1 2 3 迷える大羊 · 2010-03-20 22:21:30 UTC+9 · 投稿 #489
お忙しいところ恐れ入ります。 >小さい子供がいる家族がクリスマスにサンタクロースがプレゼントをくれると思ってわくわくしているのを見る両親が、サンタクロースなんていないんじゃないか、とか、一家で初詣とかお宮詣りに行く人が、ひょっとしてここに神様なんていないかも、と疑問に思う必要はないと思うんですね そういう力の抜けた自然な信仰なら、ああいいよね、と思うんですけどね。お焼香がどうのこうの、という話も別に何が何でも世間一般に合わせろって思ってるわけじゃないですよ。江戸時代の「踏み絵」だとか戦時中の神社参拝みたいに、明らかに信仰を試す意図がある、キリスト教信仰にケチをつける目的があるものなら、そりゃ拒否するのもやむなし、とは思いますよ、私だって。 でも、そういう意図が全くない、こちら(クリスチャン側)がどう思おうが、あちらは単なる習慣、文化としか思っていないことにまで、やれ異教がどうのこうの、だの偶像崇拝云々なんて感覚はやってられないし、率直にいうとええ加減にしてくれよ、という感想しか湧いてこないです。 >何かを自由意思で信じることによって、自分が他者に対しての公正だとかやさしさだとかに迎えるのなら、 そうですね、そんな「信仰」が見つけられるといいですね。私の場合は、公正さとか優しさももちろんですが、「強さ」も欲しいです。もちろん、権力とか地位、という意味ではなく、なんていったらいいのか、困難や理不尽にめげない、うろたえない精神力というか、そういったものですが。 話が脇道にそれますが、今の職場の上司はクリスチャンみたいですが、別に「イエスの精神を体現した」「立派な人物」か?というと、それははなはだ疑問(笑)、どちらかといえば、面倒は部下に押し付けるタイプで「ちょっとあんた、神様はなんでも赦して下さる」なんて開き直ってるんじゃあるまいな?、と思わされることが・・・(笑)
Sekko · 2010-03-18 06:56:07 UTC+9 · 投稿 #488
信じることとは、何かを字義どおりに刷り込むことではなくて、それによって生き方の変容になるとか世界の見方が変わるとか行動の指針になることだと思うんですよね。変な例えですが、小さい子供がいる家族がクリスマスにサンタクロースがプレゼントをくれると思ってわくわくしているのを見る両親が、サンタクロースなんていないんじゃないか、とか、一家で初詣とかお宮詣りに行く人が、ひょっとしてここに神様なんていないかも、と疑問に思う必要はないと思うんですね。ま、クリスマス禁止とか神社参拝禁止って宗派もありますけど。 何かを自由意思で信じることによって、自分が他者に対しての公正だとかやさしさだとかに迎えるのなら、真偽なんて優先しないこともありますし、逆に、「何々」を頭から信じるかどうかによって人を裁いたり排除したりするようなシステならは、それはただの「何々」への偶像崇拝じゃないかと私は思います。 大羊さんが今抵抗を覚えているということは、その「何々」を信じる、認めることが第一義かのようにふるまう人がいるからじゃないでしょうか。 イエスは、天国に行けるのは洗礼を受けた人だとか自分を信じる者だとか言わず、飢えた人に食べさせ、渇いたいた人に飲ませた人だと行ってるし、何よりも偽善や形式主義を嫌ってたと思います。 今の時代にキリスト教のドグマをどう考えるかということについて、4月10日発売のカトリック生活5月号で私の考えを書いてますので、チャンスがあればお読みください。
迷える大羊 · 2010-03-16 22:39:27 UTC+9 · 投稿 #487
いつも、答えづらそうな質問に丁寧に対応いただき恐れ入ります。ちょっと、くどくなるかもしれませんが、キリスト教とか信仰の世界をまったく否定的にみている、なんてことは決してありません。キリスト教にしたって文化とか思想としては大いに肯定しています(本当ですよ)。 また、「不幸云々~」などという話を他人事のようにお話しましたが、私だって悩みもあれば劣等感もありますし、人生の上で大失敗、失策も数多くしでかしてますし、自分の力だけで人生を切り開いてきた、なんて自惚れているわけでもありません。 遠藤周作氏の信仰、キリスト教エッセイ「私にとって神とは」は非常によく理解できましたし、だから、「信仰」に頼る人々の気持ちが100%全くわからないわけではないとは思っていますが・・・。 >病気や死に向き合う家族が「信仰があるから」と言ってくれるのって、それこそ救いですよ。 ちなみに私の母親はとある仏教系の宗教団体の信徒です。別に彼女は信仰を私に押し付けたりしません。だからこそ、単なる私自身の好き嫌いではなくキリスト教でも、あまりに他宗教への考え方が排他的すぎる教会とか教派は困るのです。 >夫婦が別の宗教でうまくいっているところもいくらでもありますし 私もそう思うんですが、保守的なキリスト教会とかクリスチャンはそうは思わない、クリスチャンファミリーの形成に熱心な方が多いみたいで、彼女の母教会が所属する団体から、「クリスチャンでない家族を持つ女性へ」(特定の団体についてあれこれいうことが目的ではないので、題名はぼかしてます)なんて本が出てまして・・。要は身内がノン・クリスチャンである、ということは彼らには「試練」らしいんですね。思ったほどには独りよがりな内容ではなかったですが、やっぱりよくわからない感覚で、そんな、家族、夫婦といえど、心の内面まで同じにできるわけないじゃないか、自分に合った信仰を選ぶ(「選ぶ」って不遜ですかね?)より他ないじゃない、というのが私の感想でした。 実際、私がクリスチャンになったからといって、同じような「信じ方」をするとは限らないし、なまじ同じ神様を信じてる、ということで却ってその「違い」が目についてしょうがない、ってことになりそうな気がしないでも・・。 実際、私の見聞、独断と偏見ではクリスチャンとかキリスト教徒といっても、「イエスを救い主とする」「使徒信条の内容を肯定する」以外には皆、信仰面でも政治面でも右から左までバラバラ、(非クリスチャンと比較して)特別な要素は何もないと思いますし、皆、クリスチャンになればうまくいくってことなら、世界の三分の一(クリスチャンの世界人口比)は平和で離婚もないってことかい?とシニカルなことを思ってしまいますね。 あと、もう一つ、ご質問してみたいと思うことに「信仰を持つ」ってことは(神とか聖書とかイエスに対し)「疑う」とか「自分で考える」ってことをやっちゃいかんのかなぁ?ということですね。それこそ、自分の目で冷静に各教会を比較してみたり(別に優劣を比較しているわけではないですよ)、こちらの質問箱でもたびたびしたような、聖書の矛盾点とかトンデモない部分について質問したり(ちなみに彼女はこれやるとイヤな顔、というか「キリスト教批判」と受け取るみたいで、こちらは困惑するのですが・・・)するってことは「神への冒涜」になるんですかね? 聖書に書かれていることなら(現代の感覚、常識、非クリスチャンからして)どんなに無茶苦茶だったり、奇異に感じられることでも、「これは意味のあること」「誤りなき神のみことば」と信じることが「良き信者」なのですかね? なんていったらいいのか、その辺りの感覚も私にはなかなか分からない点でもあります。
Sekko · 2010-03-16 09:10:10 UTC+9 · 投稿 #486
分かりにくくてすみません。 確かに、生まれ育った環境で自然に家族や地域の信仰となじみがあればすんなりいくんでしょうが、大人になってから、そういう絆のない宗教と関わるというのは、「自然」ではないのかもしれません。 若くて元気で人間関係にも金銭的にも物質的にも不自由してない人は、とりあえず宗教とか信仰とか、「必要ない」かもしれません。「困った時の神頼み」的に気軽にいってお賽銭を投げたりお札をもらったりできる神社仏閣は日本では事欠きませんしね。 ただ、だれでも、いつまでも若くて元気でいることは不可能ですし、事故、災害、大病を避けられたとしても老いや死は絶対来るわけで、自分だけでなく、親や子や連れ合いを亡くすことだってあるわけです。そういう局面において突然、宗教に勧誘されたりしたら、藁をもすがるって心境になるかもしれないし、病気の治癒に関しても、変な薬や代替医療やあやしい祈りや信心グッズに騙されるかもしれません。そういうことを避けるためにも、元気なうちに危機管理ということで、信頼のおける宗教と冷静に関わっておいて、それを周囲にもそれとなく言っておくのがいいと私は思いますが。 たとえば両親が交通事故で同時に死んだ場合に、宗教がばらばらだと子供たちが困るだろうからそろえとくとか。別の例で、子供がいつもマジョリティの立場にいるのは教育によくないからあえて日本ではマイノリティなキリスト教のコミュニティに入れたという人もいます。反対に、フランスの日本人で、マイノリティで異文化だということで周囲に溶け込めないのがハンディだからマジョリティのカトリックの洗礼を受けたという人もいます。日本の女性ではやっぱりミッション・スクールに通って影響を受けたという人が多いのではないでしょうか。でも、全然関係ない普通の高校で、文化祭の時に何かの道具を借りに近くの教会に寄って、それが縁でついにシスターになってしまったという方もいらっしゃいます。 まあ、この話は、内的な信仰の問題と宗教コミュニティの選択の問題が混ざっているので、人生の危機管理として、両方ともに、割り切って考える必要があります。家族代々の宗旨でも、今は共同体が崩れて、葬儀の時は葬儀ビジネスに取り込まれて悲しみに付け込まれて搾取される、ってこともありますし。私は自分の親が、自分たちの信仰は押しつけませんでしたが隠しもせず、葬儀の形とかも全部決めて置いてくれていたので、すごく気が楽でした。見送る方から見て、病気や死に向き合う家族が「信仰があるから」と言ってくれるのって、それこそ救いですよ。 ただ、大羊さんの問題は、これまでの経緯から想像しますと、奥さまがかなり熱心な共同体活動をしていてそれが生活の一部になっていて、大羊さんが、少なくとも同じ神を信じてくれないと完全に一体化できないというか落ち着かないというか、ということで、プレッシャーがあるのかもしれません。 でも今の日本では、夫婦が別の宗教でうまくいっているところもいくらでもありますし、片方の宗教が閉鎖的な場合は、バランスをとったり、いざという時の受け皿としてもう一方はアバウトで寛容な共同体を選んでおく、というのがいいかもしれません。そもそも大羊さんが奥さまの宗教に無批判に飛び込むのが可能なタイプであれば、もうとっくに入信して二人で何の疑問もなく熱心に活動してるはずです。これだけいろいろ迷っているということは、「かなり無理」があるんじゃないでしょうか。でも、今大羊さんが、奥さまの宗派から敵とみなされているような宗派に入ってぎくしゃくするか、奥さまが最終的に今の宗派から距離を置いてもらえるか、あるいはいっそギリシャ正教とかロシア正教とかの方が緊張が緩和するとか…今のお二人の信頼関係が宗教についてどういう感じなのかよくわからないので、なんとも言えませんが、とにかく互いに互いを尊重し合えて、譲歩もし合えるのが大切で、支配関係や依存関係にならないように注意しなくてはなりませんよね。愛し合っていっしょになられたお二人の仲を気まずくさせるような神さまなんて意味ない気がします(すみません)。 少なくとも、家庭内政治判断が困難で迷っている間は無理に決めなくてもいいんじゃないでしょうか。私には、正直言って、今のところ「不幸にも遭わずつらい目にもあってない」大羊さんが「信仰が分からない」というのは、別にそれはそれでいいと思いますが。他の人間とどう関わってどう生きるかのほうが大事ですよ。
迷える大羊 · 2010-03-13 23:16:24 UTC+9 · 投稿 #485
お相手ありがとうございます。「つまんない」とか「楽しい」というのはちょっと語弊がありましたね。もちろん、同好会などと同等のレベルでそんなことをいったのではなく、なんていったらいいのか、「得るものがあった」という歯ごたえというか、出会いというか、うーん、私の乏しいボキャブラリーではちょっと表現が難しいです。 >最適なものを選ぶというコトニハかにらずしもならないと思います。 まず「出会い」だし、差し出されるものだし。 せっかくお答えいただいたのに申し訳ないのですが、この辺りがよくわかりませんでした。そんなものは、それこそ神様が決めること、自分の頭で考えたり、吟味してみるという行為は、神様に対して「無礼」というか、おこがましい行為ってことなのでしょうか?。 確かに教会でも、職場でも自分の希望とか考えとか要望とかなどと、100%合うところなんてありえないよ、ということ、理屈でどうのこうのいう世界ではないよ、ということくらいはわかりますが・・。 >今の迷っている心境を話した時に、真っ先に、他教会を批判したり貶めたり、間違っていると あからさまにそのようなことをする教会とか信徒とかに出会ったことはありませんが、遠回しにはあります。また、身内がクリスチャンってことで、私がクリスチャンになることは当然、そうでないとうまくいかないよ、みたいなことを言われ、反発を覚えたことはありますね。逆効果っていうか、却って意地でもキリスト教など近づかない、少なくともこの教会には関わらない、と思ってしまいました。 >信頼できる人 これも、難しいですね。人柄的にはいい人、見習う点も多い人だけど、信仰面ではとてもついていけない、ってことはありました。具体的には、すでに何度かお話しているかと思いますが、他宗教とか日本の風習についてあまりに排他的で、七五三などはもちろん否定、「仏式の葬儀にはなるべく出ないで済むようにする」とか「神社仏閣に行くと気持ち悪くなる」なんて話を聞いたときには、あまりの感覚の違いに頭がクラクラする思いでした。それなら、クリスマス(元はローマの異教の祭り)も止めたら?といいたくなる衝動を抑えるのに苦労したものでした。 自分は別に仏教や神道とは何の関わりもシンパシーもないのですが、どうにもこういう考えとか感覚にはアレルギーがありますね。 >子供たちによりよい世界観 私自身、大した世界観なんてもっていませんので、これも考えてしまうところです。ただ、「神社仏閣に入ると気分が悪くなる」みたいな感覚だとか「聖書に書いてあることは絶対正しいんだ、創造説を学校でも教えろ」みたいなことを自分の子供に吹き込まれるのは、頼むから勘弁して、とは思いますね。 どうも、言われていることが今一つピンと来ず、私にとって、まだ信仰の世界というのはよくわからないもののようです。ところで、世間一般的に宗教とか信仰、というと、「何か不幸に遭ったのか?、つらい目にでも合ったのか?」と思われることが多いし、実際、そういう人の心のスキマにつけ込む怪しげな団体も多々あるのは事実。 で、私として、実際に信仰を持たれている方にお尋ねしてみたいのは、信仰を持つきっかけとして何か「不幸なこと」に遭われたのですか?ということ。やっぱり、そういう目にでも遭わない限り信仰の世界というものは理解できないものなのかな?と思ったりもしますね。プライバシーにもかかわりますし、聞き方によっては、ある意味失礼かもしれないので、面と向かってはなかなか聞けなかったりするのですが・・。
Sekko · 2010-03-12 19:49:20 UTC+9 · 投稿 #484
marieさん、ありがとうございます。 私の体験だけで言うと、私の信頼感をそそる人たちは、全然排他的でもなく、「自分の宗教」に私も入信すればいい、と誘うようなことは言われたことがありません。また、私は個人的にあらゆる種類の「勧誘」が好きではないので、誘われると引いてしまうし、信頼感も薄れます。宗教の中には一定の様式の宣教や布教やある種の実践を一般信者にノルマとして課しているものもあり、そういうのも私は苦手です。「信じなければ不幸になる」「信じれば幸せになる」というタイプの説得もいやです。 しかし、周りのだれも助けてくれない時に、そういうグループだけが手を差し伸べてくれるという状況の人もいるわけで、その問題は大きいと思います。結局、「所属している共同体」に関わりなく、「自分よりも困難な状況にいると思われる人たちが必要としていることを少しでも提供できないか」について各自が意識することが大切なのではないでしょうか。 何々派はここがよくて何々派はここが悪いとか比較検討し始める時点で、何か本質的なものを見失ってしまうかもしれません。
marie · 2010-03-12 09:14:41 UTC+9 · 投稿 #483
「甘えの構造」で有名な土居健郎氏が「信仰と『甘え』」春秋社をだしています。そのなかに学生時代の信仰遍歴が見事に書きだされています。土居先生は最初はプロテスタントでしたが、無教会の矢内原先生の門下生となり、最後にホイベルス神父に出会いカトリツクになります。その過程が「キリスト教と私」に書かれています。また内村鑑三の信仰遍歴の記述も見事です。大羊さんの迷いは「あれか、これか」ですよね。信仰はその二分法が崩れたところから発生します。そこで出会う人が本当に信頼できるかどうか、ここが鍵でしょうね。信頼できれば、飛び込めます。信頼できなければ、まだ遍歴をくりかえすのがいいでしょう。土居先生は遍歴の果てにたどりついたカトリツクから生涯離れることはありませんでした。ホイベルス神父のいう「懐かしき神」に生涯ひかれておられたことが他の本でもよみとれますし、70歳以後、信仰問題をどしどし発表されていますが、「本来の面目」といえるものがそこに脈をうつて、つたわつてきます。 信仰は毎日、しらぬうちに育つもので、その育ちにアツと気がついたとき、貴方は「神の国」にいることでしょう。
Sekko · 2010-03-11 21:37:50 UTC+9 · 投稿 #482
って・・・
受洗によってある共同体に参加することは、ボランティアグループや趣味の同好会と違うのですからいろいろ比較検討して最適なものを選ぶというコトニハかにらずしもならないと思います。
まず「出会い」だし、差し出されるものだし。
また、社交クラブでもないのですから、楽しいとかつまんないとかの基準というのもまずいでしょう。それなら「サービス機関」として魅力的な営業努力をしているところが有利ですが、もうそれだけで、他の人(コミュニティの内外にかわらず)に心を寄せるという精神から離れそうです。
とりあえずは、身近な教会に、人間として尊敬できて信頼できる先輩か指導者がいるかどうかが大切ではないでしょうか。また、今の迷っている心境を話した時に、真っ先に、他教会を批判したり貶めたり、間違っていると決めつけるような態度に出る人たちがいるの避けた方がいいでしょう。また、今の自分の状況にだけ照らし合わせるのではなく、たとえば将来育てるかもしれない子供たちによりよい世界観を与えてくれるかどうか、困難に出合った時に信頼できるか、とかも視野に入れればどうでしょう。
それでも、「判断の誤り」はありますし、向こうも人間の集まりですから、カラーが変わったりすることもあるでしょう。今の、そして、今までの大羊さんの誠実な探求の姿勢を見る限り、たとえ、選択を誤っても軌道修正はできると思うし、ほんとうの意味でのキリスト者として成長し続けていかれると思います。
参考に『自由人イエス』
http://shop-pauline.jp/?pid=17548299 をぜひお読みになってください。
掲示板は不可抗力以外は、今のところ続けます。場所を改める時はここと、ブログでお知らせします。
迷える大羊 · 2010-03-10 22:09:36 UTC+9 · 投稿 #481
まだ、こちらの掲示板は「生きて」いますでしょうか?ワケあってキリスト教の世界に関わって数年。しかし、未だに受洗はしておりません。別にキリスト教とかイエスが嫌いとか賛成していない、というわけではありません、疑問はいろいろありますが・・。 その理由(受洗)しない理由の一つは、合う教会がないってことがあります。私の経験、見聞の範囲では、老舗の教会、大手の教派というのは理性的。怪しげな要素も私的にアレルギーを催す要素はほとんどないのですが、概して形式的でお役所チックな面が多く、平たくいってしまうと「つまんない」。 では、活気があって「楽しい」教会ならいいのか、といえば、そういうところは信仰面では恐ろしく保守的な場合が多く、たとえば、他宗教、日本文化に対し妙に排他的(お焼香は絶対できません、とか・・)、聖書を一字一句信じて、疑わない、やたらと神聖視する、とかでちょっとついていけない、と思わされる場合が多々ある。 特に害がなく楽しければいいんじゃない、という意見もありそうですが、自分の宗教観や考えからあまりにかけ離れているのでは、周囲に合わせるのがつらいところ。 「現役」のクリスチャンの方はこの辺り、どのように考えていらっしゃるのでしょうね?どこで妥協し、どこで譲らないのか?考えを聞いてみたいところです。
金太郎とまさかり · 2010-03-08 00:14:38 UTC+9 · 投稿 #480
竹下さん、訳のわからない書き込みに早速お返事頂いて 本当に感謝致します 何度も読み返しています 今日友人ふたりにも話しを聞いてもらい 大分落ち着きました そのうちのひとりはギリシャ正教やカトリック、プロテスタントに触れてきた人で やはりものみの塔の事は良く思っていないようです 家族も巻き込むしね、と 竹下さんの仰るとおりに、カルトな宗教から奪還?させるような団体に相談してみたら?とその友人にも言われました 家族でもないのにそんな権利はないと思うとか信仰も古くからの知人の一部になっているから無下に出来ないとか本当にいろいろ話しました そして話し合った末、当分の自分のスタンスとしては キリスト教やものみの塔の組織の仕組みなどの知識を増やしつつ 古くからの知人が教団に飽きたり、疑問を持って辞めたりした時に(そうなるかどうかは皆目見当がつきませんが) 受け入れられる体制を作りたいと思います 私が根負けしないように、マイペースで行きたいと思います 今後もこちらのホームページは継続されていくのでしょうか? 何かあればまた寄らせて頂きたい所存です
Sekko · 2010-03-07 07:22:16 UTC+9 · 投稿 #479
こればかりは万人向けの回答はありませんね。 私の親戚にも、知り合いにも「エホバの…」信者はいます。日本にもフランスにも。 私の知っているケースでは、大人の入信はそれなりの心理的社会的理由が想像できて、そのような布教の仕方には異論があるのですが、そのまま何十年も、それなりにいろいろな面で折り合いをつけてやっているようですので、もしも分岐点で他の道を選んでいたらその人にとってもっとよい人生が送れていたのかどうかはなんとも言えません。ただ、家族を巻き込むことでの葛藤は多く、「エホバの…」の家庭でまれて育った子どもたちは、かなりつらいと思います。私の音楽仲間で親友といっていい人物の場合、大騒ぎの末、今は社会的にも私生活的にも自立と平安を得ています。彼の両親も心の底では「神よりも共同体よりも自分の子がかわいい」と思っているらしく、今はなかよくやっていますが、両親がずっとエホバにとどまっている現実は変わらず、一番つらくて心を蝕むのは、仲の良さにおける「偽善性」のようです。裏切りの感覚や罪悪感もそうです。これはもうどうすることもできませんが、たとえそのような問題がなくとも、人はそれぞれ、貧困だとか暴力とか痛みとかいじめとか病気とか障害とか家族の死,事故、などそれぞれの問題をそれぞれの感受性で生きているのですから、特定の宗教だの共同体だのによる「犠牲」だけを特化して糾弾してもしょうがないと思います。全体としては人権や自由や尊厳を侵すようなグループやイデオロギーを批判していき、個別には、理解して寄り添い、その人から疑いや弱さのサインがあった時に見逃さず、変わらぬ信頼を表明するのがいいんではないでしょうか。 どこかの自治区みたいなところに隔離されて「出家状態」になるようなタイプの共同体なんかよりはかなりましだと思います。 私は一般的に終末論的な脅しをかけたり恐怖を煽るタイプの宗教が苦手で、アメリカ系の比較的新しいプロテスタントによくあるわけですが、なんで日本のようにキリスト教文化でもない社会にいる人がわざわざそんなものにはまるのかた不思議です。アメリカ文化の受容のヴァリエーションなんでしょうか。 先頃のハイチの地震の後で、フランスの「エホバ…」グループの医療班がボランティアで現地に入って活躍し感謝されているドキュメンタリー番組を見たんですが、確かにすごく熱心で頭が下がるんですが、その中心にいる医師が堂々と、これは世界の終りの徴しだ、神の怒りだ、悔悛が大事だみたいなことを口にするのです。サイエンxトロジーとか福音派とか、終末論的なカルトとか、もうハイな状態で、被害者をカトリックから改宗させたりしてました。4人の子を失った母とかに、一人残ったのは神のご加護とか言ってるんです。医療施設を回って、片脚切断された女の子に、もう片脚が残ったのを神に感謝しろとか言ってるんです。切断された方のは神罰だとでもいうのでしょうか。 とにかく、心身の試練にいるさなかの人に宗教勧誘しちゃいけないというのはフランスなどでは法令化しています。子供にも。学校、病院、高齢者施設などの内部や近辺での勧誘禁止です。逆に、公立の病院にはチャペルがついてます。祈りたい人や宗教サービスを受けたい人は使えますが、信者でない人に働きかけることは一切禁止です。マザー・テレサの施設も、奉仕のみでいわゆる布教宣教はありませんでしたね。外部的にはひたすら奉仕だけ、という修道会はたくさんあります。 でも、つらい時、怖い時、絶望した時に、宗教を求めるのは人の常だし、ハイチでも、とにかく(カトリックだろうと福音派だろうと一応デフォルトがキリスト教なんで)、みんなイエスの名を叫んでいたそうで、そういう表現の手段があるのはいいなと思います。こういう時に、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になる人より、神にすがる人の方が圧倒的に多いのって、そういうタイプの自衛反応をする人間の方が生き残って子孫を残してきたという進化論の自然選択と淘汰の結果なんでしょうか・・・ でも、痛い人、苦しい人、つらい人が神の名を口にするのはいいけど、救助に来てくれる人、世話をしてくれる人は、心の中で祈っておいてほしい、と私はなんとなく思います。 あまり答えにはなっていませんが、アメリカ系終末論系の新宗教ヘの対策は、やはり餅は餅屋ということで、キリスト教老舗のプレーンがついているNPOに相談した方が、単なるしろうとの互助組織より信頼できて有効かも、と考えます。お友達の宗教活動が、何らかの個人の危機の解決法だったのか、あるいは「金太郎とまさかり」さんから見て、明らかに世界を狭めてネガティヴに変わったように見えるのか、そのへんもよくお考えください。
金太郎とまさかり · 2010-03-06 21:17:27 UTC+9 · 投稿 #478
はじめまして、金太郎とまさかり、と申します ハンドルネームで「申します」もないとは思いますが・・・ つい最近になって個人的事情によりキリスト教とものみの塔について調べていた時 竹下さんの「知の教科書 キリスト教」を書店で少し立ち読みしまして印象に残り 今は「カルトか宗教か」を拝読している最中です 著書の中の「人がカルトから離れるとき」の件で「エホバの証人」 と書かれているのですが「ものみの塔=エホバの証人」とはやはりカルトなのでしょうか? 私はものみの塔に関係している人間ではありません 古い知り合いが5,6年前からものみの塔に自ら入信し、活動に参加しています その事はつい最近知ったのですが 話を聞くと社会生活からどんどん離れていってしまうようで心配でしょうがありません 今の今までものみの塔はカルトっぽいなと思っていましたがよく分からなかったし とは言え、家族でもない自分のようなものが脱会のすすめなど到底出来ません 出来る事と言えば竹下さんの仰るとおりに自分のささいな日常を一方的にメールしていたくらいです 知人の親御さんは伝道を聞かない代わりに自由にさせているようです、話しを聞いた限りですけど どうすればいいんでしょうか? 本音としては脱会してもらいたい でも5,6年も教団の教えや仲間とのつながりの中で生きてきたわけですから もう知人の血肉の一部になっていると思うんです ひょっとして竹下さんにご相談する事ではないのかも・・・ もっとしかるべき機関に相談するべきなのでしょう もう少し時間がたてばひとりでも今よりは冷静に考えられるとは思いますが 不適切な書き込みと思われましたらお手数ですが削除お願いいたします では失礼いたします
Sekko · 2010-02-16 06:46:28 UTC+9 · 投稿 #477
クリマの小説には確かにSMやスカトロジーのシーンが出てきますが、彼のソリプシスムと明らかに連動してる哲学小説の面があります。社会主義政権が倒れた後すぐにプラハのある出版社がクリマの小説を他の匿名小説と共にキッチュな小説として出しました。それで誤解を招いているのかもしれません。 エリカのお勧めは1909年に彼が自分が神であるという啓示を得たときと並行して書かれた『チェコ物語』で彼の父親がモデルになっているようですが、その政治家のインセストシーンなど出てきます。でもその主人公は独我論にたどり着くのです。ストイシズムとマゾヒズムは同根で、神の創造の業はマゾヒズムの一種であり、クリマのソリプシズムも苦しみの中から生まれた、とエリカは言っています。『チェコ物語』は発見されている断片の半分くらいがチェコで出版されていますが、残りはエリカが持っているということです。 私は全集に入っている仏訳の Le Grand Roman を読みかけています。なかなか途方もないものです。
あがるま · 2010-02-06 22:36:11 UTC+9 · 投稿 #476
このサイトの主催者が亡くなつたことをお聞きし非常に残念です! <クリマ>は哲学者ではなくて売れないジャーナリスト兼小説家だつた - その小説も(まだ読んで居ないが)ポルノに近いものらしいから、哲学者からは相手にされなかつただらう。 <パトチカ>の履歴を出版社の頁で見て居たら、彼は若い頃デルプフェルト - 外科医のトワルトと同様シュリーマンの協力者で、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿とエレクティオンの間にある旧アテナ神殿跡(今ではDoerpfeld-Fundamentと呼ばれる)の発見者 - に従つて考古学を研究して居たらしい。 <未知動物> 以前、史的イエスの研究者のブロッグで文書による史的イエスの研究と一角獣の研究の何処が違ふのか質問した覚えがある、彼が何と答へたか忘れたが、私は同じ様に根拠のないもの - 将来一角獣の骨か化石かイエスの骨が発見された時のためには役立つかもしれないが(とクリプキが云つてた) - と今でも思つて居る。
あがるま · 2010-02-06 22:33:18 UTC+9 · 投稿 #475
このサイトの主催者が亡くなつたことをお聞きし非常に残念です! <クリマ>は哲学者ではなくて売れないジャーナリスト兼小説家だつた - その小説も(まだ読んで居ないが)ポルノに近いものらしいから、哲学者からは相手にされなかつただらう。 <パトチカ>の履歴を出版社の頁で見て居たら、彼は若い頃デルプフェルト - 外科医のトワルトと同様シュリーマンの協力者で、アテネのアクロポリスのパルテノン神殿とエレクティオンの間にある旧アテナ神殿跡(今ではDoerpfeld-Fundamentと呼ばれる)の発見者 - に従つて考古学を研究して居たらしい。 <未知動物> 以前史的イエスの研究者のブロッグで文書による史的イエスの研究と一角獣の研究の何処が違ふのか質問した覚えがある、彼が何と答へたか忘れたが、私は同じ様に根拠のないもの - 将来一角獣の骨か化石かイエスの骨が発見された時のためには役立つかもしれないが(とクリプキが云つてた) - と今でも思つて居る。
Sekko · 2010-01-27 20:08:08 UTC+9 · 投稿 #474
エリカは年末ずっとプラハで、学会記録の翻訳チェックをしていたんですが、パトチカの専門家と同室に詰めていて、彼女の発行したクリマの本が書架にあったに関わらず、彼らは全く本の存在すら知らなかったそうです。でも、年末の滞在で、ずっと探していたクリマの文章が一つ見つかったそうで、収穫はあったようです。今この瞬間にクリマに興味を持っているのは、世界でエリカと私とあがるまさんくらいですよ、きっと。エリカはクリマの思想ついてあれこれ考えているのは自分の他は私だけだと言ってましたから。
あがるま · 2010-01-26 12:50:21 UTC+9 · 投稿 #473
滞日中なのはプラハカレル大学のカレル・ノヴォトニKarel Novotnyです。 彼もクリマを読んで居るだらうから、今にクリマについても語りだすかも知れない。
あがるま · 2010-01-26 12:46:36 UTC+9 · 投稿 #472
滞日中のパトチカ(パトチュカ)の1月23日の講演に触れて居る。 彼に特徴的な現出と意味と存在の区別が不明確な『ノエマの現象学』が、フィンクの『自体的に現出する世界遊戯』に由来することは夙に新田義弘が指摘して居るが、クリマとパトチカの仏訳者が同じなのは重大な意味があるのだらう。
M.N · 2010-01-15 10:48:59 UTC+9 · 投稿 #471
お二人に感謝します。ありがとうございました。
あがるま · 2010-01-15 04:56:20 UTC+9 · 投稿 #470
存在論は論理学です バークレー僧正が『存在esseとは知覚されるpercipiことだ』と云つたことはご存知でせう。 存在を『がある存在』DaSeinと『である存在』SoSeinに区別するのは和辻哲郎以来だと思ひますが、それを適用すれば認識論は『である』であり存在論は『がある』になります。 アリストテレス以来の伝統では両者の区別はなく主語(基体)に述語を結合させた命題でもつて事態を端的に表現して居ました。 『存在は本質的に論理的であり、論理は単に主観的な心理現象ではなく、あくまで客観的な実在の表現』です。 ニコライ・ハルトマンはカントの存在論的解釈で『我々の認識が物自体の認識ではないならばそれは認識と云ふ事柄自身に撞着する』と云ふ訳です。 カントが『存在とは実在的な述語ではない』とか『観念論論駁』や『可能性の条件』と云ふのは心理学的解釈を擁護した訳ではありません。
Sekko · 2010-01-13 23:45:39 UTC+9 · 投稿 #469
認識論と存在論の違いは、かなり大きな問題です。哲学的にも、コンセンサスなどありません。「認識論と存在論の違い」でネットで検索すれば、いろいろな考え方が出てくると思います。 カントはそう言わないと思いますが、私はハルトマン風で、認識論は存在論を必要とし、認識し得うる関係の存在論だと思います。 つまり、存在論はかなり形而上的な話ですが、認識論はもっとプラグマティックで、認識するものされるものとの関係性が問題になるからです。 たとえば、M・Nさんが「存在している」かどうかは、少なくとも私にとっては、こうしてここで、私に問いかけてくださリ、私が答えることによって意味を持つものであります。逆に、ここを黙って見てくださっている他の方の存在は開示されない限り、私には意味を持ちません。私は最近、『無神論の系譜』(仮題)を脱稿したのですが、神の存在証明とか言うものも、そういう堂々巡りの連続でした。存在論と認識論と論理学の間を行ったり来たり。マザー・テレサが神を見失って苦しんでいたというのが、死後に、一部で話題でしたが、「聖人」と呼ばれる人たちで、神の存在に対する信仰は失わないけれど、神の不在(非存在でなく)に悩んだ人は少なからずいます。 私の音楽の生徒で6歳の少女が年末、突然、サンタクロースは存在しない、と言った時、私は、存在の仕方にはいろいろあるもので、私は信じている、もしあなたの両親を含む多くの人が信じていなければサンタクロースは存在しなくなるんだ、と答えました。サンタクロースの名のもとに、子供を喜ばせたいと親に思わせるのガサンタクロースの存在の仕方じゃないかって。 神には体とかないんですから、あるのは「情報の元」みたいなもんで、どこにでも宿せるから、自分の心に囲っておけるんです。 最近、ウィルスは微小すぎて遺伝子のような情報しかなくて、ミトコンドリアのように、人間の遺伝子も昔からウィルスを取り込んでは進化してきた、今もひょっとして進化のヒントを得るためにインフルエンザ・ウィルスなどを取り込むのだ、という趣旨の医学論文を読みまして、神と似てるなあと思ったところです。ウィルスは「火星人の襲撃」のように、実体を持った「敵」でなく、からだの中で増殖するわけでもなく、体がその情報を次々とコピーしてしまうだけなんだそうです。他者による受容がその存在の根幹というか唯一の実体であるような存在もあるんだなあ、と思うこの頃です。 質問の内容とずれてるかもしれませんが、クラシックな答えは他所で探してください。
M.N · 2010-01-07 11:38:48 UTC+9 · 投稿 #468
哲学でいう認識論と存在論はどう違うのでしょうか。 たとえば机の上にコップがあるとします。このコップがあるようにみえているが、 実際にはないというのが観念論で、あるように見えているし実際にもあるというのが 実在論とします。そこで認識論というのはコップがある(存在する)根拠を理路整然 説明するものだと思うのですが。そうであれば結局認識論=存在論ということにならないでしょうか。なぜ哲学では認識論、存在論などとわけるのですか。
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