2009年の投稿

右やら左やらではもはやないと・・・

vino · 2009-05-18 11:41:11 UTC+9 · 投稿 #416

新型インフルエンザ、とても心配ですね。さて、この春から関東人になりました、VINOです。<鬼が出るか蛇が出るか>・・・のかつての教会に帰って来ました(笑) 思えば、昨年のアメリカの大統領選、今までになく色々な事を考えた次第で、この時期、ダン・ブラウンの映画が<ブッシュ>とほぼ同時期に公開・・・笑えます。すっかり性格が悪くなってしまった事を自覚しつつ、書かせて頂きます。 私が出会った幾人かの濃いクリスチャンは<政治としんこうは別!>と仰いますが、私には<関係あるようにしているのは誰?>の思いがぬぐえません。 大羊さんの奥様の国歌やらなんやらには単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが。 むしろ、彼らの方向性はとてもアメリカ的にかんじますよ。今は反アラブで盛り上がってますし、かつては反共で求心力をKEEPしていた事は容易に判ります。中国の食の問題でも<共産主義が悪いのよ>の一言ですべてオシマイです。 確かに宗教を否定の共産主義ですから、その一言も判りはしますが、SEKKOさんの言葉にもあるように<弱者救済>と重なるわけで、きっと、どんな主義主張も宗教も立派な思いから始めても性悪の人間が始めるとしょせん以たり拠ったりの結果なのかなと思っちゃいます。 さらに濃い目の方々はしょせん、人間・・・なる意識は薄いですね。自分達は神から選ばれた特別のもの、人は神が作られた特別のもの・・・なわけですからね。洗礼を受ける事をそれはことさらに<救われる>とのたまいます。クリスチャンが原罪意識を忘れてどうする?と思っちゃう私です。 アメリカ人はゴミの問題なぞあまり考えないようですし、大量に作って買って、捨てて、地球もつのかしら?

Orwellさま

Sekko · 2009-05-10 01:11:34 UTC+9 · 投稿 #415

ありがとうございます。その注目のルゴ元司教なのですが、一応司祭活動は停止状態のままですが、就任1年になる最近「隠し子」で話題になりました。一人の子供を認知して、責任をとると言いましたが、他にも続々名乗りをあげる女性がいるみたいです。関係のあったのは司教時代であったはずであること、もし複数の女性との隠し子を認めるなら、司祭の独身だけでなく、一夫一妻も裏切るわけで、裏切ってないのは避妊しなかったところだけ?なんて言われています。
汚職や政治的腐敗とは又別なんでしょうし、文化も違うのかなあなんて思いますが、まあ、スキャンダルとはいっても、フランスに聞えてくる限りでは、ピューリタン的非難はされていないので、政治生命には影響ないかもしれません。個人的な部分は分りませんが、人間的であるところや博愛精神って、カリスマ性を発揮すると女性にもてたり、そっちの方に行ってしまうこともあるのかなあ、とちょっと複雑な気分になっていたところです。わざわざ話題に取り上げないつもりでしたが、今お便りをいただいたので、一応御報告です。
このサイトの更新は、掲示板以外は目下ブログの方(お知らせのコーナーにリンクがあります)にまわっています。

世界の構造的貧困を是正するには、既成の観念を打ち破るような根本的な考え方の変革が必要なんだとは思いますが・・・自立自尊の国同士がいかに連帯するかということで、それには、自立や自尊を奪われている国をまず援けることも必要かと思います。依存でない連帯が理想なんですが・・

(無題)

野口志世 · 2009-05-09 19:11:30 UTC+9 · 投稿 #414

憧れの竹下様
今お返事拝見しよろこびかんしゃにつつまれております。
聖ひるでがるど
聖テレーズ
聖マリア様にいのり
もっとたかまってすみわたり
少しでも良いクリスタルヒーリングしたいです。

勇気いただきありがとうございます。
ペールポールに報告いたします

Paraguay

Orwell · 2009-05-09 15:32:11 UTC+9 · 投稿 #413

パラグアイの大統領に、カトリック司教が就任したことの記事拝読しました。当方ブログに
リンクを貼りました。http://tokyonotes.cocolog-nifty.com

それから、バチカンの司祭職は辞めなくてもいいことになったと聞きましたが。

お返事遅れてすみません

Sekko · 2009-05-06 19:33:30 UTC+9 · 投稿 #412

日本に行っていて戻ってきたところで、時間が取れなくてすみませんでした。
この掲示板の書き込み通知がうまく届かなくなって、時々チェックしているのですが、チェックしない時に限ってお便りが・・・すみません。

岡田京子さま

リッタ・バセ(Lytta Basset)の本は今のところフランス語しかないように思います。息子との消えることのない関係について書いた本は、

http://livre.fnac.com/a1990744/Lytta-Basset-Un-lien-qui-ne-meurt-jamais?Mn=-1&Ra=-1&To=0&Nu=1&Fr=3

で見ることができ、第一章はフランス語ならネット上で読めるようになっています。

子供の死は親にとってあまりにもつらいことで、自死となると、なおさら、怒りの持って行き場がなく、自分が罪悪感に捕らわれます。子供を失った方すべてに、「あなたは悪くない」、と伝えたいです。

いつも最悪のケースを想定してあれこれ考えるタイプの私は、自分の子供の自死よりも悪いことは、自分の子供が他人の命を殺めることだと気づいてから、少し落ち着きました。無差別殺傷した挙句に自死したり死刑を望んだりする人の親の心を思うと、そのつらさはさすがの私でも想像を絶するものです。


小児皮膚科病棟に勤めていた私の娘に言わせると、最悪の病気は全身の皮膚が過度に脆い遺伝子病だそうで、そういう子供たちは、たえず全身が痛く傷だらけで、口内も傷つくので飲食ができず、ずっと胃からの管栄養だけで生きていて、対症療法以外に治る見込みはないので、親たちはずっと罪悪感に苛まれるそうです。

体が死んでも魂は残るという考えでなく存在とはもともとこちら側の世界とあちら側の世界でペアになっているもので、こちら側が失われてもあちら側との絆は永遠に残るというリッタ・バセの考えは、喪失への向き合い方を変えてくれます。でも、実際に子供さんを亡くされた方は、その「空虚」をご自分の中に抱え込んでその中に身を投じるような期間を過ごすもので、自分の中に最初からあって消えることのない「子供のもうひとつの存在のあり方」との絆を封印してしまいがちなのです。

バセの本には、金色の野の花が語りかけてくれるのを感じた時に、その封印が解けて、亡くなった子供との絆を回復できた母親の話が出てきます。お友だちも、大きな命につながっているような小さな自然に目を向けられたら、自分を閉じ込めている空虚の穴から抜け出すきっかけになるかもしれません。

岡田さんのようなお友だちの存在も、じわじわと、彼女の助けになると思います。どうか寄り添ってあげてください。

いつかバセの本を翻訳する時が来るかもしれません。

野口志世さま

お便りありがとうございます。

実はこの頃急に、「気の流れ」みたいなものが実感されるようになったので(今までは、そういうのはイマジネーションの産物だと思っていたのですが)、ヒーラーというのはあり得るんだなあ、と感じます。でも、情報にノイズが多すぎて、「こちら側」で処理される時にはなんだか変な方向に行ったり玉石混交というか、あやしいものがほとんどになるんでしょう。それに、多少なりとも有効なヒーラーって、消耗も多そうだし、お気をつけください。目の前の他者との共感力の強い人と、もっと集合的なものとの共感力が強い人と、二つのタイプに分けられるような気もします。ヒルデガルドなんかはリーダーとしても神秘家としてもすぐれていたみたいですね。
でも、そんな人になれるかはもちろん、運良くそんな人にめぐり合う可能性だって普通はあり得ないので、私はどちらかというと不公平感に悩んでしまいます。まあ、生き方、苦しみ方、小さな喜びや、死に方も含めて、その人それぞれの命のあり方なんだと思って、比較や仮定はしない方が無難ですけど。

迷える大羊さま、

弱者救済や、富の分配という点においてキリスト教がいわゆる左翼と親和性があるのは当然だと思います。
でも、左翼イデオロギーでは暴力革命や敵の打倒という急進的な形で「今ここで」平等や彼らの理想を実現しようという、短絡的なプログラムと化していたり、左右を問わず内部の権力争いなどの誘惑に駆られて逸脱していることが多いわけで、そのへんを見極めたり常に自戒していないと、「共闘」というのはキリスト教的な道からどんどん外れるんでしょうね。
しかし、もともと西洋近代政治の概念である右とか左とかを、キリスト教内部を分断するようなレッテル付けに転用することがそもそもの間違いであると私は思います。
そのへんのところを、一部、5月10日発売の『カトリック生活』のパウロ特集で書きました。チャンスがあったら読んでください。
右とか左とかいう立ち居地そのものは、それぞれの人の育った国とか環境によって変わってくるもので、それを絶対のものとして意見の異なる人を排除したりする傾向は、信仰に関するすべてを貧しくするものだと思います。

そのうち又ゆっくり書きますね。私の訳した『自由人イエス』という本が秋頃出る予定なので、それもお知らせします。

有難うございます

野口志世 · 2009-04-30 10:05:55 UTC+9 · 投稿 #411

竹下節子様
はじめまして

ペールポール
に竹下さんのお話を聞き感動しています。
メールしてよいと言って下さいました。うれしいです

そして
堤さまにふらんすご
おしえていただきます、
心温かきメールくださいます

素晴らしい出会い
ありがとうございます

聖ひるでがるど
クリスタルヒーラーとしてお手本です
あまりしらないのですが

もっとお勉強頑張ります

良いひーらーとして何か
いのりとともに
越えていきたいです


すくるししんぷさまのおかげです

感謝

リッタ バセの手記

岡田京子 · 2009-04-20 11:17:01 UTC+9 · 投稿 #410

カトリック サプリを愛読している者です。リッタ バセの手記の事を知りました。私の
友人で一人息子が自殺してなかなか精神的に立ち直れないでいます。邦訳されているのであれば、彼女に贈りたいと思います。題名と出版社を御存じであればお知らせいただければ
幸甚です。なければ英語またはドイツ語でも良いです。
お手数をおかけしますが、宜しくお願い申し上げます。

日本のキリスト教と左翼

迷える大羊 · 2009-04-05 22:06:52 UTC+9 · 投稿 #409

とまあ、のっけから刺激的なタイトルになりましたが。ここでも何度か話題にしましたが、キリスト教、クリスチャンについて、日本でキリスト教やろうとすると左翼っぽい思想に染まらないといかんのかなぁ?という疑問が常日頃抜けないんですよね。

もちろん、何をもって左とするか、右とするかは人により、立場により異なるし、人によっては「迷える大羊、お前こそ右だろ」と言われるかもしれませんし、あまり安直に決めつけるのは差し控えなければならないのは重々承知してますし、信徒や聖職者が個人単位でどんな政治的見解、立場をとろうがもちろん、それは自由です。

ただ、自分たち個人の見解や立場を教会全体、信徒全体の「見解」として世間に発表したり、何も知らない信徒や年少の信徒に様々な異なる見解がある問題について、一方の側の意見、立場を「正義」として吹き込むのはいかがなものか、という疑問によくとりつかれます。

例えば、キリスト教会がやる「平和運動」とか祈りの類、キリスト者として、人として当然でそのこと自体は批判できませんが、その中身が私からするとどうも胡散くさくて・・。
ぶっちゃけてはっきりいってしまうと、単に社民党、共産党の方針に従ったものなんじゃないの、との疑念が抜けません。まあ、わかりやすくいえば、旧日本軍の悪事だとかアメリカの軍拡だとかいったことへの批判は極めて熱心ですが、北朝鮮とか中国の不祥事、不正となるとスルーしたり、なんとか触れないようにしたり、みたいな・・・。

個人単位でも、身内に公立学校の教師やってるクリスチャン(プロテスタント)がいて、国旗掲揚、国家斉唱義務化反対運動に熱心だったりします。私だってそんなこと国が義務にすることじゃないだろ、とは思いますし、別に祝祭日に国旗を掲げるタイプの人間でもありません。にも関わらず、教職員組合のこの手の運動の胡散臭さも経験的に知っているだけに(生徒に同意を半強制するなど)、どうにも厭な感じがしてしまいます。あと、感情的にも、「公務員だろ、国家から飯のタネもらって、民間より厚い福利厚生にあずかってるのに、従うのはイヤ?ずいぶん、お気楽な反対運動だこと。イヤならさっさと民間人になればいいだけの話だろ」とつい冷笑的な反応をしてしまいます。まあ、心のうちで思っているだけで、本人に面と向かっていったことはないですが(いえない)。
彼女(女性)は子供時代からのクリスチャン(それも熱心な)で、教会におけるそういう言論(私からみて左翼っぽい)が影響を与えた可能性は大と思ってます。

ちなみに私の政治面の立場、思想は天皇だとか、国家神道だとかは冷ややかなので、そういう意味では「右」ではないです。しかし、一方で、非常に手前ミソになりますが、現在のように社会問題化する以前から、北朝鮮の拉致問題には関心があり、被害者の集会にも顔を出していたりして、その過程で左というか進歩系のマスコミや政党の偽善ぶりもたっぷり見聞きしたせいで、かなりの左翼嫌いでもあります。

正直、今、仮にクリスチャンになったとして、自分の心にもない見解だとか意見が「信徒」全体の意見になるなんて冗談じゃない、との思いがあって、キリスト教というものに対する壁の一つになってますが、皆さんはその辺、どうお考え、あるいは割り切っておいででしょうか?

オーストラリア/会社の神棚

迷える大羊 · 2009-03-05 20:28:04 UTC+9 · 投稿 #408

>オーストラリア

確かに、アメリカやらヨーロッパに比べ、人種に関してはあけすけにいうらしいですね。例の反捕鯨運動も欧米本土よりむしろ盛んで、人種偏見と思われても致し方ないようなTV番組が作られたりもしたようですし。
ただ、一方で日本語学習者とか日本在住歴がある人も欧米諸国の中では多い部類に入るらしく、実際、オーストラリア行きの飛行機にはオーストラリア人が大勢乗ってましたし、北海道などはスキー、スノボーをやりに来る人も多いようです。

まあ、白豪主義というか純血主義に関しては日本や日本人もあまりオーストラリアを悪くはいえないでしょうね。
そもそも、日本のベトナム難民などの難民受け入れ数はオーストラリアを遥かに下回りますし、最近、日本に居住する外国人数は見た目にもはっきりわかるくらいに増えましたけど、それでも欧米、オーストラリアに比べれば比率的にも、数的にも、まだまだであるにも関わらず、国籍認定を緩める法改正などがあると本音レベル(特にネット)で、かなり激しく拒否反応を示す人が多いですし。
この辺り(外人に対する本音)はどっちもどっちって感じです。でも、オーストラリアに日本人が大挙して移民した歴史や事象なんてありましたっけ?ほとんどがビジネスがらみの滞在か観光客かで、日系移民の話なんて全然聞いたことないですけど。

>会社の神社

宗教的、思想的に深いわけがあるのではなく、建設関係だからだとも思います。くだんの朝礼の名称も「安全朝礼」ですし。日本の建設・土木関係って地鎮祭などもともと神道のお世話になることが多いので、その延長でしょう、多分。

異論はいろいろあるかもしれませんが、キリスト教って元々が現世利益を追求する宗教ではないって建前があるし、特に日本のキリスト教は少数派故なのか、純粋で、特にプロテスタント保守派(F派)などは現世利益を追求しないことをプライドの拠り所としてる場合も多いわけで、こういう素朴なニーズ(工事安全、商売繁盛)に応える「営業努力」をあまりしなかったことから、日本において「安全」「商売繁盛」に関することは「神道」へ、と相成った理由かな、と愚考するのですが、どうなんでしょうね。

お久しぶりです。

Sekko · 2009-03-04 23:39:23 UTC+9 · 投稿 #407

お元気そうで何よりです。

オーストラリアは、私も「旅行者」としては、すごくいいイメージを持ってます。もちろん、英国の支店みたいなメンタリティはあると思いますが。
現地の日本人と話して、子どもが付き合うのに、英国系の子どもは、両親の移住の年を聞け、・・年以前なら囚人の子孫だから、と気をつけている、というのを聞いて、出自の差別意識にちょっと驚いたことがあります。
しかし、最近、首相が、バリのテロ以来、イスラム原理主義者を毛嫌いして、シャ-リア法で生きたいやつは出て行け、ここはキリスト教の理念で建国された国だから、キリスト教の文化や価値が尊重されるのは当然で、ここに住みたいなら英語が公式語だからアラビア語や中国語や日本語を使わずに英語を勉強しろ、などと言いました。移民問題に悩んでいるフランスで、これくらい言う政治家がいてもいいのに、というフランス人もいます。
オーストラリアといえばアボリジニのことを自動的に考えるので、おいおい、よくこんなことを言えるよなあ、と、私なんかはびっくりですが。
それほどに「キリスト教」アイデンディディが強そうなのにはびっくりです。一見、ユニヴァーサリスムの同化主義の言葉のようですが、実はものすごくコミュノタリズムの国で、ヨーロッパならタブーなことや、アメリカですら本音を言わないようなことをも、首相が平気で言っちゃえるのは、南半球の大陸という強みゆえなのでしょうか。白豪主義とキリスト教が結びついてるみたいで、ちょっと気持ち悪いです。カトリックはその中ではまあ「キリスト教」のお仲間なんで容認されてる程度なんでしょうか。

日本の会社の朝礼で神棚に柏手って、今でもそんなところがあるんですね。まあ、個人的には、たとえば創立者の銅像に最敬礼を強要させられるよりましかなあ。
日本の会社で、キリスト教徒だからといってそういうのを拒んだら実際に左遷させられた、という話を聞いたことがあります。切支丹狩って、今もあるんですよ、って。
今のカトリックでは、神社とかにお参りという状況になったら、柏手は遠慮して軽く礼をするだけにして、リスペクトだけ示しましょう、って感じですかね。
形は形でしかないので、信じてない対象に対してなら、逆に何をしても何も起こらないと思いますけど。信じている対象に対してはがんばって心を込めて形式にも気を使う、っていうのでいいんじゃないですか。
この前バリ島に行った時、毎朝、家の内外53箇所にお供えをするという人の話を聞いてびっくりしました。ヒンズー教です。棕櫚やバナナの葉とかにお花を組み合わせたとってもきれいなお飾りにご飯やコーヒーとか、少しずつ差し上げるのです。毎朝取り替えるんですよー。53箇所!!お祭りの時はもちろんもっと盛大に。
病気の時などでできない時は、別に誰に責められるわけでもないけれど、元気になったら、神々への感謝と無病息災のためにまた一そうがんばってお供えをするんです。
一日5回も祈るっていうイスラムも私には無理だと思いますが、ヒンズー教のうちにお嫁に行かなくてよかった、と思っちゃいます。日本で仏壇に毎日かげ膳を供えるとか、一箇所くらいなら、何とかなるかなあ。

フランスの企業には多分ないでしょうね。極小企業とかもともと宗教系のグループなら知りませんが。一般企業がそんなことしたらそれこそ組合でも個人でも、国に訴えれば、たとえ、お祈りを拒否することで具体的に差別されなくてもモラルハラスメントが成立しそうです。
フランスでの問題はむしろその逆で、会社などの公の空間は非宗教空間というのが決まっているにもかかわらず、「信教の自由」ということで、その宗教の祭日に勝手に休んだり、就業時間中に勝手に祈りの時間を組み込んだりとか、信仰を表に出すこと自体をどうセーブして監視、管理、対応するかの方が微妙ですね。公立学校に入れている子どもを、宗教行事のために休ませる親とかもいますし。
日本のこういう会社の風景なんかは、むしろフォークロアっぽいですね。そう思って割り切れば生きやすいのでは?
キリスト教は、神棚や仏壇を自宅にしつらえるっていう感じでは「祭壇」を作れないし、基本的に聖餐などは「共同体」の「集まり」が主眼ですから、それはそれで大変(出席したかどうかをチェックされる)ですが、うちで毎日複数の神棚に拝んだり、53箇所のお供え、みたいな煩雑がなくてすっきりしてる部分はありますよね。
宗教がない人だって、一日を始めるときには、なんだかんだとジンクスがあったり、いろんな、「マイ儀礼」を必要としたりします。何らかのメタ世界によって現実を構造化しないと、なかなか自然に生きられないのかもしれません。

会社の神棚

迷える大羊 · 2009-03-04 21:06:05 UTC+9 · 投稿 #406

連続投稿失礼します。この三月より転職しまして、新しい会社に通っています。

ところで、その会社には神棚があって、月2回の朝礼の際、出席者全員で柏手打つんですよね。現代日本人の常として、その会社の人々にとってそれは単なる慣習であって、誰も信仰というレベルでとらえてはいませんが、クリスチャンの人々はどうなのだろう?F派の方々にとっては強烈な抵抗感あるだろうなぁ、カトリックやリベラルなプロテスタントの人々はあまり気にしないかな?でも、神棚は許せても柏手はイヤって人は結構いるかも?などなど考えてしまったのでした。

もっとも私自身は仮にクリスチャンになったとしても、多分全く気にしないでしょうねぇ。宗教学的にはともかく、大多数の人が信仰を試す意図も意識もないものをとやかくいっても仕方ないと思うし。
日本の会社、商店は特に他意なく、神棚が祀ってあってそれに向かって祈るところが多数派ではないにしても結構あったりしますね。
クリスチャンを身内にするまで、ほとんど自覚なかったんですけど、日本人=無宗教は大間違い、実は宗教がいろいろありすぎて、そのためにそれぞれの宗教の差異に鈍感になってしまってるというのが本当のところかも、と思ったものでした。

ところで、フランスの企業にはこのような現象ってあるんでしょうか?つまり、イエスの磔像はなんぼなんでも強烈すぎるにしても、例えば、マリア像がオフィスの片隅に祀られていて、商売繁盛を月に一、二回みんなで祈願する、なんてことが(多分、ないだろうな、と思ってますが・・)

オーストラリアのカトリック

迷える大羊 · 2009-03-04 20:28:06 UTC+9 · 投稿 #405

先日、オーストラリアを旅してきたのですが(クイーンズランド州)、現地のTVでオーストラリアのカトリックの現況について特集をやってました。英語力の不足で内容はよくわからなかったんですが。「ケネディ」(アメリカ大統領とは無関係)という神父さんが代表してインタビューにいろいろ答えてましたね。

でも、改めて「特集」がニュース番組で組まれるってことは彼の国ではカトリックはもの珍しい、とまではいかなくても主流派ではないのな?元々、英国の南太平洋支店みたいな国だし、アメリカ同様、教派としては最大でも、全体としてはプロテスタント(含む英国教会)が多いんでしょうかね?やっぱり。

オーストラリアのカトリック教会の現状というか社会における位置ってどういうものなんでしょうかね?いささか、抽象的な疑問、質問ですが、ちょっと知りたくなりました。

Pickyさんへ

Sekko · 2009-01-24 00:03:24 UTC+9 · 投稿 #404

いつもお世話になっています。

フランスでは、クリスマス・イヴから始まる年末年始のお祭りは一応、1月6日のエピファニーまでという感じですが、新年の挨拶(VOEUX)は、一応1月末までなら言える感じです。でも、クリスマス過ぎたら、もうJoyeux Noel とは言いません。Bonne Annee です。
考えてみると、Bonne Annee って、グッド・イヤーだから、Bグッド・モーニングみたいな文字通り「よいお年を」で、Happy New Year の方が新年の祝詞っぽいですね。フランス語だと、クリスマスはイエスの誕生日でめでたいとしても、別に新年そのものがめでたいわけでなく、「新年にあたって、今年もご健勝を祈ります」、みたいな言い方が決まり文句ですね。Bonne Annee と、Bonne Sante はセットになってることが多いです。

で、フランス風だとまだOKということで、Pickyさん、

Bonne Annee,Meilleure Sante!!!

今年もよろしく。

和泉さんへ

Sekko · 2009-01-23 23:49:36 UTC+9 · 投稿 #403

和泉さん、こんにちは。

歴史上のどこかの時点や地点に「キリスト教」というものがある、と考えると、理解できないことがいろいろ出てくると思います。
しかし、イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ福音書14-6)」と言っているように、キリスト教も、真理と命に向かう「道」だと思われます。私たちはその途上にあるので、先人の歩いてきた道には、それぞれの時代や場所によって、それぞれの固有の表現としての文化遺産が生まれました。
ローマ・カトリックは、まさに、ヘレニズムの影響を受けた古代ローマ帝国の文化と版図の中で形成されてきたので、それがまた、欧州の基盤になりました。イスラムの台頭から免れた部分の西ヨーロッパは、それなりに成熟したキリスト教文化を築いてきました。

それがいろいろな経緯で、非宗教的な西洋近代へと展開したわけです。その近代西洋はテクノロジーの優越と帝国主義的発想によって、近代の一種のグローバル・スタンダードとしての地位を獲得してきました。私たちの日本の近代も、それに倣うことで生き延びたし、発展もしたし、恩恵も受けてきたと思います。
だから日本が接触したキリスト教は西欧系が多かったですし、文化の傾向としても明治以降の欧化政策の結果、今の私たちにはパレスティナよりも欧州文化と親和性があると思います。

そこだけ比べると、聖書のイエスが古代パレスティナに現れ、ユダヤ教がエジプトやメソポタミアの影響を受けているのことと、ヨーロッパキリスト教文化とは、「かけ離れている」ように見えますが、キリスト教が神の国へと向かう旅する途上にあること、道であるとすれば、どれが正しいとか正統だとかはいえないと思います。

変なたとえですが、たとえば、南極から出発して北極に向かいたいとして、みなが北極星を仰ぎ見て指針にして漕ぎ出したとしても、辿る経路は無数にあるわけです。砂漠を横切ったり、山や谷を越えたり、嵐にあったり、遭難したり、間違えて地中に穴を掘ったり、迷ったり・・・ 目的地は、真理や命が実現する神の国でも、道は一つではない、というより、辿ったところに道ができるので、その中で「近代西洋ルート」というのがもっとも今風に整備されている感じでしょうか。
でも、南極にいたペンギンを北極でさがしても意味ないですし、大切なのはどこに向かうかっていうことでしょう。渡り鳥が経路を間違えないのは地磁気に導かれているとか聞いたことがありますが、旅するキリスト教にとってその地磁気みたいなのが「聖霊」ということになります。

和泉さんが、聖書から出発され、聖書は特定の時代や場所の文脈の中にあるのですから今目に見えるカトリック文化と付き合わせると違和感があるというのは理解できますが、いろんな時代のいろんな場所でいろんなキリスト者が何にインスパイアされてどうやって歩いてきたかというのを見ていくと、世界が広がるし、自分の足であるいていこうと勇気づけられますから、どうぞ、どんどん知識や出会いの場をお広げください。

メジュゴリエの記事

phantom · 2009-01-22 19:15:28 UTC+9 · 投稿 #402

ブログのメジュゴリエの記事、日本ではなかなかこういう
インフォメーションが入ってこないのでとても面白かったです。

聖人の認定にしろ、御出現の真贋にしろ、難しいですよね。
こういうものは運やタイミング(時代背景や医学の発達度合い等)もあるでしょうし。
ヒルデガルド・フォン・ビンゲンはタイミングが悪かっただけで
聖人にはなれませんでしたし、アビラのテレジアはもし現代人だったなら
統合失調症の一言で切り捨てられていた可能性もありますし・・・

メジュゴリエでの御出現はその内容に神学的に引っかかる部分がありますし、
関わった人々も問題がないとはいえませんよね。でもその土地では確かに
恩寵があると言えますし、そこにある意味では本当に聖母の力が働いているのかもしれません。そうなると本物か偽物かなんて、誰にも本当の所は判断できないでしょうね。

不謹慎かもしれませんが、2009年度末の調査修了の結果が非常に興味深いです。
ただ、万が一の場合は純粋な信仰を持った人達がかわいそうかもしれないな、と
心配でもあります。それに対してカトリック教会がどういった対応をするのか?
その辺も気になるところです。

キリスト教文化とイエス

和泉 · 2009-01-19 05:15:23 UTC+9 · 投稿 #401

はじめまして。

現在、あるカトリック教会の入門講座に通っており、そこで『カトリック生活』を頂き、このサイトのことを知りました。

基本的な質問はシスターにすれば良いのでしょうが、私のうちにある問題点はあまりに個人的なものなので、こちらに問い合わせした方が良いかと思いまして・・・

プロテスタント的背景を持っているため、聖書から出発してしまいます。キリスト教文化には圧倒的に引きつけられるものがありますが、それは欧州文化だと思います。聖書のイエスはユダヤ教世界の中に現れており、ずいぶんかけ離れているように思えますが。

漠然とした質問なので、確たる回答はあり得ないと思いますが、感じられるところでもお返事願えると幸いです。

Bonne Annee !

Picky(管理者) · 2009-01-02 07:11:12 UTC+9 · 投稿 #400

皆様、あけましておめでとうございます。
本年も楽しい投稿お待ちしております。
クリスチャンの両親を持つ知人に聞きました。クリスマスというのは、12月25日までの4週間が準備期間で、25日から1月12日ごろまでがxmasということらしいですね。なので12日頃まではメリークリスマスと挨拶するそうです。
(その話を聞いて、ジョンレノンのHappy Xmas の歌詞の謎がとけました)
というわけで、皆様、Merry Xmas and Happy New Year !
今年も素敵な1年になりますように。

ところで、この直前の2件の投稿はこちらの判断で削除いたしました。