2007年の投稿
正直に申し上げますと、恥ずかしながらこの地に暮らすまで、F派のことはまったく知らなかったのです。中学・高校とプロ~の環境で過ごし、英語を習う時もYMCAやYWCAに通い、(授業料が安いのです)求道中もYWで過ごし、<老舗大手>の方々とは出会いがあったのですが・・・。今、思うとF派の方たちは我が道のみを思いっきりイッテルので、判っちゃいない<大手>の人間とは交流する気もないのではないかと・・・。 今の教会は今までどこの団体でも感じたことのない独特のノリでして、この熱さ、真面目さ、純粋さは何!?って感じで違和感を抱きつつ、数年が過ぎました。K団の友人に聞いたところ、F派の名前が出て来まして、PCで自分なりに調べ、D大の小原先生のブログや本も読んでみました。 今の時代、<大手>は信者を増やす事よりも個人の心の中で信仰を深めることに重きを置いているように思えるのです。キリ~を基盤に平和、人権、環境に取り組み、他の宗教とも連動して会議の場も持っていますしね。 私の知る限りですが、K団の牧師は神式、仏式のご葬儀にも出席していますよ。奥さんだけ信徒・・という方がほとんどを占める日本のこの業界(まぁ、罰当たりな言い方だわ~)、そのご家族のご葬儀には出席なさっていますよ。 信徒も家にお仏壇、平気で置いてある方、多いです。 子供がいれば、お祭りや盆踊りにも行きたがりますし、そんなときは親はお掃除やお茶のお当番も致しますよ。神様は日本人の事情は判って下さいます。最近、思うのですが、こちらのコーナーに以前、あったように、F派の皆さんはジーザスのフーリガン・・・な感じを受けます。<大手>の人間はイエス様を通しての神・・なわけですよ。 救われる・・とか、それこそ、ボーン・アゲインとか聞くとこの頃では心の中で笑う余裕もできてきました。(あっ、言っちゃった!!) もう、5年ほど前になるでしょうか、<世界がひとつの村だったら・・・>がブームになりましたよね。私はそれで良い・・・と思いますよ。節子さんのご本の前書きにもフランスの神父さまが、日本人を総クリスチャン化しようだなんて思ってはいない・・・の文章があり、ちょっと嬉しくなった私です。これって、F派の方には信じられないことなんでしょうね。地獄に落ちるのかしら・・・?時々、参りますね、どうぞ、よろしく。
はじめまして
VINOさん初めまして。
>同じK団の中でもD大とT大、又、その教会でカラーはいろいろです
戦時中にプロテスタント各教派を強引に統合した教団だから、そうなっちゃうんでしょうね。ネットで見る限りD大神学部出身の牧師さんってかなりリベラルな方が多いように思いますが・・・。
>正直、F派の考えには面食う
おお、わかっていただけましたか、私の戸惑いを。何しろ、日本でキリスト教は信徒が1%しかいないマイナーな世界である上、その中でもさらにいろいろあるなんて、一般人にはほとんど知られてないものですから、私の抱える宗教問題を他人に説明するのがちょっと面倒で困っちゃいます。
>婚約者さんもキリスト教ならとりあえず・・・な気持ちになってくださっているのでしたら(F派の方としてはとても寛容な方ですね)
いや、あまり詳しくは書けないんですが、そこに至るまではいろいろあったんですよ。それに、彼女のところはF派といっても、一部のペンテコステ系の教会のようなキツめなところではないですから。とはいうものの、リベラル系の教会、カトリックには冷淡な傾向があるところは、やっぱりF派です。
>YMCAはいかがでしょうか?
昔の西城秀樹のヒット曲を思い出します、ってすみません、下らないギャグをいってしまって(笑)。名前は聞いたことありますが、どういう組織なのかは実のところよく知りません。今度、調べてみますね。
まあ、「大手老舗」の教会にしよう、といっても、ネットではともかく、リアル世界では深く話をする知人、友人の類はおらず、礼拝、ミサに思い出したころに参加し、何人かの牧師、神父さんと話したことがある程度ですからね。もう少し、様々なクリスチャンと交流してみる必要があることは確かだし、そういう機会がYMCAで得られるのであればいいですね。
>仏教、神道を偶像だのとは思いません。
福音系出版社のI社より刊行されている本に日本の習慣とキリスト教信仰との絡みについて考える本があります(正確な題名は忘れましたが)。そこには、~は偶像崇拝、他の神々への崇拝だから×、~は差し支えない、なんてことが事細かに書いてあるんですね。いやぁ、よく調べたなぁ、なるほど、そうなのか、と思う一方で、盆暮れの度に、葬儀の度に、祭りの度にこんなこと気にしながら過ごすのかよ、やってらんないぜ、と思ったものです。
そういう意見(もちろん表現はもっとマイルドですよ)を彼女の母教会の牧師さんにいってみたところ、「それは、あなたに信仰がないから」と言われました。「そういう問題かなぁ?」とずっと思っていましたが、VINOさんのようなプロテスタント信徒だっていらっしゃるし、教会だってあるんですね。
やっぱり、私には、どこか一人よがりな感じがして合わないですね、F派は・・。
また、機会がありましたら、いろいろお教え下さいませ。
>同じK団の中でもD大とT大、又、その教会でカラーはいろいろです
戦時中にプロテスタント各教派を強引に統合した教団だから、そうなっちゃうんでしょうね。ネットで見る限りD大神学部出身の牧師さんってかなりリベラルな方が多いように思いますが・・・。
>正直、F派の考えには面食う
おお、わかっていただけましたか、私の戸惑いを。何しろ、日本でキリスト教は信徒が1%しかいないマイナーな世界である上、その中でもさらにいろいろあるなんて、一般人にはほとんど知られてないものですから、私の抱える宗教問題を他人に説明するのがちょっと面倒で困っちゃいます。
>婚約者さんもキリスト教ならとりあえず・・・な気持ちになってくださっているのでしたら(F派の方としてはとても寛容な方ですね)
いや、あまり詳しくは書けないんですが、そこに至るまではいろいろあったんですよ。それに、彼女のところはF派といっても、一部のペンテコステ系の教会のようなキツめなところではないですから。とはいうものの、リベラル系の教会、カトリックには冷淡な傾向があるところは、やっぱりF派です。
>YMCAはいかがでしょうか?
昔の西城秀樹のヒット曲を思い出します、ってすみません、下らないギャグをいってしまって(笑)。名前は聞いたことありますが、どういう組織なのかは実のところよく知りません。今度、調べてみますね。
まあ、「大手老舗」の教会にしよう、といっても、ネットではともかく、リアル世界では深く話をする知人、友人の類はおらず、礼拝、ミサに思い出したころに参加し、何人かの牧師、神父さんと話したことがある程度ですからね。もう少し、様々なクリスチャンと交流してみる必要があることは確かだし、そういう機会がYMCAで得られるのであればいいですね。
>仏教、神道を偶像だのとは思いません。
福音系出版社のI社より刊行されている本に日本の習慣とキリスト教信仰との絡みについて考える本があります(正確な題名は忘れましたが)。そこには、~は偶像崇拝、他の神々への崇拝だから×、~は差し支えない、なんてことが事細かに書いてあるんですね。いやぁ、よく調べたなぁ、なるほど、そうなのか、と思う一方で、盆暮れの度に、葬儀の度に、祭りの度にこんなこと気にしながら過ごすのかよ、やってらんないぜ、と思ったものです。
そういう意見(もちろん表現はもっとマイルドですよ)を彼女の母教会の牧師さんにいってみたところ、「それは、あなたに信仰がないから」と言われました。「そういう問題かなぁ?」とずっと思っていましたが、VINOさんのようなプロテスタント信徒だっていらっしゃるし、教会だってあるんですね。
やっぱり、私には、どこか一人よがりな感じがして合わないですね、F派は・・。
また、機会がありましたら、いろいろお教え下さいませ。
いいですね。
成程!YMCAからというのはいいですね。思い浮かびませんでした。迷つているかたに教えてあげることにしましょう。vinoさま。ありがとうございます。
まずはYMCAなんてどうでしょう?
始めまして。福音派や原理主義で検索していましたら、こちらにたどり着きました。とても勉強になります。私はプロ~の日本基督教団の信徒ですが、夫の転勤に伴い、海外暮らし、今は超教派の教会に通う身、大羊さんの心中、お察しいたします。同じK団の中でもD大とT大、又、その教会でカラーはいろいろです。(一人、一人はとても良い人であっても)正直、F派の考えには面食らう事が多いですが、婚約者さんもキリスト教ならとりあえず・・・な気持ちになってくださっているのでしたら(F派の方としてはとても寛容な方ですね)YMCAはいかがでしょうか?環境や平和、人権を学びつつ、ボーイ・スカウトの活動拠点も兼ねていたりと、間口は広く、敷居は行きも帰りも低く、さまざまな<老舗大手>のクリスチャンと交流できますし・・・。どんなボランティア団体も宗教団体も所詮、人間の手で動く所、完璧な人間はどこにもおりません。私は信仰というものは形が違って、表現の仕方が違うだけで、イスラム教を悪だの、仏教、神道を偶像だのとは思いません。こういうことを言うと、<だから、K団はわかっちゃいない>とつっこまれそうですが・・・。
もし困ったら・・
そうですね、何かのご縁なので、これから先、もしとても困って、だれも相談相手がいないという時は、このサイトの著作紹介の読者の感想コーナーのフォームから、個人メールでお送りになってもけっこうですよ。いっしょに考えましょう。答えが見つかるとは限りませんが、ここにいらっしゃった限り、大羊さんはもうたった一人で悩む必要はないですよ。分け合いましょう。
よくおわかりで・・
SEKKOさん、こういう相談に乗りなれているのでしょうか?そうなんです。まさに彼女はキリスト依存症、イエス依存症です。クリスチャンだからどうこう、というのとはまた別の話かもしれません。
この辺りの事情や相談、愚痴ももっとこぼしてみたいのですが、何しろ、ここは公のBBSなんで、教会関係者を含めたプライバシーをどこまで書けるか、という問題もあって書けないのが残念です。
>配偶者は配偶者。自分は自分と割りきつて。夫婦生活つて、それでもうまくゆきますよ。
それでなかなか満足してくれないのが、福音系の世界なんですよね~。彼らにはノンクリスチャンの配偶者を持つことが試練と映るらしく、福音系出版社のI社より「クリスチャンでない**を持つ**へ」なんて本が出版されてます。とにかく、なんとかして配偶者を「導こう」「救おう」とするんですよね。しかし、キリスト教国ならともかく、この日本でクリスチャン同士の結婚にこだわったっておのずと限界があろうかと思うのですが。
にも関わらず、私はクリスチャンじゃないと結婚しません、なんていう女性が多い、というかそれが多数派ですね、福音系の教会では。私の彼女なんかは、まだ大分マシな方です。
SEKKOさんも指摘しておりましたが、福音系の教会っておしゃれな若者比率は高いし、ゴスペルで盛り上がったりして、全体的なムードとしては垢抜けたところが多いのに、その信仰内容はなんでまた、こう保守的というかガチガチなのか、そのギャップがすごいです。
>「僕は今は宗教に入れない」と宣言して大丈夫でしょう
まあ、大丈夫でした。少々苦労はしましたが。前にも書きましたけど、時間はいくらかかってもいい、教派や教会は私の望むところでよい、というところまで妥協しております。
がんばります。また、御相手下さい。ただ、さっきも申し上げたとおり、ここは公のBBSなんで、プライバシーに深い部分はあまり微にわたり、細にわたりなことが書けない、という限界はありますけどね。ありがとうございます。
この辺りの事情や相談、愚痴ももっとこぼしてみたいのですが、何しろ、ここは公のBBSなんで、教会関係者を含めたプライバシーをどこまで書けるか、という問題もあって書けないのが残念です。
>配偶者は配偶者。自分は自分と割りきつて。夫婦生活つて、それでもうまくゆきますよ。
それでなかなか満足してくれないのが、福音系の世界なんですよね~。彼らにはノンクリスチャンの配偶者を持つことが試練と映るらしく、福音系出版社のI社より「クリスチャンでない**を持つ**へ」なんて本が出版されてます。とにかく、なんとかして配偶者を「導こう」「救おう」とするんですよね。しかし、キリスト教国ならともかく、この日本でクリスチャン同士の結婚にこだわったっておのずと限界があろうかと思うのですが。
にも関わらず、私はクリスチャンじゃないと結婚しません、なんていう女性が多い、というかそれが多数派ですね、福音系の教会では。私の彼女なんかは、まだ大分マシな方です。
SEKKOさんも指摘しておりましたが、福音系の教会っておしゃれな若者比率は高いし、ゴスペルで盛り上がったりして、全体的なムードとしては垢抜けたところが多いのに、その信仰内容はなんでまた、こう保守的というかガチガチなのか、そのギャップがすごいです。
>「僕は今は宗教に入れない」と宣言して大丈夫でしょう
まあ、大丈夫でした。少々苦労はしましたが。前にも書きましたけど、時間はいくらかかってもいい、教派や教会は私の望むところでよい、というところまで妥協しております。
がんばります。また、御相手下さい。ただ、さっきも申し上げたとおり、ここは公のBBSなんで、プライバシーに深い部分はあまり微にわたり、細にわたりなことが書けない、という限界はありますけどね。ありがとうございます。
続き
書き終わってないのに勝手に投稿されました・・・続きです。
私の思ったのは、こんな時、一昔前みたいに、ローマ系キリスト教の典礼がみんなラテン語とかだったら、かえって抵抗なく楽だったもしれないなあ、ということです。般若心経を口語訳して唱えろなんて誰も言わないし、言霊がなくなって効果がないような気さえします。カトはその国に根付くようにその国の文化にあわせたやり方をという方針があり、日本でも、ほんとうに日本的なキリスト教とは、みたいな模索もありますけれど、安土桃山とか江戸時代は農民だって「オラショ(祈祷)」をずらずらとラテン語で唱えてて、殉教するくらいに強い自分の信仰にしていたんですからね・・・
今は、ラテン語ミサとかいうと即原理主義とか懐古主義とか思われがちですが、こういう効用もあるなあ、と思いました。私も、日本語のカタカナの世界の賛美歌や祈りの言葉使いは、何か違和感があって、恥ずかしいというより、テーマパークにいるような気がします。テーマパークも隙なんで嫌じゃないですけど・・・とおしゃべりになってしまいました。
私の思ったのは、こんな時、一昔前みたいに、ローマ系キリスト教の典礼がみんなラテン語とかだったら、かえって抵抗なく楽だったもしれないなあ、ということです。般若心経を口語訳して唱えろなんて誰も言わないし、言霊がなくなって効果がないような気さえします。カトはその国に根付くようにその国の文化にあわせたやり方をという方針があり、日本でも、ほんとうに日本的なキリスト教とは、みたいな模索もありますけれど、安土桃山とか江戸時代は農民だって「オラショ(祈祷)」をずらずらとラテン語で唱えてて、殉教するくらいに強い自分の信仰にしていたんですからね・・・
今は、ラテン語ミサとかいうと即原理主義とか懐古主義とか思われがちですが、こういう効用もあるなあ、と思いました。私も、日本語のカタカナの世界の賛美歌や祈りの言葉使いは、何か違和感があって、恥ずかしいというより、テーマパークにいるような気がします。テーマパークも隙なんで嫌じゃないですけど・・・とおしゃべりになってしまいました。
訂正と・・・
下の「説教的な布教をもとめられて・・」は「積極的な布教」の打ち間違いでした。訂正します。
しかし今ちらと考えたんですが、般若心経なら、すぐには意味がわからない呪文みたいなもので、「賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらない」という弊害はないですね。
しかし今ちらと考えたんですが、般若心経なら、すぐには意味がわからない呪文みたいなもので、「賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらない」という弊害はないですね。
それなら・・・
発想を変えてみましょう。ここまでは、大体において「キリスト教理解」という観点からお答えしてきましたが、純然たる人生相談として答えてみます。
>どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?
とおっしゃいますが、問題が「宗教」だと思うから袋小路に入っているので、本当の問題は、アディクションなんだと思います。多くの人は軽重は別としてアディクションを抱えていると思います。煙草や酒がやめられなかったり、買い物依存とか、マザコンやファザコンとか、オンラインゲーム依存とか・・・
たとえば、般若心経を50回唱えるのが就眠儀式になっていて、一度でもそれができないと不安不眠になる、普段の生活に支障はないが、結婚する相手には知っていて欲しい、できたら一緒に唱えて欲しい、と打ち明けられたらどうします? 般若心経のことはよく分からないけど、「悪いもの」ではないはずだから、やめろというわけにはいかない、自分もその内容を勉強してみよう・・・なかなか難しいし奥深そうで、とても理解したとは思えない、意味も分からないで毎日いっしょにこんなものを唱えるなんて意味がないんじゃないか・・・とか、いろいろ思い悩み・・・なんで、こんなお経なんて厄介なものがあるんだろう・・となるでしょう。
つまり、問題はキリスト教や般若心経にあるのではなく、アディクションにあるのです。何かに夢中になるのは悪いことではありません。しかしそれが途絶えると心身のバランスに異常をきたすほどの状態であれば、またすでに日常生活に支障をきたしている状態であれば、依存症や強迫神経症となります。
誰かを好きになったら、その人が慢性病を抱えていると知っても、依存症や強迫があると知っても、心は変わらないでしょう。ある若年糖尿病で一生インスリン注射が必要な女性は、男の人と付き合う前には必ずそれを打ち明けてその反応によって、相手の人間性を確かめていました。それを受け入れてくれる人でも、過剰反応されて、何か食べるたびに、「これ食べていいの?これは?」と聞いてくる人はすごくいやで続かなかったそうです。彼女が結局伴侶に選んだのは、そのまま受け入れてくれて、しかし、その後、彼女の方からそのを話題にしない限り、一度も自分からその病気のことを口にしない人だそうです。
これは、もちろんアディクションではなくて、日常生活の一部が、カップルでまったく同じようにできなくて、一方がある種のハンディを背負っているというケースです。
カップルの片方に病気や障害があり、それでも、いや、それゆえにより強くいたわりあったり愛し合ったりしているケースはいくらでもあります。
宗教でも、たとえば、相手を勧誘せず、週一回の勉強会と礼拝だけは欠かせないからOKしてちょうだいね、といって、何十年もうまくいく場合もあります。でも、それにはおのずと家庭の優先順位を決めておくことが必要になります。片方が具合が悪くて今日は家にいてほしいとか、海外転勤についてきてほしいとか、子供が病気だとか、子供の学校の会合があるとか・・・何があっても宗教の集会を優先するとしたらそれは依存症であり、その宗教がそれを利用して、あるいはそれをほめているとしたらもっと大変です。本当の宗教とは、人を分断するものでなく、結びつけるものであるはずから、宗教内の身内優先で外的宗教行為が一番大事とは言わないはずです。
私にはもちろん詳しいことは分かりませんが、これまでのお話からすると、彼女はアディクション状態かそれに近いところにあり、しかも、福音派の性質から言って、ひっそりと内面的に信仰するというより説教的な布教を求められていると思うので( 昨日も言いましたように、消費者のマインド・コントロールを含めた企業の販売戦略と同じような部分もあると思います)、アディクションを解くにはかなり困難なレベルにあると思います。それを承知で、自分を守りながら共存していくか、依存度を減らして寛解状態にもっていけるか、あるいは、これが理想ですが、彼女はそういう心の問題の依存を必要としているわけですから、彼女の依存を宗教から少しずつ大羊さんに移していけばいいのです。これもそれはそれで覚悟がいりますよ。神に対抗(?)ですから責任重大です。裏切ることはできません(第一、人間には裏切られるからと言って神を求める人は多いです)。「ぼくの愛の力で何とかなる」と思うのはもっとリスキーです。愛の力で何とかなれば医者もカウンセラーも要りません。そんなわけで、愛する人のアディクションとどう付き合うべきか、これが本当の問題ではないでしょうか?
後、もう一つ、人生相談でなく信仰の相談だという立場で答えますと、大羊さんが彼女のおかげでキリスト教のことをいろいろ勉強したり、関心を持ったり、このサイトにいらっしゃったということは、何かの導き、仏教風だと「ご縁」だったということかもしれません。大羊さんは神の必要を感じていないとおっしゃいますが、ひょっとして神が大羊さんを必要としているのかもしれません。今はまだその意味が分からないけれど、何か使命を果たしていらっしゃるのかもしれません。少なくとも、私やNaoさんに、大羊さんのお役に立とうという心を引き出してくれました。私やNaoさんにはこのやりとりが糧になっていると思います。ありがとうございました。またいつでも来てください。
>どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?
とおっしゃいますが、問題が「宗教」だと思うから袋小路に入っているので、本当の問題は、アディクションなんだと思います。多くの人は軽重は別としてアディクションを抱えていると思います。煙草や酒がやめられなかったり、買い物依存とか、マザコンやファザコンとか、オンラインゲーム依存とか・・・
たとえば、般若心経を50回唱えるのが就眠儀式になっていて、一度でもそれができないと不安不眠になる、普段の生活に支障はないが、結婚する相手には知っていて欲しい、できたら一緒に唱えて欲しい、と打ち明けられたらどうします? 般若心経のことはよく分からないけど、「悪いもの」ではないはずだから、やめろというわけにはいかない、自分もその内容を勉強してみよう・・・なかなか難しいし奥深そうで、とても理解したとは思えない、意味も分からないで毎日いっしょにこんなものを唱えるなんて意味がないんじゃないか・・・とか、いろいろ思い悩み・・・なんで、こんなお経なんて厄介なものがあるんだろう・・となるでしょう。
つまり、問題はキリスト教や般若心経にあるのではなく、アディクションにあるのです。何かに夢中になるのは悪いことではありません。しかしそれが途絶えると心身のバランスに異常をきたすほどの状態であれば、またすでに日常生活に支障をきたしている状態であれば、依存症や強迫神経症となります。
誰かを好きになったら、その人が慢性病を抱えていると知っても、依存症や強迫があると知っても、心は変わらないでしょう。ある若年糖尿病で一生インスリン注射が必要な女性は、男の人と付き合う前には必ずそれを打ち明けてその反応によって、相手の人間性を確かめていました。それを受け入れてくれる人でも、過剰反応されて、何か食べるたびに、「これ食べていいの?これは?」と聞いてくる人はすごくいやで続かなかったそうです。彼女が結局伴侶に選んだのは、そのまま受け入れてくれて、しかし、その後、彼女の方からそのを話題にしない限り、一度も自分からその病気のことを口にしない人だそうです。
これは、もちろんアディクションではなくて、日常生活の一部が、カップルでまったく同じようにできなくて、一方がある種のハンディを背負っているというケースです。
カップルの片方に病気や障害があり、それでも、いや、それゆえにより強くいたわりあったり愛し合ったりしているケースはいくらでもあります。
宗教でも、たとえば、相手を勧誘せず、週一回の勉強会と礼拝だけは欠かせないからOKしてちょうだいね、といって、何十年もうまくいく場合もあります。でも、それにはおのずと家庭の優先順位を決めておくことが必要になります。片方が具合が悪くて今日は家にいてほしいとか、海外転勤についてきてほしいとか、子供が病気だとか、子供の学校の会合があるとか・・・何があっても宗教の集会を優先するとしたらそれは依存症であり、その宗教がそれを利用して、あるいはそれをほめているとしたらもっと大変です。本当の宗教とは、人を分断するものでなく、結びつけるものであるはずから、宗教内の身内優先で外的宗教行為が一番大事とは言わないはずです。
私にはもちろん詳しいことは分かりませんが、これまでのお話からすると、彼女はアディクション状態かそれに近いところにあり、しかも、福音派の性質から言って、ひっそりと内面的に信仰するというより説教的な布教を求められていると思うので( 昨日も言いましたように、消費者のマインド・コントロールを含めた企業の販売戦略と同じような部分もあると思います)、アディクションを解くにはかなり困難なレベルにあると思います。それを承知で、自分を守りながら共存していくか、依存度を減らして寛解状態にもっていけるか、あるいは、これが理想ですが、彼女はそういう心の問題の依存を必要としているわけですから、彼女の依存を宗教から少しずつ大羊さんに移していけばいいのです。これもそれはそれで覚悟がいりますよ。神に対抗(?)ですから責任重大です。裏切ることはできません(第一、人間には裏切られるからと言って神を求める人は多いです)。「ぼくの愛の力で何とかなる」と思うのはもっとリスキーです。愛の力で何とかなれば医者もカウンセラーも要りません。そんなわけで、愛する人のアディクションとどう付き合うべきか、これが本当の問題ではないでしょうか?
後、もう一つ、人生相談でなく信仰の相談だという立場で答えますと、大羊さんが彼女のおかげでキリスト教のことをいろいろ勉強したり、関心を持ったり、このサイトにいらっしゃったということは、何かの導き、仏教風だと「ご縁」だったということかもしれません。大羊さんは神の必要を感じていないとおっしゃいますが、ひょっとして神が大羊さんを必要としているのかもしれません。今はまだその意味が分からないけれど、何か使命を果たしていらっしゃるのかもしれません。少なくとも、私やNaoさんに、大羊さんのお役に立とうという心を引き出してくれました。私やNaoさんにはこのやりとりが糧になっていると思います。ありがとうございました。またいつでも来てください。
今は静観ですね。
いやあ~わが子にそういわれると、どうしようかなあ~。と考えてしまいましたよ。今は宗教を外から眺めていたほうがいいんじゃないですか?配偶者は配偶者。自分は自分と割りきつて。夫婦生活つて、それでもうまくゆきますよ。いくら配偶者といつても人の内面にはカツテに入れませんからね。夫と連れそつて、半世紀。でも宗教は別。それでもうまくゆきました。相手がそれを受け入れないときはそもそも、結婚そのものが無理ですから。お二人が愛しあつておられるんなら、「僕は今は宗教に入れない」と宣言して大丈夫でしょう。あまりやさしく、相手を思いやるのも、あとで、後悔することになるんで、はつきりいえば、あつさり「そうね」と応じてくださるんじゃないでしょうか?むつかしいかな~。
弱りました
SEKKOさん、naoさん
いつもレスありがとうございます。こういう宗教問題って誰にも相談する相手がいないんですよね。キリスト教の事情を知っている友人、知人なんていやしないし、親はキリスト教に関しては好イメージを持ってはいますが、なんとなくいいんじゃない、って程度でキリスト教にもいろいろあるなんてことはてんで理解していません。牧師と神父の区別もつかないくらいですから、とても相談の対象には・・・。
>最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという
確かに私もそう思いもしますし、SEKKOさんの御提案は現実的と思いますし、実際に実行に移してみるつもりではあります。カトリック、ルーテルなどの「大手老舗」なら確かにあまり素っ頓狂なことは言い出さないし、まあ、安心でしょうし、一応は同じキリスト教なわけで、なんとか理解と安堵を得られたらいいな、とも思うし。
ただ、私の方でそれ以前にキリスト教的メンタリティが本当に自分のものになるのか、わかっているのかどうかは疑問ですし(知識はいろいろ増えましたが)、こんな理由、つまり、本当に自分自身が神の必要を感じて、というのではなく、とりあえず配偶者を安心させたい、納得させたいみたいな理由で出入りしていいんだろうか?とも思います。
前述したように、キリスト教の歴史だとか、教義などの知識は増えましたけど、それが一体、自分の心の問題、人生の問題にどう関わってくるのか、イマイチ実感としてわからなかったりします。こちらで散々書き散らしたように、100%神、100%人ってどういうことよ?とか、賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらないし、「おまえ、罪人」というのも趣旨は理解できるんですが、あまりに罪罪いわれると、イライラしてきたりで躓きだらけですし。
つまり、今のところ、私にとってキリスト教は勉強や教養の対象としては面白いんですが、自分自身の心の癒しになっているか?というと、今のところ?で、むしろ、彼女のことなどを含め、悩みの対象となっているのが正直な実感でして・・。こんな心境で来られても、牧師さん、神父さんはむしろ迷惑なんじゃないかなぁ、とも思ったりします。本当にこまったなぁ、どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?とすら思ってしまいます。本当に弱りました。
いつもレスありがとうございます。こういう宗教問題って誰にも相談する相手がいないんですよね。キリスト教の事情を知っている友人、知人なんていやしないし、親はキリスト教に関しては好イメージを持ってはいますが、なんとなくいいんじゃない、って程度でキリスト教にもいろいろあるなんてことはてんで理解していません。牧師と神父の区別もつかないくらいですから、とても相談の対象には・・・。
>最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという
確かに私もそう思いもしますし、SEKKOさんの御提案は現実的と思いますし、実際に実行に移してみるつもりではあります。カトリック、ルーテルなどの「大手老舗」なら確かにあまり素っ頓狂なことは言い出さないし、まあ、安心でしょうし、一応は同じキリスト教なわけで、なんとか理解と安堵を得られたらいいな、とも思うし。
ただ、私の方でそれ以前にキリスト教的メンタリティが本当に自分のものになるのか、わかっているのかどうかは疑問ですし(知識はいろいろ増えましたが)、こんな理由、つまり、本当に自分自身が神の必要を感じて、というのではなく、とりあえず配偶者を安心させたい、納得させたいみたいな理由で出入りしていいんだろうか?とも思います。
前述したように、キリスト教の歴史だとか、教義などの知識は増えましたけど、それが一体、自分の心の問題、人生の問題にどう関わってくるのか、イマイチ実感としてわからなかったりします。こちらで散々書き散らしたように、100%神、100%人ってどういうことよ?とか、賛美歌やら祈りの言葉遣いやらが恥ずかしくてたまらないし、「おまえ、罪人」というのも趣旨は理解できるんですが、あまりに罪罪いわれると、イライラしてきたりで躓きだらけですし。
つまり、今のところ、私にとってキリスト教は勉強や教養の対象としては面白いんですが、自分自身の心の癒しになっているか?というと、今のところ?で、むしろ、彼女のことなどを含め、悩みの対象となっているのが正直な実感でして・・。こんな心境で来られても、牧師さん、神父さんはむしろ迷惑なんじゃないかなぁ、とも思ったりします。本当にこまったなぁ、どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?とすら思ってしまいます。本当に弱りました。
おかえりなさい。
大羊さん、よくこのサイトにかえつてきてくださいましたね。うれしいです。Sekko先生のこの度のご提案はとてもいいですね。私はカトで夫は、なにも宗教について考えないいわゆる仏教徒でしたから、生涯信仰面での話しあいはありませんでした。もし、私が男でしたら、こんな遠慮はしなかつたことでしょう。やはり苦しいとき、同じイエスが側にいてくれるのはすばらしいことです。でも夫婦愛は充分育ちましたよ。信仰だけが夫婦を生かして
いるわけではなく、二人の愛情が結婚生活をはぐくんでゆくんですからね。もつとも信仰と二人の愛情は別ののでありながら、一つという側面もありますが。私の提案は結婚までに何かに籍をおくのがむりなら、結婚後、自由に選ばれたら、いかがかとおもいます。そうすると、彼女が強く福音派を押すかな?その可能性がおおいなら、せつこ先生のいわれるような選択のほうが、身をまもるのによさそうですね。この間アメリカのメガ・チャーチをTVでみて、信仰もビジネスになつたんだなあ・・気持ち悪かつたです。「古い皮袋に新しい酒」なら皮袋がかわつてゆく可能性のほうが反対の場合よりよさそうですね。
いるわけではなく、二人の愛情が結婚生活をはぐくんでゆくんですからね。もつとも信仰と二人の愛情は別ののでありながら、一つという側面もありますが。私の提案は結婚までに何かに籍をおくのがむりなら、結婚後、自由に選ばれたら、いかがかとおもいます。そうすると、彼女が強く福音派を押すかな?その可能性がおおいなら、せつこ先生のいわれるような選択のほうが、身をまもるのによさそうですね。この間アメリカのメガ・チャーチをTVでみて、信仰もビジネスになつたんだなあ・・気持ち悪かつたです。「古い皮袋に新しい酒」なら皮袋がかわつてゆく可能性のほうが反対の場合よりよさそうですね。
そうですね
遠慮なく来てください。なかなか大変ですね。福音派の原理的創造論って、さすがに日本では強調されてないのかなと想像してたんですが、アメリカなんかとあまり変わらないんですね。キリスト教的文化のベースのある国ならまあそれなりに・・と理解できないではないんですが、日本のような国に生まれて育って、「神のために進化論を捨てなきゃいけない」なんて集団で思えるという自体、私には驚きです。まあ、それが宗教なんで内輪ではそれはそれでいいとして、もしほんとに子供の教育とかに押し付けられたら、嫌ですよね。まあ、アメリカの場合はイデオロギーと結びついて、お金もすごく動いて、ロビー活動とかすごいですが、日本の場合がそうは展開しないのではと思うのですごく危機感はないんですが。
前に書いたかもしれませんが、全体として、今のカトリックと福音派系を比べますと、カトリックは、内容はすごく近代化しているのにフォームや方法論が古い、福音派は、内容はアナクロニックなんですが、伝道の仕方にメディアを用いたりマーケッティングの手法を取り入れたり、と、戦略がとても新しいのです。カトは、いわゆる古い革袋に新しい酒,福音派は、あたらしい革袋に古い酒、という感じです。そこのところを分かってないと、カトは旧教、古臭い、福音派は新しい、みたいな錯覚を起こすこともあります。
それで、学問的や宗教的言説じゃなく、善し悪しの判断でももちろんなく、もし、私が大羊さんだったらどうするかということをお答えしますと、私だったら、彼女がそう言ってくれてるんだから、プロテスタントのルーツであるカトリックかルター派か公教会か、穏健な老舗をチェックして、地域の直接の司祭とか牧師に事情を話し、最も人柄に共感を持てて、相談に乗ってくれそうな人がいる共同体に決めます。教義がどうのこうの言っても、結局、直接接する人の人格が大きいですから。最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという思いが届かないのでは悲しいので。それに、彼女がこだわる以上、将来子供ができたり、あるいは人生で試練にあったりした時にも、広い意味でのキリスト者の共同体にいるからね、という安心感を与え、決意を見せたいと思います。その上で、私なら、少しずつ、彼女を原理主義的メンタリティから遠ざける努力をします。彼女の家族全員がそうだとかいうなら至難の業かもしれませんが、少なくとも、遠ざける姿勢を忍耐強く見せて、しかも私が彼女に納得して認めてもらえるほど福音的な誠実なキリスト者であるところを見せていけば、彼女が深みにはまったり(子供の教育のこととかで)するのを避けることができるかもしれませんし、互いに尊重しあうことが本当にキリスト教の精神なのだと分かり合えるかもしれません。
日本では報道されてないかもしれませんが、5月3日に、ポルトガルの南のヴァカンス地で、イギリス人の医師夫婦の4歳の娘が誘拐されたまま消息を絶つという事件が起きました。二人はアイルランド系でカトリック(といっても教会に通っていなかった)なので、地元のポルトガルの教会が二人を支えるミサに招き、それが非常な支えになったそうです。司祭は夫婦が夜でも好きな時に祈るようにといって教会の鍵を渡してくれたそうです。ある夜、父親は啓示を受け、この事件をメディアに載せようと決心しました。イギリスのサッカーチームとかもみな協力するようになりました。夫婦はポルトガルの聖地ファティマに巡礼に行き、ローマにも巡礼に行きました。アイルランド系の枢機卿の口利きで教皇にすぐ面会できました。教皇は、子供を奪われた同じ状況にあるすべての親に会う用意があると言いました。そのことですごく有名になり、両親に自家用ジェット機を提供する富豪も現れました。小児性愛のために子供を誘拐する組織が裏にあるとも言われています。
二人は、この苦しい時期、信仰にどんなに助けられ勇気づけられたかを語っています。
それで、あるカトリックのジャーナリストが、この二人に、「もし、お子さんが結局無事に戻ってこなかったら、あなた方の信仰はどうなりますか?」と尋ねました。
父親は「すごく揺さぶられると思う、しかし私たちを支えてくれた人々を感謝する気持ちは変わらないのだから、彼らと同じ共同体に残ることになると思う」と答えました。
母親の答えはこうです。「それはすごくショックなことです。でも、娘が帰ってこないから神を信じなくなり信仰を失うというのなら、そもそも、娘がいなくなった時点でもう神を信じなくなってもいいはずでした。でもその反対で、私は娘がいなくなったときに神を見い出して力と希望を得たのですから、神をもう見失うことはないと思います」
いろいろ考えさせられます。貧しい国から来たある不法移民で貧しい人がいつもひたすら教会で祈ってるので、「願いが一向に聞き届けられてないことにいつ気づくんだろう」と心配してたことがあるんですが、あるシスターから、「ああいう人たちはね、豊かになったら、神さまを失うもんなんですよ」と言われて、そんなものかと思ったことがあります。
でも、これから結婚する人にこういうのもなんですが、人生なんて、いろいろ大変なのが基本で、完璧な幸福は夜の嵐の中の稲妻みたいなもの、ある日、夫婦で大きな試練に会わないとも限らないし、そんな時、「そうだ、二人とも同じ神さまがいるんだっけ」と思えることが何かの救いにならないとも限らないです。人間がサルから分化しようが、神に土から造られようが、幸せな時はあまり関係ないので、人がつらい時に互いに結びつけてくれ支えてくれるものがあれば心強いかもしれません。彼女がすでに信仰を持っているということは彼女には今もそれが必要だということなのでしょうから、彼女を愛する大羊さんの人生にも、きっと意味のあるものになっていくのかもしれません。今どこかの共同体を選択したからといって、それは終わりではなく、始まりなので、仕事や家庭とのバランスヤ良好感を模索しながら、一生かけて「真実」みたいなものに向かって船を漕ぎ出せばいいと思います。海は広いので、二人の航跡が違っても、星の位置を手がかりにして同じ方向に向かうことはきっとできると思います。最初から同じ船に乗って安心感から漂流するする人だってたくさんあるのですから。
と、宗教というより人生相談の答えでした。
前に書いたかもしれませんが、全体として、今のカトリックと福音派系を比べますと、カトリックは、内容はすごく近代化しているのにフォームや方法論が古い、福音派は、内容はアナクロニックなんですが、伝道の仕方にメディアを用いたりマーケッティングの手法を取り入れたり、と、戦略がとても新しいのです。カトは、いわゆる古い革袋に新しい酒,福音派は、あたらしい革袋に古い酒、という感じです。そこのところを分かってないと、カトは旧教、古臭い、福音派は新しい、みたいな錯覚を起こすこともあります。
それで、学問的や宗教的言説じゃなく、善し悪しの判断でももちろんなく、もし、私が大羊さんだったらどうするかということをお答えしますと、私だったら、彼女がそう言ってくれてるんだから、プロテスタントのルーツであるカトリックかルター派か公教会か、穏健な老舗をチェックして、地域の直接の司祭とか牧師に事情を話し、最も人柄に共感を持てて、相談に乗ってくれそうな人がいる共同体に決めます。教義がどうのこうの言っても、結局、直接接する人の人格が大きいですから。最初から、「キリスト教なんて、自分だけ勝手にやったら」、という姿勢では、彼女に最も近いところに寄り添いたいという思いが届かないのでは悲しいので。それに、彼女がこだわる以上、将来子供ができたり、あるいは人生で試練にあったりした時にも、広い意味でのキリスト者の共同体にいるからね、という安心感を与え、決意を見せたいと思います。その上で、私なら、少しずつ、彼女を原理主義的メンタリティから遠ざける努力をします。彼女の家族全員がそうだとかいうなら至難の業かもしれませんが、少なくとも、遠ざける姿勢を忍耐強く見せて、しかも私が彼女に納得して認めてもらえるほど福音的な誠実なキリスト者であるところを見せていけば、彼女が深みにはまったり(子供の教育のこととかで)するのを避けることができるかもしれませんし、互いに尊重しあうことが本当にキリスト教の精神なのだと分かり合えるかもしれません。
日本では報道されてないかもしれませんが、5月3日に、ポルトガルの南のヴァカンス地で、イギリス人の医師夫婦の4歳の娘が誘拐されたまま消息を絶つという事件が起きました。二人はアイルランド系でカトリック(といっても教会に通っていなかった)なので、地元のポルトガルの教会が二人を支えるミサに招き、それが非常な支えになったそうです。司祭は夫婦が夜でも好きな時に祈るようにといって教会の鍵を渡してくれたそうです。ある夜、父親は啓示を受け、この事件をメディアに載せようと決心しました。イギリスのサッカーチームとかもみな協力するようになりました。夫婦はポルトガルの聖地ファティマに巡礼に行き、ローマにも巡礼に行きました。アイルランド系の枢機卿の口利きで教皇にすぐ面会できました。教皇は、子供を奪われた同じ状況にあるすべての親に会う用意があると言いました。そのことですごく有名になり、両親に自家用ジェット機を提供する富豪も現れました。小児性愛のために子供を誘拐する組織が裏にあるとも言われています。
二人は、この苦しい時期、信仰にどんなに助けられ勇気づけられたかを語っています。
それで、あるカトリックのジャーナリストが、この二人に、「もし、お子さんが結局無事に戻ってこなかったら、あなた方の信仰はどうなりますか?」と尋ねました。
父親は「すごく揺さぶられると思う、しかし私たちを支えてくれた人々を感謝する気持ちは変わらないのだから、彼らと同じ共同体に残ることになると思う」と答えました。
母親の答えはこうです。「それはすごくショックなことです。でも、娘が帰ってこないから神を信じなくなり信仰を失うというのなら、そもそも、娘がいなくなった時点でもう神を信じなくなってもいいはずでした。でもその反対で、私は娘がいなくなったときに神を見い出して力と希望を得たのですから、神をもう見失うことはないと思います」
いろいろ考えさせられます。貧しい国から来たある不法移民で貧しい人がいつもひたすら教会で祈ってるので、「願いが一向に聞き届けられてないことにいつ気づくんだろう」と心配してたことがあるんですが、あるシスターから、「ああいう人たちはね、豊かになったら、神さまを失うもんなんですよ」と言われて、そんなものかと思ったことがあります。
でも、これから結婚する人にこういうのもなんですが、人生なんて、いろいろ大変なのが基本で、完璧な幸福は夜の嵐の中の稲妻みたいなもの、ある日、夫婦で大きな試練に会わないとも限らないし、そんな時、「そうだ、二人とも同じ神さまがいるんだっけ」と思えることが何かの救いにならないとも限らないです。人間がサルから分化しようが、神に土から造られようが、幸せな時はあまり関係ないので、人がつらい時に互いに結びつけてくれ支えてくれるものがあれば心強いかもしれません。彼女がすでに信仰を持っているということは彼女には今もそれが必要だということなのでしょうから、彼女を愛する大羊さんの人生にも、きっと意味のあるものになっていくのかもしれません。今どこかの共同体を選択したからといって、それは終わりではなく、始まりなので、仕事や家庭とのバランスヤ良好感を模索しながら、一生かけて「真実」みたいなものに向かって船を漕ぎ出せばいいと思います。海は広いので、二人の航跡が違っても、星の位置を手がかりにして同じ方向に向かうことはきっとできると思います。最初から同じ船に乗って安心感から漂流するする人だってたくさんあるのですから。
と、宗教というより人生相談の答えでした。
進化論
またまた失礼します。こちらでしばしば話題になる福音派と今まさにリアルタイムで関わっている迷える大羊です。彼らと関わって思うのは進化論を排斥したがる人がやたらと多いこと。私は結婚式の司式の条件として、福音系(その頃はキリスト教のセクト、教派の関係がよくわからなかった)教会の学び会に行ったことがあるんですが、いきなり「進化論は唯物論、無神論、クリスチャンになるということは神を取らねばならない、したがって進化論は捨てなければ・・・」なんて話をされました。
また、僕の彼女(福音系教会員)の母教会の礼拝にカナダで宣教活動をしている女性伝道士の方が講演してましたが、内容は子供たちは人間の先祖はサルで、自然にできたものなんて進化論にいつの間にか洗脳されている、それは人間の尊厳を傷つける、創造論も同じように教えなくては、学校でも教えるべき、そんなような内容で、彼女は子供たちに創造論を教える活動、運動をしているそうです。
また、彼女のクリスチャン仲間(50代くらい)の人とお話する機会があったんですが、彼も曰く「進化論は人に生きる目的を見失わせる、時代がくだるほど生物が良いものになっていくなんて信じられない(進化論はそういう話ではないと思うんですが・・)」そうです。
彼も、そして彼女も「進化論と同様に創造論も学校で教えるべき」なんだそうです。
アメリカでそういうことを主張する人が現在勢い盛んであることは以前から知識として知ってはいました。でも、この日本で、しかも自分の身近な存在として関わりあうこととなるとは夢にも思いませんでした。
私としては、これってどこか話しのスジが根本的に違うような気がするんですよね。私は生物学者でもなんでもないですけど、一つはっきりいえるのはあれは科学理論ですよね。別に神の有無やら人としての生き方を論じたものでも何でもない。聖書の創世記とは話の成り立ちがまるで違う話。
本屋さんの宗教コーナーに行くと、聖書の上げ足取りの本をしばしば目にします。ネットでも、「聖書はここがおかしい、こんなことはあり得ない」なんてことを指摘したサイトがよくあります。まあ、冗談とか話のタネとしては面白いですし、私も大好きです。
でも、それを元に、つまり現代の科学や常識の基準で聖書を断罪し、「だから、キリスト教はダメなんだ、こんな間違いだらけの本の内容は見直し、キリスト教はその価値観を考え直さなければ・・」なんて大真面目に主張する科学者がいたら、クリスチャンの方々は冒涜とかなんとか言う以前に「アホか」と思うだけでしょう。聖書は別に科学や歴史の教科書として使用されることを目的に書かれた本ではないですものね。
進化論ぎらいの福音系クリスチャンの方はどうもこの逆パターン、つまり、信仰の基準を全く別次元の話である科学に持ち込んで、ああでもないこうでもない、なんていっているのが筋違い、というのが私の意見なんですよね。この種の人々の中には、進化論や生物学に詳しい人も中にはいて、進化論の問題点をあれこれ指摘し、生き物が神によって作られた「科学的」証拠をあれこれ並べ立てる人もいるんですが、結局のところ、その根拠は聖書にたどりつくし、進化論の問題点が分かる以外にこれといった説得力がなく、どう考えても護教的な立場で語っているだけとしか思えない。
大体、神の存在が科学的に証明できるんだったら、宗教なんか要らないんじゃ?信仰を深めるためには聖書なんかより、ひたすら生物学、物理学を勉強しよう、という話になるんじゃないのか?ってツッコミを入れたくなってしまうのです。
学校で教えろ、というと当人たちは大真面目でも、私にはさらにバカバカしい、というか信教、思想の自由上、大いに問題あり、としかいいようがない。彼らは進化論は仮説に過ぎない、そんなら創造論、創造科学も、といいますが、科学の世界に科学じゃないものを持ち込むのは変。思想や哲学の時間に教えるなら全然問題ないと思いますけどね。
また、創造論はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教みたいに造物主信仰がある宗教の信者にとっては耳に心地いい話ですけど、世の中には、例えば仏教みたいに造物主の考えがない宗教だってあるわけで、そういう宗教の信徒の立場は一体どうなる?彼らからすれば、どこの神様、とは明言されていなくても、明らかにこれは特定の一神教の押し付けと映るんじゃないかなぁと思います。
つまり、学校の「理科」の時間に創造論を教えろ、と主張する人々って、他宗教、未信者の人々の立場、気持ちに全然鈍感すぎる、と思ってしまうんですね。
信仰にまつわるデリケートな話は彼女とはなるべくしないようにしてるんですが、これはさすがにあまりにおかしい、と思うんで、彼女に僕の意見を表明したところ、黙ってました。
それにしても、この類の話(はっきりいってファンダメンタル)はカトリックではほとんど聞かず、プロテスタントの方に多いんでしょうね?この辺りの事情はとても興味深いです。
また、僕の彼女(福音系教会員)の母教会の礼拝にカナダで宣教活動をしている女性伝道士の方が講演してましたが、内容は子供たちは人間の先祖はサルで、自然にできたものなんて進化論にいつの間にか洗脳されている、それは人間の尊厳を傷つける、創造論も同じように教えなくては、学校でも教えるべき、そんなような内容で、彼女は子供たちに創造論を教える活動、運動をしているそうです。
また、彼女のクリスチャン仲間(50代くらい)の人とお話する機会があったんですが、彼も曰く「進化論は人に生きる目的を見失わせる、時代がくだるほど生物が良いものになっていくなんて信じられない(進化論はそういう話ではないと思うんですが・・)」そうです。
彼も、そして彼女も「進化論と同様に創造論も学校で教えるべき」なんだそうです。
アメリカでそういうことを主張する人が現在勢い盛んであることは以前から知識として知ってはいました。でも、この日本で、しかも自分の身近な存在として関わりあうこととなるとは夢にも思いませんでした。
私としては、これってどこか話しのスジが根本的に違うような気がするんですよね。私は生物学者でもなんでもないですけど、一つはっきりいえるのはあれは科学理論ですよね。別に神の有無やら人としての生き方を論じたものでも何でもない。聖書の創世記とは話の成り立ちがまるで違う話。
本屋さんの宗教コーナーに行くと、聖書の上げ足取りの本をしばしば目にします。ネットでも、「聖書はここがおかしい、こんなことはあり得ない」なんてことを指摘したサイトがよくあります。まあ、冗談とか話のタネとしては面白いですし、私も大好きです。
でも、それを元に、つまり現代の科学や常識の基準で聖書を断罪し、「だから、キリスト教はダメなんだ、こんな間違いだらけの本の内容は見直し、キリスト教はその価値観を考え直さなければ・・」なんて大真面目に主張する科学者がいたら、クリスチャンの方々は冒涜とかなんとか言う以前に「アホか」と思うだけでしょう。聖書は別に科学や歴史の教科書として使用されることを目的に書かれた本ではないですものね。
進化論ぎらいの福音系クリスチャンの方はどうもこの逆パターン、つまり、信仰の基準を全く別次元の話である科学に持ち込んで、ああでもないこうでもない、なんていっているのが筋違い、というのが私の意見なんですよね。この種の人々の中には、進化論や生物学に詳しい人も中にはいて、進化論の問題点をあれこれ指摘し、生き物が神によって作られた「科学的」証拠をあれこれ並べ立てる人もいるんですが、結局のところ、その根拠は聖書にたどりつくし、進化論の問題点が分かる以外にこれといった説得力がなく、どう考えても護教的な立場で語っているだけとしか思えない。
大体、神の存在が科学的に証明できるんだったら、宗教なんか要らないんじゃ?信仰を深めるためには聖書なんかより、ひたすら生物学、物理学を勉強しよう、という話になるんじゃないのか?ってツッコミを入れたくなってしまうのです。
学校で教えろ、というと当人たちは大真面目でも、私にはさらにバカバカしい、というか信教、思想の自由上、大いに問題あり、としかいいようがない。彼らは進化論は仮説に過ぎない、そんなら創造論、創造科学も、といいますが、科学の世界に科学じゃないものを持ち込むのは変。思想や哲学の時間に教えるなら全然問題ないと思いますけどね。
また、創造論はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教みたいに造物主信仰がある宗教の信者にとっては耳に心地いい話ですけど、世の中には、例えば仏教みたいに造物主の考えがない宗教だってあるわけで、そういう宗教の信徒の立場は一体どうなる?彼らからすれば、どこの神様、とは明言されていなくても、明らかにこれは特定の一神教の押し付けと映るんじゃないかなぁと思います。
つまり、学校の「理科」の時間に創造論を教えろ、と主張する人々って、他宗教、未信者の人々の立場、気持ちに全然鈍感すぎる、と思ってしまうんですね。
信仰にまつわるデリケートな話は彼女とはなるべくしないようにしてるんですが、これはさすがにあまりにおかしい、と思うんで、彼女に僕の意見を表明したところ、黙ってました。
それにしても、この類の話(はっきりいってファンダメンタル)はカトリックではほとんど聞かず、プロテスタントの方に多いんでしょうね?この辺りの事情はとても興味深いです。
またお邪魔します
迷える大羊です。信仰に関して、こちらとしては素朴に疑問に思うこと、反発を感じることを素直に書いたつもりでいても、人によっては心の勘所に触れてしまうことをリアルでもネットでも身にしみて知ったこともあり、宗教問題に関してはしばらく発言を自粛しておりました。しかし、宗教、キリスト教、信仰に関し、またまたいろいろ、知りたいこと、いわずにおれないこともあって、あえて禁を解き、発言します。naoさんにも御心配をかけたまんまですし。(著作の紹介ありがとうございます、遅れましたけど)。
こちらで、しばらく見ない間に福音派の話題がでておりましたが、この件に関して、私は今まさにリアルタイムで関わっております(彼女が福音派クリスチャン)ので、聞きたいこと、いいたいこと山盛りです。
なぜ、この福音派の話を蒸し返すか、といえば、いよいよ結婚を控えて、やっぱり、というか、なんというか、彼女の母教会の牧師ともども、私にクリスチャンになってもらいたいという話がはっきりと出ました。
別にキリスト教全体やイエスに対する悪印象はないんですけど、やっぱりクリスチャンのメンタルな部分は今ひとつよくわからない上、福音派(ペンテコステ系ではないんですが)の人たちの信仰は、私にとってあまりに強烈、という言い方が失礼なら、純粋すぎ、真面目すぎで、私の宗教感覚とはとても合わないんで困りました。
もちろん、だからといって、このままでいても彼女の信仰とは付き合わざる得ないし、いつかはクリスチャン、というプレッシャーはこの先ずーっとかけられ続けるだろう、考えた末、こんな妥協案を。「わかった、まだ信仰のことはよくわかんないけど、神についての探求は続けるよ。その代わり、教会、教派は俺の考え方に合うところ、近いところにさせてもらうよ」といい、彼女もそれで納得しました。とりあえず、同じ神の下にいてくれればいいようです。
で、キリスト教や信仰心について大してわかっていない上でいうのもなんですが、今まで、キリスト教会を巡り、神父、牧師などの聖職者の方々に話しを伺った中で、一番考え方に違和感が薄かったのがカトリックでした。理由としては他宗教や異教文化に対する対応が排他的でなく、私の苦手なファンダメンタルな思考様式を方々があまり見当たらないんで、落ち着くんです。あと多神教的な要素があることも、プロテスタント福音派からは批判材料になるんでしょうが、私の宗教感覚からすると、ホッとさせられる要素だったりします。とにかく、あちらは「本物の神とは~」みたいな話が多くて、そういう考え方は私にとって押し付けがましく思えて窮屈きわまりない。
彼女は一応、「カトリックでもいいよ」とはいいますし、表立っては批判しませんが、カトリックにはやや冷淡です。彼女の母教会の牧師さんは、遠藤周作などカトリック系作家の作品は「立場が違う」ということでこれまた読みません(理由はなんとなく分かる気がしますが・・)。
で、何が最終的に言いたいのか、といえば、彼女や彼女の母教会の牧師さんは、夫婦は信仰が同じ、というか同じ神の下にあるべき、という考えなんですが、私的には、同じ神を信じたからといって、感覚や価値観の相違までがぴったり同じになるとは思えないけどなぁ、うまく言葉にならないけど、なまじ互いに同じ神を信じている、という思い込みがあるだけ却って、その感覚、考えの違いが鼻についてしまう、最初からこの人は違う種類の人間と思えば気にならないことが、イラつくなんてことの方がありがちな話のような気がするけどなぁ、とも思ったりします。
皆さんはどうお考えになるでしょうか?やはり、カトリックと福音系の組み合わせはマズイかなぁ?彼女の方でカトリックじゃなくてもいいから、せめてもう少しリベラルな教派に変わってくれないかなぁ・・、と悶々と考える今日この頃です。
こちらで、しばらく見ない間に福音派の話題がでておりましたが、この件に関して、私は今まさにリアルタイムで関わっております(彼女が福音派クリスチャン)ので、聞きたいこと、いいたいこと山盛りです。
なぜ、この福音派の話を蒸し返すか、といえば、いよいよ結婚を控えて、やっぱり、というか、なんというか、彼女の母教会の牧師ともども、私にクリスチャンになってもらいたいという話がはっきりと出ました。
別にキリスト教全体やイエスに対する悪印象はないんですけど、やっぱりクリスチャンのメンタルな部分は今ひとつよくわからない上、福音派(ペンテコステ系ではないんですが)の人たちの信仰は、私にとってあまりに強烈、という言い方が失礼なら、純粋すぎ、真面目すぎで、私の宗教感覚とはとても合わないんで困りました。
もちろん、だからといって、このままでいても彼女の信仰とは付き合わざる得ないし、いつかはクリスチャン、というプレッシャーはこの先ずーっとかけられ続けるだろう、考えた末、こんな妥協案を。「わかった、まだ信仰のことはよくわかんないけど、神についての探求は続けるよ。その代わり、教会、教派は俺の考え方に合うところ、近いところにさせてもらうよ」といい、彼女もそれで納得しました。とりあえず、同じ神の下にいてくれればいいようです。
で、キリスト教や信仰心について大してわかっていない上でいうのもなんですが、今まで、キリスト教会を巡り、神父、牧師などの聖職者の方々に話しを伺った中で、一番考え方に違和感が薄かったのがカトリックでした。理由としては他宗教や異教文化に対する対応が排他的でなく、私の苦手なファンダメンタルな思考様式を方々があまり見当たらないんで、落ち着くんです。あと多神教的な要素があることも、プロテスタント福音派からは批判材料になるんでしょうが、私の宗教感覚からすると、ホッとさせられる要素だったりします。とにかく、あちらは「本物の神とは~」みたいな話が多くて、そういう考え方は私にとって押し付けがましく思えて窮屈きわまりない。
彼女は一応、「カトリックでもいいよ」とはいいますし、表立っては批判しませんが、カトリックにはやや冷淡です。彼女の母教会の牧師さんは、遠藤周作などカトリック系作家の作品は「立場が違う」ということでこれまた読みません(理由はなんとなく分かる気がしますが・・)。
で、何が最終的に言いたいのか、といえば、彼女や彼女の母教会の牧師さんは、夫婦は信仰が同じ、というか同じ神の下にあるべき、という考えなんですが、私的には、同じ神を信じたからといって、感覚や価値観の相違までがぴったり同じになるとは思えないけどなぁ、うまく言葉にならないけど、なまじ互いに同じ神を信じている、という思い込みがあるだけ却って、その感覚、考えの違いが鼻についてしまう、最初からこの人は違う種類の人間と思えば気にならないことが、イラつくなんてことの方がありがちな話のような気がするけどなぁ、とも思ったりします。
皆さんはどうお考えになるでしょうか?やはり、カトリックと福音系の組み合わせはマズイかなぁ?彼女の方でカトリックじゃなくてもいいから、せめてもう少しリベラルな教派に変わってくれないかなぁ・・、と悶々と考える今日この頃です。
改革とは
企業の改革やら社会の改革や修道会の改革などと違って、典礼の改革というものが真に内容を持つのには実は100年くらいかかるんではないかと思います。ラテン語の典礼は千年もかけて少しずつスピリチュアリティを獲得してきたわけで、そこにはいろんな人の思いがつまっています。審美的な肉付けも、神秘の喚起力も、歴史の刻みも、恐れや陶酔や歓喜や慟哭も。新しい司式を整えて訳したところで、実は古い典礼と簡単に置き換えられたり拮抗するわけではないでしょう。今日の改革が明日実を結ぶというのは、精神の営みや霊的な営みには不可能な気がします。また、聖なるものへのセンシビリティというのは典礼だけではなくいろんな形で養われていくものなのでしょう。私もB16の優しさを感じます。
B16 no yasashisa
Takeshita-san, arigatou gozaimasu.
Jitsu wa, "Dentou Fukken" o takaraka ni utai agete shimatte irunodewa nai ka to, naishin shinpai deshita. Honbun o yonde hotto shite imasu.
dai2Vatican no ketsugi ni tomonau kaikaku ni tazusawatta shikyou-tachi e no kei-i ga kanjirare masu. Watakushi jishin mo, karera no kufuu ya doryoku niwa kanpuku shimasu.
Shikashi sono ippou de, kaikaku o gouin ni okonatta tame ni kyoukai kara shmedasreru hame ni natta hito-tachi ga imasu.
Nagaku shikou-seikatsu o tsuzukeireba, sono shikou ya dentou ga jinkaku to missetsu ni musubitsuku baai ga arimasu. shikashi kyoukai-gawa wa sore ni kizukazu, dentou-teki shinkou o motsu hito no jinkaku o hitei suruyou na koto o shite shimatta youdesu.
Furui tenrei no fukkou-undou ni kakawaru hito ni, tsuyoi Ressentiment o motsu hito ga ooi nomo sono tame dato omoimasu.
Konkai no "Summorum Pontificium" niwa souiu shiitgerareta hitobito ni taisuru itawari mo kanjiraremashita.
B16 no yobikake, "Kokoro o hiroku" (IIcor. 6:13) ni kongo kyoukai ga dou kotaeruka chuumoku shiteimasu.
Jitsu wa, "Dentou Fukken" o takaraka ni utai agete shimatte irunodewa nai ka to, naishin shinpai deshita. Honbun o yonde hotto shite imasu.
dai2Vatican no ketsugi ni tomonau kaikaku ni tazusawatta shikyou-tachi e no kei-i ga kanjirare masu. Watakushi jishin mo, karera no kufuu ya doryoku niwa kanpuku shimasu.
Shikashi sono ippou de, kaikaku o gouin ni okonatta tame ni kyoukai kara shmedasreru hame ni natta hito-tachi ga imasu.
Nagaku shikou-seikatsu o tsuzukeireba, sono shikou ya dentou ga jinkaku to missetsu ni musubitsuku baai ga arimasu. shikashi kyoukai-gawa wa sore ni kizukazu, dentou-teki shinkou o motsu hito no jinkaku o hitei suruyou na koto o shite shimatta youdesu.
Furui tenrei no fukkou-undou ni kakawaru hito ni, tsuyoi Ressentiment o motsu hito ga ooi nomo sono tame dato omoimasu.
Konkai no "Summorum Pontificium" niwa souiu shiitgerareta hitobito ni taisuru itawari mo kanjiraremashita.
B16 no yobikake, "Kokoro o hiroku" (IIcor. 6:13) ni kongo kyoukai ga dou kotaeruka chuumoku shiteimasu.
読みました。
司教への手紙、読みました。ラテン語司式許可についての二つの懸念に答えていますね。一つは、第二ヴァチカンの精神と逆行するのでは、典礼の改新を否定するのではという懸念。これには、第2ヴァチカンがその前の典礼の無効を宣言していないこと、ある意味、ラテン語司式はまだ生きていること、二つは標準典礼と特別の典礼(日本語が良く分からないので適当です)としてすみ分けうる、との見解ですね。古い司式に愛着を持つ人も少なくなく、若い世代でもラテン語ミサにこそ神秘を感じると言う人がいることも。そして、新しい司式が、自由に変形され展開されてもよいという誤解によって、その精神が逸脱しているケースを批判されています。新しいものを自己裁量で使うよりは、伝統に磨かれたラテン語司式の方がよい、というニュアンスです。改革派だったラツィンガーが、相対主義に絶望して保守に戻ったという経緯を反映しています。また、1988年にJP2がルフェーヴル派に最後まで歩み寄った分裂回避の姿勢に触れ、これまで、各司教がケースバイケースで判断することに頭を悩ましてきた苦労を軽減するとも。
第二の懸念は、この許可により、カトリック界がラテン語派と新司式派に2分され混乱するのではないかというもので、これには、ラテン語司式を執り行うにはラテン語はもちろん、最低限の学習が必要なので、誰にでもできるわけではなく、新司式が主流として残るだろう、と言っています。キリスト教は、これまで意見を異にするものを切り離していくことで分裂していったが、今は意見の違うものと共存、統合を図りたい、それによって互いにインスパイアして、豊かになればいい、という感じです。すべての司教は3年後に実際どういう状況になったかを報告して、問題が起きていたら解決策を講じたいということです。
新旧の両司式には、矛盾はない、典礼の歴史は常に広がりと進歩の歴史で断絶の歴史はない、前の世代にとって聖なるものであったものは我々にとっても偉大で聖なるものであり続ける。突然禁止されたり害のあるものだと言うことにはhなり得ない、ともあります。確かに、科学や思想のパラダイムが変わったりするのと違って、聖なるものや美なるものを通して、超越の世界と関わる典礼では、古いものが無効になるということはあり得ないでしょう。
実際、ラテン語ミサのために無数の美しい曲が生まれて宗教を超えた文化財産になっているように、文化資本としてのラテン語ミサは生きています。先日書いたブリテンの戦争レクイエムでも、英語の詩とラテン語の典礼部分が絶妙に配合されていて、互いに互いの強さや深さを補強していました。「新しいものが古いものを駆逐していく」ような市場原理みたいなものとはかけ離れています。
問題は、Massimoさんのおっしゃるように、ラテン語派がしばしば独善的原理主義と重なることですね。彼らが新司式を完全に排除する排除するのはその価値と聖性を認めないということで、よろしくない、とB16も釘を刺しています。 でも、この手紙でB16は、司教に「寛容」と「Charite(愛徳、憐れみ)」と「慎重さ」とを期待しています。それにすごく好感が持てました。誰もがこの3つを肝に銘じていれば原理主義の罠にもとらわれないんでしょう。長くなるので一応これで。
第二の懸念は、この許可により、カトリック界がラテン語派と新司式派に2分され混乱するのではないかというもので、これには、ラテン語司式を執り行うにはラテン語はもちろん、最低限の学習が必要なので、誰にでもできるわけではなく、新司式が主流として残るだろう、と言っています。キリスト教は、これまで意見を異にするものを切り離していくことで分裂していったが、今は意見の違うものと共存、統合を図りたい、それによって互いにインスパイアして、豊かになればいい、という感じです。すべての司教は3年後に実際どういう状況になったかを報告して、問題が起きていたら解決策を講じたいということです。
新旧の両司式には、矛盾はない、典礼の歴史は常に広がりと進歩の歴史で断絶の歴史はない、前の世代にとって聖なるものであったものは我々にとっても偉大で聖なるものであり続ける。突然禁止されたり害のあるものだと言うことにはhなり得ない、ともあります。確かに、科学や思想のパラダイムが変わったりするのと違って、聖なるものや美なるものを通して、超越の世界と関わる典礼では、古いものが無効になるということはあり得ないでしょう。
実際、ラテン語ミサのために無数の美しい曲が生まれて宗教を超えた文化財産になっているように、文化資本としてのラテン語ミサは生きています。先日書いたブリテンの戦争レクイエムでも、英語の詩とラテン語の典礼部分が絶妙に配合されていて、互いに互いの強さや深さを補強していました。「新しいものが古いものを駆逐していく」ような市場原理みたいなものとはかけ離れています。
問題は、Massimoさんのおっしゃるように、ラテン語派がしばしば独善的原理主義と重なることですね。彼らが新司式を完全に排除する排除するのはその価値と聖性を認めないということで、よろしくない、とB16も釘を刺しています。 でも、この手紙でB16は、司教に「寛容」と「Charite(愛徳、憐れみ)」と「慎重さ」とを期待しています。それにすごく好感が持てました。誰もがこの3つを肝に銘じていれば原理主義の罠にもとらわれないんでしょう。長くなるので一応これで。
Summorum Pontificium
Tsui ni B16 no atarashi kyourei "Summorum Pontificium" ga demashita.
http://www.vatican.va/latest/laterst_fr.htm
O-jikan no arutoki ni go-kansou o ukagaetara ureshii desu.
http://www.vatican.va/latest/laterst_fr.htm
O-jikan no arutoki ni go-kansou o ukagaetara ureshii desu.
その通りですね
実は、最近、改めてヴァティカン2の憲章と、Ratzinger時代のB16の『Dominus Iesus』を読み比べて、Vatican2は、ある意味当然ですが、結局『Dominus Iesus』に直結してるんだなあ、とも思ったところです。でも、実際は、宗教観対話のためにB16は最近、多元派のフランス人を任命しました。この質問箱で一月ほど前に書きましたが、多元派というのは救済における宗教的多元性を認めるということで、基本的にB16 に批判されています。
コピペしますと、
「多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16-12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。」
ということで、少なくともB16が多元派を採用したということは、プラグマティズムというか、開かれた態度が感じられてほっとします。
大体において、今のカトリックは、メンタリティにおいて結構はっとするほどモダンなんですが、システムが旧弊なんでそれが見えないんですよね。それに比べると福音派とかは、内容はアナクロでも、経営の仕方がマーケッティングとかメディア利用などにおいてすごく今風なんですね。
しかし歴史修正主義の誘惑ってのは、興味深いですね。何か普遍的な病理につながってる気がします。
コピペしますと、
「多元派のよりどころの一つは、ヨハネの福音書(16-12.13)にある『言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。・・・真理の霊がくると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』というイエスの言葉があります。つまり、聖書に啓示されたキリスト教的真理だけが唯一ですべての真理ではない、イエスは言いたいことのすべてを言ったわけでもないし、真理はことごとく顕されただけではない、と言うのです。ここのところをよりどころにしない限り、多宗教間の対話に真の意味では踏み込めないわけです。グローバル化の世の中で、人が共存していくには、「ことごとくの真理を掌握している」という態度では、なに教でも、なに主義でも自らを袋小路に追いやることになると私は思っています。」
ということで、少なくともB16が多元派を採用したということは、プラグマティズムというか、開かれた態度が感じられてほっとします。
大体において、今のカトリックは、メンタリティにおいて結構はっとするほどモダンなんですが、システムが旧弊なんでそれが見えないんですよね。それに比べると福音派とかは、内容はアナクロでも、経営の仕方がマーケッティングとかメディア利用などにおいてすごく今風なんですね。
しかし歴史修正主義の誘惑ってのは、興味深いですね。何か普遍的な病理につながってる気がします。
Fraternite St.PieX
Maido no koto nagara, yominikui roma-ji no choubun o yonde kudasatte arigatou gozaimasu.
Watakushi ga omouni, Fraternite St.Pie X ( Mons.Lefebvre no sousets shita shisai no kai ) no mondai-ten wa furui Laten-go tenrei to iu yorimo, "katolikku-kyoukai dake ga yuitsu tadashiku, zettai ni machigaeru kotoga nai!" to iu rinen no moto de, hansei toka jiko-hihan o shinai koto dato omotte imasu.
Sonna karera no tokoro ni "Nazisu no dai-gyaksatu nante decch-age da!" nante shuchou suru hito ga kekkou atsmatte iru noga kowai desu.
Watakushi ga omouni, Fraternite St.Pie X ( Mons.Lefebvre no sousets shita shisai no kai ) no mondai-ten wa furui Laten-go tenrei to iu yorimo, "katolikku-kyoukai dake ga yuitsu tadashiku, zettai ni machigaeru kotoga nai!" to iu rinen no moto de, hansei toka jiko-hihan o shinai koto dato omotte imasu.
Sonna karera no tokoro ni "Nazisu no dai-gyaksatu nante decch-age da!" nante shuchou suru hito ga kekkou atsmatte iru noga kowai desu.
生贄のこと
フランスのカトリック界は、先ごろ、過去に破門されてスイスで活動していたラテン語司式のモンセニョール・ルフェーブル系の司祭らをヴァティカンが受け入れた事実についてすでにすごく困惑していました。第二ヴァティカン公会議の精神を死守しようとする人が多いフランスのカトにとっては大問題なわけです。ミサにおける「犠牲」のシンボリズムもすごく大きな問題ですね。
昨日、サン=ドニのバジリカ聖堂で、80歳になるクルト・マズール式のブリテンの戦争レクイエムを聴きに行きました。1994年に同じ場所でロストロポヴィッチがこの曲を指揮した記念だそうです。
二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパ人の平和への決意のような英語の詩(Wilfred Owen)が、ラテン語レクイエムと交互に現れます。その中で、アブラハムが神に言われて息子のイサクを犠牲に捧げるシーンがあります。本来なら、アブラハムが刃を振りかざしたところで、神が止めて、その代わりに一匹の羊が見つかるという話です。ところが、Owenの詩はこうです。
Offer the ram of pride instead of him.
But the old man would not so, but slew his son,
And half the seed of Europe, one by one...
Half the seed of Europe, one by one...
つまり、せっかく神が、イサクの身代わりの羊を用意したのに(そんなくらいなら、最初からアブラハムの信仰を試すなど無体なことをするなという突っ込みはなしです)、アブラハムは、イサクを殺し、それから、ヨーロッパの子供を一人ずつ、半減するまで殺していった。それが、ヨーロッパの人口が激減した二度の大戦のことです。人は、神の名において自分の子達を犠牲にし続けたという怖ろしい詩になっています。ここの部分は血が凍るみたいに歌われ、その次のSanctusの冒頭で、ソプラノがSanctus,Sanctus,Sanctusと3度絶叫するのが臓腑に打ち付けられる気分になりました。
宗教であれ、戦争であれ、人が人を屠るシーンでは、聖への侵害があり、神なしに実存を支えられなくなる瞬間があるのかもしれません。
昨日、サン=ドニのバジリカ聖堂で、80歳になるクルト・マズール式のブリテンの戦争レクイエムを聴きに行きました。1994年に同じ場所でロストロポヴィッチがこの曲を指揮した記念だそうです。
二度の大戦でぼろぼろになったヨーロッパ人の平和への決意のような英語の詩(Wilfred Owen)が、ラテン語レクイエムと交互に現れます。その中で、アブラハムが神に言われて息子のイサクを犠牲に捧げるシーンがあります。本来なら、アブラハムが刃を振りかざしたところで、神が止めて、その代わりに一匹の羊が見つかるという話です。ところが、Owenの詩はこうです。
Offer the ram of pride instead of him.
But the old man would not so, but slew his son,
And half the seed of Europe, one by one...
Half the seed of Europe, one by one...
つまり、せっかく神が、イサクの身代わりの羊を用意したのに(そんなくらいなら、最初からアブラハムの信仰を試すなど無体なことをするなという突っ込みはなしです)、アブラハムは、イサクを殺し、それから、ヨーロッパの子供を一人ずつ、半減するまで殺していった。それが、ヨーロッパの人口が激減した二度の大戦のことです。人は、神の名において自分の子達を犠牲にし続けたという怖ろしい詩になっています。ここの部分は血が凍るみたいに歌われ、その次のSanctusの冒頭で、ソプラノがSanctus,Sanctus,Sanctusと3度絶叫するのが臓腑に打ち付けられる気分になりました。
宗教であれ、戦争であれ、人が人を屠るシーンでは、聖への侵害があり、神なしに実存を支えられなくなる瞬間があるのかもしれません。
B16 no Kyourei
Kondo no doyoubi ( 7/7 ) ni Benedict XVI ( B16 ) ga arata ni kyourei (Motu Proprio) o koufu shimasu.
Naiyou wa, tsui 40-nen kurai mae made kyoukai-nai de futsuu ni okonawarete ita, Kyuu Roma-tenrei = <frui Laten-go no missa> o jiyuu ni kyoshiki suru koto ga dekiru to iumono desu.(*imamade wa kisei ga arimashita.)
Shin-Kyuu no missa no ookina chigai wa, Laten-go toiu kotoba no chigai igai ni, genzai wa : Missa=Bansan (shokuji o tomo ni suru) to iu gainen ni taishite, mukashi wa : Missa=Hansai (ikenie o sasageru) to iu gainen no moto de kyoshiki sarete imshita. Mottomo, seizen no Jean Guitton ni yoreba, ima mo missa nimo "hansai" no gainen wa nokkotte iru keredo "mokisatsu saretei iru" noda soudesu.
Jitsu wa watakushi wa kono "ikenie" toiu kangae-kata ga suki desu. Ima no jibun-tachi no shiawase wa dawrka no doryoku ya kurou no ueni aru toiu "gisei ni taisuru kanshya" ni tsuujiru youni omoimasu. Mata, KyuYakuSeishyo no shikou nimo tsunagaru you nimo omoimasu.
Mukashi no missa-tenreisho konna inori ga arimasu :
....Daignez, Seigneur, jeter un regard de complaisance et de bonte sur ces dons, et agreer ce Sacrifice saint, cette Hostie sans tache, comme il vous a plu d'ageer les presents d'Abel, le juste, vorte serviteur, anisi que le sacrice d'Abraham, notre Patriarche, et celui que vous a offert votre grand pretre Melchisedech... (...Korera no sasage-mono o odayaka na on-manazashi o motte kaerimite kudasai. Shimobe de aru gi-jin Aberu no sonae-mono, warera no taiso Aburahamu no ikunie, dai-saishi Merukisedeku ga kenjou shita kumotsu o ukeire tamouta youni...)
Mochiron, furui mono wa subete sugurete iru mitia na kyokuron niwa hantai desu.
Tokoro de, kinou, Fransu shikyou-dan no osa de aru Bordeax no Richard suukikyou ga shikyou tachi o Pari ni atsumete, kono atarashii kyourei no atsukai ni tsuite hanashi-ai o motta sou desu. Shousai ni tsuite wa mada kiite imasen ga, douyara atarashii kyourei wa amari karera ni kangei sarete inai you desu.
Dochraka ippou ga, mou katahou ni totte kawaru to iu nodewa maku, shin-kyuu souhou ga o-tagai kara manabi, katorikku no tenrei ga yori yutaka ni nareba yoi to omotte imasu.
Naiyou wa, tsui 40-nen kurai mae made kyoukai-nai de futsuu ni okonawarete ita, Kyuu Roma-tenrei = <frui Laten-go no missa> o jiyuu ni kyoshiki suru koto ga dekiru to iumono desu.(*imamade wa kisei ga arimashita.)
Shin-Kyuu no missa no ookina chigai wa, Laten-go toiu kotoba no chigai igai ni, genzai wa : Missa=Bansan (shokuji o tomo ni suru) to iu gainen ni taishite, mukashi wa : Missa=Hansai (ikenie o sasageru) to iu gainen no moto de kyoshiki sarete imshita. Mottomo, seizen no Jean Guitton ni yoreba, ima mo missa nimo "hansai" no gainen wa nokkotte iru keredo "mokisatsu saretei iru" noda soudesu.
Jitsu wa watakushi wa kono "ikenie" toiu kangae-kata ga suki desu. Ima no jibun-tachi no shiawase wa dawrka no doryoku ya kurou no ueni aru toiu "gisei ni taisuru kanshya" ni tsuujiru youni omoimasu. Mata, KyuYakuSeishyo no shikou nimo tsunagaru you nimo omoimasu.
Mukashi no missa-tenreisho konna inori ga arimasu :
....Daignez, Seigneur, jeter un regard de complaisance et de bonte sur ces dons, et agreer ce Sacrifice saint, cette Hostie sans tache, comme il vous a plu d'ageer les presents d'Abel, le juste, vorte serviteur, anisi que le sacrice d'Abraham, notre Patriarche, et celui que vous a offert votre grand pretre Melchisedech... (...Korera no sasage-mono o odayaka na on-manazashi o motte kaerimite kudasai. Shimobe de aru gi-jin Aberu no sonae-mono, warera no taiso Aburahamu no ikunie, dai-saishi Merukisedeku ga kenjou shita kumotsu o ukeire tamouta youni...)
Mochiron, furui mono wa subete sugurete iru mitia na kyokuron niwa hantai desu.
Tokoro de, kinou, Fransu shikyou-dan no osa de aru Bordeax no Richard suukikyou ga shikyou tachi o Pari ni atsumete, kono atarashii kyourei no atsukai ni tsuite hanashi-ai o motta sou desu. Shousai ni tsuite wa mada kiite imasen ga, douyara atarashii kyourei wa amari karera ni kangei sarete inai you desu.
Dochraka ippou ga, mou katahou ni totte kawaru to iu nodewa maku, shin-kyuu souhou ga o-tagai kara manabi, katorikku no tenrei ga yori yutaka ni nareba yoi to omotte imasu.
お久しぶりです
そうなんですよね、キャンプの人も、タリバンのコーラン学校では子供たちを、宗教のために命を捧げる戦士に教育できるんだから、キリスト教もできないはずはない、といってるんです。キリスト教でも、有名な小児十字軍ってのがあって、でも、そのほとんどは奴隷商人につかまったりしました。ある種の子供は、純粋に高揚するんで、それ自体はいいんですが、それを利用する大人たちが必ずいることが問題なんですよね。
日本のような国では福音派といっても、戦闘的なコンテキストがなく、イデオロギーとも結びついていないと思うので、ああいう展開にはならず、ただ、理想に燃えて熱くカタルシスとしての異言語り(ペンテコスタ派の場合)に留まるのではないかと想像するんですが・・
日本人はあまり人前で羽目をはずさない国民性があるから、ダンスのレッスンでも普通の人は即興とか苦手なんです。人前で大声で叫ぶとうのも苦手だし。でも、そのおとなしさを評価して認めてくれる共同体が崩壊したら、うまくガス抜きの装置がないと、カルトも含めていろいろな危うい「奴隷商人」に取り込まれて行くのかもしれません。
創立当初のイエズス会もそうですが、今も南米中心に教皇直属の「キリスト軍団」ってのがあるじゃないですか。
こういうの。 http://www.legionduchrist.org/
これって、時代錯誤っていうか、ネーミング自体、怖くないですか? 前から注目してるんですけど・・・こういう人たちが非の打ち所なく控えているからこそ、教皇ってのは、理性80%くらいの冷静な人にやってもらいたいですね。
日本のような国では福音派といっても、戦闘的なコンテキストがなく、イデオロギーとも結びついていないと思うので、ああいう展開にはならず、ただ、理想に燃えて熱くカタルシスとしての異言語り(ペンテコスタ派の場合)に留まるのではないかと想像するんですが・・
日本人はあまり人前で羽目をはずさない国民性があるから、ダンスのレッスンでも普通の人は即興とか苦手なんです。人前で大声で叫ぶとうのも苦手だし。でも、そのおとなしさを評価して認めてくれる共同体が崩壊したら、うまくガス抜きの装置がないと、カルトも含めていろいろな危うい「奴隷商人」に取り込まれて行くのかもしれません。
創立当初のイエズス会もそうですが、今も南米中心に教皇直属の「キリスト軍団」ってのがあるじゃないですか。
こういうの。 http://www.legionduchrist.org/
これって、時代錯誤っていうか、ネーミング自体、怖くないですか? 前から注目してるんですけど・・・こういう人たちが非の打ち所なく控えているからこそ、教皇ってのは、理性80%くらいの冷静な人にやってもらいたいですね。
Jesus Camp
Suu-kagetsu mae ni CNN news de, mijikai eizou to tomo ni shoukai sare mashita. Zuibun mae no koto de shikamo hontou ni mijikai eizou datta no desu ga, atama o hageshiku furinagara goukyuu shite ayamaru kodomo o mite, nani ni tsuite shazai shiteirunodarou to omotte shimaimashita.
Mita chyokugo wa shokku deshita ga, yoku kangaereba, ginrui no rekishi ni oite wa ma-atarashi mono dewa nai to omottara, shourai o hikan suru kimochi wa yawaragi mashita. Kodomo no jousou niwa mochron warui to omoimasu.
Tariban demo nitayou na koto o yatte iru to iu hito mo imasu ga, watkushi kojin wa souritsu toushyo no Iezus-kai(Jesuits) o rensou shite simai mashita.
Mita chyokugo wa shokku deshita ga, yoku kangaereba, ginrui no rekishi ni oite wa ma-atarashi mono dewa nai to omottara, shourai o hikan suru kimochi wa yawaragi mashita. Kodomo no jousou niwa mochron warui to omoimasu.
Tariban demo nitayou na koto o yatte iru to iu hito mo imasu ga, watkushi kojin wa souritsu toushyo no Iezus-kai(Jesuits) o rensou shite simai mashita.