それなら・・・
発想を変えてみましょう。ここまでは、大体において「キリスト教理解」という観点からお答えしてきましたが、純然たる人生相談として答えてみます。
>どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?
とおっしゃいますが、問題が「宗教」だと思うから袋小路に入っているので、本当の問題は、アディクションなんだと思います。多くの人は軽重は別としてアディクションを抱えていると思います。煙草や酒がやめられなかったり、買い物依存とか、マザコンやファザコンとか、オンラインゲーム依存とか・・・
たとえば、般若心経を50回唱えるのが就眠儀式になっていて、一度でもそれができないと不安不眠になる、普段の生活に支障はないが、結婚する相手には知っていて欲しい、できたら一緒に唱えて欲しい、と打ち明けられたらどうします? 般若心経のことはよく分からないけど、「悪いもの」ではないはずだから、やめろというわけにはいかない、自分もその内容を勉強してみよう・・・なかなか難しいし奥深そうで、とても理解したとは思えない、意味も分からないで毎日いっしょにこんなものを唱えるなんて意味がないんじゃないか・・・とか、いろいろ思い悩み・・・なんで、こんなお経なんて厄介なものがあるんだろう・・となるでしょう。
つまり、問題はキリスト教や般若心経にあるのではなく、アディクションにあるのです。何かに夢中になるのは悪いことではありません。しかしそれが途絶えると心身のバランスに異常をきたすほどの状態であれば、またすでに日常生活に支障をきたしている状態であれば、依存症や強迫神経症となります。
誰かを好きになったら、その人が慢性病を抱えていると知っても、依存症や強迫があると知っても、心は変わらないでしょう。ある若年糖尿病で一生インスリン注射が必要な女性は、男の人と付き合う前には必ずそれを打ち明けてその反応によって、相手の人間性を確かめていました。それを受け入れてくれる人でも、過剰反応されて、何か食べるたびに、「これ食べていいの?これは?」と聞いてくる人はすごくいやで続かなかったそうです。彼女が結局伴侶に選んだのは、そのまま受け入れてくれて、しかし、その後、彼女の方からそのを話題にしない限り、一度も自分からその病気のことを口にしない人だそうです。
これは、もちろんアディクションではなくて、日常生活の一部が、カップルでまったく同じようにできなくて、一方がある種のハンディを背負っているというケースです。
カップルの片方に病気や障害があり、それでも、いや、それゆえにより強くいたわりあったり愛し合ったりしているケースはいくらでもあります。
宗教でも、たとえば、相手を勧誘せず、週一回の勉強会と礼拝だけは欠かせないからOKしてちょうだいね、といって、何十年もうまくいく場合もあります。でも、それにはおのずと家庭の優先順位を決めておくことが必要になります。片方が具合が悪くて今日は家にいてほしいとか、海外転勤についてきてほしいとか、子供が病気だとか、子供の学校の会合があるとか・・・何があっても宗教の集会を優先するとしたらそれは依存症であり、その宗教がそれを利用して、あるいはそれをほめているとしたらもっと大変です。本当の宗教とは、人を分断するものでなく、結びつけるものであるはずから、宗教内の身内優先で外的宗教行為が一番大事とは言わないはずです。
私にはもちろん詳しいことは分かりませんが、これまでのお話からすると、彼女はアディクション状態かそれに近いところにあり、しかも、福音派の性質から言って、ひっそりと内面的に信仰するというより説教的な布教を求められていると思うので( 昨日も言いましたように、消費者のマインド・コントロールを含めた企業の販売戦略と同じような部分もあると思います)、アディクションを解くにはかなり困難なレベルにあると思います。それを承知で、自分を守りながら共存していくか、依存度を減らして寛解状態にもっていけるか、あるいは、これが理想ですが、彼女はそういう心の問題の依存を必要としているわけですから、彼女の依存を宗教から少しずつ大羊さんに移していけばいいのです。これもそれはそれで覚悟がいりますよ。神に対抗(?)ですから責任重大です。裏切ることはできません(第一、人間には裏切られるからと言って神を求める人は多いです)。「ぼくの愛の力で何とかなる」と思うのはもっとリスキーです。愛の力で何とかなれば医者もカウンセラーも要りません。そんなわけで、愛する人のアディクションとどう付き合うべきか、これが本当の問題ではないでしょうか?
後、もう一つ、人生相談でなく信仰の相談だという立場で答えますと、大羊さんが彼女のおかげでキリスト教のことをいろいろ勉強したり、関心を持ったり、このサイトにいらっしゃったということは、何かの導き、仏教風だと「ご縁」だったということかもしれません。大羊さんは神の必要を感じていないとおっしゃいますが、ひょっとして神が大羊さんを必要としているのかもしれません。今はまだその意味が分からないけれど、何か使命を果たしていらっしゃるのかもしれません。少なくとも、私やNaoさんに、大羊さんのお役に立とうという心を引き出してくれました。私やNaoさんにはこのやりとりが糧になっていると思います。ありがとうございました。またいつでも来てください。
>どうして世の中には宗教なんて厄介なものがあるんだろ?
とおっしゃいますが、問題が「宗教」だと思うから袋小路に入っているので、本当の問題は、アディクションなんだと思います。多くの人は軽重は別としてアディクションを抱えていると思います。煙草や酒がやめられなかったり、買い物依存とか、マザコンやファザコンとか、オンラインゲーム依存とか・・・
たとえば、般若心経を50回唱えるのが就眠儀式になっていて、一度でもそれができないと不安不眠になる、普段の生活に支障はないが、結婚する相手には知っていて欲しい、できたら一緒に唱えて欲しい、と打ち明けられたらどうします? 般若心経のことはよく分からないけど、「悪いもの」ではないはずだから、やめろというわけにはいかない、自分もその内容を勉強してみよう・・・なかなか難しいし奥深そうで、とても理解したとは思えない、意味も分からないで毎日いっしょにこんなものを唱えるなんて意味がないんじゃないか・・・とか、いろいろ思い悩み・・・なんで、こんなお経なんて厄介なものがあるんだろう・・となるでしょう。
つまり、問題はキリスト教や般若心経にあるのではなく、アディクションにあるのです。何かに夢中になるのは悪いことではありません。しかしそれが途絶えると心身のバランスに異常をきたすほどの状態であれば、またすでに日常生活に支障をきたしている状態であれば、依存症や強迫神経症となります。
誰かを好きになったら、その人が慢性病を抱えていると知っても、依存症や強迫があると知っても、心は変わらないでしょう。ある若年糖尿病で一生インスリン注射が必要な女性は、男の人と付き合う前には必ずそれを打ち明けてその反応によって、相手の人間性を確かめていました。それを受け入れてくれる人でも、過剰反応されて、何か食べるたびに、「これ食べていいの?これは?」と聞いてくる人はすごくいやで続かなかったそうです。彼女が結局伴侶に選んだのは、そのまま受け入れてくれて、しかし、その後、彼女の方からそのを話題にしない限り、一度も自分からその病気のことを口にしない人だそうです。
これは、もちろんアディクションではなくて、日常生活の一部が、カップルでまったく同じようにできなくて、一方がある種のハンディを背負っているというケースです。
カップルの片方に病気や障害があり、それでも、いや、それゆえにより強くいたわりあったり愛し合ったりしているケースはいくらでもあります。
宗教でも、たとえば、相手を勧誘せず、週一回の勉強会と礼拝だけは欠かせないからOKしてちょうだいね、といって、何十年もうまくいく場合もあります。でも、それにはおのずと家庭の優先順位を決めておくことが必要になります。片方が具合が悪くて今日は家にいてほしいとか、海外転勤についてきてほしいとか、子供が病気だとか、子供の学校の会合があるとか・・・何があっても宗教の集会を優先するとしたらそれは依存症であり、その宗教がそれを利用して、あるいはそれをほめているとしたらもっと大変です。本当の宗教とは、人を分断するものでなく、結びつけるものであるはずから、宗教内の身内優先で外的宗教行為が一番大事とは言わないはずです。
私にはもちろん詳しいことは分かりませんが、これまでのお話からすると、彼女はアディクション状態かそれに近いところにあり、しかも、福音派の性質から言って、ひっそりと内面的に信仰するというより説教的な布教を求められていると思うので( 昨日も言いましたように、消費者のマインド・コントロールを含めた企業の販売戦略と同じような部分もあると思います)、アディクションを解くにはかなり困難なレベルにあると思います。それを承知で、自分を守りながら共存していくか、依存度を減らして寛解状態にもっていけるか、あるいは、これが理想ですが、彼女はそういう心の問題の依存を必要としているわけですから、彼女の依存を宗教から少しずつ大羊さんに移していけばいいのです。これもそれはそれで覚悟がいりますよ。神に対抗(?)ですから責任重大です。裏切ることはできません(第一、人間には裏切られるからと言って神を求める人は多いです)。「ぼくの愛の力で何とかなる」と思うのはもっとリスキーです。愛の力で何とかなれば医者もカウンセラーも要りません。そんなわけで、愛する人のアディクションとどう付き合うべきか、これが本当の問題ではないでしょうか?
後、もう一つ、人生相談でなく信仰の相談だという立場で答えますと、大羊さんが彼女のおかげでキリスト教のことをいろいろ勉強したり、関心を持ったり、このサイトにいらっしゃったということは、何かの導き、仏教風だと「ご縁」だったということかもしれません。大羊さんは神の必要を感じていないとおっしゃいますが、ひょっとして神が大羊さんを必要としているのかもしれません。今はまだその意味が分からないけれど、何か使命を果たしていらっしゃるのかもしれません。少なくとも、私やNaoさんに、大羊さんのお役に立とうという心を引き出してくれました。私やNaoさんにはこのやりとりが糧になっていると思います。ありがとうございました。またいつでも来てください。