(無題)
クリマの文章を一行も見たことがないのでは話にもならないので
耶無を得ず周辺から近づくしかないのですが、
クリマがショーペンハウアー(=カント)やバークレーの信奉者であつた処を見ると、人間は(神や天使と違つて)真善美などの超越範疇の知的直観を持たないのでdiskursiv ― これを橋里美は『分散的』と訳して居ますが、それは多分この言葉がdiscret(密接しないで離れて立つ)から来るからでせう ― な概念を使用して、主語と述語動詞と補語を文法により縫ひ併せるしかない。そして範疇やその命題Satzが現実存在に如何にして適用され得るかは、法学的な実践(日本語では権利問題と訳して居るので解りにくいが)や図式論によつて視覚的に説明するしかない。
しかし真についての知的直観はないが、美や善については神ならぬ人間にも直観はある。(純理批判には(難解な)図式論は必須だが、美的判断力や倫理の批判には必要がない所以です)。
一挙に対象を把握してしまふ直観は常に感覚的でその対象を持つはずですが、痛みとかオルガスムは志向対象のない感覚で、山上の体験を一般的な経験として説明することはそれ自体論理的矛盾になりさうです。
耶無を得ず周辺から近づくしかないのですが、
クリマがショーペンハウアー(=カント)やバークレーの信奉者であつた処を見ると、人間は(神や天使と違つて)真善美などの超越範疇の知的直観を持たないのでdiskursiv ― これを橋里美は『分散的』と訳して居ますが、それは多分この言葉がdiscret(密接しないで離れて立つ)から来るからでせう ― な概念を使用して、主語と述語動詞と補語を文法により縫ひ併せるしかない。そして範疇やその命題Satzが現実存在に如何にして適用され得るかは、法学的な実践(日本語では権利問題と訳して居るので解りにくいが)や図式論によつて視覚的に説明するしかない。
しかし真についての知的直観はないが、美や善については神ならぬ人間にも直観はある。(純理批判には(難解な)図式論は必須だが、美的判断力や倫理の批判には必要がない所以です)。
一挙に対象を把握してしまふ直観は常に感覚的でその対象を持つはずですが、痛みとかオルガスムは志向対象のない感覚で、山上の体験を一般的な経験として説明することはそれ自体論理的矛盾になりさうです。