2007年の投稿

教派間結婚

迷える大羊 · 2007-05-12 01:16:07 UTC+9 · 投稿 #129

naoさん

初めまして。レスありがとうございます。

>信仰

今のところ無宗教です。結婚予定の彼女の信仰がどういうものなのか?理解するべく、キリスト教を探求している最中です。ただ、福音系は私にとって理解しづらい部分、束縛感を感じる部分が多く、その反動なのか、カトリックの清濁併せ呑む、いい意味での節操のなさ、意外とリベラルで現実的なところが気に入って、シンパシーを持ちだしている、といった立場、状況です。もっとも第二バチカン会議以前のゴリゴリのカトリックでしたら、全く鼻にもひっかけなかったでしょうけど。

とまあ、偉そうにカトリックがどうの、福音派がどうのと述べていますが、本当のところ、神を信じるという心境がどういうものなのかわかっていないし、そもそも自分は宗教に向いているのかどうかも今のところよくわかりません。

>子供の洗礼

ああ、やはり揉めたのですね。そうだろうな、と思いました。その辺りの事情は近くのカトリック教会の神父さんもよく御承知なのか、子供は「なるべく」洗礼を受けさせてね、といったおっしゃり方でした。

>マリアの被昇天

意外と違和感ありませんでした。むしろ、こういう風に、信じてみた方が気分的にいいかもしれない、と思いました。あくまで信仰の教義の上での話なので別に問題ないかと。

福音系教会で違和感を感じることの一つに、私にとって聖書とはあくまで信仰の上での真実をあらわしている書物としか思えないのですが、福音系教会の場合、それらを「科学的、物理的、歴史的にも事実」と言い張る信徒や聖職者が多いことでした(全部が全部の信徒、聖職者そうだというわけではないですけど)。

>福音派

といってもいろいろありまして、彼女は穏健な方かと。遠藤周作や曽野綾子、矢代静一などカトリック系作家の作品もよく読みますし、聖霊降臨派などは彼女や彼女の母教会の人々にとってもちょっと異様に映るようです。深く突っ込んで付き合わなければ普通のプロテスタント教会です。ただ、使っている聖書が「新共同訳」ではなく、「新改訳」であること、牧師さんは遠藤周作氏の作品については「立場が違うので読まない」というところなんかは、ああ福音派だなぁ、ということを改めて認識させられますが。

>カトリックとプロテスタントの夫婦

カトリックとプロテスタントが血みどろの争いを展開した歴史があったり、教派の違いが社会的な差別につながったりする欧米と違い、日本にはそんな歴史も背景もない。大体、クリスチャン自体が人口比1%以下ですし。極端な話、どちらが、どれが合うか合わないかの問題に過ぎないとも思うので、よく話し合えば確かに共存も可能かもしれませんね。僕が通った福音系の教会にも御主人がカトリックという女性の方がいましたし、夫婦ではないけど、僕が訪ねた、近くのカトリック教会の神父さんも御兄弟がプロテスタント教会の牧師さんで、当人も元プロテスタント信徒だったそうですし。そう考えれば、日本にいる限り大した問題ではないかもしれません。残る問題は子供ができた場合でしょうね・・。

ところでどうでもよい話かもしれませんが、naoさんの洗礼名ってもしかして「モニカ」ですか?いや、深い根拠はありませんが・・(笑)。

信仰

nao · 2007-05-11 21:40:56 UTC+9 · 投稿 #128

私は無宗教の夫とつれそつて、半世紀。最近夫をなくし、仏式の葬儀でおくりました。結婚したときは、私だけがカトリツクで、夫はそれをみとめてくれましたが、夫の両親は子どもの洗礼についてはすごく怒りました。でも当時はそれがカトリツク信者の約束事で私は針の筵で、それに耐えました。夫はなにも言わず、ゆるしてくれました。夫の家は真言宗ですが、彼は別段仏教にくわしかつたわけではありません。日本人が大抵そうであるように、宗教はたいして問題にならない人生をおくりました。私は彼が別の派のキリスト教だつたら、とてもこまつただろうとおもいます。信仰というものは理屈じゃないので、カトリツクをみとめてくれないキリスト教の派でしたら、争いがたえなかつたろうとおもいます。無宗教だから、カトリツクのことはわからなくても「家内はカトリツク」とわりきつて、平気でした。大羊さんは信仰をおもちなのでしょうか?それが気になるところです。どの教団もへんな、わかりにくいことだらけです。教義だつて、洗礼をうけていても判らないことばかりでした。でも信仰が先にあると、おかしなことも、だんだん、なるほどなあ・・と納得がゆくようになるものです。カトリツクの「マリアの被昇天」という、玄義がありますね。へんですよね。でもこれが20世紀中ごろに宣言されたものなんです。科学精神一辺倒の現代の知性がみとめたんですよ。ユングはこの教義をとても偉大だとほめました。河合はや雄氏は「不思議な教義を知性のすぐれたヨーロツパ人が信じているという事実が大切だ」といわれました。要するに、少しずつ納得が行きそうな、感じがしてくる教団は健全だとおもうのです。どうも、おかしい・・とおもいつずけるようなら、やはりその教団にはおられないとおもうのです。司祭の独身制などは聖書にかかれていませんから、妻帯者も独身者も司祭になれる時期はきつとくるでしょう。老齢化もそう、いちがいにいえませんよ。他民族がはいつてくることもあるでしょうし。あまり心配せず、はいつてしまわれてから、悩むのもいいとおもいます。福音派とカトリツクはかなりしんどいかな・・とおもいます。カトリツクつて、やめる方いないんですよ。案外いい加減みたいですが、芯のところは「くさつてもなんとか」みたいなところがあるんです。福音派がそうなら、やはり大変でしょうね。でも日本人というのはお互いに干渉しないで、カトリツク、プロテスタントで仲のいいご夫婦も身近にいますよ。お相手次第でしょうか?なんだかまとまりのない話になりました。ごめんなさい。

福音派

Sekko · 2007-05-11 19:47:34 UTC+9 · 投稿 #127

フランスの郊外でも福音派は進出していて、やはり若者に人気です。カトリックは文化の背景になってて地味だし、親がすでに教会離れしている、周りのマグレブ移民はモスクに通っている、ということで、共同体への渇望が福音派に向かわせるようです。温度が高いところにいくんですね。このサイトのカトリック・ウオッチングのところにも書きましたが、今日はB16がブラジルで初のブラジル人の聖人を聖別する日です。ブラジルは一昔前はほぼ全員カトリックの国だったんですが、パフォーマンスのすごい福音派に何千万という人が転向したことで知られます。それに対抗して、カトリックでもロック・ミサとかやって、民衆のカト離れを防ごうとしている有名な神父がいます。確か今日はその神父とB16が共同司式を行うミサがあるような・・ラテン語ミサOKのB16とロック・ミサの神父〈若くて、身長2メートルで、大迫力の人です〉の組み合わせ・・・とにかく布教戦略上、福音派はカトリック批判してますから、なかよく共存という関係ではないですね。信者にとっては、派手な方、より燃えることのできる方へ引き寄せられるんで、特にトランスがカタルシスになるようです。アメリカのドキュメンタリー映画、『ジーザス・キャンプ』って知ってますか? 福音派と聖霊降臨派が共同で、子供たちのキャンプを組織して、イスラムには神のために命を捧げる若者がいるんだからキリスト教でも可能だみたいに、原理主義的なことを教えて、最後はやはり子供たちがトランス状態になってブッシュの等身大写真に群がって「God bless you!!!!』とか言って泣き叫んだりするんですよ。平均的日本人や平均的フランス人が見たらどん引きの光景なんですが、カトウオッチングでも書いたように、今日聖別されるカトリックの聖人でも、祈りを書いた紙を丸めて毎日飲んでたら奇跡が起こるとかそういう話なんですから、郷に入れば郷に従えというか、問題は、何の宗派だとかいうことでなく、ある場所、ある時代で、ある人々が求めているものは何で、宗教はそれにどう応えることができるのかということですよね。
カトリックは過ちも含めていろんな歴史を通過してきたので、清濁や、知と情や、合理と神秘や、伝統とインカルチャレーションやなんかを併せ呑む柔軟性というか懐の深さというかがあるように思いますが、単にエントロピーが増大してカオスに向かっているのかもしれませんね。
独身の聖職者に家族問題でごちゃごちゃ言われたくないという声はフランスの田舎のおばさんとかよく言ってるのを聞いたことがあります。でも、人間、自分の経験したことしか語れないというのであれば、文学だって成立しませんからね。カトリックは、イメージとしては、聖職者や修道者を神に捧げることで、一般信者は比較的楽に生きられたという歴史があります。人が堕落すればするほど、必ず、清らかに生きるグループが出てくる自浄力はおもしろいです。そして、フランスのような国では、一昔前と違って、聖職は直接は権力にも結びつかないし、世俗的な意味ではいいことはあまりないですから、それでも敢えて聖職につく若い人は、ほんとうに人間が好きで、使命感と召命を感じ、無私でエネルギッシュなすてきな人も少なくありません。昼間、自分をすべて人々のために捧げるので、夜は疲れはてて、ようやく神と二人きりになれると言う若い司祭の言葉を聞いたこともあります。
すごーく変なことかもしれませんが、弱肉強食の競争社会ではとても生きたくない、生きられないと思いながら出口の見つからないタイプの引きこもりとかニートとか若年ホームレスの人の中には、聖職者や修道士という形で自分の人生を他者に向けていく選択肢があれば命の輝きを取り戻せる人もいるんじゃないかと想像します。つまり、聖職者とかのアイデンティティなしに、孤独とか、性的飢餓の状態にある人は社会的弱者や障害者もふくめてたくさんいるとはずで、それは聖職者の孤独なんかよりもっとずっと辛いと思うんです。使命感とともに独身を受け入れた聖職者は別に気の毒とは思いません。妻子など、守るべきものがないからこそ自分をかけることもできるでしょうし、そういう「犠牲」によって、尊敬を得たり、説得力を持ったりすることもあるでしょうから。別に禁欲してるから偉いとかは私は思いませんが、少なくとも、私は、新興宗教の教祖なんかで、奥さんがいて、子供もたくさんいて、美食してるような人は、即うさん臭いと思ってしまいます。
修道士や司祭で結婚して教会から離れたり出された人も知っていますが、それは離婚と同じで、事故もあれば運命もあると思うので罪とは思いませんし、家族を持ち一回り大きくなって、また共同体に尽くせるとか両立できる人もいます。ケースバイケースですね。奇跡を起こすカリスマだったミリンゴ司教という人がいますが、統一教会で韓国人女性と結婚しちゃったり、その後ヴァチカンに軟禁されたり、いろいろ大騒ぎでしたが、4人の妻帯司祭を叙階するまでは破門宣告は受けなかったです。カトリックも、独身誓願は選択肢の一つというように変わっていくかもしれません。他の方の考えもきかせてください。

ありがとうございます

迷える大羊 · 2007-05-11 15:44:50 UTC+9 · 投稿 #126

Sekkoさん、早速、ありがとうございます。

>事実婚

日本の浅はかなおフランスかぶれの一部マスコミや識者は、これを「形にとらわれない新しいライフスタイル」みたいなふうに取る人々がいますが、実際は離婚、再婚が宗教的に難しい(非カトリック国に比べ)という理由も大きいのですね。

結婚式については、彼女の母教会で行う予定ですので、あまり問題はないかな?とは思いますが。まだ、クリスチャンならカトリックがいいかな?くらいの認識で、結婚の時点では私はカトリックにはなっていないでしょうし。
仮に私がカトリックになった場合、問題は幼児洗礼など子供の問題でしょうか?何やらもめそうなイヤな予感がします。

>福音派

意外に思われるかもしれませんが、福音派は若者比率が結構高いです、私の知る限り。プロ・カト問わず他の伝統的な教会が軒並み高齢化している中で、福音系の教会だけは若者(20、30代)比率が高めなんですよね。私にとってはよくこんなこと(聖書はすべて真実、聖書に反する進化論は邪道みたいな)を素直に信じられるなぁ、って感じですが。まあ、率直に言って、何も深く考えなければ、福音派の教会の方が楽しいかもしれません。ゴスペル歌ったり、フォークソングの礼拝があったりするし、新参者に対する対応も細やかだったりするし(それが煩わしい、という方も当然いますが)。

別に高齢者ばっかりがいけない、ってわけではないですが、奉仕の負担が大きくなりそうだなぁ、とか俺が老人になった頃には誰も仲間がいなかったりして、なんて不安にかられますね・・。

>神父

近くのカトリック教会の神父さんの働きぶりなどを見て感じますが、こんなハードな仕事(いろいろな意味で)、果たして成り手がいるのか?いつも疑問に思っていました。カトリックは信徒には寛容(離婚問題を除いて)な宗教ですが、その分、聖職者に対する要求がハードになっているシステムなのだな、と感じます。

特に独身制は納得できるところと、いいのか?これで?って思うところとがありますね。確かに妻子を抱えての聖職者生活は大変だし、独身ならば貧乏しても、とんでもない僻地に飛ばされても平気、というメリットがありますが、一方で健康な男性なら沸きあがってくる異性への欲望をどう抑えるのだろう?孤独感はどう克服するのか?そういう煩悩を克服できても世俗の一般人と付き合えない「変人」になったので困るし・・、とある意味矛盾するような条件を神父は兼ね備えていなくてはならないですよね。そんな人、日本人、外国人問わず、そう何人もいるものなのか?と思ったりもします。

何より問題なのは、カトリックは結婚、離婚に関する考え方が他教派に比較して堅いわけですが、果たして結婚生活を送ったことがない聖職者が離婚問題、男女や家庭の微妙な問題に適切な判断を下せるものなのか?という疑問が大きいですね。この辺り、カトリックの方々はどう考えているのでしょう?
まあ、修道士なら独身でも全然OKだと思いますけど、神父、司祭は世俗の一般信徒と付き合わないといけませんからね。

自殺の問題に関しては、安心、納得できました(いや、今自殺したいなんて考えてませんよ、念の為(笑)) 。もちろん、そんなことは無いほうがいいに決まってますけど、もしも、ってことはありますからね。大体、自殺を企てる場合、心は壊れていて、まともな判断などできないでしょうし。

問題は結婚に関する事柄ですね。他教派に関する態度が保守化していることは気になります。また、近くのカトリック教会や信徒の方々、こういうBBSなどでもう少し広く詳しく、事情を探ってみたいところです。

彼女は私のカトリック志向については特に何もいいません。「同じ神様信じてくれるだけでありがたい」てな感じなのかな?でも聖餐が一緒に受けられないのが気になるみたいです。彼女自身は思想的にカトリックと合わないというより、礼拝のスタイルや福音派の家族的な人間関係に慣れた身からすると愛想がない、そっけなく映るところがダメみたいですね。
今のところ、結婚にまつわる諸問題がカトリック道への障害ですね。聖公会あたりの方が無難かな?と思ったりもします。

カトリックの知人、友人がいない、私にとってこのサイトは貴重です。これからも、お相手いただければ幸いです。

大羊さんへ

Sekko · 2007-05-11 07:25:49 UTC+9 · 投稿 #125

私は身近にはフランスの例しか分からないので、これを読んでる方のなかで、カトリックとノン・カトのカップルの方やカトリックで離婚された方がいらっしゃれば情報ください。
私の知ってるフランスの例では、カトリックで、法律的に離婚した女性で、聖餐を続けられるように再婚しないという人がいます。つまり宗教の秘蹟としての結婚は生きているので(取り消しは結構手続きが大変なので)、法律上再婚しなければ、不倫の立場に陥らないそうです。それで、いったん離婚したら、後は事実婚だけ、で教会には行き続けているわけです。もちろん教会法にのっとった結婚取り消しがない限り、秘蹟としての結婚はもうしてもらえません。
欺瞞じゃないかと思われるでしょうが、大半のフランス人は、洗礼を受けていても、教会に定期的には出入りしてないので、離婚したら教会とも縁が切れます。でも再婚で生まれた子に洗礼を受けさせるのは可能です。不倫で生まれた子になりますが、子には罪はないので。再婚しないで教会に行き続けている人はミサにあずかることにそれだけこだわっているわけですから、本当は別の相手と暮らしてるだろう、とか勘ぐられて追い出されることはありません。そんなことしたら誰もいなくなります。今の教皇は離婚者の聖体拝領OKの方向で動いてるようですから、実際、緩和されるでしょう。DVの被害を受けて離婚する女性などは確かに被害者であって、教会から罪人あつかいされると困ります。聖体拝領は、資格の問題ではなくて「必要」の問題だから、といわれるのを聞きました。絶望した人の「緊急避難」としての聖体拝領は、責められません。まあ、法律婚した後で、教会で結婚しようという人は、神を仲人にしようと思うわけですから、結婚生活で何か困難に出会った時、二人で仲人に相談、という初心に帰る方法ができます。
カトリックの結婚式は、その前に何度か通って、結婚についてのレクチャーを受けることが課せられているので、それなりの覚悟や準備もできますから、悪くはないと思います。片方がカトリックでない場合は、生まれる子供はカトリックの教育を受けさせるという夫婦の合意に署名させられるケースもあります。でも、なんというか、少なくともフランスでは、老舗の伝統宗教なので割と大まかです。特に都会ではコミュニティ感があんまりないので。離れても追ってこないのは確かです。他の宗派間の結婚は昔はややこしかったのですが一時楽になり、今また他宗派との共同ミサは認めないとか、保守化も一部始まっています。
日本ではキリスト教はマイノリティだし、それだけに同じ教会に属する人の共同体意識も強くて、離婚などで「肩身の狭い思い」とかが出てくるのかどうか、私にはよく分かりません。
今は自殺者は全然ペナルティがないです。立派な葬儀ミサも可能です。まあ、自殺はやめて下さい。離婚は相手のあることなので、自分の努力だけではどうにもならないケースがありますけど、自分の生殺与奪の権力への誘惑には負けないでください。もちろん病気その他で判断力がなくなり、衝動的に自殺ということはあっても、それは事故みたいなもので、残された人があまり罪の意識にとらわれないように願います。キリスト教によって、「自分の主人は自分ではなくて、命は神から授かった不可侵のものだ」と思うことで少しでも自傷や自死の歯止めになるのならいいのですが。
神父、信徒の高齢化、これは難しい問題ですが、ゼロになって「営業停止」ということにはならないでしょう。中南米やアフリカではカト人口も増えているので、外国人神父の「調達」というのは必ず可能ですし。そういう「開かれたコミュニティ」に向かっていくほうが健全ですし、ユニヴァーサルなところがカトリックの魅力でもありますから。
でもフィアンセの方が福音派ということですが、今の日本で若い方が福音派というのはこだわりが大きいと思うので、大羊さんの感覚や考えが合わない場合、将来それがつまずきにならないようにちゃんと話し合っておいた方がいいと思います。ちゃんとした宗教には必ず「利他」とか「自己犠牲」の要素が入ってるはずで、結婚にもそのテイストが必要ですから、互いがそういう感覚を持つのは結婚がうまくいく秘訣かもしれませんし。以上、とりあえず書いてみました。

カトリックへのためらい

迷える大羊 · 2007-05-11 00:21:48 UTC+9 · 投稿 #124

皆さん、こん??は。ノンクリスチャンですが、結婚前提に付き合っている彼女がクリスチャン(福音系)である関係でキリスト教に関わりを持つこととなりました。彼女はできれば、私にクリスチャンになってもらいたい思いがあるようで、私も彼女の教会(プロテスタント福音派)に通ってみましたが、どうにも感覚や考えが合いません。

独自にいろいろ教会を訪ねてみた結果、カトリック教会が当初思っていたのとは違い、意外とリベラル(他宗教の慣習に対し寛容、逐語霊感説のような硬直した聖書解釈をしないなど)な部分に惹かれ、クリスチャンになるならカトリックがいいのかなぁ、と思っています。しかし、ひっかかる点がいくつか・・・。

1.自殺、離婚に対する厳しい姿勢。近くのカトリック教会や信徒の方々に聞いたとこ ろ、さすがに今は葬儀をしないとか、離婚は何がなんでも認めない(婚姻の無効宣言 で対処するそうですが)みたいなことはないみたいですが、それでも「罪人」として これらをやってしまった人は肩身の狭い教会生活を送るのか?聖体拝領停止などのペ ナルティを課せられてしまうのでしょうか?

別に今から離婚や自殺の心配をしているわけではないけれど、人生何があるかわからな いし、この二つをせざる得ない事態に陥ることもあるかもしれません。ある意味、一番神 や教会の救いが欲しいときに罪人扱いされ疎外されるのは酷いし、これでは何のために神 や宗教に関わるのかわからない、と思ってしまいます。実際はどうなのでしょうか?

2.他の教派の信徒との結婚はどうなのか?ダメってことはないでしょが、ある意味ノン クリスチャンとの結婚以上に面倒かも。お互い 、同じ神を信じる者同士という思い 込みがあるだけ、却って考えの違いが鼻につく、なんてことがありそうな気がする。
まあ、彼女は福音派といっても比較的緩いところではあるけれど、それでも、カトリ ックにはやや冷淡な傾向があるような感じがします。
これまた、どなたかパートナーがクリスチャンだけど他教派、なんて方がいらっしゃ れば、メリット、デメリット併せて聞かせていただきたいものですが。

3.あと私が心配してもしょうがないことですが、神父、信徒ともに高齢化が著しく、将 来大丈夫かしら?なんて思ってしまう(大きなお世話ですが・・)

最後、3はともかく、上の1、2が気になります。実際のカトリック国の現状なども含め
どなたか体験、見聞、御意見などをいただければ幸いです。

お礼

吉田重信 · 2007-05-01 01:12:45 UTC+9 · 投稿 #123

間髪を入れず、実に含蓄のある回答をいただき、感激しました。長年の「わが信仰」に対する後ろめたさが、和らぐとともに、少し安心できる気になりました。
日本のカトリック神父の中には、井上洋二神父や、藤原直達神父(内観運動を指導)のように、カトリックを日本文化の中に当てはめたり、類似性を見つけて、説くひともおられますが、やや牽強付会の感がぬぐえない思いでした。他方、梅原猛先生のように、「西欧の多神教は行き詰っているが、日本は多神教なので救いがある」との説も、本当かナと考えていました。竹下先生は、西洋文化に心身的に文字通り肉薄して、その理解の中で、カトリックの人類共通性を説いておられるようで、日本人の西洋文化、その表象としてのカトリック理解もここまで進み、普遍的になってきた、と心強く感じます。---偉そうな言い方でごめんなさい。
他方、「バロック音楽は何故いやすのか」をワクワクしながら読んでおります。とくに、バロック・ジェスチュエル、振り付け譜の紹介は、目から鱗が落ちる気がしました。オードレーの母親、マルティーヌとのやり取りには、涙が出ました。
吉田重信

ご愛読ありがとうございます。

Sekko · 2007-04-23 22:32:09 UTC+9 · 投稿 #122

私もカトリックってちょっと可愛いかなと思ってます。B16も可愛いと思えてしまうので。最近彼がイエス評伝を出しまして、イエスはキリスト教世界の所有物ではない、と言ってました。今「無神論の系譜」というテーマで書いていて、こわもての無神論者の本をいろいろ読んでいるんですが、彼ら(ヨーロッパ人)は、西洋の倫理規範はみんな「ユダヤ-キリスト教」に呪縛されているからよくない、と糾弾するんですが、日本人の私から見ると、他の文化でも宗教や表現は違っても同じような倫理規範はあるので、何を基礎にしていてもそれを非宗教化したフィールドで、共存を図ればいいと思うんです。交通標識をグローバル化しても、事故なく移動しあえるという目的が果たされれば、それがもとは特定文化のシンボルだったとしても別に目くじらたてなくてもいいんじゃないか、という感じです。
人間の共同体としての教会や教義は、世に連れ人に連れ変わっていく面もありますから、それもあまり気にしません。自分がど信じるかとか、あまり自分を主体に考えないんです。ツールであれば充分です。私をどう使うかということは、きっと大きい力が導いてくれると信頼しています。教義のあれこれについて納得しなければツールとして自分を差し出せないという危機が訪れれば、その時には回心の体験があることを期待しますが、ぬるいままでもツールとして見切り発車したまま一生を終えても別にいいです。
知り合いのシスターや神父さんで、「竹下さんを聖霊の光が導いてくれますように」とか、「頭がよすぎて道を踏み外さないようにお祈りしてます」とおっしゃってくださる方がいますので、安心してます。私が自分で祈っても無理でしょうが。全体として、自分よりも弱い人とか、困ってる人とかのお役に立てるよう心がけてさえいれば、教義的に異端とかたいそうなことにならないと思います。
次に出るのは講談社選書メチエから8月10日に聖ヨセフの本です。タイトルは未定。聖ヨセフって、なかなかすてきですよ。B16の名前もヨゼフですね。

竹下先生はカトリック信者ですか?

吉田重信 · 2007-04-23 21:18:49 UTC+9 · 投稿 #121

先生のご著作を多年にわたり読ませさせていただき(最近では「カトリック生活」の「スピリチュアルとカトリック・ライフ」)、カトリックのリッチさ、人間臭さ、可愛いさなどに心惹かれます。先生のように、カトリックを歴史的、社会的、文化的に広く、鋭く研究され、透徹した見解をお持ちになると、いわゆるカトリック教義をそのまま信じることは困難になるのではないか、と推察します。先生の信仰のよりどころを教えてくだされば、助かります。小生は、9年まえ家内に迫られてカトリックの洗礼をうけましたが、その後、カトリックを研究すればするほど、自分が異端的になっていくのを感じます(キリストは、人間として生まれ、苦悩のうちに死んだが、その愛を説いた生と死は多くの人を感動させ、「神」を感じさせた、というのが小生の信じる核心です。カトリックが成立の初期に切り捨てた、異端の中に、より素直な、生々しいキリスト像があったのではないか、と思えてなりません。その意味で、「異端」研究の先生の最近のご著作を期待しております。吉田重信

Massimoさんへ

Sekko · 2007-03-06 18:13:56 UTC+9 · 投稿 #120

おしゃべりルームの方にいれます。

日本から

Massimo · 2007-03-05 09:43:55 UTC+9 · 投稿 #119

久しぶりの里帰りです。私も竹下さんのフランス・バロック修道会に対抗(?)してルネサンス・ポリフォニー&マドリガル修道会を創立しようと思います。
冗談は別として、竹下さんの典礼についてのお考えがうかがえて、とてもうれしかったです。「年中祝祭」、なるほど私達の日常は非日常的なものがあふれていますね。「ハレ」に囲まれた「ケ」、とでもいうような。
私個人としては、典礼にもっと多様性があって、それらが共存しあっていたらもっと楽しいかなと思います。英訳聖書に例えれば、わかり易い New Revised Standard Version が普及している一方で、翻訳の下敷きになった King James Version が今でも健在なように。極端な強迫性革新主義と同様に教条原理主義も私の好むところではありません。

イエスの墓について

Sekko · 2007-03-02 17:40:43 UTC+9 · 投稿 #118

ちょうど2日前に、ある編集者からそのイエスの墓についての話を教えてもらい、意見をきかれました。その時に返事したのをまずコピーします。

「知らなかったですよー。
ネットで検索したら、確かに今日のフィガロの朝刊に載っていました。
ドキュメンタリーのダイジェスト版も見ました。
ヨセフとイエスとユダって親子の骨があって、DNA鑑定で親子だったってだけで、その名の刻み方も考古学者からみたら「?」で、たとえ、ほんとでもヨセフもイエスもユダもマリアも当時最もありふれた名なので、このタイプの墓所と骨箱を作れるくらいに裕福な(ナザレのイエスさんちはそうでなかったし、代々の墓がベツレヘムならともかくエルサレムにあるのも無理がある)一家族の墓だったというだけですね。家族の骨に親子関係があるのは当然だし。
ドキュメンタリーの中でも、インタヴューされたまともな学者はまともに答えてました。
それに確かオカルト世界でのイエスの子供は女の子では? その方がなんとなく納得いきます。
まあ、このドキュメンタリーの背景には商業主義はもちろんですが、エルサレムに対するユダヤの所有権を正当化するイデオロギーと政治的意図があるので、前のユダの福音書なんかのヴァリアントだと思われます。結局、天の父なる神のDNAを採取して鑑定する以外、「科学的証拠」は挙げられないわけで、屏風の虎をまず出してくれ、という話になりますね。
ジェームズ・キャメロンって、そんな変なやつだったのか、というほうが印象的です。 」

私には、イエスの「体」をそんなに気にする人がいまだにいて、それがメディアのマーケットになること自体が不思議です。教義の事実性を確認したいというならまだ分かりますが、聖書の内容や教義は実証とは関係なくそのまま受け入れるかどうかが信仰なので、基本的には「事実性」は問われません。それでも考古学的にちらほら「ほんとだったらしい」という発見みたいなのが今でもニュースになります。でもたいてい商業性はないですね。逆に、「教義は嘘で事実はこうだ」みたいなものが商業価値を持つのは、まあしょうがないです(今度のドキュメンタリーも、キリスト教最大の行事である復活祭前の四旬節の真ん中を狙ってるんですし)。
でも実際は、今となっては、教義の事実性も、反事実も、「科学的に検証」というのは不可能な気がします。「事実」じゃなくて「真実」を標榜する信仰のディスクールには合わないし、意味がないし・・・ 私が興味を持つのは関係性とその文脈、その変化なので。
4月の復活祭に、講談社からトリノの聖骸布についての本(解説を書いてます)が出ます。実物大の精密写真付です。こちらは、受難や復活のストーリーが「事実」だったんだ、という逆のベクトルですね。モノが介在してるので、昔からフェティッシュな信仰が寄せられ、巡礼者に多くの回心や、「奇跡」を起こしてきました。「事実」がどうあれ、そういう信仰を生んだダイナミズムがおもしろいです。私の興味を引くには、つなぎ、結びつける要素が必要です。聖骸布は、20世紀後半からむしろモノとしての信憑性を次第に増してきたので、そういう好奇心も刺激されますが。
今回の「イエスの墓」の骨では、復活昇天を信じる人々の信仰心の基盤と合わないので、それをありがたがって祈る人もなく、したがって「奇跡」も起こらないでしょう。ただの否定の材料なので、私にはあまり意味はありません。
その墓のイエスさんのDNAと聖骸布の血痕のDNAが合ってたりしたら、俄然、野次馬としての興味はわきますが。

(無題)

Rozak · 2007-03-02 15:19:23 UTC+9 · 投稿 #117

すみません、地動説と天動説を反対にしてしまいました。もちろんガレリオの地動説に対する教会の天動説です。

(無題)

Rozak · 2007-03-02 15:04:37 UTC+9 · 投稿 #116

Sekko様、お忙しいでしょうからお返事は2,3週間後だろうとチェックしていなかったので、すぐのご返事に驚きました。ありがとうございました。
聖霊付与まで人間(司祭)がコントロールし得るものとされて、ある意味で制度化されていることを知って、少々驚きました。聖霊はおのれの欲するところに吹く、というような言葉があったような気がしますので。私は若い頃から聖書は好きで新約は繰り返し読みましたし、旧約も通読いたしましたが、キリスト教のドグマのため、また形骸化したとしか思われないため、教会には足を踏み入れたことがなく、そんなことも知りませんでした。
(なお、私は若い頃、一種の宇宙意識的な見神体験 ― W.ジェームスの「宗教経験の諸相」の分類では突発的回心と言われるようなもの ― をいたしましたが、それはどんな準備もなしに突然訪れ、どのような宗教教義とも結びついていませんでした。)
聖霊体験がほんものかどうかを簡単に識別する客観的手段がない以上、おっしゃるとおり、果実を見てその木を知る、のが最も確実な方法と言えるでしょうし、その際「神の力は人々を結びつけ、悪魔的な力は人々を分かつ」というのが一つの基準になるだろうという考えには、私もまったく同感です。(なお私は感情を刺激するなどの人間的手段によって生じる、いわゆるエクスタシー体験は信用していません。)その意味で、たとえばマザー・テレサは、間違いなく聖霊の働きを受けていたのだろうと感じます。彼女は宗教によって人々を分けませんでしたから。
ところで、ご返事がいただけたので、もうひとつまったく別の質問をさせてください。
最近、トマス福音書や、マリア福音書などに関する研究の書物を興味ふかく読んでいますが、最近の報道では、「イエスの墓」(イエスに子供がいたという推測を示唆するらしい)に関するテレビ番組が米国で近く放映されるらしく、インターネット上に、早速それに関するサイトがつくられています。
キリスト教教会は(カトリックもプロテスタントも)もちろんこれらの報道や、教会のドグマの正当性をおびやかしかねない学問的研究に対して、(中世のように弾圧はできないでしょうから)完全無視の態度をとり続けるのではないかと私は思いますが、Sekkoさんはどう予想されますか? また最近の研究の進捗状況から考えると、これらの説に対していつまでも反発や無視ではすまされなくなり、(決定的な証拠はなかなかでないでしょうから)時間はかかるかもしれませんが、かたくなな態度だけでは、将来ガリレオの天動説に対して地動説を守り続けようとした教会のような立場におかれる危険があるのではないかと思いますが、どう思われますか? もちろん個人的なお考えで結構です。

聖霊について

Sekko · 2007-02-24 23:55:52 UTC+9 · 投稿 #115

なかなか微妙な問題です。特に近頃、たましいがどうとか前世がどうとかという言説が日本で無批判に出まくっているので、「実証不可能なこと」との関係性についてすごく気になってます。「実証不可能なこと」、たとえば先祖霊の姿とか聖霊とか守護天使とかオーラとか、そういうのを信じること自体は人間性の一部だと思ってます。自分が霊に接触したとか御出現を見たりお告げを聞いたと信じることも、人間の認知のメカニズムから言っても、大いにあると思います。でも、ある特定のAさんにだけその能力がありAさんの言うことだけが真実だと、Aさんでない多数の人に信じさせるのは、組織や制度の問題だと思うんです。
西方カトリック教会に関しては、はじめは使徒による洗礼を受けていない人には後から使徒が按手して聖霊を与えるというやり方から、聖霊は堅信(confirmation)にシフトしていきました。
堅信の歴史については研究書があります。洗礼でも聖霊パワーをもらえますがそれは神の子にしてもらえることで、その後「霊的な成熟」を経てから、堅信式で司教によって、キリスト者の使命を果たせるように聖霊パワーをもらいます。聖霊の七つの賜物といって、イザヤ書(11.2-3)にインスパイアされたもの(知恵、分別、力、思慮、勇気とか)を受けることになってます。
とにかく制度化された聖霊の授与はこの司教による堅信式がメインになっていて、これについては司教が聖霊の授受を管理しているわけです。その他に、確かに、気のように、宇宙エネルギーのように遍在している聖霊のイメージも確かにありますが、組織できない個人の体験は、普通は「実をもって木を判断する」と処理されるのでしょう。あと、集団で聖霊が降りてくるのを待って、口々に異言を発するってのも、聖霊降臨以来、キリスト教系世界でいまだにいろいろな形である現象ですね。しかし問題は、そのような聖霊の降り方とか受け方が、人々をばらばらにするのか、結びつけるのか、ということではないでしょうか。旧約の神がバベルの塔を壊して人間たちが互いに言葉が通じなくなったというエピソードと、キリスト昇天後の聖霊降臨で人々が世界中の言葉を話せるようになったエピソードは、一種「対」になっていて、聖霊ユニヴァーサリズムの可能性を語っているものとして平和への希望を抱かせてくれます。聖霊降臨に異宗教間対話の根拠を見ようとする本を読んだことがあります。参考にコピーします。

De Babel à Pentecôte. Essais de théologie interreligieuse, Claude Giffré, Paris, Cerf, Coll. "Cogitatio Fidei" n° 247, 2006, 363 p., 39€.

聖霊

Rozak · 2007-02-24 21:07:43 UTC+9 · 投稿 #114

Sekko様、「ヨーロッパの死者の書」「聖女伝」「聖者の宇宙」を読んで啓発されることが多く、とても感銘しました。
ところで質問ですが、イエスの死の後で使徒や信者に自分たちの信仰に確証を与え、勇躍困難な伝道に赴かせた最大の原因となる事件は、五旬祭における聖霊降下の体験だったと思われます。そして使徒たちは、その後の伝道において、聖霊を受ける体験を重視し、祈りや按手などで、信者に聖霊を受けさせようとしたことが使徒行伝からわかります。
しかし聖霊を受ける体験は、その後次第に下火になっていったようです。その理由はどこにあると思われますか? またその経緯に関する研究がありますか?
このことは、その後三位一体説によって聖霊をいわばイエスに限定しようとした問題含みのニケヤ公会議、そのなかに聖霊への言及がない信者信条を定めた第2回公会議への流れと密接に関係するように私には思われます。
さらに聖霊との直接接触を望む聖者願望者を修道院に囲い込もうとしたカトリックの方針とも多分関係するでしょう。

聖人のお話で

Greencurry · 2007-02-23 00:40:11 UTC+9 · 投稿 #113

Sekko様、ご回答ありがとうございました。(って、いつの話~?!という感じですが。すみません、なかなか時間がとれなかったのと、あまりのご名答に頭が固まってしまいました。。。)
で、拝読して、連想したのですが、仏教においてのお地蔵様の役割です。あまり仏教に詳しくないので確かではないのですが、お地蔵様は衆生を天国(?)へと導いてくれる存在らしいです。
なんでも、悪いことをして閻魔様によって地獄行きを決定されたときなども、「そこをなんとか」と閻魔様をとりなしてくれて、地獄に落ちないように努力してくれて、「今度は正しく生きるのやぞ」と導いてくれるそうなのです。
あと、ダライ・ラマ法王さんがよく「慈悲の心、利他の心」と言ってます。
人を救うのは常に慈悲の心なのかなぁと思いました。
ありがとうございました。

ラテン語ミサについて

Sekko · 2007-02-18 21:18:19 UTC+9 · 投稿 #112

どうも、バロックの本から変なとこ引用しないでくださいよ、ぐずぐずだらだらなんて、誰のことかと思ったら、私なんですね。赤面。今はそんな生活卒業、といいたいところですが、今もだらだらモードは基本で、もともと脱力系なんです。しかもだんだん猫化して、自己嫌悪もなくなりつつあります。
それで、ラテン語典礼ミサですね。『ドリアングレイの肖像』を例に引いておられますが、私の場合は、仏文に近くてキリスト教に興味を持った普通の日本人ならかなりの確率でそうだと思いますが、ユイスマンスの『出発』(田辺貞之助さんの訳あり)に出てくる、カトリックに改宗したユイスマンスの分身であるデュルタルという主人公がこれでもかこれでもかと書く、パリのサンシュルピスやサンセブランの典礼の美しさに強い印象を受けました。彼は礼拝の華麗さの中に神の恩寵とか召命とかを聴くのですが、まあ美に淫しているのと霊的幻想を自分で統合した面もあります。
個人的には、音楽や歌が充実してる礼拝はもちろん好きです。と言うより、全然自分で歌うチャンスのない典礼って苦しいのではないかと想像します。特に修道会なんかで、来る日も来る日も、日に何度も聖務があるとしたら、コーラスの充実してるとことか音楽への関心の高いとこを基準に選ばないと私には無理です。もし自分で修道会を作るとしたら、フランス・バロックのモテットとかを駆使した、歌手や楽器奏者の充実した典礼にして、収入源は修道者による音楽教授とコンサートにしたいです。私がこういうと、そこに入れて、という仲間が何人かいました。そういうバロック時代のモテやミサ曲はみなラテン語ですから、そういう意味では当然ラテン語に親近感があります。また日本からルルドに来る人に、ラテン語で祈ると他の巡礼者と共通語になり、連帯感ができてうれしいという話も聴きました。隠れキリシタンのオラショとか、ラテン語の名残をきっちり伝えてて感動ということもあります。
そういうことは別として、私は古式豊かなミサを特に探していくということはないです。ミサ曲のコンサートには行きますが。なぜなら、やはり、フランスでは、B16になってからやや変わりつつあるわけですが、ラテン語ミサ=教条主義者という図式があって、そういうとこに集まる人には違和感を感じ、警戒心を覚えるからです。何ごとも、「こだわる」と「とらわれる」ことになりがちで、そこに単なる美意識だけでなく宗教心が加わると、なおさらやっかいだと言う認識もあります。
第一、典礼だけ言うと、カトリックよりも東方教会のほうが壮麗豪華なものが多いですし、実際、清貧の中で福祉活動をしているパリのカトリックの修道院でも、礼拝は東方教会風で「この世で天国を垣間見る」風の立派なものにこだわっているところもあります。また、貧しい国の教会も、儀式の壮麗さで非日常的な祝祭空間を提供し、信仰心の支えとなっているところもあります。時代や場所や、人それぞれの欲求に応じていろいろなチョイスがあるのがいいのかもしれません。私の個人的な状況では、戦争も飢饉もない場所で、劇場にも美術館にもアクセスのいい年中祝祭のような大都市でばかり生活してきたので、宗教にまで美を要求しようとは思わず、典礼はニュートラルでシンプルで分かりやすくてさりげないのでOKです。その点フランス語の普通のミサは日常と乖離してないのでナチュラルかなあと思います。日本語のミサは翻訳のカタカナ世界で外界と比べて特殊感が残るかもしれません。文語の祈りとかはそれなりに伝統感があって好きですが、一度イグナチオのフォークミサに顔を出しましたが、美的には「けっ」という人もいますが、私は何でも歌えたら好きです。要求水準が高くありません。後は、massimoさんと同じく、フォークロリックな興味はすごくあるので、そういう意味では、ローカルでディープな典礼を拝見するのは大好きです。
でもスピリチュアルなものと美しいものを結びつけようとする人間の心理は重要な意味を持っていますね。真善美が一体化するという直感はすてきですが、それがまた真善美原理主義みたいなものに傾かないよう要注意かなとも思ったりします。

Amsterdam kara

Massimo · 2007-02-18 06:06:28 UTC+9 · 投稿 #111

"Katazukeru beki shigoto ga takusan ari, karada no guai mo waruku nai noni guzuguzu daradara to sugoshite jiko-ken-o ni naru toki ga aru."---'Barokku ongaku wa naze iyasunoka' 182page--
Masashiku koko suu-shuukan no watakushi no shinkyo desu. Tabun Oranda no tenki sei deshou ne.
Jitsu wa 3 shuukan mae ni, hisashiburi ni Paris de shuumastu o sugoshimashita.
Nichi-youbi niwa, yuujin ni sasowarete St.Gervais St.Protais Kyoukai no missa ni shusseki shimashita. Fransu-go ga wakaranai nagara mo jikken-teki na reihai wa srenari ni omoshiroi mono deshita.
Hontou wa, watakushi hitori de Raten-go (latin) no missa ni yuku tsumori de imashita. Watakushi ni totte Fransu-go yori wakari yasui koto mo saru kotonagara, dentou-teki na Raten-go no missa wa esoteric na miryoku ga arimasu.
Oscar Wilde no "The Picture of Dorian Gray" no naka de, Dorian ga Katorriku no tenrei ni miryou sareu byoushya ga arimasu ga, choudo ano youna kanji o oboe masu.
Motomoto mizoku-gaku (folklore) ni kyoumi ga atte,kirisuto-kyou ni kagirazu shuukou-girei o miru nowa suki nano desu ga, sore towa betsu ni, Takeshita-san no "Seijyo no Jouken" no naka de shoukai sarete iru, Garia-tenrei no St.Rita kyoukai ya, Quartier Latin ni aru St.Nicolas du Chardonnnet kyoukai nado, koshiki ni nottota reihai ga totemo suki desu.
Fransu dewa, dentou-teki na tenrei ni kan shite dokuji na kangae kata ga aru you ni kanji masu. toki niwa sono utsukushi-sa no tame ni Uyoku (Right wing) no propaganda ni tsukawaretari...
Soko de shitsumon desu ga, Takeshita-sama wa dento-teki na tenrei (reihai) ni tsuie don-na fuu ni o-kangae desuka? Kore, jitsu wa mae kara ukagatte mitakatta koto desu.
Itsumo nagara yominikui roma-ji deno shitsumon go-youshya kudasai mase.

聖人について

Sekko · 2007-02-11 03:27:14 UTC+9 · 投稿 #110

キリスト教(といっても特にローマ・カトリックの話ですが)の聖人信仰は確かにそれ以前にあった多神教の神々を置き換えた面があって、得意分野別というのがあるにはあります。そして、その分野別やら、また自分の洗礼名や出身地や職業などの守護聖人をひいきにして祈願するというのはよくあることですし、この病気にはこの聖人が効くという本なんかも出ていますから、気軽に(あるいは必死に)祈ってる人もいるでしょう。別にその聖人のチャペルのあるところに行ってろうそくを捧げなくてはいけないということもないです。でもそうしたら、もっと「効く」ような気がするのは東西を問わず同じですね。ただ自分と相性のいいマイ聖人を信仰している人もいます。詳しくは『聖者の宇宙』をご覧ください(今年中に文庫化される予定あり)。
それで、話の核心はこれからです。実際、困ったときの神頼みという民衆のレベルでは、自助努力や自己責任のピューリタンや無神論者と違って、カトリックの人や大多数の日本人は、まあとりあえず祈願しとこう、いいということには何でもすがろうという、同じ行動をとります。でも、今は21世紀、ちょっと考えたら、合格祈願することでみんな合格するなら試験は存在しないようなものだし、年に一回5円や10円の賽銭を投げてすべての人が学業成就とか病気の平癒とか商売繁盛とか、機会均等にかなえてもらえるとは、だれもすごく真剣に信じてませんよね。この辺のあまりのムシのよさというのを、みなどう処理しているのか、あえて考えないでスルーしているのか、私はいつも疑問でした。初詣の人ごみの中で、中には病気の快癒など真剣に祈って千円札を投げている人もいるのに、私のどうでもいいような願いを神が気にとめるはずがない、優先順位というものがあるはずだ、あるいは人事を尽くして天命を待てというように、まず努力をし尽くしてどうにもならなかった人が救われるべきだ、となんとなく思っていたのです。
ところが、キリスト教の聖人信仰には、その基盤に「代祷」というのがあるのです。その根拠がはっきり現れてるのは旧約のヨブ記の42-7~9 です。簡単にいいますと、ヨブは神の前にすごく善人で、彼の3人の友人たちは、悪いやつなんです。それで神は悪い友人たちに腹を立ててます。当然彼らは神に懲らしめるだろうと思いきや、神はこういいます。「私はお前たち3人に対して怒っている。・・・・しかし、今、雄牛と雄羊を7頭ずつ私のしもべのヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえを捧げれば、私のしもべヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。私はそれを受け入れる。・・・お前たちに罰を与えないことにしよう。」そして彼らはそれを実行し、神はヨブの祈りを受け入れました。
分かります? 神の怒りをかっている悪いやつでさえ、聖人にとりなしてもらえたら、助かるんです。代祷システムとはこういうことです。そこを踏まえないと、何か、聖人信仰は多神教みたいでまずいから、ヒエラルキーをちゃんとするために、聖人に祈るのは聖人を通して神の恵みを祈っているという建前にして一神教の筋を通してるんだろうとか考えがちです。でも、代祷の本当の意味は、救いに値しない罪ある者も聖人の徳に免じて(あるいは便乗して)救ってもらおうというところなんです。日ごろ何の努力もせずに自業自得で窮状に陥った、日ごろ神に感謝を捧げていたわけでももちろんない、常の行いも正しくない、むしろ、後ろ暗いところがあるし、たたけば埃も出る、そんな人が、それでも、願いをかなえてほしい、と直に、神に祈願したらどうなります? なんか、だめに決まってるというか、やぶへびで、罰が当たりそう、大体、今の窮状がすでに神に下された罰だったりして・・・ と私なんか思っちゃいます。
そこで、聖人の登場。私はこの通り、救いに値しない人間ですが、聖人さま、生前苦労をしのび、神に仕え、我欲を捨てたあなたさま、ちょいと神さまに無理をきいていただけませんでしょうか・・・・というのが、代祷のプロセスなんです。これ、わりと好きです。自分が神の覚えがいいとはとても思えないけど、仲介人として評判のあの聖人に頼めば・・と、もちろんこれもムシがいいんですが、それなりに腰が低い。祈願の根底には、どこかに謙虚がないと落ち着かないと思うんです。そうでないと、お金がほしいと神に頼んだ、帰り道で1万円拾った、わーい、ラッキー、ということになり、ラッキーは自分の幸運で、別に神に感謝という心につながらない(というか、1万円ネコババしていいのか?)。ともあれ、「神と私」ってなんか勝手に特権関係を幻想して、願いをきいてもらえて、とか思い込むより、全然へたれの私、ツールとしての立派な聖人、ルールとしての祈りや捧げ物、その向こうに立ち現れるかもしれない神、コミュニケーションとしての恵み、という複合した関係がいいなあと思うんです。
ちなみに、それでは、凡夫は祈りにおいて、ひたすら聖人に便乗してればいいのかというと、それはたとえばこう言われております。イエズス会のルイ・ブルダルー(1632-1704)という人がその著作『万聖節の説教』という本の中で、「神は、天国にいる聖人たちに、地にいる信者のために祈るように命じられた。そして、地にいる信者たちは、煉獄で苦しんでいる死者たちのためにとりなしの祈りをするよう命じられた」と言ってます。つまり、生きてる人たちは、罪を重ねつつ、聖人にとりなしてもらうことで、なんとか生き延びていますが、死んでしまうとさすがにこれまでの悪行があるので、天国へ直行というわけにはいかない、煉獄で、懲役みたいにお勤めしています。それを見越して、生き残った人たちが、死者のその刑期が短くなるように祈るのです。これは直接神に祈ってもOK。なんといっても自分のことじゃないから、無私の徳で効果も期待できます。日本の仏教で、生前何の戒律も守らず煩悩に溺れて殺生しまくっていた人たちが、死ぬとあわてて戒名をもらって、49日の中宥の期間に、残された人たちががんばって回向して供養して、晴れて成仏してもらうというのと似てます。カトリックの死者もこうやって、煉獄から出してもらって、無事天国にたどり着き、今度は自分も聖人の端くれとして、生きてる人の祈願のとりなしをする側に回るわけです。祈りの連鎖、救いの連鎖です。
人は自分のためには有効に祈れない、という感じがします。いつも他人のために祈り、また自分のためには他者や、聖人たちが祈ってくれる。「神と私」ではなかなか無理な気がするし、他のもっと必死な人や有徳の人の「神と私」にまけそうな気がする、しかし、自分の犠牲や自分の善行を他の人のために役立てるのなら、少し有効かも、と思えます。祈りや恩寵は、こうしたネットワークの中で大きな力を持っていくのかもしれません。
自分のことはできるだけ自助努力、困ってる人、苦しんでいる人、死んだ人たちのためには祈る、利他の祈りなら有効だと信じる、これはすなわち、聖性というものを認めるということです。たとえ普段は聖性と正反対の生き方をしていても、聖人がどうして神の覚えがよいのかをみんながどこかで納得している。利他を聖として認める、こういうスタンスがすきです。

合格祈願

Greencurry · 2007-02-10 21:38:17 UTC+9 · 投稿 #109

こんにちわ。いつも楽しく拝読しています。日本は今受験シーズンです。この時期に神社などへ行くと「合格祈願」だとか「合格お守り」だとかの文字がよく目に付きます。
で、ふと疑問に思ったのですが、キリスト教の方々は目的に応じて行く教会を選んだりするんですか?「聖女の条件」の中でリタを聖人としている教会に訪れる人が多いというお話は載っていましたが、例えば私なんかは学問の神様は菅原神社、病気平癒ならここ、縁結びはあっち、という風にいろいろ使い分けていますが(←神様に失礼?)そういうことをキリスト教徒の方もするのですか?
私は聖人の話を読んで、日本の神道の神様みたいだなぁと思いました。聖人も神様も得意分野があって、それにあわせて人々に利益を与えている感じがして。
でも、フランスでどこの教会へ行っても、神社のように看板があって「聖人:○○、○○に効きます」なんていうのは見たことないし。日本のように気軽な感じではないのでしょうか?

ミスです

Sekko · 2007-02-09 18:30:56 UTC+9 · 投稿 #108

ご指摘ありがとうございます。タイプミスによる誤変換がそのまま通ってしまったケースですね。残念ながら、どの著作にもこのような単純ミスはもちろん、勘違い、思い違いを含めいろいろなミスがあります。こちらで把握してるものも読者に指摘してもらったものもあります。重版で訂正できたものもありますが、いずれ、正誤表をこのサイトに載せるつもりです。単純ミスはまあいいのですが、事実関係の誤認もたまにあって、申し訳なく、気になっています。ミスに気がついた方は、質問箱ではなく、著作紹介の感想コーナーに入れてください。正誤表に反映させます。なお、この質問箱では、人生相談などはOKです。このサイトは、ネット上の健康相談に感激した後、自分も質疑応答のボランティアができたらという動機から作ったものなので、そのへんをよろしく。

不思議の国

ふじやさだすみ · 2007-02-09 08:19:10 UTC+9 · 投稿 #107

サウジアラビア」読了。P.187[常住坐臥」は行住坐臥では? 然し、坐臥に常住はアラビアならでは。ともあれ、ペラペラに軽い著作の濫発は玄侑宗久に変る所無し。HPが派手な所も共通。とはいえ、開けて看る様では、やはり浮薄。慙愧。

Bikkuri shimashita

Massimo · 2007-01-09 21:21:17 UTC+9 · 投稿 #105

Sou dattn desuka. Etienne wa Stephen datta towa souzou mo shite imasen deshita. Benkyou ni narimashita. O-tazune shite yokatta desu. Totemo kuwashii o-kotae o arigatou gozaimashita.
Jitsu wa, nafuda niwa tsuzuki ga atte, "S.Etienne de Mur???" to aru node, sakihodo "stephen" no keyword de kensaku shita tokoro, kare wa St.Stphen of Muret (St.Etiennede muret) to iu10seiki no shikyou datta koto ga wakari mashita.
Saishyo no junkyou dewa nakatta keredo, mattaku betsu no jidai, betsu no bashyo de ikita hito no jinsei no konseki to kakwatte iru nnoga totemo fushigi na kanji desu.
Itsuka St Etienne no yukari no chi o otozurete, jimoto no kyoukai ni sei-ibutsu o kizou dekitara kuyou ni narukana, nadoto kangaeru watakushi no seishi-sei wa kanari nihon-teki desune.

St.Etienne

Sekko · 2007-01-09 13:04:14 UTC+9 · 投稿 #104

サン・エチエンヌは、町のサッカーチームが強いので、検索しても真っ先に町の名が出るんでしょうか。でも、すごくメジャーな聖人というか、使徒です。最初の殉教者といわれる聖ステファノ、ステパノのフランス語読みです。石打刑で死に、使徒言行録に書いてあります。聖人の名はヨーロッパ各国でそれぞれ読み方が違いますが、(ペトロがピエールとかピーターとかピョートルとかパブロとか・・・)確かに、ステファノとエチエンヌは想像つきませんね。ステファノは有名だから、フランスにもステファンヌという男の名があります。Stephanと書くんですが、an はフランス風鼻母音でなくアンで、フランス人は「ン」をうまく発音できないので、ステファヌと聞こえます。ドイツならシュテファン・ツヴァイクとかいますよね。英語圏ならStephen となり、ステファン・キングとか。とにかくメジャーな名です。フランスではエチエンヌもステファヌも女性名っぽい響きですが、一応男性名です。女性ならStephane と語尾にe がつきますが発音は同じですね。なぜ、ステファンがエチエンヌなったかという音韻変化の話はまた別のことです。Massimoさんが最初の殉教者の骨を持ってらっしゃると想像するのは楽しいですね。