ええと、またお邪魔してしまいます。

ええと、またお邪魔してしまいます。

流れついた梅 · 2007-06-11 13:41:27 UTC+9 · 投稿 #174

昔、私のいた共同体というのが「超教派」でして、福音派からペンテコステ、カトリックの聖霊派の方もいらしたところでした。ですから、大羊さまのお話拝見しておりますと、非常に思い出すところが多いなあ、と思いつつ拝見しています。

大羊さまの彼女である方を通じて、大羊さまは福音派をご覧になっていると存じますが、福音派がアメリカの多数派を占めたのは'80~'90年代くらいのことだと記憶しております。昨年か一昨年引退した、と聞いていますが、ビリー・グラハムという名前をお聞きになったことがありますか?こういったテレビ説教師の成功によって、福音派は今まで多数派を占めていたメインラインと呼ばれる各教派(会衆派、長老派、聖公会、ルーテルなど)から改宗者を得ています。
メインラインの教会の神学と福音派の神学が相容れないところからも、溝が出来たようです。
つまり、聖書を科学的に分析し、批評的な研究・解釈を支持するあまり、処女懐胎やイエズスの神性の否定に至る、そこまで行ってはや宗教性をも失ってしまった自由主義神学への反動として、聖書の一字一句をそのままに受け取るというファンダメンタルが生じてしまった、と。

個人的には、それぞれに行き過ぎたところを感じるところがあります。

>クリスチャンが同性愛者に向かって「あなた方は死ななければならない」
これは典型的な行き過ぎの一例でしょうね。カトリックでは信者個別の問題として、相談があるならのる、という感じだと思います。

>戦争行為などを正当化したがるクリスチャン
ブッシュ大統領のブレーンを見る限り、軍事産業の関係が多いのではないでしょうか?ブッシュがキリスト教の教えと繋げて、イラク派兵その他の話をしたなら別ですが、アメリカというのは、多民族・他宗教国家ですので、一概にそうは言えないのでは?また、クリスチャンの軍人や従軍司祭・牧師などもいるわけですが、それについてもブッシュ大統領のようにお考えになられますか?

>中絶問題
そもそもは十戒の『殺すなかれ』『姦淫するなかれ』からきているものではないでしょうか。故に「命はどこからはじまるか」という生命倫理の問題として考えている中での流れと解釈します。以下、ご参考ください。これはカトリックの公文書ですが。

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅 いのちの福音
http://www.japan-lifeissues.net/writers/doc/gol/gol_evangeliumvitae-ja1.html

プロテスタントの成り立ちについても、ルターの発表した「95箇条の論題」があくまでも神学的な問題として意見交換を呼びかけたものであるにも関わらず、当時の為政者に政治利用された側面は否めません。事実、ドイツはその後30年間の内戦状態となりました。
ルター派が国教となった北欧などは、そういった問題の発生が無かったようですが、次々と出来てくる教派と既存の教会との共存が困難だったことから、アメリカへの移住があったものと思われます。教派についてはそれぞれに在り方というのがありますが、非常に残念であるのは、プロテスタントの方々が初代教会からカトリックが積み上げてきたものを捨てることで、アイゼンティティを保っているように感じられることですね。
例えば、彼らが捨てていった教会美術、そして典礼。そもそも、欧州ではさほど識字率は高くなかった。羊皮紙本を筆写する時代には、聖書なんてものはなかなか一般人には入手が難しかったのです。そしてかさばります。教会や修道院は、図書館の役割を果していました。字の読めない人たちにも聖書の内容が分かるように、絵画やステンドグラスが作られ、また典礼において人々に分かりやすく伝えることもしていたわけです。

そういった時代の人々の信仰は、非常に素朴であったかと思います。
神学を修めるのは聖職者だけで良かった、みたいな。しかし「無知だった人々のもの」それだけで、その時代の人々がもっていた信仰を否定することは出来ないのでは?
さて、今は、情報に飢えることが考えられない恵まれた時代です。
世俗の者でも信者でなくても、神学オタクにはなれるんですが、単なる神学オタクと信者・聖職者との見分けは、知識云々ではなくどうしてもついてしまうものなのです。そうでないと良いのですが、「なんだ、俺の方が読んでるじゃん?」というのも相手に気付かれてる可能性を感じます。
勿論、理性のない信仰は私もどうかと思うのですが、信者さんにとっては「自分と神だけの間の問題であること、そうしたいこと」も多いはずなので、そこはある程度は心やって下さいますと感謝いたします。信仰を持つきっかけについても、その人にとっては大切な部分であるところを論評の的にされてしまっては、大概の方は傷つかれるのではと思いますので。

まあ、私の指導司祭だった方は、「疑って、疑って、疑いなさい。疑う余地が無くなったら信じなさい」と仰ってました。あれこれこだわるタイプも、素直さが足りないタイプも大羊さまだけでは決してないのじゃないか、と思うので、これはお笑いまでに。