宗教と金
についての特集があった時に、二年ほど前ですが、私はこのアナニアのエピソードを取り上げました。それらの記事をまとめた本が来年1月に出る予定です。
私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが、考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによって延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざんいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。
ただ、言えることは、宗教なんて、人間の営み、時代や文化や経済事情の中での人と人の関係なのですから、宗教そのものをカルトだとかどうとかそれこそ「格付け」する問題ではなく、自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、が問題なのです。どの宗教に属している誰でも独善的、排他的な行動をとることはあるわけですから。
でも、この私ですら、そういう広い視野を持てる時代なのですから、その今の時代の「カルト教団」が数百年後に立派な伝統宗教になっているとかは私は思えません。情報の力や歴史の分析などはやはり「蓄積」として長いスパンでは人をまともな方向(つまり連帯して生きていく方向)に向かわせると、思いたいです。
(一般論としては、『カルトか宗教か』(文春新書)で書いたことは今も通用すると思います。)
私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが、考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによって延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざんいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。
ただ、言えることは、宗教なんて、人間の営み、時代や文化や経済事情の中での人と人の関係なのですから、宗教そのものをカルトだとかどうとかそれこそ「格付け」する問題ではなく、自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、が問題なのです。どの宗教に属している誰でも独善的、排他的な行動をとることはあるわけですから。
でも、この私ですら、そういう広い視野を持てる時代なのですから、その今の時代の「カルト教団」が数百年後に立派な伝統宗教になっているとかは私は思えません。情報の力や歴史の分析などはやはり「蓄積」として長いスパンでは人をまともな方向(つまり連帯して生きていく方向)に向かわせると、思いたいです。
(一般論としては、『カルトか宗教か』(文春新書)で書いたことは今も通用すると思います。)