2007年の投稿

まず、御用ありきでして・・・

vino · 2007-10-08 10:01:26 UTC+9 · 投稿 #259

このマルタとマリアのお話はいつも胸に深く染み込んでおります。まだまだ私程度のレベルですと、礼拝中も<この後、あの件を○○さんに確認して、来週のあの事を××さんと相談して・・・>という感じで教会へ出掛けるイコールまずは御用!!になってしまいがちです。神様にはちょっと失礼しちゃう事ばかりです。いくつかの事を同時進行でできる能力はそうそう授かるものではないですよね・・・。思えば、求道中の方が今よりもずっと素直で熱心でした(笑) キリスト教は逆説の信仰とも言うそうですからボチボチと、できる人ができる時にできる事をするよりないのでしょうね。

マルタの話

Fusako · 2007-10-01 23:02:06 UTC+9 · 投稿 #258

最近、キリスト教の女子校出身の友人たちと、一人は同窓の友人、一人は別の学校の若い友人と話す機会があって、「猫のソシアル」に出ているたとえ話のことをきいてみましたら、二人とも、マルタの話に納得できなかった、とやはり言っていました。わたしも含めて、三人とも、学校時代はキリスト教にも、お嬢さん学校的女子校の雰囲気にも反発していた口で、若い人は、「不合理なたとえ話」にはいまだに納得できないようでしたが、同窓の友人は、わたしと同年代でけっこう大変な暮らしを経てきていまだにタイヘンという人で、わたしもですが、自分が「10タラント」の人間とは特に思わなくなっているし、まあ、人それぞれがそもそも同じタラントで一直線上に並べられるものでもないと思うようになっているので、「なかなか味わい深いものがあるたとえ話よねー、信者じゃないけど、若い頃にキリスト教に触れたのは良かったわ」と二人でうなづきあった次第でした。

キリスト教徒の歴史観

迷える大羊 · 2007-10-01 22:48:22 UTC+9 · 投稿 #257

ここのところ、カトリック教会ではペトロ岐部、原主水などの戦国末期から江戸時代にかけての殉教者がよく取り上げられまして、ちょくちょく覗きにいく教会でも、ゆかりの地の巡礼ツア-、遠足などをやっていたりしますね。。

もちろん、この時代に殉教していった多くの信徒や司祭は個人としては純粋に頑張った、立派とも思います。だけど、私の歴史観だと、だからといって、キリシタンを弾圧した秀吉、家康や江戸幕府が単純に血も涙もない極悪非道な連中で、キリシタン、キリスト教側がこれまた単純に一方的に苛められるばかりの善意の人たちばかり、とは思えないんですよね。

キリシタン大名の領地では逆に仏教神道が迫害されて、神社仏閣が破壊されていましたし、ロ-マ教皇に土地を寄進までした大名もいたし、あの当時のキリスト教、宣教師といえば、植民地獲得の露払い役的な役割があって、現にフィリピンなどその土地の伝統文化、宗教がすっかり破壊されてしまって、国名までスペイン国王の名前になっちゃったわけですよね。(後の時代のハワイなどもやっぱり伝統文化、宗教がすっかりなくなっちゃいました)

それにキリスト教って今でも、他宗教、他の伝統宗教に対し、非常に排他的な態度を取る信徒、聖職者が少なからずいますよね。まして、この時代ならなおさらで、ザビエルはじめとする宣教師たちも、キリシタン大名の領地で仏閣、寺院が破壊されることを褒め称えていたわけで、私など、この時代、日本がキリスト教国にならなかったのはむしろ幸運なこと、今でもキリスト教徒の人口比1%以下なのは、残念でもあるけど、一方で一つの国としてはある意味では健全、精神的に独立している証拠で必ずしも悪いことじゃないな、とも思っていたりします。

大体、同時代(戦国末期~江戸時代初期)に逆に日本の僧侶や神官があちら(ヨ-ロッパ)に行って、自由に仏教や神道の布教活動ができたのかどうか?同じキリスト教内でも異端だ、魔女だとかいって殺し合いしてましたし、キリスト教徒でなくなる、つまり教会から破門されることは、社会生活が営めなくなることを意味するわけで、だからこそ、ガリレオも涙を呑んで、地動説を撤回したわけですよね。こんなところにとても、他宗教が入る余地があったとは思えません。多分、寺院を建てたり、信者獲得の間もなく、あっという間に逮捕、宗教裁判にかけられるのがオチであるような気がします。

それに対し、日本ではある期間まではキリスト教の布教活動ができたわけで、それなりにある程度までは受け容れられたわけですよね。秀吉や家康にしても最初からキリスト教迫害をしていたわけではなく、当初は好意的だったり黙認していたりしたわけで、この時代に関していえば、日本の方がどう考えても、キリスト教国のヨ-ロッパより、今でいうところの「信教の自由」があり、宗教的には寛容だった気がします。

要するに、話を戻せば、多くの殉教信徒や殉教司祭の頑張りはわかりますが、単純に感動できない、むしろ迫害する側の考えもわかる気がするなぁ、というのが私の歴史観なんですけど、こういう考え方をする人間ってクリスチャン、カトリック教徒としては受け難いですかね?そりゃ、まあ、保守的な人にはいい顔をされない考え方でしょうけど・・。

日本のキリスト者の責任

Sekko · 2007-09-30 00:24:07 UTC+9 · 投稿 #256

私は昔は日本でいわゆるキリスト教関係の人、と付き合いがなかったので、キリスト教のコミュニティにはじめて参加したのは、フランスです。特に、フランドルなんですが、その村は、もう何世紀も、カトリックしかないんで、全員カトリック、まあ、キリストは氏神みたいなもんで、信者コミュニティはそのまま町内会みたいなものです。

だから、当然、立派な人、いい加減な人、あきらかに悪いやつ、など、人の数だけいろいろいるわけで、その上田舎だから、へんな呪術みたいなのやっている人までいましたね。そんな村の出身で、スピリチュアリティに目覚めた義妹は、パリにでたあと、チベット仏教のコミュニティに入ってしまいました。

彼女の指導ラマであるチベットのお坊さんは、家族の洗礼とかある度フランドルの教会にも出入りしてました。

フランスでチベット仏教やれば当然マイノリティなので、変な行動を取れば即カルトだと思われるから、倫理規範というか外から見える「正しい行動パターン」が自然と要求されます。カトだと、日本の浄土真宗とかと同じで、そういうプレッシャーはないですから。でもたまに、いかにも信仰が篤くて、いつもせいいっぱい誠実に篤実に生きていて、ああいう人だったら、死ぬのも怖くないだろうなあ、と羨ましくなる人もいます。それは、どの宗教でも同じでしょうね。

日本だと、キリスト教がマイノリティなので、日本でキリスト者、っていうと、その人の生活態度とかが、「信者だからああなのか」と思われがちですから、何か、責任のようなのがでて来ますね。

でも、理想は、人間として誠実に生きていて、人の信頼を得て、後で、あの人、カトリックなんだ、じゃあ、あの人の信じてるものを信じてみようかなあ、と人に思わせるような展開でしょうね。

でも、最終的には、何教とか何の宗派なんてことよりも、愛とか連帯とか、弱者を支えたり、弱者に譲歩したりとかいう精神を実践すること、それが一番じゃないでしょうか。そのためのガイドラインなら、宗派や文化の違いはこだわらなくてもいいんじゃないかと思います。

何かに帰依したからといってそういう行動が自動的に獲得されるわけでないのは当然で、でも、理想があるからこそ、多少ともいい方向に向かえるんで、規範がなければ人間なんて、どんどん悪い方、下劣な方に流れますからね。
各種の戒律って、すごい智慧かもしれません。

あっ、ほっといてもまっすぐな人間ってのもこの世にはいますよ。何してもねじくれてる人もいるように。だから、連帯、が大事なのかも。

麻生太郎さん

迷える大羊 · 2007-09-28 21:32:27 UTC+9 · 投稿 #255

復活をどう捉えるか、は本当に難しいですね。どんなにリベラル、現世的、合理的な考えをする教派でも、これを否定はできないし、否定してしまうと、どうして、卑怯だったり愚劣だったりした弟子たちが、殉教も辞さない強固な信仰の持ち主になったか?の説明がつかないし、実際、キリスト教が成立することもなかったでしょうし。といって丸呑みしてしまうのもこれまた受け容れ難いものがあるし・・。

ところで、話が変わりますが、自民総裁選で惜しくも敗れてしまった麻生太郎氏。政治家として彼を特別支持しているとか、人格的に敬服しているってわけではないのですが、彼をみているとホッとすることが多々あります。
つまり、「ああ、こういう人でもキリスト教、カトリック教徒やっていられるんだ」という意味で(失礼!麻生さん)。

ほら、なんとなくあるじゃないですか、日本でキリスト教徒、というと下品なこと、特に下ネタ禁止、いつも穏やかで人格円満、ビジュアル面では男性の場合は開祖イエスを筆頭に優男風のイメ-ジ、あるいはマザ-テレサのようなやたらと立派な人、ボランティア精神あふれた人、みたいな・・。

麻生氏の場合、こういう日本におけるキリスト教徒のイメ-ジをことごとく打ち破ってくれる、という意味で「すばらしい」クリスチャン、カトリック教徒だ、と思うわけです。何しろ口が悪くて余計な敵を数多く作ってしまう、人相も大変失礼ながら、どちらかといえば悪役風、少なくとも優男風のイメ-ジでは全くない。弱者救済に特別熱心、という風でもないし(別に批判も肯定もしているわけではないです、口や言葉でいうほど簡単なことではないとおもいますし)上にマンガオタク・・。

かくいう私も、下ネタ大好きでスケベですし、ボランティア活動など立派だ、とは思うけれど、自分自身がやるとなると、住んでいるマンションの管理組合の役員程度でもメンドクセ-、なんで休日にこんなことせないかんの、とぶつぶついうタイプ。電車でも、誰がみても明らかに身体が不自由で、という方なら別ですが、お年寄りを見ると率先して席をゆずり、なんてタイプでは間違ってもない。
マザ-テレサ氏など、あまりにすごすぎてとても同じ人間とは思えない、感じです。また、腹の立つことをいわれれば相手が年長者、上司でもつい声を荒げ、場合によってはケンカもしてしまいますし、「右の頬を打たれたら、左の頬を・・」なんて心境は実感としてさっぱりわからないですしね。

あと、麻生氏の場合、キリスト教徒ですが、靖国公式参拝も行ってます。政治家の靖国参拝の是非については、これまた議論がいろいろ割れるところで単純にどうこういえる問題ではないですが、神社仏閣というと、異教、偶像崇拝、真の神ではない、などといって切り捨てるクリスチャンと出会うことが多かった私には、政治の問題とは別に「ああ、こういうキリスト教徒もいるのか」という感じで、むしろ、ホッとする要素だったりします。

つまり、復活信仰と並んで私にとってのキリスト教への障害である、やたらと高邁な道徳律、倫理観、唯一神への窮屈きわまりない絶対服従を要求されて、重苦しい毎日を送らなくてはならないのでは?という憂慮を身をもって取り除いてくれる存在、ということで、麻生氏は私にとって貴重な存在なのです。

もっとも、政治家、芸能人、文化人などの著名人のイメ-ジって多分に作られたものもあると思うので(特にメディアが高度に発達した現代では)、本当の、素顔の麻生氏がどういう方なのかは存じません。あくまでメディアに露出したイメ-ジを前提にしたお話であることをお断りしなくてはなりませんが。

お気をつけください

Sekko · 2007-09-24 23:56:57 UTC+9 · 投稿 #254

この直前、1件削除しました。このコーナーを宗教の掲示板として使うことはまったく問題ありません。しかしあくまでも竹下節子の考え方のシンパであることがこのサロンのメンバーの条件です。ここでは、いっさいの勧誘や布教はしませんし、どこかの宗派をめぐる内部の対立も持ち込まないようにお願いします。建設的でないもの、適切でないと判断したものははすぐ削除します。

さて、復活についてですが、復活を物理的事実として原理主義的にしがみつくあまり一人の人間だったイエスの人生の意味を無視する人たち、また逆に「人間イエス」にのみ固執して復活は宗教的蒙昧や単にシンボリックな者として切り捨てるグループ、どちらも本当のミステールが見えなくなる危険があります。

少なくとも最初の弟子たちがイエスの体の復活を事実として見て、信じた、そこからキリスト教が生まれ、それを語ろうとしてイエスの記録である福音書も編まれたのですから。復活が事実かどうかとは別に、復活を事実とした使徒たちの確信を抜きにしてはキリスト教は語れないと思います。
そのイエスを神としたリ、唯一の救世主キリストとしたのはまたその後の展開です。まあ、刑死した人が復活、子なる神とされる、というかなりアクロバチックな展開のおかげで、偉大な神、裁く神、罰する神、のイメージから、苦しむ神、悲しむ神、寄り添う神へシフトした部分があるんで、それはなんというか、宗教に、限りないやさしさをもたらしてくれた感じですね。

イエスの死と復活のストーリーとそれを信じた人たちを通して「全知全能の絶対神」の孤独や犠牲とかを考えると、この世で有限である自分の命に対してもなんか、すなおに受け入れられる気がしてくるんです。

学び会(アルファ)など

迷える大羊 · 2007-09-23 00:40:18 UTC+9 · 投稿 #251

学び会2回目ですが、キリスト教最大の難関(?)、「復活」について、でした。我らがニッキ-牧師は復活の意義を熱っぽく語っておりました。ただ、気になるのは彼は復活を物理的にも事実、と思っているのか、それともあくまでも信仰、思想の上での真実、と考えているのか、イマイチ判然としないところでしたが・・

参加者との語らいでは、皆さんは「科学的」な事実、と思っている人はおらず、大事なのはそこにこめられた信仰、思い、願いである、ということで、私にも理解できる考え方をする人が大半でホッとしました。いや、これまで、「これは本当だ、全部、物理的にもあったことなんだ」と言い出しかねない人と出会うことが多かったんで・・・。

あと、ニッキ-氏の話で興味深かったのは宗教離れ、宗教嫌いは必ずしも日本特有の現象ではないこと。ニッキ-氏自身、英国人ですが、若き日はキリスト教、教会のことなど全く無関心で、学生時代のル-ムメイトが、教会に通い出したのをみて「ヤバイんじゃねえの」「変な教えをふきこまれなきゃよいが」と心配したそうです。また、あちら(英国)でも「キリスト教は関心ないけど、イエスはいい人ね」なんて日本人みたいなこという人はゴマンといるようですね。

他には私が、キリスト教とか宗教への偏見、つまり、わけわかんない話を盲信する、みたいな先入感を改めさせてくれたのは、遠藤周作氏の「私にとって神とは」でしたが、私と同年代の方でやはり同じ過程を辿った方がおられまして、話が合いましたね。

塩梅さんの元の教会、お話を聞く限り、私の基準ではこれはもう立派なカルト、一信徒の個人的トラブルのレベルを超えているように思えます。個人的な生ぬるいアドバイスや気休めでどうにかなるような話ではないような・・。どこか然るべき相談機関(例えば宗教、カルト被害者救済のボランティアとか、伝統的教会でカルト被害者の相談に応じているようなところなど)に相談されたことはあるのでしょうか?でも、今更、古傷を蒸し返すのも酷ですよね・・・。

>また社会的にも、信者ではない方々との共存を強く望みます。

私がキリスト教に反発を感じたのは、初詣、七五三、仏式の葬儀の際のお焼香拒否でした。別にそれらの風習に思いいれや思想を持っているわけではないのですが、考え方がイヤです。
それらが、江戸時代の踏み絵のように信仰を試すものであれば、拒否するのも致し方ありませんが、そんな意味を込めてこれらの行事、風習を続けている日本人なんてほとんどいないはずです。じゃあ、キリスト教の葬儀や行事で「俺はクリスチャンじゃないから」といって、祈りなど、キリスト教の伝統をことごとく拒否する人がいたらどう思うのか?そういうこと考えないのかな、なんて独りよがりな、なんて反発がありました、というか今もありますね。

そういう頑なというか、未信者との協調を考えないような信仰をする人が少ない、ということで(それだけではないですけど)カトリック教会に流れたんですけどね。

牛歩ながら。

塩梅 · 2007-09-19 15:56:36 UTC+9 · 投稿 #250

> マスコミ等で騒がれず、いわゆるカルトとされていない、正統派ということになっている教会にも大変問題のあるところが存在するということがわかりました。>大羊さま

あまり書けませんが、今も全国各地で集まりを持っている場所です。残念ですけれども、vinoさま仰るとおりの「単立皇帝牧師」に今はなっておられるお一人というと、もう分かる方に分かるかと。「集まり」、一見開放的なのです。ところがどっこい、入るとまるで違う。これについては賛否両論ですが什一献金。これ、源泉徴収表に書いてある所得(つまり税を引かれる前)からの什一でした。そして、関係著書等の購入やイベントのお誘いのノルマは今思うときつかったです。私はそういうことが得意ではないので、自分の分については他の信者さんの手を借りざるを得ませんでした。そうなると、奉仕活動で補完をせざるを得ません。

しかし、以上のことは『信仰があれば』…つまり本人がやる気なら「本人的に」問題のないことなんでしょう。ただ、信仰生活とは本来別のこの奉仕の部分で、あまりにあまりの部分を見てしまった。スポンサー獲得・信者獲得のためにすることが、あまりに商業的に過ぎて。それも商業なら働いた人にそれなりの報酬が出ますが、信者がやれば奉仕です。「そういう方向に狂ってないか?」という疑念の発端は、集まりの幹部の女性が見た夢の話でした。

”この集まりに相応しい教会堂が与えられる”という夢を。

そして、共同体は「それを正夢にするんだ」という方向に流れたのです。その後、神学校のこと他あり、その女性に「貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」と言われまして。私が出て済むならと思いましたが、しかし今に至るまで、その夢を信じて…祈り、奉仕している信者さんがたの夢は叶ってません。また集まりの主宰者たる某牧師先生については賛否両論あることを出てから知りました。それが分かると、出入りを許してくれない教会もありました。『私のしたことでなく、某先生の名前で居られなくなる』ために、教会ジプシー状態でした。

本当に、<神様は好き、でも教会は嫌い・・・・>状態の年月が長かったのです。

個人的にはもっと単純に、神様を信じるもの同士が、、、と思うのです。また社会的にも、信者ではない方々との共存を強く望みます。勿論、おもねることではなく、きちんとお互い腹蔵ない「対話」をしたいし「相互理解」をしたいのです。あくまで理想論ですが・・・

今まで様々ありましたが、歴史・先人の智恵も通じて学ぶのがいいという結論をしています。
これからの信仰生活のためにも。諸事情あって愚図愚図に伸びていますが、お祈り頂けますと感謝します。私も大羊さまはじめ、これからの方々のために祈っています。

時代差を感じますね。

nao · 2007-09-19 09:18:14 UTC+9 · 投稿 #249

私がカト教会の入門講座にかよつたのは、戦後、10年たらずのころでした。大学生のころです。大阪の中心街、北浜教会でM神父という、素晴らしく信仰心のあつい、ハンサムな方で毎週1回、夢中になつて、かよつたものです。その時はトマス神学を中心としたかなり学問的なもので、毎回プリントが頂けて、何度も繰り返して読んだことをおもいだします。大羊さんの「学び会」のような雰囲気はまつたくありませんでしたが、その頃は、多いに満足したものです。修道院に入る方が続出したのもその頃です。カトリツクだけのことしか、学べませんでしたが、それの弊害よりは、神父の信仰心の厚さが皆の心をしつかりとらえていました。ご自分の書籍(当時、どれだけ大切なものだつたことか!)を講座の日に燃やす石炭にかえられたことも、度々でした。このM神父さんは、ミサ後、出口で一人ひとりに声をかけておられました。話された講座は殆どわすれましたが、神父の祈る姿だけが、くつきりといまでも瞼に浮かんできます。こういう信仰心の厚い神父さんが多くなるように、祈りたいとおもいます。大羊さん、これからもご様子きかせてくださいね。VINOさま、いつも温かいお言葉ありがとうございます。竹下先生はフランスで大多忙の毎日のご様子。無神論、楽しみにいたしております。

よかったですね。

Sekko · 2007-09-18 20:25:17 UTC+9 · 投稿 #248

考えれば考えるほど、大切なのは、宗教の差を取っ払った部分のライシテの中での連帯ってことだと思えてきます。
特定の宗教共同体の内部の連帯、なんて、内部には抑圧的に、外部には覇権的または独善的に向かうのがオチだという気がするんです。

宗教や共同体や社会的階層や立場の枠を超えたユニヴァーサルな連帯、それがキリスト教、というか、少なくともイエスが詩心を持って実践しようとしたものですよね、各宗派はそれぞれの歴史的文化的な産物、あるいは政治的、経済的な思惑の表現でしかありません。だれでも社会的存在であることを逃れられないように、各宗派の枠にありながらも、なおかつそれを超えた理念に眼を向けるのは簡単なことではないですが、永遠の課題、でもあります。

行ってきました、学び会

迷える大羊 · 2007-09-15 12:50:10 UTC+9 · 投稿 #245

カトリック教会の学び会、第一回いってまいりました。正確にいうと、「アルファコ-ス」といって、主に英国教会のニッキ-ガンベル氏という牧師が提唱した、キリスト教入門コ-スらしいです。いわゆるカトリックの公教要理教育とは違います。

最初に奉仕の方が作って下さった夕食を食べ(なかなかおいしかったです)、雑談、話し合い、ニッキ-ガンベル氏の講演ビデオ鑑賞、神父さんのお話、などですね。
進行は信徒の奉仕者の方主体で、神父さんが登場するのは最後のお話くらい。初回の今回は宗教らしい話が出るのは、ビデオ鑑賞のときくらいで、あとは話しあい、コミュニケ-ションに重点が置かれていました。リラックスしたム-ドで、とりあえずは現実のカトリック関係者と交流をする、という私の目的に適った会合で、なによりでした。

キリスト教会はプロテスタントも女性比率が高いのですが、カトリックはそれに輪をかけて高いですね。奉仕者の大半は女性。参加者も女性が多く、男性参加者は、少なくとも私のグル-プは「奥さんが信者、クリスチャンで」なんてパタ-ンで、私みたいな人ばっかりでした(笑)(私同様、未洗礼の方もいました)。プロテスタントからの改宗者も結構いましたね。
彼女の方の評価も「これなら続けられそう」ということで上々でした。

ところで、全く関係ない話ですけど、自民総裁選、麻生氏と福田氏の一騎打ちは福田氏が圧倒的優勢のようで、日本史上初の現役カトリック信者の首相誕生、はなさそうですね。

きれいは汚い、汚いはきれい

vino · 2007-09-12 18:40:48 UTC+9 · 投稿 #244

<神様は好き、でも教会は嫌い・・・・>のもっともな部分を経験されてしまったのですね、塩梅さま。<渡る世間・・・>の文章を読みまして、単立の皇帝牧師のところかしら・・・?と思っていたのですが、どうも、違うようですね。必ず、時が満ちますので、カト~への改宗がうまく行くよう、お祈りしています。私のお世話になった牧師は自分の休暇の時は違う宗派の礼拝へ出掛け、お勉強もされていました。私は現在、教会で<!?>な感じを受けた時は<これも勉強>と、かの牧師にしてみれば、思うだろうなと割り切る事にしています。 さて、海外宣教・・・ですが、日本キリスト教団小松教会のHPに様々な土地の日本語教会のことがとても良くまとめられています。<超教派>のプロ~、多いですが、圧倒的に牧師はF派の方が多く派遣されていますね。どういうシステムで派遣が決まるのか良く判らないのですが、<熱心な伝道>はFのお得意ですから、海外で<救われた>信者さん、帰国後もFに連なる方が多いのでしょうね。 <自分達は良い事をしている>、これ、なんとかならないでしょうか?命を落とされたお二人、とても残念ですし、惨い事件だとは思いますが、土足で神田はるさんのお宅へ伺う・・・のはどんなもんでしょう?旧ソ連のイスラム色の強い辺りにも日本人が宣教に出ているとか、いないとか・・・・。こちらから見ればあちらでも、あちらから見ればこちらがあちらになるのです。私の知らない真理も世の中にはたくさんあるのです。 <揺ぎない真理を知っているから自分は大丈夫>だなんて、それこそ、神をも恐れぬ傲慢ではないでしょうか?

異端とは?

迷える大羊 · 2007-09-12 12:38:13 UTC+9 · 投稿 #243

>大羊さんのキリ~に対するお勉強の姿勢に打たれた部分もきっとおありでしょう

勉強、といいましても、キリスト教のトリビア、雑学的、オタク的な知識が増えただけで、「信じる気持ち」は、未だによくわかりません。賛美歌とか祈りの文句を唱えるのは未だにこっ恥ずかしい気持ちが先に立ち、みんなよく照れずに大声で歌える、唱えられるなぁ、と感心することしきり(失礼!)です(笑)

>ソルトレイク

といえば、多くの主流派キリスト教会から異端扱いされる某教団のホ一ムグラウンドがある街ですね。
話が脱線しますが、キリスト教系教団でよく社会的に物議をかもすのは、このソルトレイクに本拠を持つ某教団、韓国に本拠を持ち、詐欺まがいの商法や特異な結婚式が問題となる某教団、輸血拒否、独特の終末思想、過剰な奉仕、家庭崩壊等が問題となる某教団の三つ。

もちろん、他の主流派教会はこれらの教団のあり方に対し、一般人以上に批判的で、メディアには必ず、この三つの教団とは何の関係もありません、と銘打つのがお約束です。でも、その批判の仕方が未信者の私からすると時々「ん?」と思うことがあるんです。

というのはこれら三つの教団はいずれも三位一体を否定していて(否定の仕方はそれぞれ異なるようですが)、主流派キリスト教会、信徒は「だから、異端で問題を引き起こすんだ」みたいな単純な議論をする人が少なからずみられるんですけど、それって何かピントがずれている気がするんですよね。

部外者からすれば、大切なのは、第一義的には表に出ている彼らの所業、そして、問題のある行為を不断に誘発している教義です。三位一体説を否定していても、表に出ている行動が問題なければ別にどうでもいいんです。例えば、ユニテリアン教会(ユニテリアン・ユニバ~サリスト)はイエスの神性を否定し、三位一体説をとりませんけど、別に何か問題行動を起こしたなんて話は聞かないですし。

逆に、例えば、塩梅さんのかつての所属教会は恐らくは「三位一体」説をとる「正統派」キリスト教会と思われますが、反社会的というところまでいくのかは、なんともいえませんが、非常に問題の多い教会、教団と思われます。私的にはほとんどカルトすれすれ、との心象を抱いてますね。そもそも、異端って言葉自体、時代錯誤、排他的、偏狭な感じがしてあまり好きな教会用語ではないです。

>「貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」

これはイジメだ、と憤ったり、悲しくなる以前に、あまりに時代錯誤な物言いにあきれ果てて、頭がクラクラしてくるような話ですね。
これ本当に現代(20世紀、21世紀)の話ですか?なんだか、中世の異端審問、魔女狩りの話を聞いているみたいなんですが・・・。

>その教会に残った人たちには、当時とてもお世話になっていましたし「仲間だから」という理由であったにしろ、いい思い出もありました

そうですね、以前の思い出まで、記憶から消すことは難しいですよね。ハナから友人じゃなかった、と割り切れ、なんていうのはちょっと無神経なもの言いだったかな、と反省しております。

>金銭問題

これ、非常に気になったんですが、まさか、旧約聖書の一節を字句通りに解釈した、
「十分の一」献金を半強制的に実行しているとか・・??。

塩梅さんのお話には大変、衝撃を受けました。マスコミ等で騒がれず、いわゆるカルトとされていない、正統派ということになっている教会にも大変問題のあるところが存在するということがわかりました。
正直、私は心に傷を負った塩梅さんにはなんといってよいのやら、わからない状態ですが、新しい教会で、一刻も早く苦い記憶が風化していくことを祈ってます。

良かったです。

塩梅 · 2007-09-10 21:18:32 UTC+9 · 投稿 #242

お一人でなくて、お二人で通えるということは本当にいいことです。
その方にとっても、いい出会いになりますように。これは心から祈っております。>大羊さま

うっかり以前の体験…本当に余計な話をしてしまいましたけども、それは…。大羊さん仰るように、F派全体というよりその教会の問題になるのですね。離れてしまった教会は今も存在するので、ネット上での発言は本当、申し訳ありません。その教会に残った人たちには、当時とてもお世話になっていましたし「仲間だから」という理由であったにしろ、いい思い出もありました。

ですので、それを否定出来ない気持ちもあるのです。大羊さんほどにクールになれない情けなさをずっと自分に感じています。

…始末の悪いことに、彼らは「自分たちはいいことをしている」のだと固く信じています。
ゆえに、今はそれをどうしようも出来ない事を分かっているのですが、「仮想敵ありき」のそのあり方、そして金銭問題その他について憂慮しております。
と申しますのは、昔、神学生であった友人がある内紛に巻き込まれ、海外宣教の夢を絶たれてしまいました。そのことに当時の所属教会が関わっていたことを知ったことが大変ショックでした。でも所属教会に抗議をしたくても、彼らは私とその人との友人関係を知ってましたので…聞く耳持つどころか

「今から先生がこの部屋にくるのだけど、貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」

と言われてしまったのです。言われたときはかなり泣きました。

そこから「教会」「信徒同士」という人間の繋がりに恐怖を感じるようになりまして、それを克服できなかったのです。それこそ教会ジプシーです。また家庭の介護問題から随分長い間、教会を離れざるを得ず…。教会はキリストの身体といいます。だけど繋がれないままに長い時を過ごしてしまったこと、そして指導司祭さまとの繋がりが諸事情(異動含む)あって上手く行かず、改宗が上手くいかない。
何せ、地方では司祭・信徒さんの高齢化が進み、私が今いる小教区では主日ミサが5箇所くらいの巡回です。それでも信徒さんは「通信でなんて言わないで。聖櫃の前で神父さまとじっくりお話をしてちょうだい」と言ってくださいましたし…それはとても有難いお話と思っています。

ただ今、それに甘えていいのかどうかを迷っているのです。

心の赴くままに・・・

vino · 2007-09-10 19:36:31 UTC+9 · 投稿 #241

<お目付け役>・・・かもしれませんが、かなり、前進ではないでしょうか? 私の場合、母校が長老派だった為、YWCAに繋がり、現在に至ったわけですが、それこそ、信仰というものは、<縁と運とタイミング>によるものも大きいと思いますので、今後の人生を過ごす上での<引き出し>が一つ増える・・・くらいの気持ちも大切だと思います。 遠藤周作さんの文章で(K団の信徒はなんのコダワリもなく愛読者、多いです。曽野さんしかり、勿論、三浦綾子さんも)それぞれが心にそれに畏敬の念を感じ、他者の思いも尊重することが大切。それはナスでもカボチャでも良い・・・なんて表現がありました。肩の力が抜けた感じで私は好きですけれど・・・。 それにしても、塩梅さん、教会にかなり悩まされた経験がおありなのですね。ネットでは「地獄に堕ちるぞ」とか、「サタン」とか言われた事のある人の話も知っていましたが・・・。私の古くからの友人でカト~で求道中の女性があります。彼女いわく、枝葉はいろいろあれど、根っこが一つなところに安心できる・・・と。プロ~の方はそれこそ、牧師の数だけ解釈がある・・・と言うところでしょうか?まぁ、聖書も説教もその時、その時の自分の状況でとらえ方は違って当たり前ですし、同じ教会の中でもいろんな人がいるわけですから、<一色>に染まるはずはありません。彼女の信仰に色が一つ増えるのも良いと思いますよ。大羊さんのキリ~に対するお勉強の姿勢に打たれた部分もきっとおありでしょう。夫婦はそれぞれ違う人間ですからね。NAO様、人生の大先輩として、これからも暖かいお言葉をお待ちしています。 ハリケーン・カトリーナの被害に遭ったアフリカ系の家族が復興支援をされたとある団体に心を癒され、ソルトレイクに移住した件をだいぶ前にニュースで観ました。<ワスプにあらずば人にあらず>の雰囲気の濃い南部に住むよりはかの地で幸せならば、それも良い事ですよね。

まあ、ボチボチと・・

迷える大羊 · 2007-09-09 02:22:40 UTC+9 · 投稿 #240

>(お目付け役だったりして)。

まあ、そんな感じですね(笑)。こちらも、別に彼女の信仰を変えようなんて考えは毛頭ないし、それは横暴だし、無理というもの。要は視野を広げてもらいたい、もう少し考えに幅がでれば、それで良いと思ってます。

あと、なんだか、ここでF派に対し、批判がましいことばっかり言っている印象があるかもしれませんが、人の信仰にチャチャを入れようなんて野暮なマネをする気は全然ないし、F派といえども様々なのはわかっていますし、良い点、もっともな主張だってあることも認めてます。

ただ、自分の宗教観、感覚に合うか、合わないか、自分が信者になれるか否か、という観点、そして、私自身の狭い範囲の見聞の範囲で話をしているだけでして。
このBBSを見て、不快になっている、あるいは、そんなことはないだろ~、と思われているF派の方、ゴメンなさいね、といったところです。

>がつかりしたりなさることもあるかもしれませんが、いい出会いがまつていますようにと

VINOさんや塩梅さんのおっしゃる通り、教会とか信仰とかいうものに、あまり過剰に期待だとか、逆に恐れだとかをもたず、適度に距離を置くつもりで行く、要は力を抜いていくと、意外といいことがあるのかもしれませんね。

>宗教や宗派がどうというより、

その通りですね。それだけに、何が何でも、同じ信仰の人間としか恋愛・結婚できない、幸せになれない、と決めてかかる、あるいは身内はなんとしても、’導かなくては’、’救わなくては’、なんて躍起になる一部クリスチャンの言動を見聞すると、何か違うんじゃないのか?と思え、却ってキリスト教から離れたくなっちゃいます、逆効果ですね。

>ええと、私は9日の日曜の午後5時、銀座3丁目のギャラリー青羅で、金沢美大OB展のオープニングに出席します

ああ、是非行って見たいのですが・・・。フランス在住の著名作家と直にお話できる機会なんて滅多にないですもんね~。しかし、その当日は彼女の母教会での打ち合わせや実家訪問などの予定が複数あって、行けません・・。またの来日の機会を狙います。

私もうれしいです。

Sekko · 2007-09-07 11:22:26 UTC+9 · 投稿 #239

お久しぶりです。なんかとっても充実した感じのやりとりが続いてるようで、あえて口を挟む感じじゃないなと思ってたんですが・・・
彼女が一緒にきてくれるなんて、すてきですね(お目付け役だったりして)。
大羊さんの誠実さが伝わってるんですね、きっと。
いい方たちと出会われることを願っています。彼女のほうも視野が広がって、お二人の連帯感もさらに深まって、いい感じになるのでは。
宗教や宗派がどうというより、人が一緒に生きていくには、毎日起こる具体的な問題と対策だけではなくて、その背後にひそむ病や死というものの影がいつかかぶさってきたときにどう受け止めるか、どういたわりあっていけるのかという部分で共鳴できる波長が必要です。今すぐではなくともだんだん共振できるような関係もありますし。
(ええと、私は9日の日曜の午後5時、銀座3丁目のギャラリー青羅で、金沢美大OB展のオープニングに出席します。興味のある方は「東京けやき会」のサイトをご覧ください。もう30年近く前にフランスに留学なさっていたとき知り合った石彫の坂井達省さん、織田啓介さんらの作品を見に行きます。お目にかかれればお話しできるかもしれません。)

うれしいいです。

nao · 2007-09-06 08:42:57 UTC+9 · 投稿 #238

大羊さんが現実のカト教徒と話し合いしてくださるようになつたこと、とてもうれしいです。がつかりしたりなさることもあるかもしれませんが、いい出会いがまつていますようにと、心からねがつております。彼女もきてくれるなんて・・感激ですね。時々、ご様子お知らせいただけると嬉しいです。よろしくおねがいいたします。竹下先生とは生涯お付き合いくださいますように。こんな出会いは世の中にそうあるものではありませんから。

学んでみます

迷える大羊 · 2007-09-06 01:00:54 UTC+9 · 投稿 #237

散々、こちらの部屋で書き散らし(ここ最近、ひょっとしてこの部屋で一番発言数が多い??)、皆様にお世話になってますので、御報告ぐらいはしておかねば、と思いました。

私、九月半ばより、都内某所、職場近くにあるカトリック教会のキリスト教講座(アルファコースっていったかな?)に通ってみることにしました。平日の夜なので、残業なんかがあったりすると、行けないこともあるかもしれませんが、できるだけ参加しようと思います。
講座の内容より、実際のカトリック信徒にはどういう人々がいるのか、何を考えているのか。よく語り合って、観察、確認してみて、自分に合った教派、宗教であるかどうかを試してみるのが目的ですね。神父さんと話したり、こういうネットやメールでいろいろ話はしてみたものの、現実の世界では、信仰や思想の深いところまで話したことがあるカトリック信徒の人って実のところいないので。
私の彼女も、当初誘う予定がなかったのですが、話したら興味を持って、ついてくることとなりました。はたしてどうなりますやら・・・。

それはまた・・

迷える大羊 · 2007-09-02 15:21:57 UTC+9 · 投稿 #236

>『それほどに言われる”カトリック”って、そんな酷いところか?』
>「日本語やないけー!」(第二バチカン以降、そうなってましたね…)

そうですね~、私もこの世界に関わりを持った当初、カトリックって「うっかり自殺=
村八分」「うっかり離婚=村八分」みたいな極めて戒律のキツイところ、というイメージがあって全然興味がわきませんでした。いろいろ調べるとそんなに単純ではない、むしろ、一部のプロテスタント教会の方が、ずっと保守的で厳しいですね(もちろん、いろいろな教派があるので単純にいえないが・・)。カトリックだってすべての人々が寛容ってわけでもないのでしょうけど、幅があって、狭い一つの考えを押し付けられないんで気楽なんですよね、私としては。そこら辺のプロテスタント教会よりはずっと理性的で、リベラルだと思います。
でも、私や塩梅さんが誤解していたのと同様、世間一般には今でもカトリック=厳しい戒律、保守的のイメージは強いんじゃないですかね?
もっとも、ラテン語ミサに関しては、そんなに悪いイメージないですね、私は。SEKKOさんの以前のコメントにもありましたが、むしろ、日本語で「主のなんとかかんとか」って言ってやる方が何か恥ずかしいというか、テレが抜けないというか・・。お経を唱えて照れくささを感じないように、ハナから外国語のラテン語なら、あのなんともいえない照れくささ、恥ずかしさを感じなくていいし、どこの国の国民にとっても「外国語」なので、公平で良いではないか?と思うのですがどうですかね?

>と言うのは、カトリック教会に行ったことを知った教会の友人全てに音信を絶たれまして。その牧師さんからは出ていけ、と。

それはまた、すごい話ですね・・。一体、いつの時代の話ですか?私、プロテスタントでも保守的なF派の信徒が身内にいて、関わりがありますけど、そこまで極端な反応ってないですけど・・(確かにカトリックには冷淡ではありますが)。
まあ、F派といってもいろいろあって、比較的ヌルいところだからかもしれませんが。最近の話ならびっくり、というか問題ですね。
そんなところ辞めて正解、そんなことで離れる友人なんてハナから友人じゃない、と私なら割り切りますけどね(ってそう簡単に割り切れれば苦労しないでしょうが)。

>彼らにもノルマがあったのかな…と察したけれど、辛くなってしまって受け取り拒否しました

うーん、話を聞く限り、私的に非常に問題がある教会のような気がしますが?そのかつての所属教会って・・。皆さん、いろいろ現在の信仰を持つに至るには紆余曲折があるものですね。
まあ、この辺はこういうBBSでは詳しくは語るわけにはいきませんね。どこかのミサでお会いしていろいろ語れればいいですね。ちなみに私は首都圏の住民で、都内勤務の人間です。

教会も「渡る世間」のうちだというか。

塩梅 · 2007-09-02 12:49:23 UTC+9 · 投稿 #235

>恋愛・結婚にしても相手はクリスチャン(できればF派)でないとダメ、相手がノンクリの場合はなんとかして「導こう」

ええ。

「結婚するならクリスチャンにしなさい。”カトリックでもいいから”クリスチャンと結婚しなさい」

本当に牧師に言われたのですが、すごく嫌な感じを受けてしまったのです。当時、カトリックの存在をあまり意識していなかったこともあり、逆に、

『それほどに言われる”カトリック”って、そんな酷いところか?』

と思ったのです。やはり自分の目で見ないと納得がいかないと思いました。ただ多分…後々考えるに信者同士の又聞きとかだからそうなったんだろうけど、「カトリックは礼拝が難解だと聞いている。皆ラテン語で日本語の礼拝はない」と神学生の人が話すのを聞いていましたのでかなり悩んだ時間はありました。が、勇気を出して(苦笑)最寄のカトリック教会に「行っても宜しいですか?」と電話して、行ってみたのです。そして、

「日本語やないけー!」(第二バチカン以降、そうなってましたね…)

と思いました。で、当時所属していた場所の人たちの方が感じ悪いと思いました。と言うのは、カトリック教会に行ったことを知った教会の友人全てに音信を絶たれまして。その牧師さんからは出ていけ、と。あのときは「何だそりゃ?」みたいな感じでした。そういう諸々の事情から、プロテスタントにはもう戻らないと思います。勿論、そんな人ばかりではない事も知ってるのですが、親友と思っていた人に責められたのは悲しかった。

その悲しみを忘れかけていた中越震災の直後に、その人たちが再び私に電話をくれました。私は純粋に電話をもらえた事を喜んだんですが、直後にかつての所属教会の封筒で、とある先生の分厚い著書が送られて来まして。「所在確認だったんだな」と直観しました。かつての所属教会の活動のありようから、彼らにもノルマがあったのかな…と察したけれど、辛くなってしまって受け取り拒否しました。

シスターには「貰っておけばいいじゃないの?」と言われたんですが…
デリカシーの問題ってのがあると言いますか……(ノ_-。)

信仰を持つのはいいけど、<正しい事を>と思ってする言動が<上から目線><排他性>として現われるのは、やっぱり抵抗感・反感を持たれる所以になってしまうのじゃないかと思います。他人の話を聞くことも大切だし、聞く耳のあること=妥協ではないんですから。話を吟味したうえで、どうしても妥協できない面をお話することだって出来るんですから。そういう面倒を拒否しちゃあいけないと思うのですけど。「対話」ってのは『説得』のことでも『意見の押し付け』のことでも無いんだからね、と思うのですけど。

でも以上のことが、どうして困難な課題になるのでしょう?

熱過ぎるのは・・

迷える大羊 · 2007-08-30 00:33:51 UTC+9 · 投稿 #234

皆様のお話を伺うと、クリスチャンになるということは別に人格改造を行うわけではなく、他の未信者の方々と別人種になってしまうわけではない、ということがよくわかります。

また、批判じみた話になっちゃいますけど、F派の信徒って「ボーンアゲイン」なんて言葉が代表的ですが、その辺何か、熱過ぎる、というか暑苦しい感じさえ(言っちゃった)してきてダメなんですよね。
恋愛・結婚にしても相手はクリスチャン(できればF派)でないとダメ、相手がノンクリの場合はなんとかして「導こう」と躍起になるんですよね。理由を聞くと「その方が安心できる、落ち着ける」なんていうんですが、クリスチャンでない人間は何か自分とは別人種とでも思っているのか、何か勘違いしてないか?そんな人と人の間に垣根を作る信仰なんて抵抗あるなぁ、というのが本音ですね。

多分K団もそうだと思うのですが、カトリック中央評議会の教勢統計を見ると、結婚相手がノンクリスチャンである信徒が多数派なのですが、F派はいわゆるクリスチャンホームが圧倒的(少なくとも教会に恒常的に顔を出すメンバーは)で、それもまたこの日本においてはえらく不自然で、閉鎖的な感じがして、抵抗感を感じる理由なんですよね。

>料理研究家の小林カツ代さん

あら、この人、クリスチャンだったんですか。初耳ですね。私事ですが、本日、職場の先輩でお世話になった方が亡くなり、告別式に行ってまいりました。浄土宗のお葬式でした。
お焼香も上げました。でも、F派の信徒となると、こういう場面に出くわす度に頭悩ますんでしょうね・・・。やっぱり、そういう信仰は私には抵抗ありますね。

身もふたも無くて・・・

vino · 2007-08-28 16:01:39 UTC+9 · 投稿 #233

我が夫婦の仲人をして下さった大学教授、K団の信徒なのですが、大教室での講義の際、「日本人にとってはキリスト教というのは隣の神様だ。クリスチャンでさえ、その感覚が抜けていない。クリ~というのは素晴しい存在だと思い込んでる。歴史上、免罪符やら南米がラテンアメリカと呼ばれるようになったのは何故か、カト~の愚かな行為の故だ。だからってプロ~だってひどいもんだ。英語が世界共通語になっているのは何故か、何故、英語と言われるのか。現代もアメリカって国が世界中でやってる事を考えればすぐ判る。人間なんて本当にしょうもない」と仰いました。当時、求道者でもなかった私ですが、<この方はK団の人だな>とピンと来たものです。 前回、身もふたも無くむしろ、偽悪的なほどの表現を致しましたが、さすが、皆様、真意を汲んでくださいますね。そう、どこまで行っても性悪な生き物なのです、人間は。私は洗礼の際、牧師からは再三に亘って「所詮、人間のする事だから」と言われたものですが、年を重ねるごとにそれを実感します。 料理研究家の小林カツ代さん、ご存知でしょうか?彼女のお話を聞いたことがあるのですが(K団信徒です)お母様からは<キリ~はなんのご利益も無い代わりになんのタタリもない自己満足の宗教>だと言われていたそうです。彼女自身も「クリ~になる、なんて事なかった。何にも変わりません。」と仰いました。実はこのふたつのエピソードは私の中では凄く大きな意味を持つのです。 超・マイノリティーだからか、日本人クリ~、どこか<上から目線>になりがちなのです。選民思想に近いくらいの人も見られます。自分の足元を見据えるためには少し、自虐的なくらいで調度良いのでは・・・・。

何かが違う「隣人愛」実践の実際

塩梅 · 2007-08-22 11:05:52 UTC+9 · 投稿 #232

vinoさまの仰るとおりで、「細く長く適度な距離と温度を保つのが無難」だと私も思います。>教会とは

あと、キリスト教の「隣人愛思想」は良い方向に向かうと人間関係の改善や社会貢献に繋がりますが、逆を行くと< 小さな親切、大きなお世話 >になりやすいんですね。聖書の中のイエズスの言葉に基づいてるとされる活動でも、イエズスの実際の行いやその心には基づいてるだろうか、と思うことがあります。信者でない人にも時々そういう風な質問を受けることがあり、困惑します。

大体、熱心な人ってのは、

・『弱者のために』何もかもお膳立てするのはいいけど、それが自分好みの活動にならないと
気が済まない人
・『弱者のために』と言いつつ、実は自己満足や利益・他者への優越思想のためにやってる人

こんな感じです。(政治的党派性がくっついてくると、さらに面倒です)

そういうことが皆、彼らにとっては『弱者のために』なんですから、誰の忠告・注意も聞かない。
例えば、商業でやることでさえ、リピーターを得るために「リサーチ」するじゃないですか。だけど彼らの多くは、意見をする方を「悪意の人」と見て傲慢な態度を取ったり攻撃をしてきます。『反対者の方が間違ってるんだ』と言わんばかりの対応で、あえて諫言する「善意の人」も退けます。

そして、ますます< 彼らの活動は独善性を増す >結果になります。

しかし実際、こういう方々の「奉仕活動」の恩恵を蒙ることが出来るのは、『個人的にお友達になって』彼らのすることなすことにお付き合いする能力のある方(一種のエリートですよね)か、知能や精神的な障害などにより自分の意思を一切主張出来ない状態にある方ですね。つまり、運動家と『利害関係になる』か『使われちゃう』かです。

こうして彼らは、他の大勢の人たちを置いて行っちゃう。あるいは団体ごと無理に囲い込もうとする。

それだから、医療・福祉の現場で地道に働いている人々、彼らに『弱者あつかい』されている人々のなかには「キリスト教・クリスチャン嫌い」が居ますし、信者で医療・福祉関係者やってる人間にも< 教会の活動の評判 >は必ずしも良くないです。教会によっては、信心業や聖書研究などよりもずっと社会活動を重視されるようなところがありますが、現場としてみれば本当にその道のプロとして取り組んでくれる以外で、(現状の)教会の人に入ってもらいたくないですね。信者さん個人個人の日常生活や余暇まで犠牲にした「生きがい・やりがい」までは、社会は求めてないと思います。

どっちかというと、年に一回の文化祭やイベントに招いてくださる・連れてってくださるとか、例えば施設内なら洗濯モノたたみや共有スペースのお掃除といった『それ限定の方々』の方が入所者の方々や職員も付き合いやすいし、長続きします。というのは、あまり自分の生活を犠牲にしてない人の方が実は聞く耳を持ってることが多いし(意地になったりとかしないし)、お互いの利害関係が後々変に絡む心配をしなくていいので。

結局のところ・・

迷える大羊 · 2007-08-21 00:39:17 UTC+9 · 投稿 #231

みなさん、いつもお世話様です。

>明石書店や新日本出版社などから「解放の神学」系

ええ~、新日本出版社って、そのものずばり共産党じゃないですか。どうなってるんでしょう、一体?。目的が一致しておれば、無神論、宗教否定の政党との共闘もOKなんですかね?敵の敵は味方、ということなのか?私的にはどうにも理解に苦しむ話ですね。まあ「解放の神学」的な立場に立つ、聖職者、信徒の主張からすれば、私も所詮「上からの立場で批判している」に過ぎないのでしょうけど。

>そんなもんだから、今の教皇さまが決まった時は…カトリック新聞で聖職者が匿名で「ガッカリ」なんてコメントを出してたり、著書で「ラッツィンガーは敵だ」なんて書かれた司祭さまもありますし、今の教皇さまが嫌いだから祝日以外に教会に行かないなどと書かれた信者さんサイトなども結構あります

でも、いろいろ問題を抱えつつも私がカトリックに魅力を感じるのはこの多様性だったりします。「解放の神学」に立つ「左」の信徒、聖職者がいる一方で、渡部昇一氏、曽野綾子氏、麻生太郎氏など右系、保守系の信徒も共存していて、世俗では正反対の立場のものが、神の前ではすべて同じ、平等、というのが宗教やカトリックの良さではないのかな?と思ったりもしますし。それだけに教会や教団全体として、右であれ、左であれ、特定のイデオロギーに深入りしてもらいたくないですね。

>ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね

一方で北朝鮮の拉致問題などには無関心ですよね。拉致被害者の横田めぐみさんのお母さんの早紀江さんが福音系教会のクリスチャンである関係で、福音派の一部の教会が取り組んではいますが、ブッシュ大統領に抗議文を送ったのと同様に、金正日氏に抗議文を送った、なんて話はとんと聞いたことがありません。韓国の方の民主化や独裁政権には、あれほどああでもない、こうでもないといっていたのに・・。私的にはその辺りがキリスト教会の平和運動=政治がらみ、左翼、との勘ぐりが抜けない理由の一つでもあります。

>両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます

なんだか、ミもフタもない話ですねぇ。結局のところ、教会だ、信仰だ、といっても不完全で「罪深い」人間の営みであることには変わりないのですね。感覚的に地域の自治会とか、マンションの管理組合がどうのこうのというのと変わらない話で、水をかぶったくらいで人間変われりゃ苦労しないよ、というところでしょうか。

>100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

長年の信仰生活から導き出された、貴重かつごもっともな御意見だと思います。私もクリスチャンを彼女にし、まがりなりにもこの世界に関わるようになってなんとなく感じていたことでもありますし。