迷える大羊 · 2010-12-31 09:11:18 UTC+9 · 投稿 #539
連続投稿失礼します。旧約聖書を読んで思ったことなんですが・・。主はどうして、ダビデに「甘い」んでしょうか?
これまでに何度か触れましたけど、トンでもない男ですよね。
人は殺しまくり、部下の妻、人妻の風呂を覗いて、横恋慕して、ナニをして、旦那は最前線の戦場に送り込んで亡き者にして・・・、鬼畜の如き所業。この哀れな旦那の他にもダビデに殺戮された者は数知れず・・。
一応、主も彼にお仕置きはしているんですけど(寝取った部下の妻パテシバとのの赤ん坊は亡くなったり、領民が殺されたり)、彼が行ってきた殺りく行為、レイプの数々と比較して、どうにも軽い感じがするのは否めない、なんといっても彼自身は無事だし、と思うのは私だけでしょうか??
なんといっても主、神様がおかしいのは、後世の王様を残酷な目にあわせるとき、いつも、都合よくダビデの所業を忘れて
「しかし、我が僕ダビデが私の戒めを守り、心を尽くして、私に従って歩み、私の目にかなう正しいことだけを行った・・」(列王記上14章8節、新共同訳聖書より)
あまり、主に向かってこんなこといいたくありませんが、「アホですか?どこに目をつけてるんですか?」といいたくなります。
一体、ダビデのエピソードで旧約聖書の記者はどんなメッセージを送りたいんでしょうか?主の御贔屓にあずかれば、どんな悪さをやってもOKとか、世の中力がすべて、という身もフタもない不条理な教訓しか読み取れませんが・・。
それにしても、私もダビデのように主の御贔屓にあずかれればなぁ、と思う次第。
よい御年を。
迷える大羊 · 2010-12-31 08:55:50 UTC+9 · 投稿 #538
聖書読んで、イエス様のお言葉について、いつも気になるのは、どこまでが本気?どこまでが冗談?どこまでが譬え?どこまでが挑発、皮肉?なのかが今一つ判然としないこと。
その中でも、特に気になるのは「金持ちの青年」の話(マタイ19章16-30、マルコ10章17-31、ルカ18章18-30)
何がか、というとイエスって私有財産制を否定しているのかな?今でいうところの共産主義者(それも過激な)なのか?ってこと。
それも財産だけならまだしも、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑、みんな捨てろ、といっているのだから穏やかではないですよね。
字句通りに読むなら、共産主義的な平等社会を理想として、しかも、出家のような形で教団みんなが加わることにより実現しようとした、ととれますが。
しかし、出家っていうとオウム(現アレフ)の「出家信者」を連想してしまって、どうにも落ち着かないです。個人的に・・。あと「親兄弟を捨てろ」のくだりは、スターリン政権下のソ連や文化大革命中の中国といった旧共産圏で、「反党分子」は親兄弟であっても告発、密告した歴史を思い浮かべてしまい、ぎょっとします。
もしかして、イエスが処刑されず生き延びていたら、スターリンや毛沢東ばりの独裁者になっていたんだろうか?と失礼かつ恐ろしい想像すらしてしまいます。
それとも、現実には不可能であることは承知で、あえて弟子や、弟子志願の青年の「覚悟」を試す意味で「言ってみた」だけなのか?どう解釈すればいいんでしょうね?
字句通り解釈すれば、高額所得者、セレブのクリスチャンは「あり得ない」話ですし、クリスチャンは全財産を捨て去り、無一文にならなければならないことになりますね。
これですと、十一献金どころの話、騒ぎではなくなってしまいますが・・
りゅう · 2010-12-25 00:05:55 UTC+9 · 投稿 #537
解説ありがとうございました。
カトリック・サプリの中盤くらいに、個人的に異端だと思っているテイヤール・ド・シャルダンの引用があったり、ニーチェが出たりと、かなり疑いながら読んでいました。
ド・シャルダンが否定している地獄は、間違いなく「死後の地獄そのもの」でしょう。
また、解説を受けた今も「神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などない」の表現は良くなかったと思います。
辛いことや悲しいことを経験すると、自分の人生を『永遠の地獄』と思い込むこともある。そのような時「天国の状態にある人」は手を差し伸べる勇気を持とう。
解説を読んだ今は、そのように受け止められます。
しかし、ド・シャルダンの引用があり、その後に『神の愛が永遠だとしたら、やっぱり永遠の地獄などはない。』と言われると、死後の地獄を想定すると思います。
ここで解説してもらえて安心しました。
質問をしたおかげで、新たな良いお話も読めて、カトリック・サプリを二度楽しむことができました(^ー^* )♪
メリー・クリスマス♪
Sekko · 2010-12-24 04:16:06 UTC+9 · 投稿 #536
誤解を与えてすみません。
死後のことは私には分からないので、とりあえず、ここでは、生きているうちに「天国にいるような気分だ」とか「地獄にいるような気分だ」とかいう精神状態の意味だと考えてください。
その前のところで、神の愛の関係性においては生と死とか時空は関係ないと書いたので、死後だとか生きているうちだとか限定しなかったのです。
実はこの部分を書いていた時にははっきりと、LYTTA BASSET という女性牧師で神学者が人間の脆弱さとキリスト教について書いたエッセイが頭にありました。
『LA FRAGILITE faiblesse ou richesse? 』(ALBIN MICHEL)
この人のことは前にも『カトサプ』で書いたことがあるのですが、息子さんが自殺した後でどのように喪を生き、生き続けたかという貴重な体験を語ってくれる人です。
その中で彼女は、ラザロが死んで悲しみにくれているマリアとマルタの姉妹の様子が描かれた福音書のシーン(ヨハネ11)について解説しています。
姉妹はラザロが病気なのでイエスのもとに使いをやって助けを求めたのですが、イエスはすぐに動かず、ラザロは死んでしまいます。姉妹は絶望します。
埋葬後四日も経ってからようやくイエスが到着するのですが、その知らせを聞いて、マルタの方は、すぐに迎えに行きます。ところがマリアは家に引きこもったままです。絶望のあまり、イエスの到着の知らせも耳に入っていなかったのでしょう。
で、先にイエスに出会ったマルタがうちに戻り、マリアを呼んで「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちします。これを聞くとマリアはすぐに立ち上がってイエスのもとに行くのです。
このことからリタ・バセは、人は愛する人を失った絶望の中にいる時には、主の呼びかけも聞こえないことがあるが、そんな時でも、他の人が手をさしのべてくれると起き上がれることがあるのだ、と言っています。マリアが立ち上がることができたのは、自分の意志ではなく、マルトが耳打ちしてくれたからなのです。
愛する人を失うような絶望のどん底で、神の声がきこえない、というのはいわば「地獄」の状態で、そんな時には人はなかなか自力で脱出できません。でも、知らせにとびついて先に駆けつけてイエスの声を聞けたマルタが耳元でささやいたことでマリアに知らせが届いたように、知らせに耳をすましているような幸せな人に助けてもらえれば、誰でも絶望から脱することができるかもしれない、という話です。
思えば、聖人と呼ばれる人たちは、まさにその役目を果たしてくれる方たちなのでしょう。
いわゆる崇敬の対象になる聖人たちはキリスト者の生き方の模範として推奨されているわけです。でも、誰でも、生きているうちに、周りの人よりは元気があるとか余力があるとかいう人、恵み感じているような人は、自分の周りで苦しんでいたりぐったりしたりしている人に声をかけたり助けたりしなさい、と言うことだと思います。それは地獄にいる人を救えるとか救いなさい、という話ではありません。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と、取り次ぎをしなさいという話で、誰でもその役目に招かれているのだと思います。
リタ・バセは、人は毎日寝て起きるように、そうやって、小さな死、喪失を経験しながら、それでも、呼ばれ、陽に照らされ、再び目を覚まし、生き始めるのだとも言っています。(彼女を息子の死という「地獄」から出るようにと導いてくれたのは、聖母マリアでした)
私も、毎日少し落ち込んだりしていても、究極の救いに信頼を置いている人たちのメッセージには励まされて、そのうち、また起き上がることができます。
連載では言葉が足りなくて申し訳ありませんが、この文を補足させてくださってありがとうございました。りゅうさま、みなさま、メリー・クリスマス!!!
りゅう · 2010-12-23 08:29:52 UTC+9 · 投稿 #535
カトリック生活1月号の「カトリック・サプリ」を読ませていただきました。
よくわからない点があったので質問させてもらいます。
「でも、神の愛が永遠だとしたら、やぱり永遠の地獄などない。一人で這い上がれなくても、誰かがきっと手を差し伸べてくれる。地獄にいるときはその手をつかむ勇気をもとう。天国にいるときは手を差し伸べる勇気をもとう。」(カトリック・サプリ 最後の段落)
これは、まだ生きている状況のことを言っているのでしょうか。
それとも、死後の話をしているのでしょうか?
死後の話だとすれば、これは完全に異端説になると思います。
神が救ってくれないなら、わたしたちが救おうと言っているように見えます。わたしたちに人を救う力があると言っているのでしょうか。
人を救えるのは神のみで、わたしたちはそのお手伝いをするだけでしょう。
また、地獄に落ちてしまったなら、それを神の意思として受け入れるのではなく、天国にいる神ではない誰かに助けを求めようと言っていますね。
つまりは、
「救いに関しては、もう神様など関係ない。わたしたちで勝手にやりましょう!」
と言っているように見えます。
上のカトリック・サプリの文章は、とても優しい文章に見えて、実は神不在のまま救いを進めようとしている、とても恐ろしい異端説に思えます。
わたしたちの救いはイエスからのみでしょう。
それとも、主イエス以外にも、「聖Sekkoとその仲間たち」による救いも別にあると説いているのでしょうか?
解説をお願いします。
迷える大羊 · 2010-12-20 22:43:31 UTC+9 · 投稿 #534
お断りしておきたいのですが、別に私だって「いかにも」といったキャラが性器むき出しでナニをしているシーンが露骨なエロアニメ、エロマンガのあからさまな氾濫を肯定しているわけではないですよ。倫理というよりは趣味の問題ですけど。
でも、この手の問題って結局のところ客観的な基準を設けることが難しい、というか不可能じゃないですか。それにそういったものを不自然に排除した社会が本当に「健全」なのかどうか?はなはだ疑問で。
それに「青少年の健全な育成」とはいうけれど、自分の子供時代を省みても、大きなお世話っていうか、子供をあまりにバカにしすぎてないですか?という疑問もありますね。
日本製のアニメやマンガがどうして世界でどうしてウケたのか?というと、いろいろ理由があるけれど、子供だからこの程度でいい、といった「手抜き」がないことがあると思います。つまり、日本製アニメやマンガの登場以前、世界の大抵の国々でマンガやアニメといえば「子供向き」、子供相手だから、この程度の話、なるべく「健全」で「当たり障りのないもの」という呪縛にとらわれていたところが多かった。でも、子供は大人が勝手に考えるほどに世間知らずでも、ものを考えていないわけでもない、自分自身の子供時代を省みても、そういう「手抜き」とか「偽善」は意外とわかっちゃいます。
そんな中、そういった呪縛に囚われない、子供相手だからといって「手を抜かない」ストーリーやクオリティで作り込んだ日本製アニメがタイミングよく出てきた、というところが大きいと思うのです。
例えば、40代以下の日本人、特に男性なら大体名前くらいは知っているアニメに「機動戦士ガンダム」なんてのがあります。ロボットがドンパチを展開するアニメ、ってことで内容を知らないと子供向けそのものに見えますが、宇宙植民地の独立闘争とか、人類の進化とか、中間管理職の立場の苦しさ、あと、なんといっても勧善懲悪ではなく、敵側にも彼らなりの正義とか理想があるし、主人公の側にもずる賢い人物が結構いて、一筋縄ではいかないキャラクターばかり、どうみても大人にならないと理解できそうにないストーリー(少なくとも一部のおバカなハリウッド製アクション映画よりは、はるかに「大人」な内容)にも関わらず、子供たちにバカ受けし、関連商品のプラモデルはデパートで奪い合いになるような大ヒット。
初回放送から三十年経った今も人気は廃れず、「国民的アニメ」になってます。あれが、明るくて「健全」な少年が主人公が「悪い」敵をやっつける内容なら・・、例え子供時代でも観る気なんておきませんね。
今回の規制が東京都限定とはいえ、日本のマンガ、アニメの衰退のはじまりにならなきゃいいけど、と思う次第。日本のマンガが「スーパーマン」みたいな単純、無難きわまりない、「健全」な「勧善懲悪」ものばっかりになるなんて、考えただけでゾッとします。
ここで引き合いに出した、旧約聖書にしたって、いろいろツッコんできましたが、あれが「健全」な内容だったら、さぞかし「つまらない」代物だと思います。聖書解説本の中には旧約聖書(新約もだけれども)の毒毒しい部分はカットして、見て見ぬふりをして、当たり障りのない、誰にでも理解できる道徳的な部分しか紹介しないものがありますが、一体、何を考えているんだろう、と思ったりします。実際、それではキリスト教、ユダヤ教は単なる「道徳」とは似て非なるもの、という本質的なところがわからなくなるんじゃないでしょうか?
Sekko · 2010-12-20 07:23:17 UTC+9 · 投稿 #533
東京都の条例って言うところが、知事さんのキャラやキャリアから考えてなんだか、笑える感じがしますね。彼の昔の小説なんかは映画化はされてましたけれどマンガやアニメはなかったんですね、きっと。
そう言えば私は前に、旧約聖書のマンガ化について監修などのお話を相談されたことがあります。でも、そういう細かいこと考えつきませんでした。
よく猥褻物の基準として「劣情を刺激」というのがありますよね。あれもなんだか笑えますね。別に肯定的とか賛美とかじゃなくとも、否定的でも「劣情を刺激される」ことはシチュエーションによってあるでしょうけど。
そういうことを言い出したら、なんでも、マンガとかアニメでビジュアルに表現してしまったら、想像の余地は減ってしまって、タブーの持つ刺激も少なくなるんじゃないかなあ。
まあ、年齢やシチュエーションによってはもう何をどのように見ても聞いても読んでも劣情を刺激されちゃう人もいるでしょうし、そんな心配をするなら、青少年の鬱病や自死の問題の対策を立てる方が急務のような気もします。
後、キリスト教圏の人がどうこう言うよりも、すごく正直に言って、劣情を刺激するだけの表現テクニックなら日本人の方がはるかに進んでると思いますよ。屈折しているのかなあ。ラテン系の人とか一般に単純だと思う。普通のフランス艶笑ジョークとか、日本人には全然おかしくないと思うのは私だけなのかなあ。もちろん頽廃的で倒錯的なすごい文学もフランスにはあるわけで、あくまでも平均レベルの話ですけど。
個人的には、あまりにも進化した日本製のひどいマンガやアニメがフランスに入ってくるのは嬉しくないですし、私がもし、妻とか娘とか恋人とかを愛する男だとしたら、ものすごく嫌だと思います。そういうものがあるからこそ、何が嫌なのか、とか、自分が大切にしたいのは何なのかとかを気づかせてくれるという面もありますね。
迷える大羊 · 2010-12-19 13:03:37 UTC+9 · 投稿 #532
>確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。
確かにレビ記では主はモーゼに近親相姦はダメって言ってますね。でも、あからさまにそのタブーを犯している連中(サラはアブラハムの妻であると同時にアブラハムの父テラの妻でもある)に何のおとがめもないですし、親子で交わったロト父娘に対しても主より非難やお仕置きが加えられた形跡は・・。
それどころか、「オナニー」で有名なオナンが交わるべき相手は兄貴の嫁さんですし。ダビデなど部下の妻に横恋慕し、風呂をノゾき、ものにして、旦那は職権でもって最前線の戦場に送りこみ戦死させ・・、鬼のような男ですね(でも、マタイの福音書ではイエス様のご先祖)。ダビデに対しては一応、お仕置きはあるにはあるんですが、何にもやってないヨブが悲惨な目にあわされていることを考えると、随分、罰が軽いっていうか、エコひいきされているよな、やっぱり、アウト、まずいなぁと個人的には思います。
まあ、「マンガ」にしなけりゃいいんですけどね。しかし、エロマンガ、エロアニメ、その他エロ本の流通と青少年の「健全」な育成だのって本当に何か関係あるんですかね?
こんな「聖典」を常日頃読んでるクリスチャン、ユダヤ教徒、ムスリムは「変質者予備軍」なんでしょうか?
大体「肯定的に描写」しているかどうか?なんて誰が何の基準を元にして判断するつもりなんですかね?
そもそも、条例でいう「健全な青少年」というのがどういう定義なのかわかりませんが、条例の内容を鑑みて、とりあえず性犯罪を犯さない青少年、と定義することにして、未成年の性犯罪ってそんなに増えているのか?統計、データをあたってみましたが、そんな傾向は全然見当たらない、むしろ近年はえらい勢いで減ってますけどね。
http://www.npa.go.jp/toukei/keiki/hanzai_h21/h21hanzaitoukei.htm (平成21年の犯罪(警察庁))
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Rape.htm (少年によるレイプ統計、未成年の強姦犯検挙人数と少年人口(10歳~19歳)10万人あたりの比率、元ネタはやはり警察庁統計書)
ただ、これらのデータは日本国全体を対象にしたデータで、「東京都のみ」に絞ったデータは発見できませんでした。また、エロマンガ、エロアニメとの因果関係を調べたデータも今のところ発見しておりません。
東京都側、現都知事側でそういうデータを持っているのかもしれませんね(棒読み)。
異邦人ヨハネ · 2010-12-18 17:41:59 UTC+9 · 投稿 #531
確かに旧約聖書には人間の悪い行いが書かれていますが、それらを「肯定的に描写」しているのでありませんから、条例違反と判断されることはないのではありませんか。
迷える大羊 · 2010-12-16 22:21:44 UTC+9 · 投稿 #530
以前から、現都知事が熱心に制定を推進していたこの条例、ついに今月可決されました。それと、キリスト教、宗教に何の関係が?ということは後述するとしまして、とりあえず、この条例がなんなのか?と申しますと・・・。
『非実在青少年』(18才未満の登場人物)の性行為をみだりに性的対象として肯定的に描写した漫画など」を「自主的な区分販売」とし、成人コーナーにしか置かないようにするよう自主規制、です。
この「非実在青少年」というのが基準があまりにあいまい、との反発をマンガ家、出版社側から受け、「非実在青少年」の言葉が削除し、「刑罰法規に触れる性行為や、婚姻を禁止されている近親者間の行為を、不当に賛美・誇張して描いた漫画など」の表現が加え修正、めでたく?今月条例成立と相成ったわけです。
まあ、この条例については賛否両論いろいろあるでしょうが、その辺はとりあえず脇に置いといて・・。
個人的に気になるのは、この条例によれば、旧約聖書の「マンガ化」はアウト、思いっきり「成人指定」の範疇に入ってしまうんじゃないのか?近親相姦、ノゾキ、レイプ、親子どんぶり・・などなど、「健全な青少年の育成」に「有害」な要素がテンコ盛りやないか!とふと考えてしまったのですが・・。
これから東京都下のキリスト教書店などにおいてもマンガ化された聖書本は、一般の神学本、エッセイとは隔離して「成人コーナー」に置かないとならなくなるんですかねぇ?あと、日本を代表する古典文学「源氏物語」も相当にヤバいんじゃ?
これも、マンガ化されたものは今のように呑気に一般の受験本と並べて陳列、っていうのはダメなのでしょうかね?
あと旧約聖書が日本・東京で「成人指定」を受け、エロ本扱いされた場合、イスラエルあたりを筆頭に世界の一神教の国々がどのような反応を示すかも気になるところですね。
しかし、個人的には「青少年健全育成」(偽善ぽくて嫌いです、この言葉)に「有害」なコンテンツは他にいくらでもあるだろうに、なんでマンガ、アニメなんでしょうね?とりあえず、叩きやすいところから叩いてるとしか思えないんですが・・。そもそも、エロマンガの流通と「青少年健全育成」だの、実際の性犯罪だのに本当に何か関係あるんですかね?
旧約聖書についても、やれ性的に乱脈だとか、矛盾しとるやないか、と散々ツッコミを入れてきましたが、あれが、やたらと「清らか」で「健全」で単純な「勧善懲悪」な話ばっかりだったら・・・。確かに理解はしやすいかもしれないけども、恐ろしく単純で図式的な、感動的ではあってもどうにも底の浅い、それこそ「マンガチック」な有様にとっくに飽きがきて白けきってるかもしれませんね。
先生はじめ、皆さんはどうお考えでしょうか?
arikui · 2010-10-11 06:49:08 UTC+9 · 投稿 #529
Sekkoさま
御礼が遅くなり誠に申し訳ありません。丁寧なご回答ありがとうございました。
>長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になる
ことのベネフィットについては同感です。
問題は「受け入れる」カトリック教会の組織の柔軟性ですよね・・・
Sekko · 2010-09-25 23:48:08 UTC+9 · 投稿 #528
そうですね。でも、「司祭が足りないから、アフリカから招く」という単純なものでもないです。人口に対する司祭の割合は今でも、フランスはアフリカよりも多いです。
カトリックでは司祭に叙階される時、特定の司教区か修道院などの所属が決められます。Incardination といいます。五年間以上別のところで働いたら変更も可能だそうです。で、昔はどの小教区にも、所属の司祭がいたんですが、今は、老齢化して、フランスの小教区所属司祭の半数以上が75歳以上です。75歳が一応定年なのですが、司祭不足なのでその半数は現役です。というより、健康状態が許す限りみな続けるようです。
Pontoiseの例で、181人の司祭のうち、62人がincardineされた人、68人が、他の司教区所属の人(たとえば別の場所の修道会に所属しているとか、企業で言えば出向 立場)、51人が外国人司祭となっています。
アフリカ人が多いのは、たとえばコンゴなど旧ベルギー領のカトリックがマジョリティの国とかでは、フランス語が公用語だし、フランス語系修道会が根強いので、フランスやベルギーの神学校に入って司祭になる人も多いからです。つまり、言葉を含めて歴史的に関係が深いからです。
後は、EU拡大で、ヨーロッパ同士の行き来が自由化したこともあり、司祭の数の多いポーランド人司祭がたくさん来ています。人口の規模からいっても、ポーランド人司祭が外国人司祭の中でも多いようです。
確かに昔は、教育の質のために神学校に行く人も少なくなかったし、一家に一人は聖職者を、という傾向もありました。カトリックの聖職者は独身なので、甥や姪たちにとって持続したスーパーバイザーとしてよりどころになったという側面もありました。
今はブルジョワのカトリック家庭の子女のグループなどをのぞいて、若くしてカトリックに深くかかわる青年は少ないです。全体として精神的な危機にあたって救いを求める若者はカルト宗教や福音派などマーケッティングがうまいか積極的なグループへと向かいますし、カトリックでも教条主義的なグループとか、「キリスト軍団」のような使命感に燃えたタイプのグループに近づくことが多いです。
これは、カトリックだけが衰退したということではなくて、今は情報も多く、若者のモラトリアムが許される時代でもあり、すべてについて、昔のように若いうちに「社会での立ち位置を決めて引き受ける」という傾向が減ったことの一部でもあと言われています。昔はたとえば、労働組合の所属は基本のひとつでしたし、結婚も標準でした。今のフランス人は子供は作っても、結婚率はすごく少なくなってます。組合参加率も。
でも、ある意味で、長い家庭生活を経てから結婚するとか、他の職業を経た後で使命を自覚して聖職者になるとか、自覚的な選択が可能なのは悪いことばかりではありません。
親が子供の選択をリスペクトする率は日本より高いと思います。
arikui · 2010-09-24 23:50:54 UTC+9 · 投稿 #527
はじめまして。
フランスの事情に詳しい竹下節子さまに伺いたいことがあります。
最近テレビでフランスでカトリックの司祭・修道女への志願者が激減していて
教区でミサを行い続けるためにアフリカから司祭を招いているというニュースを見てびっくりしました。
世界全体の潮流とはいえ、フランスでさえそうなのか・・・という感じです。
かつては一家から聖職者を出すことは「誇り」のようにとらえられていたと思うのですが(或いは貧しい家庭の秀才にとっては勉強を続けるチャンスという)今のフランス人家庭にとって子供が司祭・修道女を目指すということはどういうとらえ方なのでしょうか?
Sekko · 2010-09-19 00:39:46 UTC+9 · 投稿 #526
「匿名希望」さま
>竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、無神論という本を書かれたのですか?
そんなことはまったくありません。そう読めたとしたら、私の力不足です。
キリスト教の歴史の中でも、他の宗教もそうですが、どうしても人は「自分」や「自分の家族」や「自分の共同体」の損得や都合によって、神も宗教も変質させていく傾向があり、けれども、それに対して、いつの時代にも、エゴイズムを離れた刷新の力もまた生まれるもので、それによって、「既成宗教」もまた、自分を見直していく、そういう繰り返しだと思います。
キリスト教の中には、人と人が支配関係や依存関係を維持するのに都合よく作られた偶像を破壊する力があると私は思います。(別に他の宗教にはその力がないという意味ではありませんが。)
逆に、キリスト教と称していても、キリスト教信者と称していても、弱い立場の人を従属させたり依存させたり無視したりする個々のケースはあるわけで、そういう場合は、名前が「キリスト教」だからといっても、本質は遠いところにあると思います。たとえ「無神論者」と称している人でも、今目の前に倒れている知らない人をすすんで助けるとしたら、倒れている人にとっては、道路の反対側に渡ってしまうキリスト教信者よりも、「隣人」ですよね。福音書にあるとおりです。
結局は、一人一人が、実際にどうやって他者とかかわって行くかという毎日の実践が問われていると思います。
その意味で、「キリスト者」だと言われるかどうかよりも「隣人」だと言われるように生きたいですが、難しいですね。
匿名希望 · 2010-09-18 05:51:38 UTC+9 · 投稿 #525
節子さんの本「無神論」を読みました。
具体的に色々書かれていました。
竹下節子さんはキリスト教が嫌になったので、
無神論という本を書かれたのですか?
あがるま · 2010-09-18 03:09:21 UTC+9 · 投稿 #524
日本での学位論文だと云ふ今村純子『シモーヌ・ウェイユの詩学』(慶應大学出版会)にも同じやうなテーゼがありました。
どうやら美女にとつては不幸は美に繋がつてゐるらしい
<認識を阻む不幸の直中で美的感情が溢れ出るところに至高の自由が開かれてゆくウェイユの形而上学において、詩といファクターに着目するならば、私たちは、創造的想像力が構築した『架空の世界』を、すなはち、けつして経験してえない、『無』、『真空』、『ないもの』を、現実の非実在性として認識してしまつてゐるといふ『不思議さ』のうちにある。p.26>
この引用文では難解のやうですが、この本はとても読み易くて博士論文としてのアカデミックな骨格が不足してゐやうにも思はれます。
Sekko · 2010-09-10 01:44:08 UTC+9 · 投稿 #523
スルーしようと思いましたが匿名希望様にひと言。
私が「復活が不思議、何が起こったんでしょう・・・」と書いたのは、復活についてのその後の言説や教義のいろいろな面における他の宗教との影響などとは何の関係もありません。
キリスト教はユダヤ教と同じくエジプトやバビロンの宗教の神話や典礼の影響を受けていますし、キリスト教が成立するにあたって、別の宗教との置き換えを意識して典礼暦を整えていったのもよく知られた事実です。
キリストの誕生日を冬至に合わせることに決めた時には、太陽暦の修正法が確立していなくてすでにずれていて、それを修正したにもかかわらず、冬至が21日になっている現在との日付の差は残ったし、夏至も確か同じ理由で聖ヨハネの祝日などがずれたと思います。比較宗教史学はいろいろな興味深い研究がありますから、ネットで拾った安易な「真実」みたいなものは、一人で楽しむだけにしてください。
歴史研究とか比較研究とか、考古学とか文献考証学とか、何世紀も何世紀も、碩学の先人が積み上げていますが、ある特定の宗教への帰依とか信仰の真実というものは、それらとは別の地平にあるものだと思います。
キリスト教について言えば、「唯一神がすべてを造り、人は復活して永遠に生きるキリストの体として一体である」というぎりぎりのところを押し詰めれば、キリスト者の使命とはすべての人の兄弟となることだ、と理解できるようになったという神父がいます。こういうシンプルさは大好きです。ここでいう兄弟とは、互いに相手の必要に応じて助け合う存在、という意味でしょう。
誰でも、どこか痛い時には、疾患や療法についての知識の披露を聞くより、痛いところにそっと手を当ててもらうとか優しい言葉をかけてもらうことを望んでいると思います。ここはどちらかというとそういう場所にしたいです。
グドウシャ · 2010-09-08 05:27:06 UTC+9 · 投稿 #522
Sekkoさま、親切なご回答をありがとうございました。とくに、ご回答の中にもありました地縁の影響を再考し、見聞など他者との出会いの中で自分の関心をさらに推し進めていくかを考えていきたいと思います。
聖書の読み方についてもたいへん参考になります。ありがとうございます。
このサイトが続いていくことを願っています。
匿名希望 · 2010-09-07 05:02:08 UTC+9 · 投稿 #521
「2000年の歴史があるキリスト教ですが、
イエス・キリストは実在していましたが、
受難と復活の出来事は、
古代エジプトなどの太陽神を真似て作られたそうです。」
キリスト教は捏造? から引用しました。
http://nowsmartsoft.blog121.fc2.com/blog-entry-48.html イエスと同時代に流行っていた「ミトラ教」とキリスト教には非常に多くの類似点がある事は最近知ったばかりなのですが、この動画内でも述べられています。さらに、エジプトの「ホルス神」との類似性についても述べられています。類似性があるというより、その「複製(コピー)」だとか?
処女受胎した聖母から生まれ、12月25日の三日前(?)に死んで、その三日後に復活するというような話は、キリスト教以前の他の多くの宗教と共通しているそうです。そしてなぜそのような共通点があるのかという事に関しては、天文学的に12月22日に太陽が出ている時間が最も短くなった後、22日,23日,24日は、「停滞し」、25日以後、一度づつ太陽の位置が回復していくとか、そんな感じのことが言われています(一度見た記憶だけに頼って書いており、曖昧です)。この時の 22,23,24 の三日が復活前の三日間に相当するのだとか。
オリオン座の腰の三つ星とシリウスとが載っている直線と地平線が交差する位置に太陽が昇る日が丁度12月25日で、シリウスが新約聖書のイエス生誕の日に出てくる有名な星で、オリオン座の三つ星が、「三博士」、太陽がイエスを表している。つまり、キリスト教は太陽信仰に他ならないとか。ちなみに、ホルス神も太陽神なので、キリスト教がホルス信仰の複製なのだとすれば当然なのですが。
ほかにもイエスが行ったとされる奇跡と同じ奇跡が、やはり、キリスト教以前の宗教の伝説にも存在していたとの事。
キリスト教のシンボルの十字架は「南十字星」から来ているとのこと。これに関しては、イエスが処刑されたとき、イエスが張り付けにされたのは単なる一本の棒であり、二本の棒(複数本)であるところの十字架ではあり得ないという説を聞いたことがあります。
ツァイトガイスト パート1(動画を見て下さい)
http://video.google.com/videoplay?docid=1431037135738418803&ei=2t3KSvWhDI3-wQPj-MmYAw&q=%E3%83%84%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88+%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%881#Sekko · 2010-09-07 01:50:04 UTC+9 · 投稿 #520
まず、宗教としてのキリスト教を信じるとはどういうことかについて。
私が合意する見解は次のようなものです。
唯一創造神が万物を造った。
ナザレのイエスが生きて十字架上で殺され、復活した。
ナザレのイエスが救世主である。
このみっつを信じて受け入れることでしょう。これが宗教としてのキリスト教の必要最低限の根幹だと思います。
後は、教義(とそこから派生する典礼)の違いによって宗派の違いがあります。それは歴史的、時代的、文化的、民族的、地政的ないろいろな要因によって形成されてきたり分かれてきたものなので、どれが正しいとか異端とか言えるものではないと思います。
三位一体の教義は、わりと本質に迫ると私は感じます。神が人となったとか、復活による永遠の命とかいうニュアンスを理解するためにはなかなかすぐれものだと思います。
後は、いわゆる信仰共同体というものの問題があり、普通の人は多かれ少なかれ「家の宗教」や「地域の宗教」の土壌や習慣の中で生まれ育つわけで、それは特定の宗派や人間関係や、多分権力関係とか、支配従属関係と無縁ではないでしょう。そういうものとどう折り合って、ほんとうに納得のいく「救い」を求めるのか、別の共同体を探して模索するのか・・・あるいは宗教書や人生読本を読んで自分の安心立命を得るのか、どの宗教でも尊敬できる師のような人と出会って私淑するのか、いろいろな場合があると思います。
私がキリスト教が好きなのは、創造主とか復活がどうしたというところは、まあ、判断できないというか考えてもしょうがないのでスルーなのですが、自力本願や修行とか悟りとか解脱とか、自助努力、刻苦精励、進歩向上系が個人的に苦手なので、「えっ、偉いはずの神さまが辱められて抵抗されずに殺されたんだって? そんなんでいいのか・・・」というナザレのイエスのラディカルな悲惨さに惹かれるからかもしれません。だから、復活というミステリーが光ります。いったい何が起こったんでしょう・・・卑怯だった弟子たちがそれで一転して「福音」を述べはじめたのですから。
偉い神さまや仏さまがいても、それは弱い衆生とは所詮別世界、その偉い神仏の助けを得るにはそれなりのプロの仲介者を経て、規則を守って精進しなくちゃいけない、というシステムは、ある程度自信があって元気でないときついものがあるような気がします。
救われる条件らしきものをイエスが言ったのは、とりあえず自分より困っている人や弱い人の役にたつようにしなさい、ということなので、それを心がけるくらいならなんとかできるかなあ、という感じです。
で、この、弱い者の側に常に立ってればいいことや、自分は弟子たちからも一度は見捨てられてしまったイエスが救世主だという逆説的な教えのおかげで、キリスト教は本質なところで弱さの中での「神人一如」の部分があって、親しみが持てます。すごーく立派なリーダーやカリスマを崇め奉らなきゃいけないというのも苦手なもので。
あ、もちろん、キリスト教の中にも禁欲苦行する人とか自分に厳しい人たちもたくさんいるわけで、人のタイプや文化や時代によってどの宗教でも似たようなヴァリエーションがあるのも事実です。
そんなわけで今のところ私自身は精神的にはあまり悩んでないので、その余裕の部分でどなたかのお役に立てることがあればいいと思ってこのコーナーを存続させています。
聖書の読み方ですが、私の体験では、気にいっている著者や研究者や宗教者や雑誌などが、その都度、トピックを解説してくれるようなものが好きです。自分で読んでいるだけでは全然見えないことが見えてくるし、語句もそうですが、前後の文脈によって納得のいくこともあるし、文字通り「目から鱗」の説教や解説にもたくさん出会えました。
聖書の中で好きなところや気になるところについて、解説書を読み比べて見て、いちばん共感の持てるものを選んで他の部分も読んでいかれたらどうでしょう。翻訳の問題の深みにはまってあれこれ考えるより、魅力的な先人が幸いたくさんいるのでいろいろ参考にしたほうが楽しいと思います。聖書だけいきなり一人で読んでも見方によっては突っ込みどころが多すぎると感じるだけになりかねませんから・・・
自分の言葉でちゃんと語ってくれる解説がいいですね。また、それこそ「神も仏もあるものか」って状況(十字架上のイエスもそうだったかもしれません)にある人が聖書を生きるよりどころにしている場合の文章には心を打たれます。
無料で敷居の低い「聖書勉強会」などでもすばらしいものもあるようです。私は若い頃に日本にいた時は「聖書研究会」なんて言われると即カルトの勧誘かと警戒しましたが、あるいはジョークの通じない悩める人たちの集まりかと敬遠しましたが、いい場所でいい人に出会えれば、一人で本を読むよりも豊かな経験ができると今は思います。
グドウシャさんが「道」を見つけられることをお祈りします。
グドウシャ · 2010-09-06 21:06:40 UTC+9 · 投稿 #519
自分としては、「この世が苦しく、来世というものがあり、そこでは苦しみなく平安に暮らせる」とか、楽観的にある宗教に没入することで現在でも「すでに救われている」状態になることかと思ったこともあります。
また、聖書はどの訳を読んでいけばいいでしょうか。よほど詳細な注釈とかがなければそうそう簡単には読み進めないと思われるのですが。日本の古典文学で、文庫本でも詳細な註がついているのですから、日本聖書協会訳ではまず無理ではないでしょうか。
グドウシャ · 2010-09-06 20:47:56 UTC+9 · 投稿 #518
宗教を、あるいはある特定の宗派を信仰するとはどういうことでしょうか。
たとえば、キリスト教を信仰するとはどういうことでしょうか。「キリストを善美な人間の理想と掲げ、この理想に沿うこと、あるいはそのキリストに倣う生き方をするために、それまでの自己を否定することを求めること」という人がいます。そのほかにも、イエスを救い主と信じることとか、神と信じるとか、三位一体を信じるとか、復活を信じることとか種々聞きますが、sekkoさんが説明してくれるとしたら、どのようにしていただけますか。
自分はキリスト教に関心がわき、近づきたいと思っていますが、どうも信仰するということがわかりません。また、キリスト教には東方正教・カトリック・プロテスタントなどあり、なにかそれぞれから見ると、それぞれが異端ではないのかといっているような感じがあります。
宗教を信仰するとはどういうことか、キリスト教を信じるとはどういうことか、なぜカトリックを信仰するのか、なぜプロテスタントを信仰するのかなどわかるような書物はありますか。
Sekko · 2010-08-03 15:30:11 UTC+9 · 投稿 #517
そういうプライヴェートな事実関係の質問の場所ではありません。
ご理解ください。
カトリック千里ニュータウン教会には行ったことがありません。
どこそこの所属とかの枠で縛られる人間関係はできるだけ避けているのでよろしくお願いします。
セバスチアン · 2010-08-03 15:20:21 UTC+9 · 投稿 #516
竹下節子さんについて質問します。
marie josephineさんの書き込むを見ましたら、
竹下節子さんは、カトリック千里ニュータウン教会の信者らしいですが、
本当ですか?
sekko · 2010-08-02 11:23:41 UTC+9 · 投稿 #515
このような形のご質問にはお答えできません。他の質疑応答サイトをご利用ください。教科書的なもの、哲学のレポートなどの参考になるような答えはネット上で検索すればいろいろ出てくると思います。ここでは、いろいろ当たった末でどうしても自分はこう思うけれど私の意見も聞きたい、一緒に考えてほしいというタイプの質問のみ受け付けます。タイトルの下の説明文を参考にしてください。