2009年の投稿

ローマ帝国とキリスト教

迷える大羊 · 2009-08-23 22:32:05 UTC+9 · 投稿 #441

連続投稿失礼します。あとキリスト教に関してはローマ帝国との関係も外せないところですが。教会でパウロとか使徒とかの苦難の伝道行を聞かされると、つい「ローマ、悪い奴じゃ」と思ってしまいがちですけど、私なんかは、根が天の邪鬼なのか、逆にローマ帝国ってすごい先進国じゃないか、と思ってしまいます。

先スレでも述べたとおり、イエス存命時のイスラエルはローマ支配下ですが、ある程度の自治権と信仰の自由は保障していて、決してローマ古来の信仰を押し付けていませんし(難しくてできなかったのかもしれませんが)。法律・裁判制度なんかも、政治的でないものはほとんど現地人に任せていたようでもありますし。古代にしてはかなり理性的な支配だな、という感じが。イエスの生まれた年には帝国全土にわたって国勢調査をやったりしてますし。

パオロなんかもキリスト教改宗語、伝道の旅をしていますが、あの当時、ローマ帝国以外の地域で市井の一般人があれだけの旅をすることが(資金とか時間の問題はあるにせよ)可能だったのかどうか?これまた、非常に高度な法による統治と交通網が整備されていた証拠ですよね。
また、パオロ書簡には他宗教の信者との折り合いについて書かれた部分があるけど、これまた様々な宗教が帝国内に存在可能だったということなわけで。むしろ、中世以降のヨーロッパのキリスト教以外ナシ、な状況の方が遥かにひどい。

キリスト教もローマ時代の全期にわたって年がら年中弾圧されていたわけでなく、キリスト教嫌いの施政者が権力の座についた場合だけの散発的なものだったらしいですし。

このキリスト教嫌いの施政者、権力者というのも、ネロのような例外、論外はありますが、決して悪辣、愚劣な人間というわけではなく、例えば五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスとか帝政後期のディオクレアヌス帝とか、有能で責任感のある皇帝ほど、キリスト教にきつくあたっているわけで、なにやら事情は複雑、決して善悪の二元論で割り切れない気もします。
権力者ではないけどローマ帝国きっての歴史家のタキトゥスなんて、キリスト教のことを「有害な迷信」とカルト扱いしてますし。彼だって決して偏狭な価値観の持ち主とは思えないし。

というわけで、教会でパオロや使徒たちの苦難に満ちた伝道行や、初期クリスチャンの受けた弾圧の話を聞かされるたびに、確かにその精神力とか信仰心には感心するものの、「ローマ帝国って本当にひどいの?あの時代にしては、かなりマトモな部類に属する国家なんじゃないの?」とか、逆に「すごいなぁ、一般人があれだけの旅ができるインフラがあるなんて」とローマ帝国びいきになる私は天の邪鬼なんでしょうか?

キリスト教の「救い」とは?

迷える大羊 · 2009-08-23 21:51:59 UTC+9 · 投稿 #440

これまで、キリスト教に関して、いろいろ質問させていただきましたが、実はキリスト教に関して一番肝心な部分がどうしても理解できないでいます。

何かといいますと、イエスは救世主、といいますが、一体、何から「救った」のか?ということで。これが私にとってはわかったようで、わかりません。

そりゃまあ、信徒一人一人、個人単位でみれば、いろいろあるでしょう。たとえば肉親が亡くなって悲嘆にくれているところを癒された、とか、信じたら、心が楽になったとか、仕事や人生がいい方向に向かいだしたとか・・・etc。

でも、これらは、当人にとっては重大なのでしょうが、その救いはあくまで個人単位でのことだし、客観的にみれば、別にイエスでないと、というものでもない。、心が弱った時、悩んでいるときにたまたま出会った救いがキリスト教だったに過ぎない、極端かつ失礼な話、オウムに出会っておればオウムに流れてしまったんじゃ?と思ったりもします。

キリスト教によって救われた、と思える場合でも、実態としては、イエスとかキリスト教というよりは親切で人柄のいい牧師さんとか神父さん、信者、教会関係者に助けられた、といったものが多いんじゃないかなぁ、と。

もちろん、信じたら借金が消えた、長年の持病が治ったとかいういわゆる「現世利益」を保障する存在とも違いますし、ローマ帝国を蹴散らし、ユダヤの地を解放・・といった旧約聖書タイプの政治・軍事的なヒーロー、救い主、という役回りもイエス自身が福音書の中で否定してるし・・。

大体、ローマ時代のイスラエルって客観的にみて、どうしようもなく酷かったか?というとそうでもないような気もします。ローマ支配下、といってもある程度の自治権は保障されていたし、民族宗教(ユダヤ教)を信仰する権利も守られていたみたいだし、他のローマの属領、植民地に比べれば、だいぶマシな状況であるように思えます。現代でも、例えばチベットとかもっと悲惨な支配にさらされている地はいくらでもありそうな。

この程度の状況で「救世主を」なんていっていたんでは、他のもっと悲惨な状況にある地域の住民からは「ケッ」っていわれそうですし、所詮はユダヤ人だけの都合に過ぎませんし・・。

個人単位ではなく、キリスト教全体の立場として、イエスは何から信者を救った、ということになっているのでしょうか?
特にイエスの直弟子、初期クリスチャンは具体的に何から救われた、解放された、と思って、強力なパワーだとかエネルギーを得たんでしょうか?

ポスト・モデルネ

あがるま · 2009-08-12 02:34:48 UTC+9 · 投稿 #439

と云ふ概念を知りませんが、『近代(主義)』と云ふのを一番良く定義して居るのはバルトなどのプロテスタント神学でそれは『AnthropoZentrik人間中心(主義)』と云ふことだと習ひました。大分前には『post-historic』と言つたものかも知れません。
Stanford Encyclopedy of philosophyが一番良く説明してある様ですが、ハバマスが云ふやうに自己言及的なもので、自分の論拠を破壊してしまふものでせうか。
http://poznejsamsebe.wz.cz/filosofie_ladislava_klimy.pdf
でDavid Seterleの Filosofie Ladislava Klimyと云ふのを見つけました。40ページくらいの文章ですから私もチェコ語が解れば良いのですが。

para と trans など

Sekko · 2009-08-09 06:47:30 UTC+9 · 投稿 #438

ええと、ブログで書いたことは文脈を省略した断片なので、言葉が足らなかったと思いますが、ハイデッガーのことは全く頭にありませんでした。
ちょうど扱っていたところが、Martin Rees と Richard Dawkins の無神論だったので、ああいう言い方になったのです。ハイデッガーは全然別物だと思っていますし、私はむしろ、ハイデッガーは、ポストモダンというより、形を変えたモダンの系譜じゃないかと感じています。フランス実存主義の哲学者たちも、反教権主義は別としても、ニヒリズムと背中合わせの無神論とは違うんじゃないかと。まあ、この辺は、長くなるんで、いつかちゃんとまとめてみたいですが・・
実は、Martin Rees なんかのこの考え方は、solipsisme historique 批判なんです。「今ここ」だけ主義の批判なんで、「今ここ」だけ主義というものが、「永遠に死ぬ=つまり生まれ変わりとか復活とか死後の世界がない」ことに対する恐怖から生まれていると見ているんで、結果的に「永遠の否定」にもなってるのが逆説的なんでおもしろいんですが。分りにくいかもしれませんが・・・
私個人は、「死=しょうがない」という感慨しかないんですけど。
個体には、終わりは確かにあって有限だけど、初めはどこが最初か確実には遡れないので、始まりの方が無限だ、って言ってる遺伝学者がいましたが、それもなあ、別に慰めにはなんないです。若い時に無神論者でも死が近づくと不可知論者っていうのは、若い時の革命家が中年になってブルジョワ左派になるように、多分、イデオロギーの一種なのかも。
私は「今ここ」の管理すらも上手くいかないんで、procrastination、神とか死とか偉そうに言えません。

パラとトランスの訳ですが、確かに、パラは「併行」とかのニュアンスを出すべきだと思ったのですが、ご指摘のように、パラプシコロジーが超心理学と通常訳されているのを知っていたので、語感もいいし、あがるまさんがおっしゃってくださったように、transcendance をイメージしたかったのです。その意味では、成功したかと思います。でも例えば、paramedecine なんかは明らかに「代替医療」なんですよね。alterとかじゃなくても。後、metanoia という時のメタというのも、しっくりきません。まあ、パラエレジーもそうでししたが、カタカナを示すことで、ある程度類推してもらえると思っていますが。

flocci-nauci-nihili-pili-fication

あがるま · 2009-08-09 00:48:48 UTC+9 · 投稿 #437

<生物の種も惑星にも太陽系にも宇宙にも寿命があって、そのスパンの中で考えるだけでも、個人の生などは、絶対の無意味でしかない。floccinaucinihilipilification。
これがポストモダンのニヒリズムであり、「神の死」である。>

明らかにこれは間違つてゐる、ハイデッガーは「人間は宇宙の大きさに較べては微小な無のき如きものである」などと言つた訳ではない。
細谷貞雄は夙に渡邊二郎のそのやうな単純な誤解を指摘した。
まして死が永遠の代替物だとも思へない。個体にはすべて始めと終はりがあるのは、それが有限で形を持つてゐるからだらう。

パラ・ヘレジーは日本語では「エセ似非・異端」とでも云ふべきか。

超・異端

あがるま · 2009-07-30 14:45:08 UTC+9 · 投稿 #436

現代新書の『ジャンヌ・ダルク - 超異端の聖女』を通読しました。
彼女についてはミシュレや高山一彦の簡単な本しか読んだことはありませんでしたが、
「正統と異端のパラドックスの中をぐるぐる廻る私」と仰る通りとても面白く興味深く、また複雑なものですね。うまく概念的に分節されたものだと感心します。

J.ル・ゴッフの提唱するPara-Heregieと云ふ基礎概念の、異端heregieを「選択」と云ふほどの意味(34頁)と書かれて居るので、ラテン語のheresis(haeresis)はギリシア語の(di)hairesisをのまま使つたので、「(二つに)分離する」と云ふ意味で現代語で言ふ「セクト」のことだと思つて居たのですが、慥かに古典語の辞書には「選挙・選択」と云ふ意味が載つて居ました。

またギリシア語のparaは「傍らに」と云ふ意味で、「(河を)超へて」と云ふ意味のラテン語のtransとは明らかに違ふし、ル・ゴッフも両綴にギリシア語を使つて居るが、日本語ではpara-psychologyを超心理学と云ふ様に「trans超」と「para副次的」は(戯画的に)混同されることもある様です。(フランスの大学の科目たるprapsychologieは米国のとは別物なのでせう)
第一哲学たる存在論ontologieに対する 本質論ousiologieや神学theologieが副次para的なものの典型でせうか?
「柄(正統)と地(異端)」を超へた「地平(超・異端)」、の言外には超越範疇transcendentalia(ト・ヘン一者たる神)が透かし見えるやうです。より現実的な登場人物の傍らで、ジャンヌは已然として、お伽噺と云ふ印象です。
30.07.09

バッハのことなど

Sekko · 2009-07-08 18:44:43 UTC+9 · 投稿 #435

ブログのご愛読ありがとうございます。

シュタイナーの絵も見ましたが、当時はどう評価されたか知りませんが、古いなあ、という印象を免れませんでした。カンディンスキーはさすがに古くない。いろいろなところに書きましたが、私が絵を観る時の基準は、それをベッドのそばにかけるとして、毎日、朝目覚めた時に一番に目に入るもの、夜寝るときに最後に目に入るものだと想定し、それに耐えられるか、というのと、地球が滅びたとして、宇宙船で別の惑星に向かう時、たった一つの絵を「地球の生命」というタイトルで持っていけるとしたらそれを選べるか、というのと2種類あります。私の場合、何かそうなると、形より、色が大事になるかもしれません。色のない世界って辛いです。カンディンスキーは別にすごく好きな画家ではなかったのですが、今回見て、宇宙脱出するなら晩年の作品を一つ、って思いましたね。ミュンターとの付き合い方には、あまりいい感じは持ってないんですよ。アーティストのカップルというのはやはりどちらかがどちらかを潰すことが多く、そこにさらにジェンダーがからんで、複雑です。
バッハのこととかについてはブログでまた少し続きを書きました。

バッハの

あがるま · 2009-07-08 12:32:51 UTC+9 · 投稿 #434

『Wohltempeliert』esKlavierを『平均律』ピアノ曲集と云ふから両者は同じものかと思つてゐたら、Wikiによれば違ふものらしい。
『純正』調は(イデアの世界だけで)現実には(竹下流に云へば身体的には)在り得ないもので、皆少しづつ調子が違ふからこそ美しいハーモニーが奏でられのでは?

パトチカ(

あがるま · 2009-07-06 17:58:43 UTC+9 · 投稿 #433

カンディンスキ(その先生はF.シュトック)と云へばガブリエレ・ミュンター ― 坂崎乙郎が女性画家として唯一認めた。
彼らが共同生活をして居たムルナウと云ふ場所は列車で通つただけですが、湖(シュタッフェル湖と云ふらしい)が美しくて途中下車してみたい町でした。
さう云へばカンディンスキはR.シュタイナーの信奉者でもありました。
05/07/09

<自己が世界の現出Erscheinungの可能性の制約MoeglichkeitsBedingungであり、世界が自己の現出の制約であるが、自我的egologischなものは普遍的な現出構造ErscheinungsStrukturを組織化する中心点にすぎない>(新田義弘『現象学』から。 多分Patocka, La monde naturel comme probleme philosophique.1976から。ドイツ語は適当に入れた)
と云ふものであれば、意味と存在の次元の区別が不十分としても、(他者との)関係を拒否する訳はありませんね。04.07.09

(無題)

あがるま · 2009-07-02 13:10:21 UTC+9 · 投稿 #432

クリマの文章を一行も見たことがないのでは話にもならないので
耶無を得ず周辺から近づくしかないのですが、
クリマがショーペンハウアー(=カント)やバークレーの信奉者であつた処を見ると、人間は(神や天使と違つて)真善美などの超越範疇の知的直観を持たないのでdiskursiv ― これを橋里美は『分散的』と訳して居ますが、それは多分この言葉がdiscret(密接しないで離れて立つ)から来るからでせう ― な概念を使用して、主語と述語動詞と補語を文法により縫ひ併せるしかない。そして範疇やその命題Satzが現実存在に如何にして適用され得るかは、法学的な実践(日本語では権利問題と訳して居るので解りにくいが)や図式論によつて視覚的に説明するしかない。
しかし真についての知的直観はないが、美や善については神ならぬ人間にも直観はある。(純理批判には(難解な)図式論は必須だが、美的判断力や倫理の批判には必要がない所以です)。
一挙に対象を把握してしまふ直観は常に感覚的でその対象を持つはずですが、痛みとかオルガスムは志向対象のない感覚で、山上の体験を一般的な経験として説明することはそれ自体論理的矛盾になりさうです。

Vladimir Soloviev

Sekko · 2009-06-30 21:41:23 UTC+9 · 投稿 #431

昨日エリカに話したんですが、私がクリマの中にヘシカスムを見るのは自由だが、クリマは自分が東方的な神秘主義とは違うことを強調していたそうなんです。Vladimir Soloviev を批判している膨大な論考をpdfで送りつけてきました。クリマは一切の関係性を拒否していたというのです。まあ確かにそうでないと、ソリプシストとはよべませんが・・・独我論と我神論の比較論考も残しています。エリカとの話をまたブログの方に備忘メモしておきます。パトチカは、クリマの論理学を評価した文を残してるそうです。でも、たいていのチェコ人は、クリマを文学者の枠に閉じ込めるか、黙殺しようとしているのです。クンデラとかも。自由世界でどう売り込みどう生き残るかが最大の関心みたいですね。

theosisも

あがるま · 2009-06-30 00:26:32 UTC+9 · 投稿 #430

クザヌスのcontractioも碌に知らないのでまともな応答もできないのですが、アウグスティヌスの三位一体論が人間の(志向的)意識をモデルとした、極端な人間中心主義=solipsismeであることを思ひ出せば良いのではないかと思ひます。
八木雄二『中世哲学への招待』でドゥンス・スコトゥス論の三位一体論は認識論であり、『父なる神』は認識の起源=記憶、『子なる神』はロゴス=理知で、聖霊は愛=意志である、と云ふ興味深い指摘がありました。でも何故か彼はそれをアウグスティヌスと結びつけることはしませんでした。
フッセルなら父=志向対象、子=志向内容、聖霊=志向作用とでもしたかも知れません。
差異性は同一性に対立する差異ではなくて同一性の差異化(Rombach)、とでも云ふのか?

パラマスとクリマ

Sekko · 2009-06-29 20:46:06 UTC+9 · 投稿 #429

実は今、クリマのソリプシズムをパラマスとひそかにすり合わせているのです。
クリマのソリプシズムを、宗教神秘主義の中で理解しようと思ったら、Filioque はやはりまずいと思うんですよ。じゃあ、Hus や Wiklif はどうだったんだということも当然見なければならないし・・・

太陽が、直接見えないけれど父的本質であって、聖霊と子はその働きとしてキャッチ可能な光線だというパラマス的イメージはすごくよく分かるんですよ。
クリマのソリプシズムでは、私も神、あなたも神、という神の関係性があり、しかも、それはひとつの全体だというのがあって、それは、光線と光線源を分けないと(切り離すというわけではない)不可能です。集合論的に、たとえば、部分集合でも無限である(偶数習合とか)というたとえは、読むと「おおっ」と思うんですが、生き方に適用するとリアリティを失うし。クリマのソリプシズムはそのまま彼の生き方だったのがすごいんですけれど。

まあ、今のところ、もう少し読み込んで、人に紹介できる程度になってからまた書かせていただきます。

パラミズム

あがるま · 2009-06-26 14:41:49 UTC+9 · 投稿 #428

ご丁寧に何度も有難うございます。
神秘主義や東方教会よりも、ダスチュール→現象学(九鬼、パトチカ、ロンバッハ)→クザヌス云ふ聯関がありさうですが、クザヌスとエックハルトの関係を、詳しく辿る知識がないので申し訳ありません。
グレゴリオス・パラマスをダシにして、初めて集合論を学んだ高校生が思ひつきさうな本を書き笑殺された方も居られます。
日本では(キリスト教や)古典的形而上学の原理が理解されて居ないのか、簡単に欧米の哲学が超越されて、独自の『思想』が樹立されます。
ディスクールなどと云ふ言葉が盛んに使はれてもその本来の意味(概念的思惟)を分つて使つて居るのか?高橋里美や九鬼周造などフッセルから直接間接に学んだ連中は分つて居たと思ひますが。
最近でも水村美苗が、日本語は滅びると云つても、日本には古典とかカノンと云ふ概念がないために何が主題なのか分らなくて見当違ひのことが云はれて居るやうです。
日本の学校教育の缺陥が問題になるのでせう。

日本人の研究者や

Sekko · 2009-06-26 06:24:18 UTC+9 · 投稿 #427

学者の方とはほとんど交流がありません。ずっと昔からいて、こっちの大学で勤め上げて、引退して日本語もほとんど話さない方もたまにいます。
日本のような国と、ヨーロッパではかなり歴史の接点が少ないので、両方に足を置いていないと、距離のとり方が難しくなって見えてこないことも多くなります。クリマと今のチェコの関係も、東ドイツでずっと排斥されていたニーチェが冷戦後急に「真のヨーロッパ人」としてもてはやされたように、政治的反動もいろいろありますから。ヨーロッパは特に、第一次大戦と第二次大戦の傷と、互いの移民関係とが重なり合って、哲学や宗教のトレンドにも強い影響を与えているのです。その辺のニュアンスや事情を知ってはじめて腑に落ちるようなことも、いまだにいろいろあります。

今は、クリマのソリプシスムは正教のヘカシズムと大いに関係があるのではないかと思っているところです。エックハルトなんかをクリマがどう読んでいたのか、次にエリカに聞いてみます。無神論にはいくつか種類があって、「神と合一=自分が神になる=無になる」という神秘主義的無神論とクリマのソリプシズムは親和性があると思うのですが、彼自身が膨大な理論を構築しているのをまず読まないとなんとも言えません。私の考えは大体エリカによって承認されているので大筋は外れていないと思うのですが・・・
今のところあまりお役に立てなくてすみません。

九鬼周造

あがるま · 2009-06-25 07:38:37 UTC+9 · 投稿 #426

に関する論文でパリでF.ダステュールの許で学位を取つたサイトーさんと云ふ方の話を大分前に聞いたことがありますがネット上での噂は聞きません。
日本語で著作を発表された様子もありませんが、中村弓子?の本の後書きで彼女の名前が記載されて居たのを見た気もします。
竹下さんなら、お年や在仏期間からご存知かも知れません。
日本には帰らずに現地で学者人生を送る方も沢山居られるのでせう。

こんにちは

Sekko · 2009-06-23 23:48:31 UTC+9 · 投稿 #425

あがるまさん、こんにちは。

クリマのソリプシスムの真髄は、日記と書簡で全部分ります。書簡といっても、彼の信奉者からの個人的援助に応えて論文を送っていたわけです。フランス語版は手に入ります。

http://livre.fnac.com/a1603340/Ladislav-Klima-Oeuvres-completes?Mn=-1&Ra=-1&To=0&Nu=4&Fr=3

でも、高くて分厚くすごく読みにくいです。

今の仕事が一段落したら触りを紹介したいですが。それにはもう少し読みこまなくては。エリカからPCで送ってもらったものも、私は読むと肩が凝り、目がかすみ、これほど魅力的でなかったらもうとっくにギブアップしているところです。

もうひとつの問題点は、この間、チェコの人と話したら、そもそもエリカ(の夫)が冷戦中にクリマの手稿をチェコから持ち出したことに対してすごい不信感と敵意を持たれました。その辺も含めてクリマの本格研究はけっこう微妙です。

ドイツ語ラテン語ギリシャ語も混じっていますがそれはあがるまさんなら問題ないでしょうし、チェコ語がOKならもっと嬉しいです。ただ、彼のようなタイプの思想の読み解きには、キリスト教とヨーロッパ中心主義の幻想と伝統の葛藤をかなり体感していることが必要かもしれません。まあ知性の腕力(って矛盾ですが)さえ強靭なら大丈夫でしょう。後は感性の問題ですが、私のブログからクリマをたどってここまで来て下さったということは、すでに、「仲間」だなあと思います。

あがるまさんがクリマの思想を分析してくださって、エリカと違う視点で他と関連づけてくださればすごく嬉しいのですが。

私はクリマの研究をするより紹介し、自分がクリマ風ソリプシストになって、今の世界の文脈の中で別の論を展開してみたいと思います。できたら「生き方」も。

そのうちクリマ専門の紹介ブログをつくって、サークルができるものか見てみたいですね。

ラディスラフ・クリマ

あがるま · 2009-06-22 13:32:46 UTC+9 · 投稿 #424

についてブロッグで書かれて居るのを拝見しました。
エリカ・アブラムさんはパトチカの翻訳者なのですね。
成る可く解り易い彼の著作としては何をお奨めになりますか?
Deus sumは手に這入るのですか?
触りのあたりでも日本語で書いて戴ければ有り難いのですが。

ゴルゴとキリスト教

迷える大羊 · 2009-06-18 21:29:22 UTC+9 · 投稿 #423

>ゴルゴ13のヴァチカンもので、背景説明が全く私の『ローマ法王』からそのままコピーというのがありました

もしかして、中国とカトリック教会の関係がちょっと出てきた話かですかね?うろ覚えですが、メインテーマは確か中国の新興宗教と中国共産党とのからみでした。
これまで、「ゴルゴ13」なんて思いっきりキリスト教ネタのタイトルなのにキリスト教描写が結構適当なところがあったんで、オヤ?と思ったものでした。「ゴルゴ13」中のヴァチカンは人身売買組織のボスをゴルゴに依頼して、始末したり、ゴルゴの影武者をいつの間にか造ってたり、なかなかアクティブな組織で、ゴルゴ13の良き顧客となっている模様です。

まあ、日本の劇画やドラマに出てくるキリスト教っていい加減ですよね。妻子持ちの神父だとか、モグリの神父だとか(単立教会があり得ないカトリックでは不可能では?)がでてきたり、いつでもどこでもやたらと「神、神」を連呼したり、ちょっと変人なのでは?と思うくらい、「品行方正」だったり・・・。

野口志世 さま

Sekko · 2009-06-11 01:06:54 UTC+9 · 投稿 #422

野口さま。

私がエゾテリズムに興味を持ったのは、キリスト教や西洋近代の確立の中でその受容がどういう意味を持ったのかという点なんですよ。
西洋キリスト教の発展の中では、キリスト教の源流のオリエント的なもの(バビロンとかエジプトとかパレスチナとか、ギリシャまで)が、なんとなく全部影に押し込められた時代が長かったですし。

『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 』中央公論新社という本で、エゾテリズムの流れが、今もいかに影響を与えているかの例を書いています。良かったらお読みください。

個人的には、いまや、すべての「秘密」なんたら、というのには警戒心の方が強いです。この世では、すべての真理が明らかにはならないし、秘められていることも多いし、秘められていてこそ機能するものも多いと思います。説明や証明もできないことを切り捨てていては世界は成り立たないし。
ただ、「自分だけが」あるいは「自分たちだけが」、「秘められた真実」を知っているとか所有しているとかいう考え方は、閉鎖的、排他的、独善的になりやすいから、もうそれだけで、「真実」が捻じ曲げられてるような気がするんですよ。

スクルス神父さまはそういうことと全く反対の方ですから、いい方に会われて良かったですね。力をいただいて、それを他の方の癒しにどうぞ役立ててください。神父様が序文をお書きになった『自由人イエス』は、この秋にドン・ボスコ社から発売予定です。いい本ですよ。是非どうぞ。

天使と悪魔

Sekko · 2009-06-11 00:50:18 UTC+9 · 投稿 #421

迷える大羊さん、

私も、「タカハシ」に反応しましたよ。昔は「ヤマモト」が一番だったけど、ちょっと進化したなあ、と思って。

昔、ゴルゴ13のヴァチカンもので、背景説明が全く私の『ローマ法王』からそのままコピーというのがありました。まあ、別にそれは単なる情報なんで、私のオリジナルとかじゃないからいいんですけど、さすがに著者の私は、あれ、丸うつしだなあ、と思いました。(別に嫌じゃなくてメジャー感を抱きましたけど・・ゴルゴ13のお役にたてたのかって。)

カトリックってちょっと自虐史観ありかもしれません。あちこちでひどいこと言われてるけど、あまり文句つけたら、十字軍だの異端審問のこと持ち出されて薮蛇になるかも、っていうんで。カトリック教会自体が偶像化した時代もありましたからね。

ラングドン教授の殺人防御率が低いってのも笑えます。私も、「また2分前かい、気づくの遅すぎ」って。「他人事?」ながら、見ててイライラしました。トム・ハンクスがよく我慢してあんなつまらないのに懲りずにでてるなあとか。

ダン・ブラウン「天使と悪魔」

迷える大羊 · 2009-05-25 23:34:13 UTC+9 · 投稿 #420

VINOさんの話にも出た、「天使と悪魔」、映画観ました。お話はかつて中世にカトリック教会より弾圧を受け、地下にもぐった科学者集団、イルミナティがなぜか現代に復活。反物質分子を奪い、枢機卿を拉致監禁、バチカンへの復讐を果たすべく、行動を開始、ここに例によってラングドン教授参上・・、といったお馴染みのストーリー。

このラングドン教授シリーズってどうも前から何か不思議な既視感があったのですが、ある時、はっと思いだしたのは我が国の誇る探偵小説、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」ですね。「八つ墓村」とか「悪霊島」、「悪魔が来たりて笛を吹く」とか、のあのノリ。

おどろおどろしい、因習渦巻く戦前、あるいは戦後間もない地方の村、そこに伝わる裏面史、伝説。そして伝説を前フリとして起こるおぞましくも残虐な殺人の数々・・。

ダン・ブラウンのラングレン教授ものにおける「因習渦巻く地方の村」はキリスト教会、それも、いかにも、といった趣のあるカトリック。「村の伝説、裏面史」に相当するのが「キリスト教裏面史」、で「イルミナリティ」とか「なんとか騎士団」とか「イエスとマグダラのマリアはデキてる」などというお話ですね。

金田一耕助もラングドン教授も殺人防御率が低いことも共通。「天使と悪魔」ではそれが顕著。あと、犯人に自殺されて、無傷で捕えられない、とか・・。
ただ、金田一とラングレン教授の違いはラングレンがキリスト教、カトリックという世界最大の宗教団体が絡んでいるために騒ぎが少々が大きくなっていることくらいでしょうか。

まあ、なんだかんだいってカトリック教会は寛大な気もします。これだけイジられても動じないのですから(さすがに撮影協力などはしてないようですが・・・w)。これまた我が国が誇る殺し屋、スナイパーのゴルゴ13も、キリスト教はカトリックだけじゃないことぐらいわかってるでしょうに、キリスト教とか教会といえば必ずカトリックを出してくるし、幾度となくヴァチカンから依頼を受けてるし・・。
カトリックは都市伝説の吹きだまり、ゴミ捨て場かい!って感じです。

まあ、ビジュアル面とその歴史の厚さが魅力的である、好意的に解釈すればそういうことになるのかもしれませんけど・・・。

あと冒頭の枢機卿の会議になぜか「タカハシ」なる日本人枢機卿が登場(話の本筋にはほとんど関係ないけども)。作者は日本のクリスチャンは1%未満、カトリック信徒はわずか0.4%、その辺の新興宗教以下の信徒数であることを知ったらなんと思うやら・・。

(無題)

迷える大羊 · 2009-05-25 23:17:51 UTC+9 · 投稿 #419

皆さん、お相手いつも恐れ入ります。

>単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが

多分そうかも、とは思いますけどね。上層部はともかく、個々のクリスチャンのサイレントマジョリティはノンポリがほとんどと思われますから・・。

ただ、欧米で熱心なクリスチャンというと日本と逆で大抵、政治的には右というか保守派ですよね。アメリカがいい例ですし、カトリック教会も世界的、全体的には反共ですよね、何しろ冷戦のさなかにポーランド出身の教皇を推し立てるのですから・・。単にマジョリティか、マイノリティかの差かしら?もちろん、あまり決めつけるのもなんですが。

ただ、イエス自身は有名な「カエサルのものはカエサル、神のものは神に」という言葉に代表されるように、また、いくら煽られても政治的言動は一切行わなかったですよね。慧眼だと思います。マザーテレサもそのあたりのケジメはしっかりしてました。
全くの独断と偏見ですが、私の知る限りだと救世軍なんか、マトモだったかな?日本のキリスト教会にありがちな、年月日の記載に元号をヒステリックに排除する、なんてこともしてませんし。

うれしい昨日

野口志世 · 2009-05-21 18:31:20 UTC+9 · 投稿 #418

節子先生
きのう
スクルス神父様のところにお邪魔しました・
あいにくお忙しくフランス語は勉強なく
いつも心の深ーいおはなしに
ごそうだんさせていただき
ペールポール
はたからの父です。

節子先生のことが大好きで
本の表紙ぶんかくのってよろこんでおられました。
ブルカルト神父
が私のお父さんですが
二人の神父にまもられ
千里でたくましく安心して暮らしております。

すくるすしんぷさまに
エゾてリズムをソルボンヌではかせごうとられているとききました。

神秘宗教
どんなものか教えてください
秘密宗教でした

猫足ロココ
猫がだいすきなヒーラーです。

右やら左やらではもはやないと・・・

vino · 2009-05-18 11:41:45 UTC+9 · 投稿 #417

新型インフルエンザ、とても心配ですね。さて、この春から関東人になりました、VINOです。<鬼が出るか蛇が出るか>・・・のかつての教会に帰って来ました(笑) 思えば、昨年のアメリカの大統領選、今までになく色々な事を考えた次第で、この時期、ダン・ブラウンの映画が<ブッシュ>とほぼ同時期に公開・・・笑えます。すっかり性格が悪くなってしまった事を自覚しつつ、書かせて頂きます。 私が出会った幾人かの濃いクリスチャンは<政治としんこうは別!>と仰いますが、私には<関係あるようにしているのは誰?>の思いがぬぐえません。 大羊さんの奥様の国歌やらなんやらには単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが。 むしろ、彼らの方向性はとてもアメリカ的にかんじますよ。今は反アラブで盛り上がってますし、かつては反共で求心力をKEEPしていた事は容易に判ります。中国の食の問題でも<共産主義が悪いのよ>の一言ですべてオシマイです。 確かに宗教を否定の共産主義ですから、その一言も判りはしますが、