでラマダンの断食をすることで世界の仲間とつながっていると思うようです。理屈とかは別の連帯の次元でしょうね。
私は個人的には、戒律の多い共同体は苦手です。特に食べ物の戒律にうるさいところは苦手です。殺生が嫌で肉を食べない、というのはすごくリスペクタブルだと思うんですが、うろこのない魚がだめとか、ひづめがどうこうとかいうのは、要するに、分類できないはっきりしないものを差別、警戒してることで、そういうメンタリティは、他と外見が違うマイノリティの排除につながるんで嫌いなんです。また屠殺するときに動物の頭をこれこれの方向に向けてこれこれの祈りを唱えてからならOKというのも、御都合主義とは言えないまでも、そういうのは呪術の領域だよなあ、とか思ってしまいます。
まあ、普通の本でもいろんな読まれ方をするんですから、聖書と共に生きてますと言う人がみな同じ見解を持っているわけでも同じ接し方をしているわけでもないでしょう。また、聖書の言葉は、定義上、啓示であり、神の言葉なんですから、人間が「ここが変だ」と考えたり突っ込みを入れたりしたくなるのとは別のレベルの言説なんでしょう。ただ、これも定義上、神と人の間の一種の契約なんですから。双方向に通じるものがあってこそ意味を成すともいえます。契約に応じるという信仰のレベルに入らない限り、「わけの分からない本」であり続けるのかもしれませんね。「いまここで」分からなくてもノーマルなんでしょう。
良く、この世で罪のない赤ん坊が殺されたりするのは神も仏もいない証明だ。とか言う人もいますが、「罪のない赤ん坊が殺されるのが絶対悪である」という確信自体に私はむしろ神の可能性を感じます。聖書の中のある種の記述が「自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレード」と大羊さんが認識できるってこと自体、私は正義の存在を信じちゃいます。悪は、ある実体ではなく、いつも、人間のある選択の結果なんですよ。

聖書って・・・

迷える大羊 · 2007-06-06 00:16:47 UTC+9 · 投稿 #171

毎度、お世話になります。キリスト教に関する疑問って真面目に考えれば考えるほど出てくるのですが、実は聖書っていうのも私にとってはよくワケのわからない本だったりします。もちろん、いいメッセージがたくさんあることは十分に認めます。前にも述べた通り、イエスの倫理、道徳的な教えは時代を超えて不滅だと思うし、十戒など、人の守るべきルールをよくこれだけシンプルにまとめたものだ、と関心もします。まあ、そんな聖書きれいな部分は教会に行けばいくらでも聞かせてもらえるわけで、あえてここで触れる必要もないでしょう。

しかし、よくよく読んでみると(聖書を読むことは大変骨が折れる作業ですが)、それ以上にトンデモな話が多い文書だったりするんでびっくりします。特に旧約の部分。いやはや、すさまじい話の連続。サムエル、列王記、歴代誌など果てしない血みどろの内戦、スプラッターもどきのクーデターでいっぱい、それも加害者としての話の方が多かったりするし、申命記や民数記を読めば、親に反抗する子供、同性愛者は石投げて殺せ、とあるし、尾ひれとウロコのない魚、つまりタコやイカかな?は食べてはいかん、ともある。また、浮気を疑われた妻はゴミだかチリだかの入った水を飲み干さねばならないらしいんですね。

かつてオウム真理教の犯罪が世をにぎわせていた頃、評論家はこぞって「彼らの教義は殺人とテロを肯定する部分があって危険だ」などと語っていましたが、それいうなら、このユダヤ・キリスト教の教典は一体??。まさに自己中心的なテロ、虐殺、詐欺のオンパレードではないか、これを信仰している、というキリスト教徒、ユダヤ教徒は一体全体、何を信仰してるんだろう、この旧約の部分をどう考えているんだろう?、との疑問がわいてきます。

新約は旧約に比べると変な部分は少ないけれど、それでも、ヨハネ黙示録、というきわめつけのトンデモ文書があって聖書の最後を締めくくっています。なんだか話がぶっ飛んでいてわかりづらいんですが、最後の審判の間に神に捧げられるのは14万4千人の童貞の男たち、なんだそうで、思わず「はぁ?」と声に出してしまいました。独特の、あまりに逞しすぎる想像力、この聖書記者は、何か変なクスリでもやりながら書いたのでは??と疑りたくなる文書です。

なぜ、キリスト教はこんなとんでもない文書を聖典として残しておいたのでしょうか?キリスト教の歴史においていくらでも編集、改訂する機会はあったと思うのに。また、キリスト教関係の出版物を読むと「聖書とともに生きています」みたいな人が出てきますが、これらの人々はこういう聖書のダークな部分についてはどう考えているんでしょうか?私が読んで気づくくらいのことが、私など、比べ物にならないくらい聖書を読み込んでいる彼らが知らないはずはないと思うのですが・・・。

>確かに、戦後皇室をカトリックに改宗させるという陰謀

え、そんな陰謀本だとか、陰謀のウワサがあったんですか?初耳です。まあ、私個人は都市伝説の一種なんじゃないの、と思いますが。

私も歓迎します

Sekko · 2007-06-05 05:04:04 UTC+9 · 投稿 #170

私も天皇家は祭司の家系として貴重で、その意味でよく残ってくれたと思います。確かに明治の国家神道の創設で大変な役割を担わされましたが、たとえこの先いわゆる天皇制がなくなっても、日本の伝統的な祭祀の保存のために国が保護していくべき職能じゃないでしょうか。歴史の中で権力に結びついた宗教や芸能は時代と共に立場が変わっていきますが、フランスで1905年以前のすべての教会が国に没収された後でもカトリック教会が無償の店子として活動を続けているように、多様な社会の中で伝統的シンボルが生きているのはいいことだと思います。能でも観世宗家には文化庁から助成金がでているように、天皇家の祭祀はどんな形でも続けて欲しいです。でも今の時点では皇族には投票権がなかったり、微妙な立場なので、外から入ってくる女性などはますます困難が大きくなるでしょう。誰かが国や国民のため専心して祈り続けているというのは決して意味のないことではないと思います。
特に、日本の神道は、自然神や神話の神や家康など権力者が神に祀られているのを別としたら、「非業の死を遂げた人」の祟りを恐れて祀った霊が多いですね。荒御霊を鎮魂して守り神にしてしまうような。民間宗教としても、死んだ人=ホトケが、時間をかけてカミという習合守り神になっていくというイメージでした。仏教と習合してからは、死者は回向によって49日で仏になり、49年で集合的祖霊神に融合という感じです。
それでいうと、第2次大戦で非業の死を遂げた人たち(それは戦死者たちだけでなく戦災で死んだ民間人も先般で処刑された人もみんな)、もう49年を経ていて、昭和天皇と今の天皇が鎮魂を祈り続けたと思うので、みんなカミになってくれたかなあと思いたいです。天皇は戦犯の合祀問題などでさっさと靖国参拝を控えましたが、天皇の名の下に始まった戦争の被害者はいわゆる戦死者だけではないのだから、多分皇居ですべての人の鎮魂を続けてくれたのでしょう。こういう職務の家に嫁ぐからには、祈りとか宗教観の合う女性が大事ですよね。自己犠牲と利他を勧め、死者への敬意を大事にするなら何教でも通ずると思います。
確かに、戦後皇室をカトリックに改宗させるという陰謀があったという暴露本が去年出てましたよね。マッカーサーがアイルランド系でカトリック、吉田茂もカトリックということで、なんかそれらしいお話なのかもしれませんが、皇室がカトリックになっちゃったらそれこそ国家神道の元で非業の死を遂げた人たちが浮かばれないですよね。神道祭司としての存在理由も消えてしまう。あり得ないですよね。
現天皇陛下の家庭教師が絶対平和主義のクエーカー教徒だったというのは好感が持てますね。平和憲法を是非擁護して欲しいです。

横入り歓迎いたします

迷える大羊 · 2007-06-04 23:25:05 UTC+9 · 投稿 #169

流れ梅さん はじめまして。別に右翼だなんてちっとも思いませんよ。貴重な知識をお教えいただいてありがとうございます。「紫衣事件」のことはとんと知りませんでした。おっしゃる通り、本来の神道と国家神道は別ものだし、長い日本の歴史の中で、ここ百年くらいの天皇家のあり方の方がむしろ特殊なのはわかります。元々、西洋社会にキリスト教という宗教の核があることを見聞した明治の元勲たちが、日本にもキリスト教に対抗する、宗教、価値基準を持たねばならない、という発想で始まったものらしいですからね、国家神道って。

ところで美智子皇后、で思い出しましたが、日本の皇族を見て不思議に思うのは神道の祭祀の家のはずなのに、何故か神道系の学校の出身者がなぜか少なく、それどころか、ミッションスクールの出身者の方がむしろ深く入り込んでる感じがするところですね。美智子皇后はカトリック系の聖心女子大出身、雅子妃はこれまたカトリックの田園調布双葉学園出身、さらに現天皇陛下の家庭教師はエリザベス・バニング夫人、エスター・ローズ夫人でいずれもクウェーカーのクリスチャンだったりします。どうなってるんだろ、と思うのは私だけですかねぇ?
あと、上流階層、名門のお嬢様というとミッションスクールを思い浮かべるのはなぜだろう?とも思いました。日蓮女子学院だとか、阿弥陀女学校みたいな感じの仏教系学校は思い浮かべないですもんね、なぜか(笑)

横入り失礼致します。

流れ梅 · 2007-06-04 11:23:03 UTC+9 · 投稿 #168

Sekkoさま、迷える大羊さま>

ここ数日のログを拝見していて、一応、イエスタブーと言われているものと菊のタブーと言われているものは性質も由来も違いすぎるんじゃないかと思いました。ただ、こんなこと書いて右翼認定されても嫌で、書き込みを躊躇しておりました。ですので、以下の内容は右から左に受け流して頂けますと感謝しますし、今回のみでお邪魔をいたします。

皇室というのは、日本とくに日本神道の「祭祀権」を持つお家であるのだと解釈されると分かりやすいと思います。歴史のある仏教寺院の縁起を見ても皇室が関わりになっているところは多いです。天皇家が直接の為政者であったのは平安朝くらいまでのことです。あとは武家が「征夷大将軍」なる位を賜る形で統治をしていました。鎌倉が足利幕府になろうと、戦国の世を誰が平定しようと、そういう皇室のスタンスは変わってないわけです。江戸初期の「紫衣事件」(http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/sii-ziken.htm)みたいなことはありましたが。

そのスタンスが変質をしてしまったのは、「明治維新」と呼ばれる、薩長土肥の徳川幕府に対するクーデターがきっかけでしょうか。彼らは「官軍」になるために『天皇の権威』を有効に利用したと思います。大政奉還も、江戸城無血開城も、「賊軍」に成り下がった側がそれを理解してのことでしょう。ただその後にこれまでの日本神道のあり方を変えて、政治的なイデオロギーのために使ったこと、また廃仏毀釈などを行い、他の宗教と皇室を徹底的に分離したことは、間違いだったのではないかな、と個人的には思います。
というのは、神社神道側の人たちは決して「戦前の国家神道を神道のあり方と考えてない」ようなのです。聞くところ、明治政府があれこれと神道の祭祀に干渉をしてきたそうで、そのために出来なくなってしまっていた祭祀があったそうです。戦後、その出来なくなっていた祭祀が復活したそうでして、つまりは神社神道すら厳しい統制下にあったことには変わりが無かったということなんです。キリスト教ほどに酷い弾圧は受けなかったじゃないか、と怒られればそれまでなんですけど。長い時間かかってるかも知れませんが、現状として神社神道は<全体としては>元の形に戻りつつあると考えてよろしいかと思います。
また、皇室もそうであると思います。皇室というのは祭祀などは勿論ですが、一貫して、日本の伝統文化を継承し守る役割も負ってきたお家です。渡来文化の保護、慈善事業への関わりもしてきています。海外公務が出来たのは戦後ですが、美智子皇后が「皇室は祈り」と発言されたように、戦後の公務の一つの大きなポイントに「戦没者(戦争被害者)慰霊」などが挙げられると思います。

皇室は為政者としてのロイヤルには成り得ないですし、実際、明治から昭和にかけてもそう成り切れなかったのでは?成り立ちや歴史上のことから考察すれば、日本にヒトラーのような独裁者が出来なかったのはそういう皇室の性質ゆえかも知れないと個人的には思う事があります。

アメリカって・・・

迷える大羊 · 2007-06-04 00:43:25 UTC+9 · 投稿 #167

>アメリカはかなり特殊

確かにそうですね。私が最初に行った教会も彼女の教会(聖書を丸ごと信じる保守的、私からみるとファンダメンタルな信仰)って大体アメリカ起源のプロテスタントですもんね。それにしても、キリスト教を知らず、欧米社会の事情に関心が薄かった時期は、なんとなくアメリカ、プロテスタント=進歩的、リベラルでヨーロッパ、カトリック=保守的、聖書を丸ごと信じる、というイメージがあったのですが、実態は全然違う、というよりむしろ逆なんで驚きました。。ジョン・レノンの「ビートルズはキリストより・・」発言もヨーロッパでは全く読み流されているんですよね。

それにしてもアメリカといえば、世界一科学が進んだところ、ってイメージがあるんで、そういうところで、創造科学(つまり、聖書に書いてあることはすべて「科学的」にも正しいことを証明するトンデモ科学)が結構幅を利かせていて、創造論を「理科」の時間に教えろ、という主張が一部の州で法律で大真面目に可決されてしまうことにびっくりします。

1996年にヨハネ・パウロ教皇は進化論を認める旨の発言をされていますが、この発言の背景には「あんなワケわかんない人たち(同じキリスト教徒として)と一緒にしないでね」みたいな意味もあったのかなぁ、と勘ぐりたくなります。カトリックにあまりその手の原理主義者が見当たらないのは北米出身者の比率が低く、アメリカの宗教状況の影響をあまり受けないせいかもしれない、と思うのですがどうでしょうかね。

>ムハンマドのカリカチュア

イエスフーリガンのイカレぶりばかり話題にしましたが、これもなんだかなぁって感じですね。それこそ、ムハンマドは「人間」なんだから、何をカリカリしているのか?と思いますね。でも、これはイスラム教やムハンマドそのものの冒涜に対する怒りというよりは、西洋人に自分たちの信仰、文化をおちょくられた悔しさなんじゃないかなぁ、って気がします。イスラム諸国も中世の時代、ヨーロッパ諸国より経済的にも軍事的にも優位に立っていた時代は、ヨーロッパ人からムハンマドについて何をいわれようが全然歯牙にもかけなかったと思うし。

>カトリックが救済における宗教的多元性をみとめるかどうかにおいて、

私がカトリックに好感をもったのはこの宗教的多元性を認めているところなんですけどね。福音系教会ですと、「本物の神とは~」みたいな話が多く、焼香ダメ、七五三ダメ、みたいな調子でウンザリしたもので、カトリックの異教の風習や考えも良いものは積極的に取り入れ、その土地、その土地の文化風習を認める姿勢はとても新鮮で感心したものですが。そうでない人も当たり前ですが、いるんですね。

とにかくアメリカの宗教事情はとても興味深いですね。著作が出来上がりましたら是非拝見させていただきます。

イエスのフーリガン

Sekko · 2007-06-03 21:46:51 UTC+9 · 投稿 #166

日本のことは詳しくわかんないのですが、アメリカはかなり特殊です。「欧米のイエスタブー」とひとくくりになさっていますが、欧と米ではだいぶ温度差があります。ビートルズはイギリス人だからその辺が自分でも理解できなかったんでしょう。今のヨーロッパではイエスを含む「キリスト教」全体が、個人の私的領域か、文化とか伝統の事象と理解されてるのですが、アメリカでは政治とか社会の事象ですから。今無神論についての本を書いてるのですが、アメリカの無神論は別個に取り上げてます。アメリカって、これから無神論が旬になりそうな国です。今年3月ピーター・スタークが米国議会初の無神論者議員としてカミングアウトしました。社会的に影響力のある人で無神論者にカムアウトを勧める団体の運動が効を奏しつつあるのです。これって、フランス的には(多分日本的にも)、考えられない事態です。無神論が意味を持つのは、信仰が社会的アイデンティティの核だからです。サウジアラビアなんて、イスラム教から離教イコール国籍離脱ですから、日本やフランスのように宗教が歴史に洗われてヌルくなった「古い」国にいると、想像もつかない状況は今も地球上にたくさんあるわけです。神でもあるとされるイエスと違って預言者でしかないはずのムハンマドのカリカチュア(私から見ると政治的妥当性は別としてべつに過激でもなく、フランスにはローマ教皇やイエスのカリカチュアの方がひどいのがよくある)をめぐって大使館が焼き討ちされたり教皇の失言で罪のない修道女が殺されるとか、原理主義者やそれを煽る人もいるわけですし。それに比べたらイエスのフーリガンたちはまだちょっとましかもしれません。それに、まあ、イエスをめぐるイエス万歳の人たちがまあましと思うのは、たとえば他の現人神のご真影とかなら、勲章をいっぱいつけてるとか、ロイヤルファミリー写真でも立派なお城で立派な衣装とか王冠とか、そういう見た目の立派さがありますね。彼らをたとえば裸で描いたら、即、冒涜じゃないですか。それなのに、イエスって、欧米系では13世紀以来磔刑像が多いですからね。もう、外観としては最悪ですね。『最後の誘惑』の映画だって、文句をつけた人は、イエスの幻想みたいなシーンよりも、本当は、全裸のイエスを赦せなかったんじゃないかと思います。でも中世の磔刑図には結構全裸のものもありました。そこんとこの葛藤が、他のシーンに向かったんじゃないかと私は思ったんですが。
ともかく、「私は最も小さきものの中にいる」、みたいなことが口だけでなく、まあ、誰でも普通はああいう死に方はしたくないという図像が前面に出ているんですから、それなりの説得力があります。倒錯的ともいえばいえますが、本当につらい人や迫害されてる人が、最後の救いを十字架のイエスに求めたりする心境も分かりますね。天国に行けば美女に囲まれるとか楽な暮らしがし放題、というタイプの慰めより、なんか、十字架上で永遠に苦しみながらさらし者になってる人が共にいる、みたいな。まあ、それでは、教義的にもっと本質的である復活の栄光の影が薄くなりそうなんで、十字架は十字架の形だけでシンボリックに、イエスは復活のイエスを強調して、という教育的配慮も近年は多くなされてます。
もう一つ、これはすごく論議になってるとこなんですが、カトリックが救済における宗教的多元性をみとめるかどうかにおいて、多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16-12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。

イエスタブー

迷える大羊 · 2007-06-03 11:13:12 UTC+9 · 投稿 #165

いつもお世話になります。

誤解を招くと困りますが、イエスを否定しているつもりは毛頭ないです。彼の倫理的、道徳的な教えは傾聴に値しますし、無私の心を唱えた史上初の人物、と思っております。
おっしゃるとおり今生きていて権力もある人間を崇めるのとは違うし、実害を与えたわけでもなく、イエス自体には何の問題もありません。

苦手なのは、なんていったらいいのか、周囲のイエスへの妙な気がね、気遣いなんですよね。
例えば、ハリウッド映画「ベンハー」などでは、イエスは後姿しか描かれないし、最近はそこまで気を遣わないにしても、教会の一般的なイエス理解から外れたイエス描写は、欧米社会で必ずすったもんだの騒ぎになりますでしょう?例えば、スコセッシ監督の「最後の誘惑」だとか、近いところでは「ダビンチ・コード」だとか。イエスに子供がいて何がマズいのか?どこがどう侮辱したことになるのか?未信者の私には理解に苦しむところです。作品自体はあんまり面白いものでもないのに、こんなことで騒ぐから余計注目されて、却って逆効果、って気がしますが。

また、ビートルズのジョン・レノンが1966年、イブニングスタンダード誌のインタビューで「ビートルズはキリストより有名(もちろん、一種の比喩でキリスト教の欧米社会での影響力低下について語っただけで、イエスについては評価している)」と発言したところ、アメリカ南部の保守的なクリスチャンの猛反発を食らい、レコードが焼かれ、ビートルズのアメリカツアー中にも数々の脅迫電話、脅迫状が舞い込み、ジョン・レノンは急遽、釈明会見を開く、なんて騒ぎもありました。

またまた、ジョン・レノン(本当にこの人とキリスト教会って相性が悪い)の話になりますが、彼の曲「BALLAD OF JOHN&YOKO」って曲がアメリカとカナダで一時放送禁止なったことがありますが、一体全体何が理由で?と思ったら「キリストさんよ、気楽じゃないぜ」って部分がまずかったんだそうです。これまた、未信者には、「え?こんなことで??」てな感じで理解に苦しみます。こういう事例を聞くと、もう二千年以上前の人物に対して、なんでここまで気を遣ったり、タブーがあったりするのか?素朴に疑問を感じるんですよね。

日本でも、天皇陛下は映画やテレビドラマでは姿を出せない、なんて時代が長くあったし、今でも、正しい、間違っているは別にして、故昭和天皇の「戦争責任云々」などという意見を公の場で表明しようとすると右翼団体から銃撃されたり、かなりの抗議と勇気を覚悟しなければならない、ってところがありますよね。なんか、基本的な構図が似ているような気がしてしょうがないんですよね。

あと遠藤周作氏の「イエスの生涯」も私の知る限り、一部のクリスチャン、教会関係者にはあまり評判が良くないらしいんですよね。これまた、未信者の私には何がどうマズいのか、分からないのですが、要するに、奇跡も行えない、無力な男イエス、というのは一部のクリスチャンにとって耐え難いイエス像であるらしいんですよね。これも、私にはすごく理解に苦しむ話。本当にイエスが人生がうまくいかない人間、弱い人間の味方だ、ってことなら、超能力を駆使する神がかりな超人である必要なんか全然ないじゃないか、そんなものを求めるなんて、それこそキリスト教が否定する「御利益」信仰なんじゃないの?と思ったりするんですけどね・・・。

あれやこれやで、基本的に日本の「天皇タブー」も欧米の「イエスタブー」も私には同じに見えてしまって、自分の心の中に、こんな理不尽でワケのわからないタブーというか、足かせみたいなものを新たに作るのがイヤ、っていうのが、うまく言葉にできたかどうかはわからないけれど、キリスト教にイマイチ踏み込めないの一つになっているんですよね。
まあ、考えすぎかなぁ、と思うこともありますけど。

イエス万歳

Sekko · 2007-05-31 01:19:18 UTC+9 · 投稿 #164

「イエスを神と崇めることと、天皇陛下万歳だとか、北朝鮮の将軍様万歳(マンセー)とかいって崇拝するのと、質的にどう違うのでしょうか?」って。ぜんぜん違いますよ。だって、イエスはもう人間としてはこの世にいないんですから。

イエスを救世主だと認めるとか、三位一体の話とかは、また別です。私は、人が現在生きてる人を拝むのに抵抗があるんです。人だった菅原道真を神に祀って拝むのは平気というか、気にならないんですが、信者に断食させて自分はメロンを食ってるような「尊師」とか、自分は何々の生まれ変わりとか大宇宙の霊神とか、他称自称してる人は、生理的にすごく嫌です。
カトリックは教皇とか偉い人にもまあ、イエスの生まれ変わりと言わせてるのでなく聖ペトロの継承者で、神に関しては仕え人というスタンスなんで受け入れられます。聖人や奇跡やなんかも、生きてる間は認められなくて、死んでからのみの称号であるところが好感をもてます。世界中から聖女のように尊敬されてきたマザー・テレサですら、死後の祈りの中で起こった奇跡だけが審査されて聖女の道を進むのですから、それはもうシンボリックな世界、スピリチュアルな世界です。宗教だからそれでいいのです。でも、今生きてる人が奇跡を起こすとか、癒すとかで崇拝されるのは、どこか間違ってる、と思うんです。
私はチベット仏教のセンターに時々行くんですが、そこのリンポチェ(活き仏)の前でみながはいつくばってお辞儀をします。それは彼という「人間」を拝んでいるのではなく、彼が体現している「智慧」を敬して拝んでいるのだ、と説明されます。そのリンポチェはすごくいい人なんですが、子供の時からある仏の生まれ変わりだと認定されて召使に囲まれて大事に育っているので、亡命の身とはいえ要するに貴族なんですね。みんなに拝まれるのが普通の状態なんです。ダライラマもそうですが、子供には罪がないとはいえ、リンポチェを出したら一族にコネと権力ができますから、大人の欲望や権謀術策が渦巻きます。私なんかから見たら、子供の人権を侵す問題だと思うくらいです。とにかく人は、生きてる限り、多くの人から神のように拝まれる状態というのは、その人にとっても、周りの人にとっても健全でない、と感じます。
もちろん、死んでもうものを言わない神や、目に見えない超越者を掲げて、それとチャネリングできるとかその名を騙って権力を掌握したり独裁者になったりする人もいて、それもまあ、神を自称する人よりもっとたちが悪いこともあります。やはり、その神や神の周りに成立した言説を注意深く検討して、モラルの方向として納得いくものかどうかを判断するのがいいと思います。神でなくとも、奇跡を行わなくとも、「正しい人」というのは必ずいるし、そういう人は、別に人から拝んでもらおうと思わないものです。
それにイエスはわざわざ人間宣言しなくとも、一応、100%人間で、かつ100%神ということで落ち着いているので、人間性は100%引き受けてると思います。だからこそ、「超能力」を発揮せずにむざむざ殺されたんでしょうし。数々の聖人たちも、人間出身で、死後にスピリチュアルな存在として神と人を結ぶ存在として認識されてると言う意味では、死者の霊魂を神として祀る神道なんかと似てますね。祖霊信仰なんかも心理的には近く、生きてるときはうるさいと思っていた祖父母や両親とかも失ってからは心の支えになり、素直に手をあわせて加護を願う心境になるのも良くある話です。
そんなわけで、周りの人の思惑や権力の誘惑なども鑑みて、今生きている生身の人を崇めるのと、歴史に洗われててスピリチュアルな評価の定まった人、生きてる時に残した言行に共感のもてる人、などを崇めるのはリスクも含めてまったく違うというのが私の答えです。

毎度お騒がせします

迷える大羊 · 2007-05-30 23:02:13 UTC+9 · 投稿 #163

毎度、お世話になります。①も②も初めて知りましたね。「ピラトによる福音書」ですか?確かにピラトの心境は興味ありますね。思うに、私にとって聖書のキャラクターの中でピラトが、ある意味一番感情移入できる人物、というか気持ちが分かる人物かもしれませんねぇ。私もピラトの立場なら聖書に記述されている通りの行動を取るでしょうね。何の縁もゆかりもない、ユダヤ教の内輪もめなんか興味ないし、そんなことのためにせっかくの総督職を棒に振りたくない、でも、目の前のイエスは明らかに無実、死刑にするにはあまりに忍びない、ああ弱った、どうしよう、そんなこと俺知らないよ、あんたらで勝手にやってよ、俺のせいじゃないって気持ち・・。銀座の教文館で探してみますか。ちなみに私は首都圏在住です。

そうそう、あとキリスト教についてはもう一つ重大な疑問がありました。信徒の人に向かって面というと激怒されそうで、なかなかいえないし、ここでも嫌われたらどうしよう、と思いながら、質問しますが、イエスを神と崇めることと、天皇陛下万歳だとか、北朝鮮の将軍様万歳(マンセー)とかいって崇拝するのと、質的にどう違うのでしょうか?あと、オウムの麻原尊師の「空中浮揚」を信じることと、イエスの「奇跡」を信じることの違いもなんだかよくわかんなかったりします。どれも、これも私にはいわゆる同じ「現人神」信仰のような気がしてしょうがないのですが・・・。この内、天皇陛下は戦後「人間宣言」をされていますが、キリスト教の世界でイエスの「人間宣言」が為される日はありえるのでしょうか?

これがイスラム教ですと、ムハンマドは「最高の預言者」で特別扱いはされていますが、一応「人間」ですので、話がまだすっきりしているのですが・・・。

実をいうと、福音派だろうがカトリックだろうが、キリスト教会に行く限り、このイエス礼賛、崇拝は必ずあるわけで、そのたびに「いいんだろうか?これは一種の個人崇拝ではなかろうか?この民主主義の時代、科学の時代に現人神だなんて・・」と思ってしまうことが、躓きになっております。ただでさえ、疑問を感じるところに奇跡だ、復活だなんてさらに話をややこしくするものが入ってくるところが、困ったところです。

あと、オウム(現アレフ)の麻原代表には去年死刑判決が下りましたが、まがりなりにもキリスト教の歴史に触れた身で考えるに、死刑はマズいような気がします。つまり、今もなお残る信徒たちに「尊師は我々の罪をその死で贖われたのだ!」ってことで、却って、その信仰、団結を強化することになるような気がしてしょうがないんですよね。そして、数々の迫害に耐え抜き、数百年後は日本の国教に・・・、なんてことになったら怖いな・・。

不愉快な疑問かもしれませんが、またお時間があれば御意見聞かせていただければ幸いです。

ご紹介

nao · 2007-05-29 09:32:08 UTC+9 · 投稿 #162

ご存知でしたら、失礼!小説2冊ご紹介。
①エリツクーエマニュエル・シュミツト著「小説 イエスの復活」NHK出版
イエスは自分が神の子でありメシアであることを最後まで疑つていた。一方、イエス磔刑をみとめたローマ総督ピラトは消えた死体の謎を、現代人と同じように合理的に解明しようとした。どうしても復活が信じられなかつた。二人の告白の物語は、生身の人間が(神秘)にどう立ち向かうかを描いていく。そして、ピラトの心境は死体のゆくえを追ううちに変化し、癒されていく。臨場感あふれ、心地よい読後感が残る小説。(裏表紙より)

原題は「ピラトによる福音書」です。ピラト側からみたイエスの復活は大羊さんのピラトの疑問と復活への疑問に、小説ではありますが、大いにこたえるものになるでしょう。私はシュミツトの「モモの物語」(いぶらむおじさんとコーランの花たち)をよんで、好きになり、この本を知りました。フランスではベストセラーになり、演劇化され、東京でもあつたそうですが、地方住まいの私は、やつと今頃、しつた次第です。

②M.スコツトペツク「死後の世界へ」集英社
精神科医、主人公ダニエルの死後の世界がかかれています。小説です。死後の体の有様が想像されていて面白いです。光の玉になつたり、そのままみえたり、だいぶ前によみましたので、わすれましたが、復活を考えるときの一つの助けになりそうです。スコツトペツクはご存知のように、「愛と心理療法」でベストセラになつたアメリカのプロテスタントの精神科医。「平気でうそをつく人」はすごく役にたつ本でしたね。
2冊の本でやはりシュウミツトのピラトの合理精神での復活の追い方のほうが面白く、役にたちました。
大羊さんの出会われた最初の牧師さんは私にはどうも・・。そういう考えのかたもいらつしゃるんですね。そんなんで、自由にいきられるんかな・・魂の自由がひろがらないような宗教はゴメンです。「この枠のなかで自由にふるまいなよ」というのが好きですね。枠のありかたはやはり、鍛えられ、修羅場をくぐつてきた末にできあがつている枠。人類の知恵が長くかかわりつづけてきて、なおかつ、命を保つている枠。そんなものなかなか、わからないですけど・・ご縁でみつかるのでは。

うーん

迷える大羊 · 2007-05-28 22:27:57 UTC+9 · 投稿 #161

毎度、お世話になります。人のキリスト教、宗教に対する思いは様々ですが、私が信者になるとすればその2のタイプ、ありえないのがその1タイプかな?(笑)。あまりにも熱心すぎる、信じすぎる人を見ると感心するよりはイライラしたり、ついおちょくりたくなってしまうタイプかも(彼女の前ではできませんが・・・)。テイヤールド・シャルダンなんかいいですねぇ。こういう聖職者がいるから、カトリックって信用できそうな気がしたりします。

>もう復活の話自体は、実証レベルじゃなく教義レベルの話なんで、「科学的にあり得るから信じられる」とかいう話ではないです永遠にこの人を愛しますか?と言われて、永遠かどうかなんて分からない、と理性的に答えるのは変でしょう

いや、そういうお話ならわかるんですが、しかしですね、私が当初関わったプロテスタントの牧師さんは、聖書やら奇跡を本当に字義通りに、「科学的にも」真実と、信じている感じでしたよね。。もちろん、進化論なども反対で、最初の学び会でいきなり、唯物論である進化論をとるか、神をとるか、みたいな話をされて、こりゃいかん、俺には合いそうにない、と思いました。復活については詳しい話をしないまま通うのを止めちゃいましたが、多分、「からだのよみがえり」を文字通り信じている可能性大です。
カトリック教会に流れた(といっても信者になってないけど)のも、こういう多分にファンダメンタルなキリスト教理解への違和感と反動って面もあります。

で、こういう聖職者、教会や信徒を見て知っていますから、「復活」のキーワードを聞くとなんだか落ち着かない気分になってくるんですよね、「まさか、とは思うが・・」とつい疑り深く、あれこれ突っ込みたくなるのですよ。
聞くところによれば、アメリカにはこの世の終わりの蘇りをものの喩え、言葉のあやではなく、「本当に」信じている人たちが結構いて、金のある人などはエバーミング、つまり近親者や自分の遺体を完璧な防腐処理を施し、完全防虫の地下室で冷凍保存し、来るべき「復活の日」に備えているらしいですね。あとダーウィン嫌いで、「理科の」時間に創造論を教えろと主張する人々、産婦人科医をリンチにかける中絶反対主義者など、アメリカのクリスチャンの話を聞くとなんだか鳥肌が立ってきて、俺はこんなイカレた連中の仲間にはならんぞ~、と叫びたくなります。

ところで、こういう極端な人、いわゆるファンダメンタルな人々は、カトリックよりはプロテスタント、ヨーロッパよりはアメリカに多いってところがいろいろと興味深いところですね。日本の教会でもアメリカから入った教会はややファンダメンタルなところが多い感じがします。

とまあ、なんだか「復活」にいちゃもんをつけるようなことばかりいっているように思われるかもしれませんが、確かに「復活」がないと、師は売るわ、逃げるわ、とぼけるわなんてやっていた情けない弟子たちが、どうしてあらゆる困難、殉教すら恐れない人間になったのかに関する説明がつかず、キリスト教のストーリーが続いていかないですよね。
本当に何があったんでしょうね??下手な推理小説より謎に満ちてますね・・。

あれこれ

nao · 2007-05-28 20:46:34 UTC+9 · 投稿 #160

竹下先生がお書きくださつたことで、もうなにも書く必要なさそうな気がしているのですが。すこしつづつてみます。まず大羊さんがだされた3ッはどれもYESだしどれも単独ではNOだと思います。つまり理性の範疇を超える問題なので、『信じる』ことしかない。でも復活したイエスから、聖霊が降されて、弟子達が世界中に宣教にむかつたわけですから、これを信じないかぎり、キリスト教徒ではないわけですよね。
じゃあ・・いわしの頭も信心からでいいのか・・いやそういうわけにはいかない。理性が健全でそれを超越した「物語」として、認識できないと、ダメでしょうね。
「信じる」という行為は理性より先にあるし、永遠にもつながるとおもいます。子どもは自分の親を認識するまえに信じているし、親がなくなつても自分をまもつてくれていると、信じていろ。
大体自分という人間が時間的、場所的にこの世にヒトリしかいないつて、信じていますよね。これを疑う人はまずいない。でもホントウにそうなの?信じるしか仕方ないすよね。
復活の体つて、なんだかあるような、ないような、考えてもわかんないから、聖書にかいてあつて、そのことから、キリスト教ができたんなら、信じるほかないですよね。
でも「信じる」ことから、人生が豊かになるし、何よりその「枠」があることで、かえつて自由に生きられるつてことは信仰の強みですね。

文芸春秋special,2007,SummerNo.1 早速買いにゆきました。竹下先生の「スピリチュアルとのつき合い方」とても良くまとめられていて、他の人とくらべて、格段論旨が上だとおもいました。大変参考になりました。大羊さん、是非読んでみてください。今回は「心の時代を生きる」日本人と宗教 になつていて、大特集 あなたは宗教を信じますか? の記事が面白いです。2,3しか読んでいませんが、人は何かを信じることなく、生きられないことだけはよくわかりました。

7つのグループ、面白いですね。私はどのあたりかな?1ではなさそう。1-7、すこしずつ、はいつていそうです。

フランスの信者の種類、復活のことなど

Sekko · 2007-05-28 01:00:34 UTC+9 · 投稿 #159

フランスで私がとってるカトリック系総合週刊誌の今週の特集は信仰についてでした。面白い話が満載なので、少しずついろんなところで紹介していきます。ここでは、その中でフランス人信者の七つのグループという分類を紹介します。フランスはカトリック教会の長女といわれているくらい、カトリック的伝統は根強く、洗礼率で言えば軽く過半数がカトリックです。先だっての大統領候補12人のうち10人が洗礼を受けていてカテキズムも受けていました。でも、日常的には、日本人の仏教徒と同じで、家族の行事以外にあまり宗教色がありません。
そんなフランスのカトリック(または元カト)の7つのグループ。

その1 迷わない派 「信じる、そして疑わない」
①道程 信者でプラティカン(実際に毎日曜教会に行く人のこと)の家庭に生まれ、ごく若い頃にラディカルな神体験をした。信仰は人生の本質に関わる。教区の中心人物
②座右の作家 十字架のヨハネ、ベルナノス、パスカル
③我慢できないもの 過激な無神論者、おざなりな聖歌、日曜にサッカー観戦かミサかを選べると思っている輩、社交のために教会で結婚式を挙げる人
④感動すること 神のみ心の徴し、回心の体験談
⑤教会でいつ会える? 最低限、毎日曜日

その2 探求派 「信じる、でも疑う」
① 信仰の中で育ったが、組織と愛称が合わなかった。教会の見解のいくつかには賛成できない。無垢な純粋派の信者にはいらいらする。あの世の存在には懐疑的だ。しかし信者だと公言して教区民としてふるまったりエキュメニカルな活動(超宗派的活動)や、宗教交流に参加するのは抵抗がない。
② シルヴィ・ジェルマン、モーリス・ベレ、ティヤール・ド・シャルダン
③ 教条主義者、懐疑によって信仰を拒否する人
④ 霊的探求をする人の話、希望
⑤ 毎日曜、または、行事の日、または必要を感じた時。

その3 失望派 「信じていたがもう信じない」
① 組織や、教会の言説にうんざりしたか、病気や近親の死などで傷つい他後で教会から離れた。哲学や精神分析学や科学と出会って、確信が揺らぎ、自分のすべての土台を検討している。
②ニーチェ、アンドレ・コント=スポンヴィル
③真実を独占する信者、信仰は理性を無視していいとする輩
④ピエタ像やカテドラルのラインの美しさ
⑤結婚式、葬儀、ヴァカンス先での観光

その4 見習い派 「信じていなかったが、今は信じる」
①無神論かアグノスティックか、子供に宗教教育をしない家庭で育つ。 ある、出会い、読書、審美的なショックや、試練などが神への欲求を目覚めさせた。または、超越なしの人間の虚栄に気づかせてくれた。
②クローデル、エティ・ヒレスム、ジャン=クロード・ギユボー
③信者への軽侮や、教会の後退
④親しい人たちの懐疑、受け入れてくれたコミュニティの信仰
⑤毎日曜または、行事のある日

その5 悶々派 「信じてないけれど、疑う」
①出身は関係ないが、自分の存在の意味について自問している。宗教にも哲学にも満足な答えを得られない。
②レジス・ドブレ、パオロ・コエリョ
③盲目的な信者、神秘家、教条主義者、実証主義者
④修道院の静謐さ、祈りの熱意
⑤葬儀、結婚式、偶然

その6 ボーン・アゲイン派 「再び信じ始める」
①クリスチャンの家庭で育ったが、教会から遠のくことや形而上的疑問によって信仰を失った。ある出会いや、根本体験により、教会に戻った。信仰の中の自由を見出した。今は、信仰は人生の中心的位置を占める。新たな生である。
②リジューの聖テレ-ズ、マクス・ガロ
③社会的慣習によるカトリック信者、戦闘的無神論者
④集団で熱くなること。信仰コミュニティへの帰属意識
⑤毎日曜か行事の日

その7 回心派 「宗教を変えた」
①よその大陸か、他の宗教文化の中で生まれたが、出会いや、住んだ社会の影響によって、キリスト教の神を知った。キリストの人間性と神の慈悲に心を打たれた。
②リュスティジエ、レイモン・パニカール、聖アウグスチヌス
③ぬるいキリスト教徒。近親者と離れるリスク
④キリストの姿。聖餐の秘蹟。
⑤毎日曜、教会内組織、祈りのグループ

以上です。日本ではカトリックはマイナーだから、成人が信者になろうかという時はいろいろな自問が渦巻くでしょうが、カトリックがなんとなく風景になっているフランスではこんなにグラデーションがあるわけです。実際、キリストの肉体の復活を字義通り信じるかというような根本的な教義についても、アンケートをとったら信じると答える人は年々少なくなっています。その乖離についてすごく悩んでいる人は実際問題としてすくないです。日本で、南無阿弥陀仏と唱えて、本当に阿弥陀仏がいて極楽に連れて行ってくれると字義どおり信じるとか、お宮参りにいくが天照大神の話を字義どおり信じるとかいうような感じです。
もちろん、キリストの肉体の復活を少なくとも、使徒たちが信じなかったら、キリスト教は成立していなかったでしょう。でも、彼らが昔の無知の人だから肉体の復活などを信じたのだろうと思うのは間違いで、その頃だって、すごく信じられなかったんですよ。それでも、一応、そういう不思議なことが起こったというのでいろいろ書き残されて、それを基にして、キリストの十字架上の死と3日後の復活がなぜ人類すべての罪の購いとなり救済になるのかという神学が延々と築き上げられていくわけです。で、三位一体の話とか、父なる神に関するところは超越に属することで、実証的な頭ではもとより理解できないんですが、人間イエスの死やその肉体の復活っていうのは、まだ「こっちの世界の出来事」だから、いろいろ想像の余地があります。シンボリックな意味はもちろん山のように積めるでしょうが、事実関係はやはり気になるところです。
私は、不思議なことに「そんなことあり得ない」とか思ったことはありません。世の中には私の想像や理解を超えたことがいくらでもあるので、何でもあり得る、というのが基本です。この前も書きましたが、イエスの復活のことで不思議だったのは、例のトマスの話で、脇の傷に指を入れろとか何とかいう話で、トランスフィギュレーションのように光り輝く栄光の体、この世と存在のモードが違うような体で復活したのではなく、傷口が開いたままの体というところでした。ラザロが起きてきたように、イエスもほんとに「よっこらしょ」と目が覚めたのなら、そして遺体をつつんだ亜麻布を残したなら、どうやって墓石をどけたり服(死ぬ前に着てた服は兵士にとられて人々がくじで分け合ってますし血まみれだった)を調達したのか分かりません。生々しい傷があったということは、メル・ギブソンのパッションじゃないですが、足の棒で頭をがんがん殴られたり、鞭打たれたり、転んだり、手足の釘跡ももちろんだし、かなり悲惨だったはずなんですよ。そんな姿で、姿を現したら、みんなびっくりだと思うんですが、エマオに向かう途中で旅を共にしてイエスのことを話題にした二人の使徒なんか、いくら「目をさえぎられていた」といっても、とにかく気づかないんですよね。普通っぽければ気配とか、声とか、話の感じとかで分かりそうだし、まさか血まみれで裸ってことはないだろうし、不思議です。その他にも、自分だと証明するために積極的に手と脇を見せたみたいだから、顔はどうなんだ、顔や背格好はそんなに説得力のないものだったのか、殴られた痣や傷や瘤や窒息死の苦悶で変形してたのか、とか、すごく気になります。
まあ、普通の人が、最後の審判の時に体が復活する時は、栄光の肉体ってことで、死んだ時の病気とか傷とか状態に関わりないそうなのでほっと安心です。イエスはなんといっても死後から復活まで実質一日半しか経過してなかったんだから別なんでしょう。それに、そう、そのときの人ですら、むごたらしく刑死したはずのイエスがもしきれいな体で現れたりしたら、栄光の体だと言ってありがたがる代わりに、替え玉だと言って退ける率が高かったんですね。きっと。人は見たいものだけを見るのかもしれません。
もう復活の話自体は、実証レベルじゃなく教義レベルの話なんで、「科学的にあり得るから信じられる」とかいう話ではないです。誰かから「あなたは私を信じられますか?」と言われて、「信じる」と答えるのは、その人のこれまでの実績を調べてある程度リスクを減らすことはできたとしても結局一種の賭けですから、直感や期待感によって決めるしかない。永遠にこの人を愛しますか?と言われて、永遠かどうかなんて分からない、と理性的に答えるのは変でしょう。愛とか希望とか信頼とか信仰とかは、自分の限界(理性とか利害)を超えてひたすら相手に向かっていくんですから。
しかし人間の肉体を持ったイエスが人として死んで、人として生き返ったという話を、具体的なものとして考えさせるよすがは、前にも書きましたが、なんといってもトリノの聖骸布の存在ですね。こういうコアなオブジェが残っているのは好きです。まあこういうのを持ち出すと、オカルト的で信仰のつまずきになるという人も必ずいるんですが、「好奇心」には負けます。等身大ポスター、ご一見ください。あ、今発売の文藝春秋Specialという増刊号に「スピリチュアルとのつきあい方」という文を載せています。ご参考にどうぞ。

いまだに答えられず

nao · 2007-05-27 20:09:36 UTC+9 · 投稿 #158

いやあ・・大変な問いですね。お返事できないことだけ、あやまつておきます。そのうち何かかけるとおもうんです。ごめんなさい。それほど、本質的な問題なので、うかつにお話できないつて、おもつています。竹下先生、あんとに庵さま、よろしくお願いいたします。

復活とは?

迷える大羊 · 2007-05-26 00:17:43 UTC+9 · 投稿 #157

先のあんとに庵さんとの対話にも出たことでありますが、イエスの復活って皆さん、どこまで信じますか?他の水の上を歩いた、といった類の奇跡はシャレで済むようですが、この復活はキリスト教の根幹にあたる教義ですから、いい加減にスルーするわけにはいかない、と思い投稿してみました。

一口に復活を信じるといっても、主に三つのパターンがあると思われます。
1.文字通り体ごと復活した。信者もこの世の終わりには体の蘇りがあると信じる。アメ リカの田舎、南部あたりにはいっぱいいそうですね、こんな人。

2.イエスの復活は弟子たちの心の中に起こった体験である。イエスを裏切った弟子たち に対する恨みを叫ぶどころか、救いを祈って死んで行ったイエスに対する罪悪感、感動な どが入り混じった複雑な感情が巻き起こした、心の現象とする立場。

3.イエスの復活は信者一人一人にイエスの精神が生きている、という心のあり方
私なんかは信仰するとすればこの立場が一番受け入れやすそうな気がしますが。

しかし、前のやりとりでも出てきたように、二ケア・コンスタンチノープル信条にはしっかりと「からだの復活」とあるし・・・。

さて、皆さんはどの立場でしょうか?私個人の考えでいえば、たとえ、クリスチャンになったにしても1のホンマもんの生物学的復活だけは勘弁してくれ、という立場です。

大体、イエスが肉体的に復活したからって、「だからイエス様はすごい、だからイエス様は神なんだ」と連呼したところで私の生活の実感が深まるとも思えないし、すごいのはあくまでイエス様だけであって、自分自身、あるいは自分が大事にしている人たちも、死んでしまったら、まず間違いなく蘇生なんかしないわけで、そんなオカルトじみた教義が一体、私たちの何の現実的な問題の解決になっていくのか、さっぱりわかりません。そんなこと本当にイエスが望んでることなのかなぁ、とも思ったりします。
別に普通に21世紀の科学でものを考えりゃいいじゃないか、と思うのですが、こんな考えは一般的なクリスチャン、カトリック教徒からは受け入れられませんかね?

放蕩息子

Sekko · 2007-05-24 18:29:20 UTC+9 · 投稿 #156

Fusakoさん、ちょうどこのサイトの猫のコーナーにUPした記事に放蕩息子のたとえが出てきます。よかったら読んでください。