2009年の投稿

ありがとう

marie · 2009-12-16 09:24:37 UTC+9 · 投稿 #467

お返事ありがとうございました。「別の生き方へとすべての人をいざなつている」という復活のイメージに共感大なるものがあります。

>>それを救うのは、「この私の人生」の救済とか螺旋上昇でなく、やはり、自分が自分に立っているけれど他者と生きているのだという連帯の目線であり、個人の老いや死を超えた大きな全体に参加できるというイメージです

私のキリスト教時間イメージで生きることに自信のようなものが生まれました。ありがとうございました。

キリスト教の時間

Sekko · 2009-12-16 04:02:49 UTC+9 · 投稿 #466

そうですね。典礼暦と「創造から終末に向う一回性の線的時間」の考えはキリスト教の中で上手くできていると思います。キリスト教無神論の歴史の中では、必ず、この創造に関する「初めと終わり」の概念が否定されて、物質世界は永遠であるという主張がされてきました。これはエネルギー普遍の法則とか、原子の不滅みたいな理論の形成とも連動しているんですが、そのうち、地球はもとより、宇宙にもビッグバンによる「始まり」があったとか、いつかはクラッシュして消滅するとか、見方のスケールを変えると、永遠性とか循環性とか終始のある線的時間は、互換性があったり、共存したりできると思います。もっとも普通の人間には、循環し再生する自然の営みに比べて、生まれ育ち老いて死んで消えていく自分や自分の近いところにいる同類のかかえる線的時間の一回性の意識というのは強烈で、不可逆的な死の恐怖をどう管理するかというところから宗教儀礼も生まれたのでしょう。仏教でも弥勒信仰などで釈迦の入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わして多くの人々を救済するとか、一応線的な時間もありますが、基本はこの世の時間や空間などは幻であり、循環的な輪廻から脱することこそ救済ですよね。キリスト教も、終末の後に魂といっしょに肉体も復活するとかいうことで、肉体の一回性を相対化したり、線的時間を無意味にする各種聖人の時空を超越した「交信」などによって、歴史性を無化する工夫があります。
イエスが十字架上で一度死んだけれど復活して、そのままずっと、生きているというのも、たんに聖なる人が死後も腐敗しないとか存在の仕方を変えたというより、また別の生き方へとすべての人をいざなってる感じはします。
愛する人の誕生日や命日やらを毎年想起するというのは、自然な感情だし、それが権威的に押しつけられたら嫌ですが、繰り返して想起しないと人って忘れっぽいからなあ、という実感もあります。
螺旋的に円環しながら上昇していくイメージはすてきだし、そこに神の国の建設とかいうポジティヴな目標が与えられるのはいいことですね。そうしないと、正直言って、毎年季節や暦や行事は巡るのに、人生の後半ではそのスピードが年々早くなって、体力も衰え、螺旋上昇どころかきりもみ的に落下するって実感さえありますから。それを救うのは、「この私の人生」の救済とか螺旋上昇でなく、やはり、自分が自分に立っているけれど他者と生きているのだという連帯の目線であり、個人の老いや死を超えた大きな全体に参加できるというイメージです。実際、自分の生も、すでにいない多くの人の共同作業の上で育まれたという感謝と感動がすでにあります。私一人では、家一軒建てられず、食糧も調達できず、病気も治せず、サヴァイヴァル力はゼロですから。今私より弱い立場にいる人とか次の世代の人などに私も微少でも何らかの形で役に立ちたいです。

追加です。

marie · 2009-12-13 22:05:20 UTC+9 · 投稿 #464

典礼暦はイエスからみれば、線的時間になりますね。ひとりの人の生涯が2千年の長きにわたつて、また将来も信者の円環的時間になつてゆくというのは、やはり、特別なことですね。イエスという点が人類の環にはまり込んでゆく不思議さを感じます。人間のすみずみまでイエスが住んでいるという感覚に呆然といたします。直線と円環が同時存在になる人物は、やはり神の子なんだな~とおもつているところです。変ですかね?

追加です。

marie · 2009-12-13 22:05:20 UTC+9 · 投稿 #465

典礼暦はイエスからみれば、線的時間になりますね。ひとりの人の生涯が2千年の長きにわたつて、また将来も信者の円環的時間になつてゆくというのは、やはり、特別なことですね。イエスという点が人類の環にはまり込んでゆく不思議さを感じます。人間のすみずみまでイエスが住んでいるという感覚に呆然といたします。直線と円環が同時存在になる人物は、やはり神の子なんだな~とおもつているところです。変ですかね?

キリスト教の時間

marie(HNnaoからかえました) · 2009-12-13 17:49:47 UTC+9 · 投稿 #463

キリスト教には典礼暦という暦があります。待降節からはじまり降誕ー公現ー受難節ー復活節ー聖霊降臨ー主の昇天ーそして、マリアの被昇天、それ以後は諸聖人の祝日がつづいて、また待降節とめぐつてゆきます。これは我々がイエスの生涯を共にしながら、イエスにちかずく喜びの日々でもあります。こうして、一年の円環的時間がまわつてゆき、生涯、これはくりかえされてゆきます。
しかし、またキリス救には天地の創造からキリストの再臨までの線的時間もあります。円環的時間はわかりやすいですが、線的時間は日本人には馴染みがうすいようにおもわれます。私の考えでは円環的時間が螺旋状にあがつてゆき、この線的時間を生きてゆく、というのがキリスト教の時間感覚かとおもつています。そのめざすところは「自由他在」つまり先生の「自由人イエス」の解説によりますと、「自分が自由で何ものにも捉われない境地にあつて、その自由を人と共にあることに行使するということ」にあると考えられます。イエスの自由はまさに自由他在の完成であつたわけですから、線的時間はやはりイエスの再臨によつて、完成される、そのためにはわれわれはイエスにならつて円環的暦の時間をいきてゆけばいいのかな・・というのが今の私の考えです。足りないことや間違いがありましたら、ご指示いただけますと幸いにぞんじます。

宗教=お花畑?

迷える大羊 · 2009-12-12 10:03:32 UTC+9 · 投稿 #462

>実は、17世紀以降のヨーロッパのカトリック国で、すでに「宗教=女子供」のレッテルが存在していたという事実もあります。批判精神のある大人の男は宗教の「子供だまし」の言説など信じないが、女子供のしつけや気晴らしには勧められる、という言説があちこちに残っているんですよ

うーん、ガリレオ裁判とか魔女狩り、異端狩りの印象が強烈すぎるので、意外な話ですね。でも、私の独断と偏見ではカトリックの世界ってわりと、それはそれ、あれはあれ、信仰の世界と現実を割り切って分けて割り切って考えるタイプの方が多そうな感じ。良くも悪くもあまり「宗教の信者」といった感じのする人が少ないように思います。葬式でも普通に焼香する人が大多数だし、やたらと神経質に神社仏閣を避けてまわる人もあまりいませんし、プロの一部教会、信者のように信仰心が昂じすぎて、聖書はすべて事実と言い張る人もいませんし。そういうことを考えれば「さもありなん」といった気もしますね。

面白かったのは、麻生元首相と鳩山現総理の公開討論。カトリック信者の麻生氏の方が見た感じといい、発言内容といい良くも悪くもプラグマティックで、おそらくは無宗教の鳩山氏のいうことの方がこれまた、良くも悪くも「宗教っぽい」感じがしたことですね。

しかし、キリスト教会の女性比率の高さは他宗教と比べても際立ってますね。いつも、どうしてだろ?と考えます。

蛇足ながら、これはあくまで独断と偏見であり、別にカトリック、麻生氏、鳩山氏を特に持ち上げてるわけでもなければ、貶めてるわけでもないことをお断り申し上げます。

女性の場合

Sekko · 2009-12-09 20:10:49 UTC+9 · 投稿 #461

日本の女性のカトリック信者で、先祖代々の宗旨(仏教)と暮らしている人には、世代や土地柄によっても違うでしょうが、肩身の狭い思いをした、隠れキリシタンのように暮らした、という人もいれば、「あそこの奥さんはキリスト教だから」ということで、完全に世間にあわせなくても例外扱いしてもらえて、ある種の自由を享受できた、という人もいます。キリスト教だから、と冠婚葬祭の縛りをうまくかわして日本内外人の個人主義ですむとしたら、差別やいじめがなければ楽かもしれません。差別やいじめは、原則横並びの人が「ちょっと違う」時に起こるので、「欧米だもんね」と言っちゃえば免れるのかも。
大昔に小学校の同級生の女の子が急に「私は今日からアニエスと呼んで」と宣言して驚いたことを覚えてます。「・・子」がデフォルトみたいな時代に、突然「アニエス」ですから。洗礼を受けてアニエスになったと言うことで、なんだか根拠なく「尊敬?」されてましたよ。というのは大げさだけど、仲間はずれとかでなかったのは確実です。
もっと言っちゃうと、日本においてキリスト教がいまだに「欧米風」で寛大に扱われてるのって、私には、コンプレックスよりも、「女子供」への差別の匂いがしますね。女の子はミッションスクールに入れといてお嬢様風で洗礼受けてもちゃんと伝統社会のエリートと結婚できて、「だんな様」からも教会行事への出席を「ゆるしてもらえる」とか。家の先祖の法事などさえちゃんとこなしてれば、教会は「女子供の世界」という感じがあるのではないでしょうか。
それって、「家事の手抜きをしないのなら外で働くのを許す」的な発想ではないでしょうか。

実は、17世紀以降のヨーロッパのカトリック国で、すでに「宗教=女子供」のレッテルが存在していたという事実もあります。批判精神のある大人の男は宗教の「子供だまし」の言説など信じないが、女子供のしつけや気晴らしには勧められる、という言説があちこちに残っているんですよ。

日本の場合、よく言えば女子供は、精神が柔軟で適応能力もすぐれているから「外来」文化も違和感なく取り入れて自分のものにしてしまうけれど、「大人の男」は、それこそコンプレックスとか世間体とかいろいろ邪魔して、保守的になるとも考えられるのですけれど。

逆に、ヨーロッパでも教会離れが進んだ時代には、ジャンセニズムに見られるようにその反動としての神秘熱や厳格さも出てきて、それがまた、キリスト教離れにつながったという悪循環もありました。
日本でマイナーなキリスト教の中で、一部の独善的な言動がことさら目立つことになれば、全体としてまさに負のスパイラルですよね。

ドン・ボスコ社の新刊『自由人イエス』
http://www.kyobunkwan.jp/xbooks/shop/45_718.html

をぜひ読んでみてください。

欧米かっ!

VINO · 2009-12-07 15:37:38 UTC+9 · 投稿 #460

ちょっと古いギャグですみません。 私もキリスト教を取り巻く風潮のひとつにこの欧米へのコンプレックスは切っても切れない関係があると思います。安土桃山時代にカトリックが入ってきて、江戸時代は禁止されていたにも関わらず、長崎、特に五島列島の辺りは日本の古来からの風習、それこそ神道、仏教と独特な感じでMIXされたカト~が浸透しているそうですし、開国後は旧・武士階級から広まったそうですし(だからなのか、年齢が多い方、おハイソな感じ未だにあります。高学歴で、英語にも堪能・・・なんて方も珍しくないですし)これは主に所謂メインラインの教会に見られる現象でしょうが、戦後はレッドパージ政策とセットで福音派・・・のグループがどどど・・・と入って来たと思います。
またまた悪口になりますが、彼らの信仰の方向性は<キリスト教は偉いっ!正しい!>ですし、元々は謙虚が美徳・・・の日本人の自分を謙遜する部分と妙に合ってしまうのかな?とも思います。なまぐさ坊主とはよく聞きますが、神父や牧師ですと聞きませんよね? 数年間、外国で過ごしまして感じた事は、始めはメインラインの人間が立ち上げた日本語のプロ~教会も熱く、濃いFの人たちに浸食されつつあるということです。子供をインター校に通わせたり、そのカレンダーに沿った生活をしている間に<欧米は偉い!>がどんどん増殖するのでしょうね。女性に限って言うと、日本に普通に暮らすのと違い、親戚関係やご近所との間のお嫁さん、奥さんを演じなくても良い・・・がさらに拍車をかけるのだと思います。そうして熱い信仰を持ってとにかく多くの人が受洗しますが、帰国後はとまどうようですね。メインラインではぬるいし、違和感を抱くそうです。困ったもんです・・・話はそれますが、今、私の通う教会では<聖☆おにいさん>が人気です。二人ともとても良い人ですよね。私は仏陀も好きですよ。

この話はこれで終わりです。

Sekko · 2009-12-01 08:19:28 UTC+9 · 投稿 #458

何々事件で誰それが犯人かもしれないという噂話だけなら興味深いこともありますが、「耶蘇教徒は・・・が商売だった」とあるカテゴリーの人をまとめてしかも5世紀にわたって断定するような中傷は歓迎しません。これが仏教徒でもムスリムでも女性でも日本人でもフランス人でも同様です。ここは一応質問箱なので、個人の見解はご遠慮ください。

大羊さんの意見について。日本で一番布教が効を奏したのは安土桃山時代かなあと思ってました。その時も「南蛮人」のもたらしたテクノロジーが興味を引いたと思いますし、カトリックで、明治時代は、インテリがプロテスタントに惹かれた、ってイメージを私は持ってました。戦後は、修道会とかが戦災孤児の救済をしたことや、占領軍の多くがクリスチャンだったでしょうし、それこそ救援物資の流れも、横流しは知りませんが、キリスト教国から教会や修道会を通した援助もたくさんあったと思います。今の豊かな日本ではぴんと来ませんが、マザーテレサのように布教を直接目的とせずにひたすら奉仕に身を捧げた人もいます。
日本では、キリスト教はしばしば欧米文明とセットとなっていた上、ミッションスクールのお嬢様カルチャーがあって、政財界人の夫人なんかにミッションスクール出身の方が多いとかで憧れがあったのかもしれませんね。ホテルのチャペルでキリスト教風に結婚式を挙げる時、白人男性がバイトで牧師役をするとか、カトリックの神父でも日本人が司式するとがっかりするとかいう話もあるそうで、そうなると、やはり、欧米風への憧れみたいなのと結びついていたんでしょう。今はアジア・アフリカや南米の方が信者数が多そうで、日本の教会でも信者の半数が外国人なんてところもあるようです。「イエス」は、パレスチナ人だから、本来ならヨーロッパでは外人扱いですが、日本ではどうなんでしょう。お釈迦様はインド人だし、山とか樹とか滝とか蛇とか鹿のような人間や動物ですらないものでもご神体として拝んだりできるんだから、イエスの「ガイジン性」自体はどうってこともない気もしますけれどね。

ドン・ボスコ

あがるま · 2009-11-30 14:01:04 UTC+9 · 投稿 #457

私の住んで居た処がこのドンボスコ(さう呼ばれてました)の近くなので興味があります。
この団体が作つた高等学校の出身者で有名なのはヴァイオリニストの江藤俊哉で、彼の旧宅は私の家の近くでした。
今でもサレジヲ会の尼さんを見かけます - 外国人神父が一緒でも別に目立つほどではない。近くの東伏見にはイエズス会の立派な施設もあります。
戦後のどさくさ紛れに沢山の外国人が犯罪がありました。
上智大学の所有になつて居る四谷お堀端の運動場は不当占拠したものだし、大久保のロッテ製菓の工場もさうだといはれてゐます。
(神父がとは言はないが)耶蘇教徒は5百年も前から日本人を東南アジアや欧州に売笑婦として売り飛ばすのが商売だつた。

外人(欧米人)コンプレックス

迷える大羊 · 2009-11-28 00:09:04 UTC+9 · 投稿 #456

ってまあ、今でも日本人にまったくなくなったとはいえませんが、あの時代、戦後間もない時期のそれはちょっと異様ですよね、今からみれば。まあ、当時の状況を考えればムリないといえばムリないのですが。
あと、あの時代に日本に居住、滞在する外国人といえば、いわゆる在日韓国人、朝鮮人と中国系が少々で、東京ですら、いわゆる「外人」を見かけることは稀だったでしょうし。
捜査員も、日本人の犯罪者を数多く「落として」きた平塚警部もどう接してよいのやら、かなり困惑したようです。
今は外国人なんて全く珍しくなく、通勤途中の電車やバスの中でもよく見かけるし、私の職場でも、いわゆる在日韓国人以外の、人種が異なる外国の方いますし。ここ十年ちょっとくらいでやけに増えたなぁ、と思っていましたが、実際、日本に滞在、居住する外国人って10年前の5割増しだそうで。
平塚警部も存命なら「外人は苦手」なんていってられませんね。

ところでクリスチャンの増減と日本人の外人(欧米人)コンプレックスの間には微妙な関係があるような気がするのは、単なる思いすごしでしょうか?
というのは日本でクリスチャンが増えた時期というのは明治時代と戦後間もない時代ですが、いずれも欧米人コンプレックスとか憧れの強かった時期ですよね。
逆にいえば、イエスは今でも日本では「ガイジン」扱いってことか?

知りませんでした。

Sekko · 2009-11-26 01:04:13 UTC+9 · 投稿 #455

面白そうなのでちょっと検索。ほんと、便利な時代ですね。

当時の朝日新聞の記事に、まだ神父の名が挙がっていない頃に、松本清張さんがすでにコメントを載せていて、それによると、

「ともかく犯行のもようからみて犯人は自家用車を持っている。 経済的にもゆたかな男ではなかろうか。 男友達はたくさんあったというが、どうもスチュワーデスになって からの友達が犯人ではないかと思える。
そして彼女の職業がら日本人ではなく、外人ではないかとも考えられる。 外人も中華料理を食べるし、また外人ならこっそり彼女を連れて泊まる ことのできる知人宅などもたくさんあるわけだ。 いずれにしろ犯行の動機は愛欲のもつれだろう。」

これって・・・これはこれですごいバイアスがかかっているなあと思いました。コンプレックスの裏返しもあるんでしょう。
別の推理作家は、「男は若くはない。 女にふられた恨みからだというのが私のカンだ。 胃のなかにあった中華料理がわりと高級だった点から犯人は金持で、 彼女が看護婦時代からの友達ではなく、スチュワーデスになってからの つき合いだと思える。 犯行現場だが、よそで殺して死体を運んだ場合、タクシーなら届出が あるだろう。 自家用車、ドライブクラブの車も考えられるが、発見現場で殺したとも いえる。どうも私は発見場所が犯行現場のような気がする。 これもカンだが、殺し方からみて外人ではなさそうだ。」っていうんです。

1959年に外国航空会社のスチュアーデスが殺されたという時点で、「日本人か外人か」という見方がされること自体、何か偏見に満ちているなあとも思いました。別の記事によると、遠藤周作さんはエッセイの中で、「真相が究明されるまで、あの神父をとり調べるべきだった。あの神父は逃げたらいけなかった。堂々と取調べを受けて、潔白ならば証明すべきだった。あの事件のせいで、どれほどの悪イメージが日本の教会に当時広まったかが計り知れない」という趣旨の言葉を残したそうですね。

私が新聞記事だけで読んだ感想では、この神父さんが神経衰弱になって胃がおかしくなったので、面倒を避けたかった修道会が帰国させた、というのはありそうだと思うし、何だか、この派手な騒ぎの裏で罰せられずにすんでほくそえんでいる真犯人がいるかもしれないなあとも思います。それが外人だか日本人だかは知りませんが。私のイメージでは、殺人に至るくらいの深い仲になっていたら、もう少し周囲に目立っていたと思いますが。それに当時のカトリックの外人司祭は目立ちすぎて、そんなに隠れてふらふらできたとも考えにくいんですけど。救援物資隠匿何とかはよく分かりませんね。私のイメージではサレジオ会は戦争の同盟国のイタリア系だったので戦中もなんとかやってたけど、管区長のチマッティ神父なんかの窮乏ぶりは大変だったようで、戦後にそんなにいい汁を吸えたとも思えないんですけどねえ。6千通も手紙を残したチマッティ神父の書簡集は1932年のまで読んだんですが、1959年のこの事件の時のことをすごく読みたいですね。当時すでに80歳だったはずで、かわいそう。まあ、このベルメルシュ神父のアリバイとか確信できていたなら、良心の問題はなくて、帰国させたことの是非について悩んだかも。

真実ってすごく知りたいです。被害者の葬儀ミサとかどうしたのかなあとか、そういうのは小説とかにでてくるのかしら。親がカトリックをどう思ってたのかとか。好奇心が描きたてられます。

殺人者がでる可能性があるということ自体は、イタリアとかベルギーとか、一昔前はデフォルトがカトリックだし、なんでもあるでしょうから驚きませんが。

私はこの事件の被害者のようなミッションスクールの出でもないし、若い頃は、「白人の神父さん」とかアテネフランセのアヌーイ神父しか見たことなかったです。彼はサンタクロースみたいですごくやさしいでしたね。

ベルメルシュ神父事件

迷える大羊 · 2009-11-23 23:19:40 UTC+9 · 投稿 #454

最近、手がけた事件は殺人だけで124件、帝銀事件、下山事件など昭和、特に戦後の混乱期の大事件に多く関わった、昭和の名刑事、平塚八兵衛氏(1913年~1979年)の回想録(「刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史 佐々木嘉信著、産経新聞社編、新潮社)を読みました。
一般的には昭和三十八年の村越吉展ちゃん(当時4歳)の誘拐殺人事件において、アリバイの矛盾を突破口に犯人を自供に追い込んだことで有名な方。
そのプロフェッショナルとしての意識の高さ、すさまじい捜査、犯人検挙への執念に思わず唸らされてしまいました。推理小説に出てくるような「名刑事・名警部」という存在が本当にいるんだ、といった感じで。

そんな彼が手がけた事件の一つにスチュワーデス事件がありました。これは、昭和34年(1959年)三月十日、東京・杉並区の善福寺川で、英国航空でスチュワーデスをしていてカトリック信徒であった武川知子さんが遺体で発見。司法解剖の結果、ベルギー出身の司祭ベルメルシュ氏が重要参考人として浮上するものの、任意の取り調べも進展しないうちに、同年6月、ベルメルシュ氏が急に帰国、事件は迷宮入りした、というもの。
平塚氏の回想録を読む限り、容疑はかなり濃厚。血液型の検出を拒んだり、日本語ぺらぺらなのに何もしゃべらなかったり、何よりも急に帰国してしまったり、心証的には限りなくクロっぽい。当時のカトリック教会の対応(急に帰国させちゃった)にはかなり疑問を感じます、というか実際、世論は非難ごうごうだったらしいですが。
松本清張氏などはこの事件を元に「黒い福音」という作品を書きあげたりしてます。

この事件の回想を読んでいて興味深いのは、当時の日本人の「欧米人コンプレックス」ぶり。外人は苦手、ってことで捜査員が誰も容疑者の神父に近寄らない、平塚警部自身、「外人相手じゃ呼吸(取り調べの)が乱れてやりづらい」などとこぼしていること。先日、やはり同時代の日本が舞台になった松本清張氏の「ゼロの焦点」を読んだのですが、そこにもやはりそういった趣旨の描写があって、なんていうか考えさせられました。米軍占領が解けてまだ7、8年程度、経済レベル、生活水準も先進国レベルには程遠かったあの時代、欧米とか欧米人相手になるとどこか引いてしまう、屈折した対応が出てしまうところが、なんだかなぁ、と思ったものでした。あと、どうにも気になるのは、平塚氏の回想によれば、ベルメルシュ神父の名が捜査陣に出てきたきっかけというのが、救援物資の横流しの捜査の過程だった、ということ。まさか、教会や神父が??てな感じですが、前述の「黒い福音」ではそうやって布教資金を稼いだことになってます。もう、ダン・ブラウンどころの騒ぎではないですね。

ところで、このスチュワーデス事件。現在のカトリック教会とか信徒はどう思ってる方が多いんでしょうね?私個人は潔白なら日本の取り調べに従うべきだろう、骨を埋める覚悟でやってきた日本で身の証しを立てるべし、殺人をやってしまったのなら、神ではなく人間なのだからこういうこともあったと裁きを受けるべき。あの当時のカトリック教会の対応って聖書の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」にまったく反してるじゃないか?何より、素朴な感情として、日本人として不愉快、と思ってしまうのですが・・。

返事と訂正です

今紫 · 2009-10-18 15:46:40 UTC+9 · 投稿 #453

ご返答ありがとうございました。神への信仰と謙遜で柔和に生きてきた彼らに倣いより充実した生活を送って参ります。
それから、訂正があります。質問文の中に「進行」という言葉がありますが正しくは「信仰」の誤りです。お詫び申し上げます。

列聖列福について

Sekko · 2009-10-18 07:44:05 UTC+9 · 投稿 #452

列福、列聖に至るまでの手続きは複雑で、「公式調査」などの前に、基本的にはボトム・アップ、教区レベルで運動が盛り上がらなければなりません。上から教育的な意図で今度はこの人を、って感じにはならないし、その意味では活動修道会系の人の方がネットワークがしっかりしていてチャンスが多い気がします。チマッティ神父なんかも、サレジオ会はもちろんですが、出身のトリノとかの地元の教会でがんばって熱心に奇跡を求める祈りをしてる人の方が日本より絶対数は多いんじゃないかなあという気がするんですが。何か起こるとしたらトリノじゃないかなあ、と。
しかし・・・私は、個人的には奇跡譚も聖人システムも好きですけど、実際問題として、今、誰かを列福まで持っていくには、崇敬心や情熱だけでなく、それなりの時間と費用がかかります。ある意味壮大な無駄で、まあそれはそれで、時間や費用に換算できない次元での価値や豊かさがあると思いますが、そもそも、そのような徳のある方たちは、公式のタイトルがあろうとなかろうと、すでに尊敬の対象にもなり、今生きている人間の助けにもなると思います。そういう方たちの気持ちや信仰を受け継いで、今の世界をよくしていくことに時間と金を使うことで本当の意味での諸聖人のコミュニオンに参加できるのではないでしょうか。仏教に「妙好人」って言葉がありますが、広く知られることのない地味な信仰者でも、本当に聖人のような人は少なくないかもしれません。公式の聖人として光をあてられるのか、野の花のようにひっそりと過ぎるのか、それこそ私たちの思惑や理解を超えたいろいろな恵みのあり方なんだと思います。
今紫さんの挙げられたような方たちの多くは、すでに信仰の恵みによって報われてるような気もしますし。
今紫さんの生活が充実したものでありますようにお祈りします。

日本におけるカトリック教会の人物の列聖、列福はありえるか

今紫 · 2009-10-17 21:09:49 UTC+9 · 投稿 #451

竹下先生、お久しぶりです。先生の掲示板に書き込みを入れて4年が経ちますが覚えていらっしゃるでしょうか。あれから洗礼を受けて3年の歳月を迎えました。

さて、先生に質問があります。日本におけるカトリック教会で日本二十六聖殉教者、日本205福者殉教者、日本十六聖人殉教者(聖トマス西と15人)、2008年(平成20)11月24日に福者ペトロ岐部と187殉教者が列聖、列福されてきました。現在、高山右近や北原怜子、チマッティ神父の列福運動が盛んですが、では、それ以外に日本のために尽くした宣教者や信徒への列福、列聖はありえるのでしょうか。

日本のカトリック信者の大半は外国の聖人らを崇敬していますが、わが国におけるカトリック人物(あくまでも故人に限ります)のほとんどが未だ列福はおろか、教会による公式調査や崇敬が少ないのではないでしょうか。

たとえば、永井隆博士や岩下壮一神父に細川ガラシア、大友宗麟、B・プティジャン司教にM・ド・ロ神父、戦国時代、徳川時代、幕末から明治、大正、昭和のカトリック教会に進行と力を示した殉教者に証聖者らがあげられますがどうなるのでしょうか。やはり、彼らに対する崇敬が必要なのでしょうか?

触らぬ神に・・ですか。

迷える大羊 · 2009-10-17 06:43:09 UTC+9 · 投稿 #450

お相手ありがとうございます。やはり、結論は触らぬ神に・・・ですか。しかし、不公平な気もしますねぇ。人であり神であるはずのイエスとかカトリックとかは散々パロディとかギャグのネタにされているし、ブツダだってここまで気を遣われてないんですけどね。
侮辱はいかんにしても、なんでここまで扱いに差があるの?てな気も。

こちらでも、教会でも、人であり神でありとか三位一体、ってなんやねんってさんざんツッコミましたし、「あの方」も同じツッコミを入れていましたが、今思えば、重要なのはそんな理屈ではなく、信仰の実際の実態の方かなぁ、と思わないでもありません。
どう考えても、実質的に神様扱いされているのは「あの方」の方のような気がしますけどね。

大羊さま

Picky · 2009-10-15 21:33:48 UTC+9 · 投稿 #449

大羊様、いつもメッセージありがとうございます。管理人のPickyです。
さて、URLだけ削除とのことですが、管理人は基本的に全文削除できても一部削除はできないんですよ。で、このページの下の方へとずずずいっとスクロールしてくだされば、「自分の投稿の編集」ができますのでそちらでお願いできますでしょうか?
ご面倒ですがよろしくお願いします。
ところで、大羊さんの投稿を読んで、ちょっと前に流行ったダンブラウンの小説、あの方を題材にしていたらえらいことになっただろうな、と思いました。おっと、触らぬ神に、でした!

すみません・・・。

迷える大羊 · 2009-10-14 23:21:28 UTC+9 · 投稿 #448

先スレ「メディアにおける・・・」で御紹介したサイト、よくみると、どうも、エロな方面のマンガ、アニメもかなり紹介されていて、現在のところ、その手の作品が一面に出ています。申し訳ないんですけど、URLの方だけ、削除できますか?

日本マンガ・アニメが普及するのはいいけど、こんなものまで観るなよ、てな感じでネットも良し悪しですね。

「触らぬ神に祟りなし」

Sekko · 2009-10-14 20:13:47 UTC+9 · 投稿 #447

大羊さま

日本に限って言えば、仏教やブッダはもちろんなじみがあるし、キリスト教も一応15世紀に入ってきて一時は流行ったわけだし、明治維新以降は、西洋キリスト教文明をいろいろ採用したのだから、これも、信者数が少ない割りになじみがあるのではないのでしょうか。お釈迦様の花祭りよりキリストのクリスマスの方が商業的に根付いてることもそうですね。その点やはりイスラム教とは、そのようなはっきりした接点がなかったのでなじみがないのは確かだと思います。
それにいわゆる一神教の中では、同根の創造神を戴いているはずですが、ユダヤ教の神とイスラムの神は、具象化する偶像崇拝の禁止が徹底しているのでアニメのキャラには使いようがなく、その点でキリスト教の神は三位一体の人格神ということでずっと図像化されていたので使いやすいんでしょう。イエスやブッダが「元人間」というか、一応「歴史的人物」であり、同時に人間の条件を超えたというのも、超能力者テイストでいろいろ転用しやすいんでしょう。
その点、歴史的人物のMさんの方は、神の言葉や意志を仲介する預言者であり(もっともM さんはイエスも one of 預言者だって言っているわけですが)、うまく他の二人の仲間キャラとしてアレンジできないのかも。
実際にはどの宗教の教祖にでも起こることですが、Mさんを神格化しちゃっている異端グループもあるわけで、まあ、今の国際情勢から言っても、それこそ「触らぬ神に祟りなし」っていうことでしょうか。

考えたらこの「触らぬ神に祟りなし」って智恵は奥が深いかも、です。宗教や欲望に関するリスクマネージメントなんでしょうね。
信仰というのが「信頼」に基づくとしたら、難しいところです。最終的には「分別」の力で、でも、それにもインスピレーションのひと押しが必要かもしれないし・・・

メディアにおけるムハンマド

迷える大羊 · 2009-10-12 23:15:51 UTC+9 · 投稿 #446

最近、ネットを眺めていると、日本マンガ・アニメの世界への意外な、とんでもない拡散ぶりにあっと驚くことがしばしばあります。「まさか、こんなものが」っていうものまでいつのまに流れていたりして。そんなマンガの一つに「最聖☆戦隊ホーリーメン」なる作品があって。(URLはエロ画像多しの理由で削除しました悪しからず)
なんでも、一般人として立川で暮らす聖イエスと聖ブッダ。しかしひとたび立川に危機が訪れれば「最聖☆戦隊ホーリーメン」に変身して悪と戦う、という作品のようです(未読)。
この作品は、一昨年くらいから連載開始されて人気を博している、イエスとブツダが現代日本に降臨し、立川のアパートで二人暮らしする「聖☆おにいさん」のセルフパロディーというか別バージョン。まあ、日本らしいというか、日本以外ではありえないマンガですね、自慢していいのか、悪いのかわかりませんが、・・。

しかし、このマンガにムハンマドは出演しません。世界3大宗教、何億もの信徒を抱える宗教の開祖にも関わらず。その理由について作者は原作者がインタビューで「シャレにならないからやめた」、とはっきりいってます。

それにしても、昨年だか一昨年だったか、デンマークでの騒動をみるまでもなく、世界中のメディアがムハンマドの扱いにはピリピリしてますし、公の場でムハンマドのパロディーをみかけることはありませんが、こういう状況って本当にイスラムとかムハンマドにとっていいことなんですかね?という疑問が・・。

まず、はじめにしっかりお断りしておきたいのですが、他宗教、それも全世界に何億もの信徒を抱える信仰に対する故なき中傷誹謗は厳に慎むべき、っていうのはわかりますし、当然です。
また、その教えの優れた部分は十分認識してるつもりですし、騒ぎを起こす原理主義者、過激派はごく一部ということもわかってます。数とか割合からすれば、むしろキリスト教のそれより少ないかも、とも思ってます。

でも、その辺を考慮した上であえていうのですが、「あの方」にはあまりにもタブーが多すぎなんじゃないか、と。間違っても「聖☆おにいさん」「最聖☆戦隊ホーリーメン」みたいなマンガのキャラにはできないし。

しかし、あまりにタブーが多かったりとか、自主規制を徹底してしまうと、悪意が陰にこもって却ってヒドいことになるんじゃないか?と思わないでもないです。
実際、「あの方」の教えを信ずる人々への中傷誹謗の主に欧米系の動画、サイトはネットでいっぱいみかけますし、ご紹介したサイトにも、

>「あれ? 誰か一人足りないような…」
「預言者の人?」

などという皮肉・イヤミまじりのコメントもちらほら・・・。

こういう意見を開陳するとやっぱり断罪(差別肯定ということで)されちゃいますかね?

ちなみにクリスチャンの方にこのマンガ見せましたけど、普通に面白がるかつまんない、と思うかのいずれかで不快感を出す人はいませんでした。外国人の反応も同様でご紹介したサイトでも、カトリックとかクリスチャンの方も普通に面白がっているコメントがついてましたが・・・。

一番の疑問は「人であり神である」イエスより、あくまで「人間」であるはずの、あの方に対する扱いの方がよっぽど気を遣われている、という現状がなんだかなぁ、と思ってしまうんですが。
イスラム教界でムハンマドの描写についてはどういう議論があるのですかね?キリスト教同様、イスラムにもリベラル、保守、といろいろあると思うのですが・・。

フランチェスカさま

Sekko · 2009-09-07 13:42:10 UTC+9 · 投稿 #445

そうですね。私も今本が手元にないですが、人生良好感をあたえてくれて、他の人や社会と切り離さないでいい関係を持ち続けられるのなら、「正しい神秘主義」というか神秘主義との正しい付き合い方なんでしょう。ただ、体質的に、シュタイナーもそうでしょうが、「霊的」な人っているようで、それも、それをどう使うかが問題なんでしょう。フランスでも、超能力好き、ロハス、エコロジー、マクロビオチック、仏教、瞑想、自然育児、自然療法、オカルトって、境界引きが難しく、実際重なっているのもたくさんあります。ツマミグイシテ免疫を作っておくほうが、頭から否定して何かの拍子にかえってのめりこむよりはいいと思うんですが。

「正しい神秘主義」とは?

フランチェスカ · 2009-09-05 22:54:50 UTC+9 · 投稿 #444

お返事ありがとうございます。
いえ、私も決してシュタイナーの思想に「惚れこんでいる」というわけではないのです。が、教育の実践を見る機会があり、なかなかよさそうだと思ったわけです。思想に関しては、よくわからないところが多々あります。ただ、日本でおこなわれている「シュタイナー教育」に関心を寄せている人々は、どちらかというと、ロハスとかエコロジーとか自然育児とかマクロビオティックとか、そういったものに関心がある人々が多く、オカルトとか心霊主義とかブラバツキー夫人とかいったものに関心があるわけではない、という印象を受けます。でも、たしかにどこか「あやしい」感じはあります。やはり、これは「うちの宗派が一番」というような思想なのでしょうか・・・?
「正しい神秘主義」という表現は、ご著書のカバーに書いてあったのでしたっけ、それを引用させていただきました(たしか「正しい神秘主義は気持ちいい」でしたっけ?図書館の本でしたので、今手元にありませんが)。たしかに、何が正しく、何が正しくないかということに基準を設けることはできないと思います。
「神秘」に足をすくわれないよう、気をつけます。

みなさまへ

Sekko · 2009-09-05 08:47:08 UTC+9 · 投稿 #443

お返事遅れてすみません。ここのところネットの接続が上手く行かなくて、今やっと回復しました。

まず、ローマ帝国とキリスト教、ここではくわしいことは書けませんが、このテーマではいろいろな本が出ているので、興味があれば探してみてください。私は次の本で少しまとめています。
キリスト教が、ユダヤ世界を出て普遍宗教になったのは、ローマ市民であったパウロの活躍が大きいし、ローマ的な世界観や当時の宗教事情や、政治軍事状況が関係しているので、「キリスト教が弾圧に負けずに最終的に勝利した」というような単純な話でないことはもちろんです。
キリスト教によって何を救われたか、これもいろいろありますが、みなが当時の煩雑な宗教儀式や典礼や供物のシステムにがんじがらめになっていたのから救われた、っていう側面はあるようです。後、やはり、実存的なこと、ストア派のように肉体の死後は、魂が「宇宙=コスモス」の秩序の中に帰っていくというのでなく、肉体も魂も復活して、永遠の命をもらえる、というところが魅力だったと思います。仏教も中国を通過するうちに輪廻が消えて、みんな成仏して祖霊となるのが基本になり、さらに、成仏のための悟りや修行から、絶対他力の阿弥陀信仰と極楽往生が人気を得たように、「生前の人格を失わないままで無条件丸ごと救済」みたいな方向に流れるんでしょうか。
しかし、もう少し掘り下げて考えると、イエスは、「救いを求める人々の心を利用して惑わせる偶像崇拝」の実情や傾向というものから、人を自由にして救ったというところが大事なので、そこのところをちゃんと説明した『自由人イエス』(クリスチャン・デュコック師、ドンボスコ社)を翻訳解説したものが10月か11月に出る予定ですのでそれをぜひ読んでみてください。


フランチェスカさま、

私は、シュタイナーは、昔シュタイナー教育とかリトミックによって最初に知りました。音楽と身体性や、教育について、私の考えて多少実践していることと通じるので、それには共感します。
でも、あの辺の、つまり、19世紀後半から20世紀前半にどっと出てきた神智学とか人智学とか、つまり心霊主義とか、ブラバツキー夫人とかシュタイナーとかの一連の人々には私は偏見を持っています。
あの頃のオリエント趣味とか、シンクレチックな諸教混交神秘主義とか、あまりにもあの時代の西洋の特別な精神状況と結びついているので、普遍性が感じられないし、その後の展開を見ても、相対化せずにはおれません。科学と宗教とか理性と信仰とかの対立をどう折り合いをつけるかという西洋近代の相克の中のヴァリエーションですが、さまざまな伝統を継ぎはぎした宇宙論にそんなに説得力があるとは思えません。
シュタイナーの方は、一応、神智学と東洋趣味と離れたんですが、今度は西洋中心主義の方に針がふれちゃって、第一次大戦の頃にはゲルマン人の霊的優越を唱えていたみたいですし、私は一般的に、あの手の、霊的進化論が苦手なんです。霊のステージを上げて進化して救済されるなどのエリート思想も。
シュタイナーの教育論には理想主義がそれなりにいい方に表れていますが、そして、彼が天性のアーティストであったらしいことにも好感を持ちますが。
まあ、元が西洋キリスト教世界の人たちなんで、イエスは解脱したマイスター
として特別の地位を与えられてはいますが、お話としてきくのは嫌いじゃないですが、それを説いてまわる側には私はなれません。何が「正しい神秘主義」というような価値判断も無理です。「うちの宗派が一番」というような主張があるところからは、すべて距離を置くことにしています。ごめんなさい。
不思議話は好きなんですよ。でも超越とか魂とか霊とかの話は所詮、この世界の物差しで測れないものですから、他の人と優しい関係が築けるような形で上手に付き合って行くのがいいと思います。人生において迷っているときや苦しい時にはつい「神秘」に「救われる」どころか足をすくわれることがありますから気をつけた方がいいですよ。

明日から留守ですので、また帰ってからこの掲示板を拝見します。

シュタイナーのアントロポゾフィー

フランチェスカ · 2009-08-29 06:50:06 UTC+9 · 投稿 #442

初めて投稿します。
『大人のためのスピリチュアル「超」』たいへんおもしろく読みました。私自身は信者ではないのですが、宗教(特にキリスト教、そしてカトリック)に関心があり、ますますいろいろなことが知りたくなりました。
ところで、タイトルの「シュタイナーのアントロポゾフィー」ですが、エゾテリックな分野もご専門であるSekkoさんならば、ご存知でしょう。日本でも「シュタイナー教育」の名でルドルフ・シュタイナーの名は知られてきています。私も教育に関心があり、本を読み始めました。シュタイナーは、人間は身体、エーテル体、アストラル体、自我の4つから成り、最初の3つはそれぞれ鉱物界、植物界、動物界と共有するものと言っています。さらに、人間の霊魂は生前と死後は霊の世界にあり、地上においてカルマを背負い、身体に受肉する、という考えです。また、キリストというものがアントロポゾフィーにおいては、非常に重要な概念になっていて、これはシュタイナーの宇宙論ともからんで、私にはよくわからないのですが、キリスト教では異端とされるようでもあり、同時に、本質的には「正しい神秘主義」といってもよいようにも思われます。
Sekkoさんはどのように考えられますか?