お久しぶりです。
お元気そうで何よりです。
オーストラリアは、私も「旅行者」としては、すごくいいイメージを持ってます。もちろん、英国の支店みたいなメンタリティはあると思いますが。
現地の日本人と話して、子どもが付き合うのに、英国系の子どもは、両親の移住の年を聞け、・・年以前なら囚人の子孫だから、と気をつけている、というのを聞いて、出自の差別意識にちょっと驚いたことがあります。
しかし、最近、首相が、バリのテロ以来、イスラム原理主義者を毛嫌いして、シャ-リア法で生きたいやつは出て行け、ここはキリスト教の理念で建国された国だから、キリスト教の文化や価値が尊重されるのは当然で、ここに住みたいなら英語が公式語だからアラビア語や中国語や日本語を使わずに英語を勉強しろ、などと言いました。移民問題に悩んでいるフランスで、これくらい言う政治家がいてもいいのに、というフランス人もいます。
オーストラリアといえばアボリジニのことを自動的に考えるので、おいおい、よくこんなことを言えるよなあ、と、私なんかはびっくりですが。
それほどに「キリスト教」アイデンディディが強そうなのにはびっくりです。一見、ユニヴァーサリスムの同化主義の言葉のようですが、実はものすごくコミュノタリズムの国で、ヨーロッパならタブーなことや、アメリカですら本音を言わないようなことをも、首相が平気で言っちゃえるのは、南半球の大陸という強みゆえなのでしょうか。白豪主義とキリスト教が結びついてるみたいで、ちょっと気持ち悪いです。カトリックはその中ではまあ「キリスト教」のお仲間なんで容認されてる程度なんでしょうか。
日本の会社の朝礼で神棚に柏手って、今でもそんなところがあるんですね。まあ、個人的には、たとえば創立者の銅像に最敬礼を強要させられるよりましかなあ。
日本の会社で、キリスト教徒だからといってそういうのを拒んだら実際に左遷させられた、という話を聞いたことがあります。切支丹狩って、今もあるんですよ、って。
今のカトリックでは、神社とかにお参りという状況になったら、柏手は遠慮して軽く礼をするだけにして、リスペクトだけ示しましょう、って感じですかね。
形は形でしかないので、信じてない対象に対してなら、逆に何をしても何も起こらないと思いますけど。信じている対象に対してはがんばって心を込めて形式にも気を使う、っていうのでいいんじゃないですか。
この前バリ島に行った時、毎朝、家の内外53箇所にお供えをするという人の話を聞いてびっくりしました。ヒンズー教です。棕櫚やバナナの葉とかにお花を組み合わせたとってもきれいなお飾りにご飯やコーヒーとか、少しずつ差し上げるのです。毎朝取り替えるんですよー。53箇所!!お祭りの時はもちろんもっと盛大に。
病気の時などでできない時は、別に誰に責められるわけでもないけれど、元気になったら、神々への感謝と無病息災のためにまた一そうがんばってお供えをするんです。
一日5回も祈るっていうイスラムも私には無理だと思いますが、ヒンズー教のうちにお嫁に行かなくてよかった、と思っちゃいます。日本で仏壇に毎日かげ膳を供えるとか、一箇所くらいなら、何とかなるかなあ。
フランスの企業には多分ないでしょうね。極小企業とかもともと宗教系のグループなら知りませんが。一般企業がそんなことしたらそれこそ組合でも個人でも、国に訴えれば、たとえ、お祈りを拒否することで具体的に差別されなくてもモラルハラスメントが成立しそうです。
フランスでの問題はむしろその逆で、会社などの公の空間は非宗教空間というのが決まっているにもかかわらず、「信教の自由」ということで、その宗教の祭日に勝手に休んだり、就業時間中に勝手に祈りの時間を組み込んだりとか、信仰を表に出すこと自体をどうセーブして監視、管理、対応するかの方が微妙ですね。公立学校に入れている子どもを、宗教行事のために休ませる親とかもいますし。
日本のこういう会社の風景なんかは、むしろフォークロアっぽいですね。そう思って割り切れば生きやすいのでは?
キリスト教は、神棚や仏壇を自宅にしつらえるっていう感じでは「祭壇」を作れないし、基本的に聖餐などは「共同体」の「集まり」が主眼ですから、それはそれで大変(出席したかどうかをチェックされる)ですが、うちで毎日複数の神棚に拝んだり、53箇所のお供え、みたいな煩雑がなくてすっきりしてる部分はありますよね。
宗教がない人だって、一日を始めるときには、なんだかんだとジンクスがあったり、いろんな、「マイ儀礼」を必要としたりします。何らかのメタ世界によって現実を構造化しないと、なかなか自然に生きられないのかもしれません。
オーストラリアは、私も「旅行者」としては、すごくいいイメージを持ってます。もちろん、英国の支店みたいなメンタリティはあると思いますが。
現地の日本人と話して、子どもが付き合うのに、英国系の子どもは、両親の移住の年を聞け、・・年以前なら囚人の子孫だから、と気をつけている、というのを聞いて、出自の差別意識にちょっと驚いたことがあります。
しかし、最近、首相が、バリのテロ以来、イスラム原理主義者を毛嫌いして、シャ-リア法で生きたいやつは出て行け、ここはキリスト教の理念で建国された国だから、キリスト教の文化や価値が尊重されるのは当然で、ここに住みたいなら英語が公式語だからアラビア語や中国語や日本語を使わずに英語を勉強しろ、などと言いました。移民問題に悩んでいるフランスで、これくらい言う政治家がいてもいいのに、というフランス人もいます。
オーストラリアといえばアボリジニのことを自動的に考えるので、おいおい、よくこんなことを言えるよなあ、と、私なんかはびっくりですが。
それほどに「キリスト教」アイデンディディが強そうなのにはびっくりです。一見、ユニヴァーサリスムの同化主義の言葉のようですが、実はものすごくコミュノタリズムの国で、ヨーロッパならタブーなことや、アメリカですら本音を言わないようなことをも、首相が平気で言っちゃえるのは、南半球の大陸という強みゆえなのでしょうか。白豪主義とキリスト教が結びついてるみたいで、ちょっと気持ち悪いです。カトリックはその中ではまあ「キリスト教」のお仲間なんで容認されてる程度なんでしょうか。
日本の会社の朝礼で神棚に柏手って、今でもそんなところがあるんですね。まあ、個人的には、たとえば創立者の銅像に最敬礼を強要させられるよりましかなあ。
日本の会社で、キリスト教徒だからといってそういうのを拒んだら実際に左遷させられた、という話を聞いたことがあります。切支丹狩って、今もあるんですよ、って。
今のカトリックでは、神社とかにお参りという状況になったら、柏手は遠慮して軽く礼をするだけにして、リスペクトだけ示しましょう、って感じですかね。
形は形でしかないので、信じてない対象に対してなら、逆に何をしても何も起こらないと思いますけど。信じている対象に対してはがんばって心を込めて形式にも気を使う、っていうのでいいんじゃないですか。
この前バリ島に行った時、毎朝、家の内外53箇所にお供えをするという人の話を聞いてびっくりしました。ヒンズー教です。棕櫚やバナナの葉とかにお花を組み合わせたとってもきれいなお飾りにご飯やコーヒーとか、少しずつ差し上げるのです。毎朝取り替えるんですよー。53箇所!!お祭りの時はもちろんもっと盛大に。
病気の時などでできない時は、別に誰に責められるわけでもないけれど、元気になったら、神々への感謝と無病息災のためにまた一そうがんばってお供えをするんです。
一日5回も祈るっていうイスラムも私には無理だと思いますが、ヒンズー教のうちにお嫁に行かなくてよかった、と思っちゃいます。日本で仏壇に毎日かげ膳を供えるとか、一箇所くらいなら、何とかなるかなあ。
フランスの企業には多分ないでしょうね。極小企業とかもともと宗教系のグループなら知りませんが。一般企業がそんなことしたらそれこそ組合でも個人でも、国に訴えれば、たとえ、お祈りを拒否することで具体的に差別されなくてもモラルハラスメントが成立しそうです。
フランスでの問題はむしろその逆で、会社などの公の空間は非宗教空間というのが決まっているにもかかわらず、「信教の自由」ということで、その宗教の祭日に勝手に休んだり、就業時間中に勝手に祈りの時間を組み込んだりとか、信仰を表に出すこと自体をどうセーブして監視、管理、対応するかの方が微妙ですね。公立学校に入れている子どもを、宗教行事のために休ませる親とかもいますし。
日本のこういう会社の風景なんかは、むしろフォークロアっぽいですね。そう思って割り切れば生きやすいのでは?
キリスト教は、神棚や仏壇を自宅にしつらえるっていう感じでは「祭壇」を作れないし、基本的に聖餐などは「共同体」の「集まり」が主眼ですから、それはそれで大変(出席したかどうかをチェックされる)ですが、うちで毎日複数の神棚に拝んだり、53箇所のお供え、みたいな煩雑がなくてすっきりしてる部分はありますよね。
宗教がない人だって、一日を始めるときには、なんだかんだとジンクスがあったり、いろんな、「マイ儀礼」を必要としたりします。何らかのメタ世界によって現実を構造化しないと、なかなか自然に生きられないのかもしれません。