難しい問題ですね、
こればかりは万人向けの回答はありませんね。
私の親戚にも、知り合いにも「エホバの…」信者はいます。日本にもフランスにも。
私の知っているケースでは、大人の入信はそれなりの心理的社会的理由が想像できて、そのような布教の仕方には異論があるのですが、そのまま何十年も、それなりにいろいろな面で折り合いをつけてやっているようですので、もしも分岐点で他の道を選んでいたらその人にとってもっとよい人生が送れていたのかどうかはなんとも言えません。ただ、家族を巻き込むことでの葛藤は多く、「エホバの…」の家庭でまれて育った子どもたちは、かなりつらいと思います。私の音楽仲間で親友といっていい人物の場合、大騒ぎの末、今は社会的にも私生活的にも自立と平安を得ています。彼の両親も心の底では「神よりも共同体よりも自分の子がかわいい」と思っているらしく、今はなかよくやっていますが、両親がずっとエホバにとどまっている現実は変わらず、一番つらくて心を蝕むのは、仲の良さにおける「偽善性」のようです。裏切りの感覚や罪悪感もそうです。これはもうどうすることもできませんが、たとえそのような問題がなくとも、人はそれぞれ、貧困だとか暴力とか痛みとかいじめとか病気とか障害とか家族の死,事故、などそれぞれの問題をそれぞれの感受性で生きているのですから、特定の宗教だの共同体だのによる「犠牲」だけを特化して糾弾してもしょうがないと思います。全体としては人権や自由や尊厳を侵すようなグループやイデオロギーを批判していき、個別には、理解して寄り添い、その人から疑いや弱さのサインがあった時に見逃さず、変わらぬ信頼を表明するのがいいんではないでしょうか。
どこかの自治区みたいなところに隔離されて「出家状態」になるようなタイプの共同体なんかよりはかなりましだと思います。
私は一般的に終末論的な脅しをかけたり恐怖を煽るタイプの宗教が苦手で、アメリカ系の比較的新しいプロテスタントによくあるわけですが、なんで日本のようにキリスト教文化でもない社会にいる人がわざわざそんなものにはまるのかた不思議です。アメリカ文化の受容のヴァリエーションなんでしょうか。
先頃のハイチの地震の後で、フランスの「エホバ…」グループの医療班がボランティアで現地に入って活躍し感謝されているドキュメンタリー番組を見たんですが、確かにすごく熱心で頭が下がるんですが、その中心にいる医師が堂々と、これは世界の終りの徴しだ、神の怒りだ、悔悛が大事だみたいなことを口にするのです。サイエンxトロジーとか福音派とか、終末論的なカルトとか、もうハイな状態で、被害者をカトリックから改宗させたりしてました。4人の子を失った母とかに、一人残ったのは神のご加護とか言ってるんです。医療施設を回って、片脚切断された女の子に、もう片脚が残ったのを神に感謝しろとか言ってるんです。切断された方のは神罰だとでもいうのでしょうか。
とにかく、心身の試練にいるさなかの人に宗教勧誘しちゃいけないというのはフランスなどでは法令化しています。子供にも。学校、病院、高齢者施設などの内部や近辺での勧誘禁止です。逆に、公立の病院にはチャペルがついてます。祈りたい人や宗教サービスを受けたい人は使えますが、信者でない人に働きかけることは一切禁止です。マザー・テレサの施設も、奉仕のみでいわゆる布教宣教はありませんでしたね。外部的にはひたすら奉仕だけ、という修道会はたくさんあります。
でも、つらい時、怖い時、絶望した時に、宗教を求めるのは人の常だし、ハイチでも、とにかく(カトリックだろうと福音派だろうと一応デフォルトがキリスト教なんで)、みんなイエスの名を叫んでいたそうで、そういう表現の手段があるのはいいなと思います。こういう時に、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になる人より、神にすがる人の方が圧倒的に多いのって、そういうタイプの自衛反応をする人間の方が生き残って子孫を残してきたという進化論の自然選択と淘汰の結果なんでしょうか・・・
でも、痛い人、苦しい人、つらい人が神の名を口にするのはいいけど、救助に来てくれる人、世話をしてくれる人は、心の中で祈っておいてほしい、と私はなんとなく思います。
あまり答えにはなっていませんが、アメリカ系終末論系の新宗教ヘの対策は、やはり餅は餅屋ということで、キリスト教老舗のプレーンがついているNPOに相談した方が、単なるしろうとの互助組織より信頼できて有効かも、と考えます。お友達の宗教活動が、何らかの個人の危機の解決法だったのか、あるいは「金太郎とまさかり」さんから見て、明らかに世界を狭めてネガティヴに変わったように見えるのか、そのへんもよくお考えください。
私の親戚にも、知り合いにも「エホバの…」信者はいます。日本にもフランスにも。
私の知っているケースでは、大人の入信はそれなりの心理的社会的理由が想像できて、そのような布教の仕方には異論があるのですが、そのまま何十年も、それなりにいろいろな面で折り合いをつけてやっているようですので、もしも分岐点で他の道を選んでいたらその人にとってもっとよい人生が送れていたのかどうかはなんとも言えません。ただ、家族を巻き込むことでの葛藤は多く、「エホバの…」の家庭でまれて育った子どもたちは、かなりつらいと思います。私の音楽仲間で親友といっていい人物の場合、大騒ぎの末、今は社会的にも私生活的にも自立と平安を得ています。彼の両親も心の底では「神よりも共同体よりも自分の子がかわいい」と思っているらしく、今はなかよくやっていますが、両親がずっとエホバにとどまっている現実は変わらず、一番つらくて心を蝕むのは、仲の良さにおける「偽善性」のようです。裏切りの感覚や罪悪感もそうです。これはもうどうすることもできませんが、たとえそのような問題がなくとも、人はそれぞれ、貧困だとか暴力とか痛みとかいじめとか病気とか障害とか家族の死,事故、などそれぞれの問題をそれぞれの感受性で生きているのですから、特定の宗教だの共同体だのによる「犠牲」だけを特化して糾弾してもしょうがないと思います。全体としては人権や自由や尊厳を侵すようなグループやイデオロギーを批判していき、個別には、理解して寄り添い、その人から疑いや弱さのサインがあった時に見逃さず、変わらぬ信頼を表明するのがいいんではないでしょうか。
どこかの自治区みたいなところに隔離されて「出家状態」になるようなタイプの共同体なんかよりはかなりましだと思います。
私は一般的に終末論的な脅しをかけたり恐怖を煽るタイプの宗教が苦手で、アメリカ系の比較的新しいプロテスタントによくあるわけですが、なんで日本のようにキリスト教文化でもない社会にいる人がわざわざそんなものにはまるのかた不思議です。アメリカ文化の受容のヴァリエーションなんでしょうか。
先頃のハイチの地震の後で、フランスの「エホバ…」グループの医療班がボランティアで現地に入って活躍し感謝されているドキュメンタリー番組を見たんですが、確かにすごく熱心で頭が下がるんですが、その中心にいる医師が堂々と、これは世界の終りの徴しだ、神の怒りだ、悔悛が大事だみたいなことを口にするのです。サイエンxトロジーとか福音派とか、終末論的なカルトとか、もうハイな状態で、被害者をカトリックから改宗させたりしてました。4人の子を失った母とかに、一人残ったのは神のご加護とか言ってるんです。医療施設を回って、片脚切断された女の子に、もう片脚が残ったのを神に感謝しろとか言ってるんです。切断された方のは神罰だとでもいうのでしょうか。
とにかく、心身の試練にいるさなかの人に宗教勧誘しちゃいけないというのはフランスなどでは法令化しています。子供にも。学校、病院、高齢者施設などの内部や近辺での勧誘禁止です。逆に、公立の病院にはチャペルがついてます。祈りたい人や宗教サービスを受けたい人は使えますが、信者でない人に働きかけることは一切禁止です。マザー・テレサの施設も、奉仕のみでいわゆる布教宣教はありませんでしたね。外部的にはひたすら奉仕だけ、という修道会はたくさんあります。
でも、つらい時、怖い時、絶望した時に、宗教を求めるのは人の常だし、ハイチでも、とにかく(カトリックだろうと福音派だろうと一応デフォルトがキリスト教なんで)、みんなイエスの名を叫んでいたそうで、そういう表現の手段があるのはいいなと思います。こういう時に、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になる人より、神にすがる人の方が圧倒的に多いのって、そういうタイプの自衛反応をする人間の方が生き残って子孫を残してきたという進化論の自然選択と淘汰の結果なんでしょうか・・・
でも、痛い人、苦しい人、つらい人が神の名を口にするのはいいけど、救助に来てくれる人、世話をしてくれる人は、心の中で祈っておいてほしい、と私はなんとなく思います。
あまり答えにはなっていませんが、アメリカ系終末論系の新宗教ヘの対策は、やはり餅は餅屋ということで、キリスト教老舗のプレーンがついているNPOに相談した方が、単なるしろうとの互助組織より信頼できて有効かも、と考えます。お友達の宗教活動が、何らかの個人の危機の解決法だったのか、あるいは「金太郎とまさかり」さんから見て、明らかに世界を狭めてネガティヴに変わったように見えるのか、そのへんもよくお考えください。