1 2 3 T.M · 2010-07-30 10:19:10 UTC+9 · 投稿 #514
ニーチェの言う権力は結局人間的なものとうけとれるのですが、 フーコーの言う権力とは何ですか。簡略に示していただけないでしょうか。
Sekko · 2010-07-06 08:49:08 UTC+9 · 投稿 #513
ようやく新しいサイトができました。まだ工事中の部分もありますが、このサイトの記録はほとんど残します。新刊のお知らせもあります。
この掲示板にはForum2というところからいままでどおりリンクできますので引き続きお使いください。 新しいアドレスは
http://setukotakeshita.com/ です。
Sekko · 2010-06-25 01:59:32 UTC+9 · 投稿 #512
ご愛読ありがとうございます。 私は人間のあり方は、どんな人でも、自分を超えた世界、つまり自分の以前にあったものとか自分の後に来るものとか、あるいは同時代的でも会ったことのない人や見たことのない場所とつながっていると思います。それがはっきり感じられるとか、亡くなった人や別の世界とチャネリングできるようなこととは別に。 見ないで信じるものは幸いである、というように、見たり聞えたり感知できなくても信じられることはあるし、逆に、見たり聞えたつもりでも錯覚や勘違いや自分の願望の反映や病気ということもあるし、また、信じられなくても期待はしたい、ということもあると思うんですよ。 特に、見えない世界に善意とか肯定的なもの(信じれば救われる、とか、誰かに愛されているとか・・)を期待できれば「だめもと」で信じようかってことになるし、反対に、見えない世界に悪意とか否定的なもの(信じなければ罰が当たる、とか、誰かに呪われてるとか)を見て怖れれば、危機管理的に信じようかってことになるかもです。 私は甘言も警戒しますが、脅しの言説がさらに嫌いなので、「信じなければ大変なことになりますよ」とか言われるのは、私にとっての「神」のイメージではないですね。人生で自分で対応できない出来事の前で「怖れなくなる」というのは、信仰の一番のポイントだと私には思えます。 それに比べたら、霊感があるかどうかなんて、体質みたいなもんです。いや、この世を生きてるうちは、そういう感性は、普通、ある程度封印しているようにできているんだと思いますよ。そういう感性をちゃんと管理できて人のために役立てられるような能力はまた別で、普通の人は、堅実に、別の具体的な形で大きな善意とつながった方がいいと思います。 霊感は多くの場合一種のアクシデントみたいなもので、それがある人はいい方向に養い、ない人は「ある」と公言する人の言説にあまり惑わされない方がいいと思います。これは私が『カルトか宗教か』以来追求してきたテーマでもあり、7月8日には、その系列で、ベスト新書で『陰謀論にダマされるな!』という本を出しますので、ご一読下さい。私の中では『無神論』とセットになっているんですよ。でも新書だし読みやすいです。またご感想をお聞かせ下さい。
中島 昌(あきら) · 2010-06-23 16:51:23 UTC+9 · 投稿 #511
初めてメールします。東京で宗教や哲学など素人の立場で学んできた者です。多くの課題がありますが、じょじょにお尋ねできればと思います。先生の「無神論」の著書は、未だ深読みしていませんが、私は有神論の立場です。そこで、先生は歴史的に無神論の系譜をたどっておられるのですが、人間は根本的に何故目に見えない存在に対して、2つの系譜が出てきたと思われますか?聖書的に考えれば人間は堕落して、神との関係が切れたからと言えるかも知れませんが、それではまだまだ抽象的かと思います。世の中には、霊感性に優れた人がいますが、何故そんな人やそうでない人がいるのでしょうか?私もそうした霊的感性が開かれなければ、霊界の存在も分からないし、益して神の存在ははるか遠くの課題かと思います。尤も、最近はご存知のようにID理論が出てきて、有神論に力を加えているかと思います。竹下先生は、中立的立場かと思いますが、本の最後に、神が人間を信頼できる場所を人間の心の片隅に開けておく時代になっても良いのでは・・・と書かれています。そう思います。そうした態度に加えて、やはり人間の感性的無知や霊感性が問われるべきかと思いますが如何がお考えでしょうか?
あがるま · 2010-06-20 02:41:16 UTC+9 · 投稿 #510
お蔭様でパトチカならぬポトツキ伯爵(1761- 1815)と云ふ奇人を知りました。 彼がフランス語で書いた『サラゴサ手稿Le Manuscrit trouve a Saragosse』は映画にもなつてるさうですね! パスカル・キニャールを知つたのも最近です、マラン・マレとサント・コロンブの話も面白さうですね - DVDも千円程度なので機会があれば。
Sekko · 2010-06-17 19:13:05 UTC+9 · 投稿 #509
huyuharuさん、あがるまさん、留守にしていて失礼しました。 気にしていたんですが、コンサートと、日本に行く前に片付ける仕事とで、手いっぱいでした。その上にネコの介護をしているんです。末っ子が、乳癌の手術をして、うまくいったんですが、目が見えなくなりました。ストレスなのか、脳転移なのか分らず・・ この質問には、あがるまさんが回答してくれるだろうなあって、ちょっと期待してたんで、助かりました。ありがとうございます。 この質問箱は、別に哲学の問題について教科書的な解説やオールラウンドな質問を受けているわけではなく、なんていうか、私の経験や知識とかで役に立つことがあればお返事しますということなので、特に信仰とか死生観についての話なら役に立てます。 それに、カントと比べるわけじゃないですが、私の自分の本でも、同じ本の中でも別の本でも、同じことなのに一見して矛盾している記述があり、それは、文脈によるもの、自分の意見が進化したもの、逆説的なもの、など、いろいろな場合があります。カントのこの部分も、考えていくといろいろ厄介で、簡単に答えられないんです。最近講談社の広報誌『本』5月号で、野矢茂樹さんの『自由という相貌』という記事を読み、そこでも、因果律について、自由と決定論は両立するカという、非常に面白い話が展開していました。論理だけでなく、そこに相貌や物語という考えを導入するのはすごく納得がいきます。 あがるまさん、クリマに引き続き興味を持ってくださってありがとうございます。必要なら、エリカに直接コンタクトされた方が早いです。私が転送しますよ。英独仏語(もちろんチェコ語も)OKです。
huyuharu · 2010-06-17 17:04:41 UTC+9 · 投稿 #508
お陰さまで腑に落ちたように思います。 また質問させていただくと思いますが、その際にはよろしくお願いいたします。
あがるま · 2010-06-10 12:09:31 UTC+9 · 投稿 #507
『ル・グラン・ロマン』を読み始めたと聞いて『細かい活字で大判600ページもあるあんな長い小説を良く読む気になる』と呆れましたが、4月にパリに寄つた時にrue des ecolesの私が必ず行くGalerieDeLaSorbonneなどで半値で新しいものを手に入れました。 改訳全集が出るので20年ほど前の本が安く手に這入るのだと納得。 気になるのは1904年の哲学上の主著と見られる『意識と無としての世界』ですが200頁ほどのこの本はネットで見ても20ユーロと結構高い。 一年前の1903年には同じオーストリ・ハンガリー帝国ではO.ワイニンガー『性と性格』も出版され著者のピストル自殺にもより600頁もある大著なのに世界的大ベストセラーとなりました。 ウィーンに行つてフロイトの診療所とワイニンガーが自殺したベートヴェンの部屋は同じ大通りに面し距離も2ブロックほどだつたので驚きました。 新宮一成『夢分析』と言ふ新書本を見てゐたら『我々は実際に夢を見るから万能感と世界創造感を得られる』とありました。 11.01.10
あがるま · 2010-06-06 14:25:31 UTC+9 · 投稿 #506
アプリオに演繹可能(つまり原因から誤謬なしに結果を導出)な純粋命題であるか、それてとも経験則(結果から原因に遡る)てあるのか?と云ふことですが、如何にして純粋思考の形式(純粋悟性形式=カテゴリ)を経験の対象に適用できるのかにはカントも苦労し法律家の論理を適用するしかなかつた。 ヒュームにより経験則としての因果律が否定され、しかし外界の存在を肯定するのは経験・感性しかないのですから、カテゴリーとしての因果律は慥かに成立し、しかしその対象の実在は感覚・経験が証明するといふ二重構造になるのでは。
huyuharu · 2010-06-03 22:43:01 UTC+9 · 投稿 #505
純粋理性批判を、光文社の中山元訳で読み始めたところです。 「005アプリオリな認識と純粋な認識」の項に以下の記述(A)があります。 『そして、アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を、純粋な認識と呼ぶことにしよう。だから、たとえば、「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。』 また、 「007アプリオリな純粋判断の実例」の項には次のような記述(B)があります。 『人間の経験のうちには、このように必然的で、厳密な意味で普遍的である判断、すなわち純粋でアプリオリな判断が実際に存在することを示すのは、たやすいことだ。【自然科学からその実例を引き出すとすれば、数学のすべての命題がその好例となる。】日常的な知性の利用のうちに、こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう。この命題で使われている原因という概念には、原因が結果と結びつく必然性という概念と、この[因果律という]規則が厳密に普遍的なものであるという概念が明らかに含まれているのである。』 素人目には、ひとつの命題に対して「A-純粋命題ではない」「B-純粋命題である」と、異なる記述がなされているような印象を受ける、つまり、上の2つの記述は矛盾しているように感じるのですが、納得させていただけないでしょうか。
marie josephine · 2010-05-10 19:04:55 UTC+9 · 投稿 #504
大好きなせっこ先生 ヨセフのひにうまれ クリスチャン である 神の道、、、 ブルカルト神父 がだいすきで みんな しんぷさまがたがすきです。 守られてて あい を感じます。清らかな あい 祈っていただいてること感謝でいっぱいです。 引きつずき お歌 でお人に喜んでもらえるよう 生きがいとして邁進します。 スクルス神父様は せっこ先生の大ファン 父であるヨセフ の御本 すばらしいでした。 才女 のせっこ先生が そんなときがあったんですね。 また 素晴らしいアドバイス よろしくお願いたします。 神に感謝
Sekko · 2010-05-10 05:35:00 UTC+9 · 投稿 #503
声楽をなさったり、お年寄りに喜んでもらえたり、すてきですね。 スクルス神父さまたちと出会われたのもよかったですね。私が最初に会ったfrancophone の神父さまは1970年代、アテネフランセのアヌーイさんでした。フランス語がうまくないのにフランス語で卒論を書かなくちゃいけなくて、だれも見てくれるあてがなかったので、突然アヌーイさんにタイプ原稿を持っていったんです。教会はもちろん個人的な関係はまったくなかったのに。私がよほどおどおどしていたらしく、サンタクロースのような風貌のアヌーイさんは、原稿を受け取ると、にっこり笑って、「もう大丈夫、僕がいるからもう大丈夫」と言ってくれました。忘れられません。 あと、楽器演奏なんかそうなんですが、いくら練習しても、あるところまでいってどうしても壁に突き当たる曲とかがあります。そんなとき、無理強いしないでちょっと休んで他の曲とか弾いていて、しばらくぶりに前の曲を弾くと、練習していないのに、壁を超えていることがよくあります。私たちはこれを「熟した」と表現するんですが、多分かってに熟したんじゃなくて、練習してなかった期間にも、頭の中でその曲を反芻していて、それが「聞こえてくる」のをキャッチしようと自然に耳をすませていたのかもしれません。 信仰の形とか共同体との付き合い方とかにもそういう面があるのではないでしょうか。今の形にこだわらなくとも、耳をすませていれば、また「熟した」形で自然に共同体と連帯できる日も来るかと思います。 神父さまたちはきっと祈っててくださってますよ。
Sekko · 2010-05-10 03:57:12 UTC+9 · 投稿 #502
ご愛読ありがとうございます。励みになります。 そう、マジョリティに落ち着いている時って、一見救いとか必要ないような感じなんですが、そのこと自体でマイノリティの人とか、自分の部分の弱い部分にも目をつぶってしまうことがあると思うんです。今無心に遊んでいる子供や若者でも、やはり自分や他人の弱い部分に対してのやさしさみたいな感覚をちゃんと養っていかないと、自分だけじゃなく家族や友人などのちょっとした事故とか病気とか人間関係の齟齬や失望や失敗とかに出会ったときに、自分にも人にもやさしくなれないかもしれません。こういうのって心配性でネガティヴかもしれませんが、私自身も、そういうやさしさに救われ続けました。まあ、自分に関しては甘やかしかもしれないんですが・・・ 小学生だって、小動物を飼って世話するとか、自分を必要とするなにかとの関係が必要だと思います。 教会でいい出会いがあるといいですね。神父様とか大学教授って、お山の大将になりやすいポジションだから、ひょっとしてエラそうに見えるってこともあるかもしれませんが、これはもう人柄の問題かもしれません。教会がサービス機関だとしても、そこに行く人はクレーマー消費者の心は持たない方がいいと思います。そういうところとは反対の無償の世界につながっているということを感じられるといいですね。
marie josephine · 2010-05-08 19:59:10 UTC+9 · 投稿 #501
憧れのせっこ先生 洗礼を受けたくてまっしぐらに教会にいき そこにいたのが ブルカルト アンデレ しんぷ わかいとき純真会をたばね 管区長もなさっていたり スクルス神父 ともに純真会で らてらん バチカンの父 ともいわれてるきょうかいでも はたらかれ そして もうすぐ神父になる オノレブラザー 3人にまもられ 千里ですくすく これたわたしは ベルギー のごえんがあり フランス語が ただただ大好きであっただけなのに フランコフォン 聖職者 に人生でであえたよろこびは 本当に大きいです。 しかし 7年目のして なぜか 教会離れのあり 重い空気 がきょうかいにながれ まだ わかめの私と同年代の方が少なく 友達 ができにくいとか あまり 合う ひと 話せる人がいないと思ってしまっているのか 少しとうのいてきています。 神父様に 共同で祈るということで ま、ま お友達さがしは う~ん と言われ つきひがながれ ただ 宗教も出会い のひとつで いきたいときに行けばいいのでないかと思う私目は 不謹慎ですか? 静かに家で祈る方が集中できるのです。お祈りが趣味です とうしょう詩篇 を謡わせていただける お年寄りの方が喜んでくり 歌ことが好きになり 声楽まで 習いに行くようになって これもおおきな めぐみ 幸せをもつけました、いきがいになりそうです。人生の わたしはとっても この宗教に出会えてよかったです。 ただ ずばらで ひとりでマリア様の前で ひざまずき お祈りを日に何度も するのがだいすきです 。 こんあんでもよいですか?
くう · 2010-05-08 18:31:46 UTC+9 · 投稿 #500
Sekkoさん(は竹下節子さんでいいんですよね…?)の著書は、色々と読ませていただいています。最近は2ターン目を読んでいます。 この掲示板もみなさん、すごく深いことを色々と知ってるんだなぁって驚いてます。 どの箇所かは正確にはわからないですけれど、Sekkoさんが書いておられた「宗教とは人を神(真理)へといざなうサービス業、旅行代理店の様なもの…」という部分に、うーん…そうだなぁ… とすごく納得させられています。宗教が真理そのものではなくて、そこへ人を向けてくれて同行してくれるってイメージでしょうか? そう思うと色んな宗教サービスがあっても(深いところでは)矛盾はしないんだと思います。 山頂は一つでも、その道順はいくつもある、っていう言い方はよくされますよね。 今日、バスに乗っていて、ふとバスの中を見渡すと、高校生や中学生くらいの人たちがいたんですけど、楽しそうにおしゃべりをしたり、ケータイいじってたり、音楽聴いたりで なんか、そういう雰囲気と接していると、宗教ってとくに絶対必要ってわけじゃなさそうにも見えたりしてきました。 その後、バスを降りて帰りながら考えたことは、その人の居場所(この場合学校とか)の中で、マジョリティーでいられる時は、散文的な日常生活が宗教無しにも送れるのかなぁということです。公園で遊んでる小学生なんかを見るともっとそんな気分です。 でも、だんだん、それぞれにその人の興味や特性なんかが育っていって、それぞれの道を歩く時、いつもいつも、安心なマジョリティーの中にいるってことは、できなくなる事があるかもしれません。そして、それが深刻な事の場合だってあると思います。 宗教ってそういう時に、人の悩み生き方の指針として、寄り添ってくれるものなのかなぁと思いました。 独りになった時なんて特に… だから、「いざという時のために宗教と馴染んでおいたり、親しくなっておいた方がいい」、こういう事もたしかSekkoさんが言っておられたと思います。 ぼくも最近、この事をしみじみ、そうだなぁって感じています。 こういう頭のひらめきが光るようなことが、Sekkoさんの著書などを読んでいると時にあります。 Sekkoさんには、その貴重な知識と理性と体験を、手に取って読める本やネットなどで分かち合って下さってることに本当に感謝しています。 長くなりましたけれど、最後に、 実は今、自転車で15分くらいの所にあるカトリック教会に、行ってみようかなぁ…どうしようかなぁ…って、迷ってる自分がいて、それの整理のためにもここに書かせてもらいました。(すいません) その教会のHPに載っていた主任神父さんは、大学教授でもあるみたいで、ちょっとこわもてなカンジがして、それにもちょっと勇気がいります…(笑) いつも、夕方6時には、その教会から鐘の音が遠く聞こえくるんです。山をバックにしたそんな夕方の風景がぼくは好きです。
セニョーラ · 2010-04-19 08:08:33 UTC+9 · 投稿 #499
お忙しい中、お返事ありがとうございました。お返事いただいて、少し頭の中が落ち着きを取り戻したように思います。親友の日系ブラジル人k子の出入りする福音派教会は、「カルトか宗教か」で教えていただいたような、カルトに値するようなところは今のところは見受けられません。悪魔祓いを別にしてひとつ気になることは、心療内科に通うk子は双極障害と診断されて服薬を続けていたのが、教会に行きだしてから「私はもうイエスに癒されたの。だからもう薬なんて必要ない」と勝手に服薬をやめてしまって、お医者さんが困惑されていることでしょうか。病気が病気なので、いつ彼女の症状が元にもどってしまうか、私も正直はらはらしているのですが。ただ彼ら福音派教会の、同胞に対する連帯意識は本当に見ていて感心させられることも多いのです。おととしからの経済危機で、困窮しながらも滞日を希望する人たちに対して、物心両面での貢献には目を見張るものがあります。もちろんそれは、彼らの教会のもつ豊富な資金力のなせるわざだと言えばそれまでなのですが。悪魔祓いに関しては、竹下さんが言われた、他国を悪とみなして攻撃するようなメンタリティに比べれば、はるかに害が少ないということを忘れずにいたいと思います。そして、ブラジルの宗教事情を理解することは容易でないということも。このことを忘れずにいれば、私も彼らの悪魔祓いに対してうろたえずに一定の距離をもって見つめることができるような気がします。日系人向けのNPOは少しずつですがいろいろ生まれているようです。私はそんな大したことはできていませんが、個人的には微力ながら格安でのちょっとした書類の翻訳とか医療通訳をしています。でも日本の社会ではその存在が忘れられがちな彼らへの援助だけでなく、連帯をこれからも模索していきたいです。ありがとうございました。
Sekko · 2010-04-17 20:18:34 UTC+9 · 投稿 #498
衛星放送で、福音派のミサの度の悪魔祓いのシーンを延々と流している番組を見て驚いたことがあります。按手されるだけで、叫ぶ人もいるけれど、とにかくみなが、意識を失って(と私には見える)後ろにまっすぐ倒れるので、背中を支える人が必ずついていました。で、みんな一列に並んで、はい、次、はい、次、という感じでバタバタ倒れるので、なんだか師匠に受け身の稽古をつけられてるみたいな感じでした。 キリスト教だけでなく、シャーマンの修行にも似たようなのはあるし、ヤマOシとかでも、他の宗教のイニシエーションでも、とにかく、いわゆる「変性意識状態」、トランス状態を作り出すノウハウやプロセスはいろいろあります。ある種の代替医療もそうですし、心身症には自己暗示が効くかもしれません。 いいか悪いかは一概に言えないと思います。宗教ではそういうのと、浄不浄とか罪の意識とかを合わせられることが多いので、マインドコントロールにつながりやすく、リスクは大きいと思います。特に、子供や若い人は、近付かない方がいいと私は思いますが、ケースバイケースでしょう。カトリックの洗礼式でも悪魔祓いが込みですが、ドラマティックなことはおこらず、普通のお祈りといった感じです。カトリックの今のエクソシストは精神科医や心理学者とも連携してますし、演出によってショック療法をするというのはもうないでしょう。ただし、ブラジルなんかでは、福音派の派手なパフォーマンスで信者を失いはじめたカトリック側が、同じようにいろんな面で派手な演出をして人心を取り戻すという動きもあります。 まあ、シエナのカタリナとか、やはり聖体を口にするだけで毎回失神していた聖女もいるので、どんな状況でも「入れ込んでしまう人」とか体質はあるんでしょう。それは必ずしも「聖女の条件」じゃないですけれどね。 大人が、他に弱みを付け込まれて洗脳されるという状況ではなく、自分の意思で何か(セラピーとか儀式の参加)を選択するのは自由だと思います。でも、それによって家計が圧迫されたり、社会生活や家族関係に支障をきたすようなのは要注意だと思います。 ブラジルのように、一定の文化やメンタリティのもとに、経済や政治の問題が加わって、多くの人が極端に流れるというのは、また別の大きな問題があって単純ではありません。悪を特定のだれかに託して、スケープゴートのように葬ったり、軍事攻撃をしかける、などというよりはまだ、抽象的な「悪魔」とか「敵」とかに託して「祓う」方が、害は少ないと思います。 でも、とにかく、今現在、生き難さを感じている人に「それ、おかしいだろ、目を覚ませ」とかいうのは、それこそ代替案なしには無責任なことで、とりあえず「悪魔祓い」の必要を感じないで生きていける余裕のある人間が、彼らの状況の改善に向かってささやかでも連帯することしかないんじゃないかと私は考えます。 そういうことを視野に入れながら、親友の方の生活上の困難に力を貸してあげ続けていれば、ほんとうの信頼関係は、少しずつ築かれると思います。悪を祓うより、善意の輪を育てる方が、最終的には、きっと強いですよ。 セニョーラさんのような方たちが、日系ブラジル人のコミュニティと連帯して問題解決のための何かをやっていくようなNPOも、ひょっとしてもうあるかもしれませんね。
セニョーラ · 2010-04-17 08:51:52 UTC+9 · 投稿 #497
竹下節子様 はじめまして。竹下さんの著書をいくつか拝読させていただいています。特に「聖女の条件」が面白かったです。今回お尋ねしたいことは、悪魔祓いについてです。といっても唐突なんですが、私の親友の日系ブラジル人女性は、日本で就労している日系ブラジル人たちの間で雨後のたけのこのように乱立している福音派教会に出入りしているのですが、どうもそうした教会では、牧師さんがひんぱんに悪魔祓いをするようなのです。先週その友人が、個人宅でおこなわれる祈祷会に参加しました。彼女自身は、いつも悪魔祓いについては私に詳しく語ってくれたことがありません。ただ、牧師さんが彼女の頭に手をのせて祈られると、その場に倒れてしまうと、私に語ったことがあります。で、その祈祷会には、彼女の息子と娘(21歳と19歳)も参加して、娘さんが私に、祈祷会でのできごとを語ってくれました。やっぱり悪魔祓いで、息子さんが牧師さんに祈ってもらうと、息子さんは人がかわったようになってうなり声をたてたりし始めて、最後には飛び跳ねたかと思うと床に倒れた、というのです。悪魔祓いはカトリック教会でも昔はおこなわれていたけれど、今では大部分の神父が無関心か無知かまったくその分野は廃れてしまったが、プロテスタント教会のある派では成功を収めていると、読みました。(ガブリエル アモース神父の、エクソシストは語るという本です。この本を読んでもまだ当惑しているのですが。)ブラジルはどうも、交霊術なんかがさかんな土地らしく、悪魔祓いにも違和感なく彼らは応じているようなのですが、日本人の私には一種のカルチャーショックで、いったいどうとらえていいのかわからないのです。悪というのは確かに私たちの心の中にある、原罪というか、自己中心性、嫉妬とか優越感とかいろいろあると私は思うのですが、友人のブラジル人は、悪霊とか悪魔という言葉を頻繁につかいます。実際には悪魔そのものを意味するdiaboとは言わず、敵を意味するinimigoを使うのですが。それは、例えば精神病とか貧困とか逆境とかの原因という意味のようです。私には、悪を、悪魔と悪霊につなげる思考回路が欠けているのか、彼らブラジル人の厳しい現実(失業、将来の見通しがたたないことなど)と悪魔祓いはセットにして考えるべきなのか、私の頭の中では整理できていないのです。カトリック教会でも聖霊刷新運動がありますが、悪魔祓いはその聖霊による癒しと同じレベルのことと考えればいいのでしょうか?
迷える大羊 · 2010-04-12 22:59:13 UTC+9 · 投稿 #496
いつもながら、お忙しい中、お相手すみません。 >立派でなくとも自分のできることで なるほど、これなら理解はできますね。いきなり、マザー・テレサだのコルベ神父並みの利他精神を発揮せよ、などといわれたらそりゃビビりますし、多分自分は死ぬまで無理だろうって思いますが。 まあ、周囲に「ぼくたち立派な人オーラ」を発する人はいないけど、クリスチャンという立場をやたらと強調する、特別視する人は確かにおりますね。何かというと「クリスチャンとして~」みたいな枕ことばがでてくるみたいな・・。 聖書にもありましたね、確かヨハネ福音書だったか「新しい戒律を与えよう、お互いを愛せというものだ」とありましたね。しかし、単純そうで、実はそれが実行が一番難しかったりすることを日々実感する毎日です、私にとっては。やっぱり、好き嫌い、ねたみ、ひがみ、嫉みといった煩悩とか罪からはなかなか自由にはなれないものですね。
Sekko · 2010-04-12 05:50:52 UTC+9 · 投稿 #495
「情けは人のためならず」って言葉を間違って解釈する人が多いって話を聞きますが…なんていうか、「人のために祈る」方が「効く」ような気がするんですよ。きれいごとは別として、自分より大切な人のために必死で祈るというのは、見ていても感動しますし。 大羊さんは時々、「立派な人たち」に対する違和感を表明なさいますが、そんな「ぼくたち立派な人」オーラを出している人たちが周りにいられるんですか? そんな清らかな自信に満ちているグループがあれば、私はすぐうさんくさく思ってしまいます。それだけでありがたみが消えますよ。 でも、私のために祈ってくれるという人には、すなおに感謝です。ほんとに私が自分で祈るより「効く」気がします。毎日の幸せ度だって、何か自力で「立派なこと」や「満足のいくこと」をすることより、ひとからちょっと優しい声をかけてもらったり、気にかけてもらっていたり、ということの方がじーんときます。私には「神と私」みたいな関係性ではだめなんです。人を介在させないと、自己中というより自家中毒起こしそうで。立派でなくとも自分のできることで人とつながっていればいいんじゃないでしょうか。私がここでこれを書いているのもそのためです。少なくともこれを書いている瞬間は、私の中の優先順位は、仕事よりも家庭よりも大羊さんです。特に立派でなくとも、みんなが、だれかから声をかけられた時に少しでも、ちゃんと振り向いて時間を分け合う、っていうのが、多分、一番たいせつなことです。
迷える大羊 · 2010-04-11 22:32:01 UTC+9 · 投稿 #494
というのはいうまでもなく、キリスト教とか普遍宗教の良き部分ですよね。ええ、それは十分認めます、わかります。でも、議論を仕掛けたり、ケチをつけたりするつもりはもちろん、全くないのですが、「本当に心の底からそんな心境になるものなのですか?」という疑いが抜けない、というか信じられない感じですね。 うーん、私などは自己中ですから、口では「~さん、祈ってますよ」といっていても、本音部分では「自分の願望、都合」優先になってしまいそうです。というか、そんな「立派な人々」に囲まれていては、「罪深き私ごときが同席してよろしいのかしら?」ってことで却って落ち着かないことこの上ないような気も・・・。 あと、私の知るクリスチャンってそんな立派な人ばかりだったかなぁ?つい先月まで、私の上司だった方もクリスチャンだったけど、責任回避が得意技でおよそ人の為に祈る、というタイプではなかったような・・(笑)。洗礼、といっても人格改造とか洗脳とは違うわけですし、水かぶったくらいで都合よく変われりゃ苦労しないよ、とシニカルなことを思ったりもします。 現教皇は、独断と偏見でいえば、実際に現場で実務で信徒と触れ合ったり、向きあったりした経歴・経験が少ないのが、KYだったり脇が甘かったりする原因の一つかも?と思ったりしますね。学校で教えている方が向いているような感じも。意外と本人も「(教皇に)向いていない」と悩んでいるんじゃないかな~、なんて思ったりします。 あと、蛇足ですけど、このサイトでフランス事情についてもいろいろご質問させていただいたものですが、本日、教会で初めて「リアル」のフランス人と話しましたね。日本語はペラペラでした。バイトをしつつ日本とフランスを往復だそうで、なんか自由人してていいなぁ~、若いっていいよねぇなんて思ったものでした。 国籍を問わない知人のネットワークが広がる、というのもキリスト教はじめとする「普遍宗教」の「御利益」、ですかね。
Sekko · 2010-04-11 02:00:04 UTC+9 · 投稿 #493
>「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。 と前に書いたのは、別にキリスト教系で拝みに行かなくても手近なところがたくさんあるのだから、という意味で、キリスト教がご利益を否定してるという意味じゃありません。まあ、その出発点においては呪術否定、偶像崇拝を否定してる宗教ですが、前ヨーロッパでキリスト教がデフォルトになった時点で、これはもう何でもありに向かうのは当然で、早い話がすべての巡礼って、「奇跡」という名の「ご利益」を期待してると思います。ご利益を得たお礼の巡礼もありますが。 つらい時にそこから解放されたいのは自然ですし、イエスも治療者として崇められていましたし、それにあやかりたいのは必ずしも誤りじゃないと思います。福音書の中のカネテーマはまあ、例えだと思います。やはりそういう例えが一番人々の実感に訴えたんでしょう。免罪符の乱発は、確かに信者のニーズに応え、封建領主でもあった教会の財政対策だったんでしょう。今でも、どこそこに巡礼したら罪が軽減されるとかちゃんと書いてありますよ。今はそれで金もうけしてないし、詐欺にもなりかねない奇跡や成功の保証じゃなく、教会の守備範囲の「免罪」なんだから、無害な「ご利益」だと思います。 ご利益を求めるのは人情でも、「他人の不幸」を願うのはペケで、自分の幸せが他人の不幸と連動しているような「ご利益」を願うのは間違いで、それに応えるのも間違いだと思います。だから、病気平癒を願ったりするのはOKで、戦勝祈願とか優勝祈願とか、敗者を必要とするものは基本的におかしいし、入試なんかの合格祈願っていうのも微妙だなあと思います。 やっぱり平和を祈ったり、試合や入試の時期に風邪ひいたり故障のないことを願ったり、実力を発揮できますように願ったりすべきですよね。ジャンヌ・ダルクが一方的に「イギリス軍出て行け」って、神の名のもとに軍を率いたのも、歴史の文脈の話であって、キリスト教の本質的にはかなり「それでいいのか?」っていう気がします。 私は個人的には「本音の部分」で自分の幸せを祈るってことはないです。本音をすなおに探ると、神さまが私のような中途半端な人間の願いとか気にとめるわけないだろ、と思うからです。絶望的な状況で必死に祈っている人々を有名教会で見かけると、ほんとに、私なんかはスル―していいから、この人たちをなんとかしてあげてって、気はします。その時に、「この人たち、本気で奇跡が起こると思っているのかなあ、単純すぎ」とかは思いませんね。ただ、本気で祈る人を見ていると、ますます、私のようなヌルさでは自分のことは祈るのも無駄、って思います。 大羊さんの前途に聖霊のお恵みがあって、大泉さんにとっての世界がクリアに見えてくるようにとお祈りします。(これでも人のためにはすなおに祈れるんですよ、ま、私のフォローなんてそれこそご利益なさそうだけど) あと、私のためにいつも祈ってくださるという型が複数いらっしゃって、それを聞くたびに元気がでます。ありがとうございます。これが私にとってほんとうのご利益です。
Sekko · 2010-04-11 01:18:46 UTC+9 · 投稿 #492
子沢山の問題は、昔はともかく今は、貧困の問題が大きいでしょう。医療が発達して、平和で、生存チャンスの大きい国では、普通子供の数は減りますよ。そういう国ではむしろ有産階級が既得権を継承させるために子沢山のような。アフリカの一部なんかでは、今も、少女が12歳くらいから毎年のように子供を生み続け、その多くは破傷風やマラリアのために育たず、母親は30歳くらいで消耗して死んでしまうというケースはあります。エイズの蔓延ももちろん。 そういう国を救うのは女子に教育と保護と現金収入を得る労働を与えることです。これで出生率は下がります。 アフリカで活動していたカトリックのシスターは避妊具を配布していました。エイズの予防のために、バチカンが避妊具禁止を目立って唱えないという具体的な合意も前教皇との間にできていて、その後ではノーコメントが続きました。それなのに、B16は、「避妊具は解決法ではない」とコメントしたことに尾ひれをつけられて大騒ぎになっています。避妊具禁止といったわけではなかったのですが。脇が甘いのは確かです。彼がなぜメディア受けしないのかというのを分析した本も出てるほどです。 フランスの司教会議(フランスカトリックの最高決議機関)なんかではエイズ予防の避妊具OKでしたし、それも、しょせん多数決の決定。ヴァティカンの見解も多数決ですよ。直接ドグマに関わることじゃなければ当然政治的力関係で決まったりします。いわゆる一般信者と言えば、カトリックがデフォルトの村とかで、子供の作り方を教会にきく人なんてもちろんいませんよ。 でも、ほしくなかった子供が生まれて育てざるを得ない状況の人とか、社会の犠牲になる子供たちとかがいる場所で、「新しい命」は無条件に尊い、と言いきってくれる宗教の首長がいるのはいいことだと個人的には思います。
迷える大羊 · 2010-04-10 19:15:19 UTC+9 · 投稿 #491
連続投稿失礼します。 >「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。 以前のご質問で御回答の中に、上のようなお言葉があり、ちょっと気になりました。教会なんかに行くと、確かに「キリスト教は現世利益を追求する宗教ではない」とよくいいますし(まあ、普遍宗教はみなそうだと思いますが)、それを誇りにしてますよね。 そりゃ私だって、年がら年中「金儲けたい」とか「病気退散」みたいなことを露骨にいってる宗教って「胡散臭いな」とか「下品」で宗教としてレベル低いんじゃないの?思ったりします。 でも、一方でそういった(現世利益)を全く気にしない、そんな「煩悩」とは100%無縁に信仰を得られる「立派な人」って一体どれくらいいるんだ?という疑問が・・。 天国に行けるとか、(たとえ気休めであっても)安心が得られる、というのも立派な「御利益」じゃ?と思ったりもしますし、100%「御利益」というものを心の底から否定できる「立派な人」ならそもそも宗教とか信仰なんてはじめから必要ないんじゃないの?と思ったりします。 つまり、よほど立派な、強い人間でない限り、ある程度は宗教とか信仰に「御利益」を期待してしまうのは人間の性みたいなもんで、それはそんなに悪いことなのかな?(もちろん、度を過ぎているのはバツですが)、という疑問がわきます。 実際、聖書とかキリスト教が全くそういう現世的なことを軽んじているのか?というとそうでもないような・・。たとえば、ルカの福音書などカネの絡んだ話が結構多いし(無くした銀貨を見つける話とか、塔を立てるために費用を見積もる話とか、遺産を使い込んだ放蕩息子の話とか、借金をごまかした不正な管理人の話とか)、主の祈りでは「日毎の糧を私たちにお与えください」としっかり祈りますし。 宗教改革、というかルターのカトリック告発のきっかけとなった有名な「免罪符の発行」も見方を変えれば「(罪からの解放、救いを手軽求める)一般大衆のニーズ」に応えていた、という面も無きにしもあらずかも?と思ったりします(いいのか?こんなこといって) 話をまとめると、現実のクリスチャンの皆さんは本音部分で誰もが期待すること(御利益というか自分の個人的な幸せ、救い、安心の追求)と、なんていったらいいのか?キリスト教の理想の部分とをどのようにしてバランスをとってますか? また、本音の部分で「神様、仕事うまくいきますように、給料上がりますように」なんて祈るのは「悪いこと」ですかね?まあ、あまり露骨なのはキリスト教云々に関係なく、下品だ、とは思いますけど。
迷える大羊 · 2010-04-10 18:13:54 UTC+9 · 投稿 #490
最近、少子化に関する論議がかしましい日本ですが、その逆、つまり人口増加、子沢山が問題となる国々について。 先進国と違い、発展途上国というのは多子とか過剰な人口増に悩む国々が多いわけですが、多子と宗教ってどのくらい関わりがあるものなんですかね?たとえば、フィリピンあたりなど、宗教がカトリックで、カトリックでは避妊・中絶厳禁であるために、多子となりがち、などという説明がされますが・・。 でも、一方で、カトリックの本家本元、ヴァチカンのおひざもとのイタリアは世界的に出生率が低い方に属しますし、フランスについてもかの国が爆発的な人口増加に悩んでいる、などという話は聞いたことがありません。 あと、カトリックだからすべて避妊反対、中絶反対というとそうでもなく、10年位前、米国大統領選でブッシュの対抗馬であったケリー候補はカトリックでしたけど、確か中絶容認派でしたし・・。 こうしてみると人口問題とか少子化、多子化に宗教、信仰はあまり関係ないのかな?と思ったりもしますが。 実際のところ、家族計画とか問題に宗教、信仰というのはどこまで関係があるものなのでしょうか? さらに、実際のカトリック信徒にとってヴァチカンの動向、方針というのはどれほどの影響力をもっているものなのでしょうか?個人的な見聞の範囲ではあまり関係なさそうな感じもしますが・・。 それにしても、現教皇は私の知る限り(カトリック信徒には)不人気ですね~。思想とか信仰面では前任者(ヨハネ・パウロⅡ)も現教皇も大して変わらない気がしますが、やはり空気を読むというか、人の気持ちをつかむ能力面が人気の差なんでしょうかね?
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