1 2 迷える大羊 · 2011-12-31 08:01:35 UTC+9 · 投稿 #587
>日本の「左派」というのが消滅に近い状況にあるからなのかもしれません。それはそれで心配です。多様な抵抗勢力がある社会の方が、一部の強者の暴走を牽制できるでしょうから・・・ それはその通りで、私にしたって、抹殺してやろうとはゆめゆめ思いません。でも、日本の左派って国家権力とは別の「強者」に阿ってるパターンが多いですし。 北朝鮮についていえば、例えば拉致事件についても無視、あるいは相当に証拠が出た段階でも「日本政府・韓国政府のでっち上げ」みたいなことをいってましたし、いよいよ否定できなくなると「植民地支配の清算をしない日本がどうのこうの」と絶対に北朝鮮政府への直接的批判は避けるんですよね。私には、本来の意味での「弱者」の味方にはみえません。 なんていうか、もうちょっと現実に即した理論なり、立場なりをとってもらいたい、って思います。本当の「弱者」がわかんなくなってきます。彼らの言説をみていると。 しかし、本当にカトリックとかキリスト教系団体が北朝鮮国内で「自由に」活動してるんですか?うーん、信じがたいですね。あの種の独裁国家において、キリスト教というのは、エイリアンが宇宙船に入り込むようなもの、中から食い荒らされるようなものだと思うんですが・・。 真面目に信仰すれば、どうしたって今の体制はまともなのか?って疑問を抱きますよね。そんなことがわからないほど、朝鮮労働党側もアホとは思えませんが・・。
Sekko · 2011-12-31 02:28:19 UTC+9 · 投稿 #586
私も今度のことで、金正恩にどの程度キリスト教の影響があり得るか調べてみようとしたのですが、今のところ具体的なことは見つかりません。ただ、ブログにも書きましたが、韓国のカリタス・コリアやパリ外国宣教会、韓国司教会議などを通じたNGOなどのパイプは、現在、しっかりつながっているようです。ピョンヤンのカトリック教会のミサに参加したフランス人ジャーナリストのドキュメントも見ました。アラブにおけるイスラミストと違って、民族宗教でもないこういうところから「民主化」へのきっかけができるといいのに、と思っています。 弱者の側に立つとか、飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませる、というのはキリスト教の基本姿勢なので、それは「政治的中立」に優先すると私は思います。 ただし、それを「日本政府」がどうとか「韓国政府」がどうとかという政治的言説にして批判するとしたら、日本のキリスト教協議会は、自国の信徒や一般人の「空気を読めない」ことはなはだしいですね。たとえばミッションスクールのカルチャーとしてのキリスト教シンパや信者の人に対しては、逆効果もいいところでしょう。 政治的な公正とか中立とかは、時代や状況によって変わるものですし、党派がどうあれ、明らかな「犠牲者」の側に立つアクションというのは、「無関心」や「見て見ぬふり」よりずっとましなことだと思います。今年の3月の時点で本当に韓国政府がNGOの食料援助を規制していたのだとしたら、キリスト教組織による抗議は必要だったのかもしれません。 今年はアフリカでもひどい飢餓難民が出ましたが、普段は帝国主義的姿勢をとったり移民に差別したりしているヨーロッパ諸国が毎日のようにキャンペーンを繰り広げ、大騒ぎして援助に駆けつけたのを見ると、「偽善者ですか、キリスト教的自己満足ですか」という突っ込みも喉から出そうになりますが、飢えている人の立場に立てばやはり、健全な反応かなあと思います。政治的な右や左の問題じゃなくて、強者と弱者の問題でしょう。 フランスのカトリックはもちろん、「保守」の側に秤が傾いていますが、「社会福祉」もその「保守」に組み込まれています。「カトリック左派」というのももちろんいますが、フランスで「左派」で活動しようと思ったら宗教色を出さずに政教分離の「共和国主義」の看板を掲げることになります。日本のキリスト教が左派的言動を表に出すことがあるのは、それだけ、日本の「左派」というのが消滅に近い状況にあるからなのかもしれません。それはそれで心配です。多様な抵抗勢力がある社会の方が、一部の強者の暴走を牽制できるでしょうから・・・
迷える大羊 · 2011-12-30 14:40:30 UTC+9 · 投稿 #585
「将軍様」崩御で、またまた話題を世界に振りまいている北朝鮮について。このニュースを見て思い出したのは、将軍様・金正日氏のお父上、首領様で「永遠の主席」こと金日成氏について。
先生の著作「ローマ法王」で金日成氏は外戚にクリスチャンがいて、食糧支援などの援助もその繋がりで獲得した・・という話があったように思ったのですが、本当ですか?
そういえば、あの国のロイヤルファミリーには、例えば、将軍様については白頭山(韓国人、朝鮮人にとっての霊峰、富士山のようなもの)のふもとにて、一番星の下、お生まれになった・・、と第三者からすれば、ホンマかいな?としかいいようない伝説が多くあります。
イエスについても、ダビデの末裔でベツレヘム生まれなんて、到底、事実とは信じがたい「伝説」が福音書で語られていますが、自らの「神格化」に当たって、聖書とかキリスト教を「参考」にしたんでしょうか?
思えば、スターリンも元は牧師になるべく、神学校に通っていた人物みたいで、共産主義って実のところキリスト教の裏返ったものなのかも?とよく思わされます。
ところで、以前から述べていますように、私は、なんていったらいいのか、左がかったもの言いに強い拒否反応がありまして。そんな私にとって、日本のキリスト教会の「左巻き」な言動の多さにはついていけない、と思うことが多々あります。
もちろん、私自身も含めて完全に不偏不党、中立、公正な組織、人間などというものは存在しないことは重々承知しているんですけれども、それにしても、これはないだろう、と思ったのは、日本キリスト教協議会(NCC)の今年3月の北朝鮮の食糧危機に関する声明。
http://www.kirishin.com/2011/03/ncc2011312.html 、「北朝鮮で食糧不足から餓死者が出ているという情報を日本のメディアが報道していないという現実、また、それと深く結びついていると思われる日本政府の一方的な韓国政府への肩入れというわたしたちの置かれている現実を深く自覚せざるを得ません」
あくまで悪いのは日本政府と韓国政府なんだそうな・・。いくら、キリスト教と左翼・左派系思想には親和性があるといったって、「左側」の不正やら矛盾には目を瞑るのが、キリスト教の「正義」なの?との疑問がいっぱい・・。
もちろん、前述したように、完全に公正な人間、不偏不党な人間なんていないでしょう。だからこそ、「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに」とか、確か、ヨハネの福音書だったと思いましたが、「正しい人など誰もいない」といった具合に、地上の問題について、信仰や教会の立場で特定の立場に肩入れすることを否定しているんじゃないの?と思うんですが。
どうしても、その種の政治運動がやりたければ、あくまで個人単位で、教会とか信仰を表に出さないで下さい、って思うんですけどね・・。
迷える大羊 · 2011-12-01 21:46:40 UTC+9 · 投稿 #584
イエスの教えとか行動をみて考えさせられることの一つは、本当に「いい人」「優しい人」ってなんだろうな?ってことですね。 で、キリスト教、というか、イエスの教えの本当のご利益っていうのは、世間一般の「いい人、悪い人」「優秀な人、劣った人」というくびき、「常識」から解放され、自分らしく、肯定して生きていける、ということじゃないかな、と思います。うまく、説明できないんですが・・。 パウロって、以前から、個人的にマイクロソフトみたいだなぁ、って感じてます。思想的には別にオリジナリティに溢れる・・、てわけではない、彼の功績は一にも二にもその営業マンとしての素晴らしいセンス。つまり、独創性あふれる考案はできないけれど、既存のものをとって、うまくパッケージングして、売って売って売りまくる。 売り込みの為なら、オリジナルをまるっきり書き換えることも辞さない・・。ビル・ゲイツ氏率いるマイクロソフトは、いろんなアイデアをごった煮的に入れては、それを協調性のない形で実装して広める、オリジナルを知っている人々は、「なんだこりゃ?」と怒るけど、一般ユーザー(信者)からすりゃ、とりあえず手軽に使えれば(救われれば)、なんだっていいんで、なんだかんだいわれつつも普及していく・・。 なんだ、パオロの布教、宣教の過程そっくりじゃん・・ってことで。怒られるますかね?こんなこというと。 もっとも、パウロがいなければ今ある、世界宗教としてのキリスト教はなかったわけですし、イエスの教えだけでは、ある意味エキセントリックすぎて、常識的な一般市民には受けなかった可能性も大。どちらがいい悪いではなく、イエスとパウロの二人がそろって、合わさって、初めて世界宗教・キリスト教なんでしょうね。 ま、ビートルズのレノン・マッカートニーみたいなものか。まったくどうでもいい話ですが、前教皇・ヨハネ・パウロ二世って、英語で読むとジョン・ポールだな、ってふと思い出しました。失礼しました。
Sekko · 2011-11-30 23:33:28 UTC+9 · 投稿 #583
イエスは子供はみんな天国に行けると考えてたように、多分、いろいろ保身を考えたりする大人の偽善性を一番嫌ってたのだと思います。共同体主義みたいなのも。 家族だから、血がつながっているから、同じ村出身だから、みたいな「なあなあ」もすごく嫌いそうですね。 でも、ただ弱い人間とか、懐疑や恐怖によって道を誤る人間には、わりと寛容だと思うんで、私は怖くないです。 スティーブ・ジョブスは私には、絶対、無理。 でも、イエスが上司だったら、そもそも商売はうまく行かないでしょう。 パウロの方がやはり(仕事の)上司としては適性があるかも、です。 でも、本当の意味で「偽善」を排するのって、凡人にはすごく難しいことで、「いい人」の9割は偽善とか妥協とか、あるいは単に「鈍い」のかも。 普通の人が「自然体」にしてたらエゴの固まりになるだけだと思うので、目いっぱい偽善を排して自分に厳しくして、それでようやく少しだけ他人に寛容になれる程度じゃないかなあ、とこの頃は思います。
迷える大羊 · 2011-11-29 23:49:27 UTC+9 · 投稿 #582
最近、携帯電話をスマートフォンに変えたのをきっかけに、スマートフォンの実質的な開発者であるスティーブ・ジョブス氏の伝記やら関連記事やらをいろいろと読んだのですが。 外から、一消費者としてみると確かにすごい人、天才、変革者、ですが、相当アクの強い人でもあったらしく、あちこちで衝突をし、自分の会社から追い出されたこともありますし、部下、社員には相当キツイ、厳しい要求をする、無能者は容赦しない人、実際に身近な人間として付き合うのはかなり厳しい、緊張を強いられるタイプの人だったようです(大病を患ってからは、かなり「丸く」なったみたいですが)。 イエスなんかも、外から、一信者としてみると「愛の人」「変革者」のイメージですが、実際に教祖、というか現実の上司、先輩として付き合ってみるとどうなんだろ?という気もしてきました。聖書のエピソードを読むと、かなりの過激派(テロリストってことではなく)だし、舌鋒鋭いし、皮肉屋だし・・。実際、ペテロなどかなりきつ~い言葉をイエスから投げかけられているシーンがしばしばありますし(引き下がれ、サタンが!、とか)。 実際に私なんかが、イエスに会って部下になったら、言動の矛盾を激しく罵倒されて全人格を否定されて追い出されて終わるのかも、という気がしないでもないです。彼の思想からして、身近な人間、血縁者だから優しくする、なんて発想はまずない、むしろそういう人間にこそ厳しくあたりそうですし・・。 まあ、冷静に考えて、単なる「いい人」「優しい」だけの人が、カリスマ的な人気を集めたり、逆に磔にしてやりたいほどの憎しみを買うこともないでしょうし。 いずれにしても、凡人が天才と付き合うのは大変、私自身は凡才でも、愚者でもいい、「いい人」とだけ付き合って平凡に暮らしたい・・・、なんて考えちゃいます。 実際、あらゆる虚飾、名声を抜きにした本当のイエスのキャラクター、性格はどのようなものだったのか?今となっては不可能と知りつつ、知りたくてたまらないですね。
Sekko · 2011-11-10 19:12:42 UTC+9 · 投稿 #581
ほんとうに、津波や地震で流されたり下敷きになって亡くなった方の恐怖や苦しみや、残された方の辛さを考えれば、できる限りの「闘病」をご家族の方と共に続けられることは、それだけで恵みだと言えるかもしれません。 今は痛みの緩和治療も発達していると思いますから、そのことでセカンドオピニオンを聞いたり、少しでも楽になる療法を探すのは当然だと思います。でも、エビデンス(有効性の統計的根拠)が重視される医学の世界ですら、医師との相性やめぐり合わせでまったく変わってくるのですから、霊媒師系は手を出さないのが一番です。 痛みを訴えながら亡くなった若い友人の最後の日にいっしょにいた体験がありますが、新興宗教にはまっていた彼女がなぜか聖母の不思議のメダイを握りしめていて、私はずっと彼女の腕をさすっていました。 闘病中のご家族にとって、F.T.さんの想いや、スキンシップは、どんな「除霊」より有効だと思います。どうか無力感にとらわれることなく、さまざまな苦しみも許容する港のような心境でいられますように。
F.T · 2011-11-10 12:34:42 UTC+9 · 投稿 #580
早速のお返事ありがとうございます。 病人をかかえているのは、私の方です。順調なときであれば、軽くスルーできたのですが、辛い時期には、ついそういう誘いに反応してしまいそうになります。その友人は、除霊(手かざし)を受けに信仰宗教のお寺にも足しげく通っていて、それにも誘ってきます。 でも病気やら不幸な出来事に見舞われている人なんて、いくらでもいるわけで、もっと言えば、3・11の津波であっという間に人生を奪われてしまったおびただしい数の人たちは、その先祖からのどんな因縁でそういう目にあってしまったわけ?と思っていました。 そのような誘いには、どこか弱みにつけこんでくるような気配を感じてならないのですが、弱っているときには、それに反駁するだけのエネルギーがなくて、不安感だけがあおられてしまっていました。「悪霊がついている」と霊能者に言われて、それを別の霊能者に否定してもらって、安心なさった、というお話に思わず頬がゆるみ、ほっとした気分です。 病人に対しては出来うる限りの手は、尽くしているつもりですし、あとは、痛みに寄り添っていきたいと思います。
Sekko · 2011-11-09 02:20:33 UTC+9 · 投稿 #579
占いだとか「スピリチュアル」系のグッズやパフォーマンスがサブカルチャーとして野放しになっている今の時代は、自分のスタンスを自覚していなければそういうものとの「依存」関係にはまってしまいがちなので、注意が必要だと思います。 明らかに「宗教」色を出しているものとなら、カトリックに軸足を置いている方は警戒することができるでしょうが、何となく迷信のようなものはかえって付き合い方が難しいですね。ご家族が闘病中というのはF.T.さんでしょうか。そのような辛い時期は、「藁をもつかみたい」時ですから、その状態の「説明」をしてもらって原因を取り除きたいという気持ちには誰でもなると思います。 私は、先祖が何とか、という言説は、個人的に一切受けつけません。先祖との関係は私たちの心の中にあると思うので、カトリックでの「聖人とのコミュニオン」のように、「先祖が守ってくれる」という信頼の連鎖であると思います。「先祖をちゃんと祀っていなかったから罰があたった」というような表現は、罪悪感につけこむマインド・ビジネスにもつながります。 気持ちの安定を求めるならカトリックの方なら闘病している方のためにミサをあげてもらうとか、信頼できる方に祈ってもらうとかも可能だと思います。 私は母が倒れた時に、ある神父さまに「お母様にとって一番いい結果になるように神さまに祈ります」と言われてすごく楽になりました。 また、去年、肩を傷めて痛みに苦しめられたので、早く楽になるなら何でもしようと、ダメもとだと思って霊能者にも見てもらいましたが、「生き霊が憑いている」と言われました。そんなことは信じないけれど、反証することすらできないブラックゾーンですから気分が悪く、結局、別のポジティヴな霊能者から「そんなことはありませんよ」と言われてやっと落ち着きました。 占いでひどいことを言われたことも過去にあり、それを回避するには特別の祈りが別料金で必要と言われました。その時も、「そんな人を信じてはいけない。何の問題もない」と言ってくれる別の占い師に否定されるまで気分が悪いでした。 ドクターショッピングのようにスピリチュアル系を渡り歩くと、実にいろんなことを言われるものです。ポジティヴでいいところだけキャッチすることでストレスを軽減するスキルのない人は、最初から近寄らない方がいいと思います。 それに、病気でいうと、先祖から受け継いだ遺伝子でさえ、病気に決定的なものでなく、生活習慣や環境汚染やいろんな要素が複合しているのです。 ちゃんとした情報を集めて読み解いて、試行錯誤し、精一杯手を尽くし、それでも治る見込みがないとしたら辛いですが、病気の人に寄り添ったり大切に思う気持ちや感謝の気持ちなどを伝えたりすることで、病気にも死にもさえも切り離されることのない絆を深めることは可能だと思います。 愛は死より強し、と言いますが、それは「愛はたいていのものの前で屈するのに、「死」にだけは屈しない」、という意味だという人もいて、本当だなあ、と最近思います。 苦痛や不幸の原因を先祖などもろもろの他者や他のことに転嫁するのは逃避の一種で、それを分かっていながらマネージメントする自信があるなら、他の人に迷惑をかけないなら、それも「方便」でしょう。 逃げ道や言い訳がたくさんあった方が柔軟に生きていけるかもしれません。でも、本当に老いや病気や死を前にした重大な危機の前には、かえって耐性がなくなって心が折れてしまうか、悪意の人に騙されてしまうかもしれません。 まあ、何にしろ、今「はまってしまっている」人とは同じ土俵で話し合えないので、やんわりと無視するのがいいと思います。私が役に立てそうなことがあれば遠慮なくおっしゃってください。
F.T · 2011-11-08 15:39:53 UTC+9 · 投稿 #578
ご著書を読ませていただいています。カトリック信者です。 友人(やはりカトリックです)が、霊能占いの類に関心が深く、そういうところで前世をみてもらったりして、今の不運な状況を因果律で説明を受けては、「当たっている」と深く納得しています。家族が闘病中で、私にも相談に行くように強く勧めてきます。病気というのも先祖、家系などに伝わるあらゆるものの融合体の現象だとか・・・食べ過ぎたらおなかを壊す、という因果関係は、わかりますが、先祖にこういうことがあるから、その連鎖で不幸や病気がおとずれるという発想に違和感を覚えます。イエスの時代に、悪霊がついているから、そのような病気になる、と阻害された病人に重なります。自分に深い悩みや迷いがあるときは、ふとほだされそうになるのですが、このような発想をどのようにとらえたらよいでしょうか。もしかしたら、友人は一種のカウンセリングのような効能を感じているのかもしれないのですが・・
迷える大羊 · 2011-11-07 19:56:22 UTC+9 · 投稿 #577
http://spinou.exblog.jp/17063887/ 先生のブログ最新版(11/7)の欧米の政教分離についての記述に興味深く拝見、かつ、ああなるほどね、と思わされました。これ、兼ねてから関心のあった話でして。ていうのは、日本のキリスト教会って、とかく靖国神社だとか、建国記念日とか国家神道の絡む事項に関し「政教分離」を大義名分としてて非常に敏感かつ、批判的なところが多いです。
私が知る限りでは、日本のキリスト教会で公文書に元号を使用するのは確か「救世軍」だけだったような・・。
もちろん、戦前のある時期から戦時中に至る時代に非常に屈辱的な妥協を国家権力によって強いられた歴史は確かにありますし、理解できないわけでもないのですが、いつも、思うことは、「そういう欧米のキリスト教主流の国家の政教分離はどうなってるの?」ってこと。
私が知る限りでは、先生がおっしゃる通り、本当にきっちりと「政教分離」しているのはフランスぐらいで、聖書に大統領が宣誓するアメリカなどがいい例ですが、日本と引き比べて格別、政教分離がしっかりしているような感じでは・・、というのが正直な感想。
キリスト教側の「政教一致」は批判しないの?何とも思わないの?って心の中でいつもツッコミを入れていました。
某キリスト教関係のサイトでその辺りを突っ込んでも、左派系政党の引き写しやら、欧米人目線みたいな反応ばかりでどうにも納得いく個人的に論説がみられませんでした。
うまく、言葉で説明できないけれども、
>G20における日本の立ち位置というのは、「欧米」先進国と同じように疲弊して低成長なの>に、「老獪パワー」仲間に入れてもらえるパスワードを有していない、空気を読めないヒ>トみたいだ。
日本のキリスト教会には上のような状態にある日本とか日本人と「欧米」先進国の橋渡しというか通訳のような存在になるべきなんじゃないの?外からの借り物思想で日本的伝統を否定ばかりしてないでさ、と思ってしまいました。
内村鑑三とか新渡戸稲造とか明治のクリスチャンはそういう人多かったように思えますが。
まあ、ユーロはかつての共産主義のような「壮大な社会実験」に終わりそうな予感が個人的にはしますです・・。
迷える大羊 · 2011-10-10 20:36:58 UTC+9 · 投稿 #576
>私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが そうなんですか。私の家内に、こういう聖書の「アラ探し」みたいな話をすると、かなり嫌な顔されたり、怒られたりしましたが・・。もっとも、今は私の影響?を受けたのか、全く動じない、むしろ、自分から変なところ探して面白がっておりますが・・。 ただ、関わっている教会の関係者の方なんかだと、やはり、聖書はとにかく正しいんだ、意味があるんだ、みたいにとらえてる人が多くて。 やはり、カトリックの方が聖書との距離の取り方が適切、というか緩いのかな?って思ったりしますね。 >考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによっ>て延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざ>んいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。 そうでしょうね。ただ、この神学とか哲学とかいうものに対する基本的な教養が私には決定的に欠けておりまして。それではいけない、とその手の本を読んだこともなくはないのですが、あまりにもクソ難しくて・・。とにかく、脚注の脚注の脚注のものすごい、多重ネスティングで、私の頭脳では結局、なんだったんだ?、でして。 結局、エラそうなことを言っているようですが、私のやっていることって、聖書を買ってきて、とにかく読んでみる、参考書、解説書に頼る(頼ってもわからない)ことなく、そのままストレートに読む・・、だけでして。で、単純に読んでみた結果、これなんだ?おかしいじゃないの?みたいな話をこちらでさせていただいているわけです。 リアルの教会はどうかっていいますと、全部が全部がそうってわけではないですけど、これまた、聖書のわかりやすいところ、誰もが理解でき感動できるところばかりを繰り返して読ませる、で、こんなアラ探しみたいな話はスルーされ、なかなか付き合ってくれませんね。 >自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、 結局はそこに尽きますね、確かに。でも、それはそれで難しい話ではないか?と。まあ、犯罪とか第三者に迷惑をかけるのは論外にしても、どんなにお金を好き放題に巻き上げられても、どんなに度外れた奉仕を強いられても、自分が満足なら、その人にとってはカルトではない、って見方もできちゃうような気がしますが・・。 プロテスタント教会にはカルトからの信者救済に頑張っている人が結構いたりするものですが、そういう方から聞いた話によれば、入信してしまった人は、絶対に自分は正しいと思っていますし、それを脱会させるためには、「逆洗脳」、つまり洗脳と同じ方法で、こちらの世界の常識を叩き込みますから、やってる人も自分がやってることが妥当なのかどうかわかんなくなってしまうこともある、って言っていましたが・・。脱会者も、とりあえず理屈とか頭では、自分が間違っていたことを理解しても、生き甲斐というか、張りを無くしたような状態になる場合がある、との話も聞いたような。 正直いって、私にはわからないことだらけです(何が正しいか?正義か?について)
Sekko · 2011-10-10 17:48:42 UTC+9 · 投稿 #575
についての特集があった時に、二年ほど前ですが、私はこのアナニアのエピソードを取り上げました。それらの記事をまとめた本が来年1月に出る予定です。 私も聖書の中のこういう一見して「絶対、変」という箇所にこだわるのがわりと好きなのですが、考えてみてください、キリスト教神学論争がヨーロッパの最高の知性の持ち主たちによって延々となされてきた歴史を。私や大羊さんが突っ込みたくなる部分なんて、もうさんざんいじくりまわされているんですよ。納得のいく答えだっていくらでもあります。 ただ、言えることは、宗教なんて、人間の営み、時代や文化や経済事情の中での人と人の関係なのですから、宗教そのものをカルトだとかどうとかそれこそ「格付け」する問題ではなく、自分が自分の時代と自分の共同体の中でどう行動するか、が問題なのです。どの宗教に属している誰でも独善的、排他的な行動をとることはあるわけですから。 でも、この私ですら、そういう広い視野を持てる時代なのですから、その今の時代の「カルト教団」が数百年後に立派な伝統宗教になっているとかは私は思えません。情報の力や歴史の分析などはやはり「蓄積」として長いスパンでは人をまともな方向(つまり連帯して生きていく方向)に向かわせると、思いたいです。 (一般論としては、『カルトか宗教か』(文春新書)で書いたことは今も通用すると思います。)
迷える大羊 · 2011-10-10 14:10:46 UTC+9 · 投稿 #574
について、なんだかよくわからなくなっています。よく言われるカルトとまともな宗教の見分け方は、カネにシビアっていうか汚くない、危機感を煽ったりして恐怖で人を縛らない、ってことですが、それをいうなら、初期キリスト教会は「アウト」になりませんか?実際、ローマの歴史家タキトゥスは「有害な迷信」として、「カルト」扱いしてますし・・。 イエスとか初期キリスト教も「世の終わりは近い! 悔い改めよ!」みたいなこと言っているし、カネについても、聖書にこんな話があったりしますし・・・。 使徒言行録5章1~11節(新共同訳聖書より) 1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、 2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。 4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。 6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。 7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事をしらずに入って来た。 8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。 9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」 10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。 11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。 要するに、財産を正直に差し出さないと、献金しないと、天罰が下るぞ!って話ですよねこれ?しかし、献金額を多少偽ったくらいで、人が死ぬのなら、今ごろ、日本中、いや、世界中の教会は死体だらけじゃ??。それよりなりより、献金をごまかす奴には死を!なんて発想がなんだか・・。 聖書についても、正典にすら、イエスの「過激発言」はいろいろあるし、さらに、いろいろ聞いたり調べたりすると、正典には入らなかった福音書群やイエスの幼児期の物語とかには、イエスと肩がぶつかったから呪われて殺されたとか、イエスが遊んでいたのを邪魔したから呪われてすぐ殺されたとか、そういうのは割とありふれた形で転がっているみたいで・・・。 これでは救世主どころか、「恐怖新聞」とか「エコエコアザラク」の黒井ミサです(ご存知なければ、すみません、70年代のホラーマンガです)。 こういうキリスト教初期の歴史から鑑みるに、今カルト、異端扱いされている、某教団も、政界との関係が取り沙汰されるあの団体も、何百年か後には立派な「伝統宗教」となり、教祖や開祖に向けられた社会的非難、取り締まりは「法難」とか「迫害」ってことになるんでしょうかね? 教祖、開祖が如何に凶悪犯罪を犯そうとも、死刑判決などもっての他で、それこそ、「尊師は我々の罪を背負って神に召されたのだ!」なんて話になりかねない?反キリスト教の立場からすれば、ローマ総督ピラトは実に愚かな判断を下したものです。 まともな宗教とそうでない宗教、教団、教会の境界線、違いってなんでしょうね?なんだかわからななくなってきました。
迷える大羊 · 2011-07-25 20:37:21 UTC+9 · 投稿 #573
お相手恐れ入ります。 まあ、聖書はイエスの容姿について、何も語っていませんからねぇ。常識的に考えれば、大きくも小さくもない、イケメンでも不細工でもない、ごくごく普通のユダヤ人男性ってことになるんでしょうが・・。 >『聖骸布の仔』(中央公論新社) 何やら、「ジェラシック・パーク」のイエス版みたいな話ですねぇ。ところで、なんでこんなスレをたてたか、と申しますと、前にも触れましたけれども、キリスト教の世界には、聖書やイエスにまつわることなら、なんでも「都合よく解釈」する人々がいて、たとえば、旧約聖書の、第三者からすると、どうみても残虐、ひどい話としか思えない、列王伝とかヨシュア記、ダビデの所業の部分をみても、「聖書は侵略行為を決して正当化していない(どこが?)」なんて言い張ったりするし・・・。 また、福音書にチラチラ出てくるイエスのダークな部分、例えば、故郷で敬われなかったエピソードは、「それはイエスの正体を罪に満ちた不完全な人間たちには理解できなかったからである」とか、家族関係が悪かったように見える場面も「肉による家族には理解できなかったのである」・・、なんて、おいおい、よくそんな、都合よくというか、「相手が悪いんだぁ」みたいな自己中な解釈ができるもんだなぁ、と半ば感心、半ば呆れることがあるからなんです。 まあ、なんていうか、そこまで何事も自分側に都合よく物事を考えれば、人生に悩みは少ないだろうなぁ、確かに「信じる者は救われる」だよ、と思ったと同時に神様を信じるって、そんな風に何でも自分側に都合よく物事を考えることなのかしらん?という疑問があるもので・・。ま、私の周囲だけの話かもしれませんが。 そんな人々が、リアル・イエスを知ってしまって、なおかつ、それが自分の思い描いていた「イエス様」とまったく違っていたら、どう反応するのかしら?というちょっと意地の悪い疑問というか、想定を考えてしまったんですよね。 まあ、イエス様は今まで通り、ヴァーチャルな神様であり続けた方が無難だし、世のため、人の為なのかもしれませんね。 それにしても、こういうヴァーチャル神、アイドル、イエスを作り上げた、パオロのプロデューサー的な才能は大したものだなぁ、と改めて思います。
Sekko · 2011-07-25 00:39:54 UTC+9 · 投稿 #572
迷える大羊 · 2011-07-24 13:11:15 UTC+9 · 投稿 #571
今から10年も前の話ですが、BBCで放送された科学ドキュメンタリー番組「神の子」にて。
なんでも、マンチェスター大学法医学教室が、エルサレムで大量に発見された紀元1世紀のユダヤ人の人骨群の中から、当時の典型的なユダヤ人男性の頭がい骨を選出して「イエスの顔」を復元したそうで。
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhb616.html クリスチャンの方とかキリスト教圏の人々にとって、やはり「実在したイエスの姿、声、振る舞い」、つまり、リアル・イエスに対する関心は昔から高いようですね。
しかし、史料があまりに無さ過ぎて、結局、行けども、行けども推測の域を出ず、確か、100年くらい前だったか、ドイツのブルトマン(でしたっけ?)って神学者が
「聖書の記述はあまりにも神話的な表現に彩られていて、歴史のイエスを知る事はほとんど不可能だ」
なんて言って匙を投げてましたね。要するにヴァーチャルでないリアルなイエスについてはさっぱりわからない、てなことで。
ところで、考古学とか歴史学が将来、飛躍的に発達して、極端な話、タイムマシンが実現して、リアル・イエスの姿が判明した場合、クリスチャンの信仰心にどういう影響が生じるでしょうね?
ヴァーチャルでない、生身のリアル・イエスが「発覚」「発見」された場合、アイドルがスキャンダル発覚、才能の枯渇、加齢などで「幻滅」され人気が落ちるように、イエスについても同様なことが起きないでしょうか?
思うのですが、リアルな生身の「人間」としてのイエスは綺麗ごとでない面が多々あるでしょうし。福音書ですら、故郷での評判は至って悪かったこと、家族関係はよくなかったことが、それとなく示唆しているくらいですしね。
SF小説にも、英国のマイケル・ムアコックの「この人を見よ!」なんて、タイムマシンで2000年前の世界で、リアルのイエスやマリアに会ったものの、まったくの俗人で、失望し、結局、主人公自身が「イエス」の役割を歴史上で演じてしまう・・、なんて話がありましたね。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%88-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%AB-SF-444-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4150104441 迷える大羊 · 2011-06-17 21:45:08 UTC+9 · 投稿 #570
お忙しい中、どうも。 >政教分離 日本が鎖国中の18,19世紀にフランスなんか、かなり政教分離が進んじゃいましたからねぇ。今でももっとも「真面目に」政教分離している国ではないでしょうか?フランスって。 ただ、日本においてはなんだかんだいっても信者数はカトリックの方が多い(プロテスタントより)ですね。カトリックは一般人にターゲットを絞って、プロテスタントと棲み分けたのかしらん?と勝手に想像してしまいました。 >サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙 あの神風特攻隊の日本のイメージダウンに果たした役割は果てしないものがありますね。もちろん、個々の特攻隊員には同情しますけども。それにしても、今だにサムライが日本のステレオタイプになるくらい、日本の現状って一部を除く海外の国々には知られていない事実には溜息がでますねぇ。 しかし、単純に国力だけみれば、中国に抜かれたとはいえ、世界有数のもの。そんな国がこれだけ存在感が薄い、ということは今まで世界史上であったんでしょうか?
Sekko · 2011-06-16 06:17:59 UTC+9 · 投稿 #569
>幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね? >ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。 やはり、当時の知識人階級が「洋学」を吸収するのとセットとなって入ってきたからではないでしょうか。いくら「和魂洋才」といっても、19世紀後半にピークに差しかかっていた西洋近代進歩思想は、特にプロテスタント国やWASP文化と結びついていたから、洋「才」を学んだエリートが洋「魂」にも染まったのは不思議じゃないと思います。 それに比べてフランスなどカトリック国は、その時代、もうがちがちの政教分離へと向かっていたので「洋魂」部分はかなりパーソナルなものになっていたかと思います。 もちろんフランスのパリ外国宣教会などは、開国した日本に宣教師を送っていましたが、17世紀に壊滅したはずの幻のキリシタンの子孫を見つけようといったところにロマンを見出していたような気もします。 要するに、カトリックは16世紀にイエズス会とかフランシスコ会とかが、かなりがんばって日本で布教したのに弾圧されて大量の殉教者を出して、一度、ストーリーが終わっていたわけです。それでも、それに対するノスタルジーみたいなのはずっと語り伝えられていたわけで、そのこだわりはなかなかでした。隠れキリシタン発見の感動ストーリーなど有名ですね。 16世紀末から17世紀はじめにかけての大量殉教者と武士道との関係を述べる人もいますよ。 あの頃すでに戦略として大名が宣教されたこともありますし、家長が改宗したら一家郎党全員改宗という感じだし、一度改宗したら後でいくら迫害されても「節を曲げない」というのも武士的美学のうちだし、それなりの相性はあったのかもしれません。 サムライは、カミカゼとテロリストが結びつけられて以来かなりイメージが微妙ですが、今でもフランスでは柔道や合気道のスポーツクラブによくついている名前だし、ネガティヴではないと思います。ま、教養人というよりはやはり体育会系のイメージですけれど・・・
迷える大羊 · 2011-06-15 22:13:56 UTC+9 · 投稿 #568
先日、新聞の中の方をペラペラサクサク見ておりましたら、2013年のNHK大河ドラマは、新島襄の妻・新島八重を主人公とした描き下ろしドラマに決定とか。
新島襄はいわずと知れた、明治6大教育家の一人であり、クリスチャンであり、彼の創設した同志社大学はいわゆるミッションスクールです。その新島襄は安中藩士の家に生まれていますし、「武士道」で有名な新渡戸稲造(は盛岡藩士の息子、津田塾大学の津田梅子は旧幕臣の娘、内村鑑三(高崎藩士の家)、坂本竜馬の甥の坂本直寛・・、といった具合に、今さら何を、と思われるかもしれませんが、幕末・明治時代のクリスチャンは元武士(どちらかといえば旧幕府側が多いような)が非常に多いですよね。どうしてでしょうね?
ただし、ほとんどプロテスタントでカトリックは全く聞かない(知らないだけかもしれませんが)、これまたどうしてでしょうね。
個人的には、元新撰組で、坂本竜馬を斬った疑いが濃厚な今井信郎氏とか、元新撰組なのかどうかはあやふやですが、結城無二三とかに興味ありますね。単純にあの斬ったはったの血で血を争う抗争に明け暮れた日々からクリスチャンというのはなんともすごい転身、いろいろな紆余曲折、第三者からみると面白い人生を歩んだんだろうな、と思いますし。
ところで、サムライといえば、海外では未だに日本のステレオタイプの主要な位置を占めているようですが(こんな動画がネット上に腐るほどありますし)、
http://www.youtube.com/watch?v=1-C40DliUTI&feature=player_embedded そのイメージは肯定的なものなんでしょうか?それとも否定的なものなんでしょうかね?
ただ、いずれにしても有名なのは戦士、軍人としての部分で、こういう側面(宗教家、教養人)はあまりしられていないんだろうなぁ、とは思いますが・・。
koyano ton · 2011-06-06 12:59:34 UTC+9 · 投稿 #567
どうもありがとうございます。リオタールの使い方はヘーゲルを前提にしたもので、竹下さんはポパーに言及しているので、ヘーゲルを踏襲するのは変だなと思ったのです。また、私の考えでは、人権・自由・平等といった理念は未だ全然否定されていないので、ポストモダンはおかしいだろうと思ったのです。
Sekko · 2011-06-05 23:14:22 UTC+9 · 投稿 #566
私の『陰謀論にダマされるな!』(ベスト新書)で使われているのは、陰謀論を解説する心理学者が使っているという文脈だと思いますが、そこでは、ごく普通に、つまりWikipedia なんかで出てくる程度の意味です。「大きな物語」の終焉とあるように、リオタール風の意味でもあります。世界は民主主義と人権主義、自由平等、という方向に向かって「進歩」していくはずだし、進歩しなくてはならないという確信に基づいた歴史観があって、それに基づいたシナリオが構成されていたのが「西洋近代」であり、ポストモダンとは、その西洋中心史観が崩れて脱中心、相対主義が基本になった、という意味です。歴史の流れを説明する教科書的権威が否定されたので、そこに陰謀論が繁殖する土壌が用意されたという感じでしょうか。 私個人的には、「西洋近代」とは、キリスト教的理念の非宗教化、世俗化ととらえているので、ポストモダンとは、「西洋近代」の基盤をなす世俗化されたキリスト教的理念の否定だと考えています。「西洋近代」は反教権的イデオロギーの理神論に拠って打ち立てられたもので、ポストモダンは、さらにそのイデオロギーを否定したものであり、そのままでは「非キリスト教社会」の文化の文脈には組み込めないものだと考えています。つまり、20世紀後半にフランス構造主義などによって広く共有された近代批判とは区別して考えています。 『陰謀論に・・・』は、その前の『無神論』とセットになって構成されたものです。 これについて話し出すと長くなるので、ここではこれだけで失礼します。
koyano ton · 2011-06-05 15:24:17 UTC+9 · 投稿 #565
竹下さんお久しぶりです。小谷野敦です。震災以来、まともな知性の持ち主まで陰謀論にはまっていて困って竹下さんの本を見てみました。すると「ポストモダン」という語が出てきたので気になりました。私はポストモダンというのは建築の用語以外には使えないと考えていますが、竹下さんはどういう定義で使っておられるのでしょうか。
Sekko · 2011-04-11 07:53:42 UTC+9 · 投稿 #564
エクリチュール千代丸さまへ 哲学質問箱と言った言葉で検索してここにたどり着かれたのかとお察ししますが、申し訳ありませんが、ここは一般的なあるいは教科書的なお答えをする場所でないので、別の質問サイトや、あるいはキイワードの検索でお調べください。 ここを見ていらっしゃる私の読者のみなさんのためにひとこと付け加えておきますと、私は、カトリック神学と現象学の関係に非常に興味を持っています。 フッサールの弟子だったエデイット・シュタインが現象学を捨てて神学に向かったのとは反対に、後にヨハネ=パウロ2世となるカロル・ヴォイティラ(以下JP2)は、神学と現象学(これもシュタインと同じくフッサールの弟子でユダヤ系でカトリックに改宗したマックス・シェーラーの価値倫理学がJP2の学位論文)を統合しました。スコラ哲学のトマス・アクィナス神学を現象学によって読み替えたのです。トマス神学では、神にのみ絶対の権利を認め、人間同士の権利や義務は相対的な関係性にあるという立場でしたが、JP2は、倫理や価値は人間の外にあるのではなく人間の自己像という意識化と切り離せないものだと考えました。 私が行動を起こす、という能動と、何かが私の中で起こる、という受動の二つが、内在性と超越性というものが同時に作用しあうという意味で、自己表現に結実すると考えたのです。(Personne et Acte) まあ簡単には説明できませんが、結論から言うと、現象学的倫理学に依拠するカトリック神学を模索した結果、JP2は「基本的人権は共同体に優先する」という方針に至ったわけです。それまでのカトリック教会は、そこのところが曖昧というか、自分たちも共同体優先だったので、20世紀の全体主義や全体主義的共産主義に対して明確な弾劾ができなかったのです。 ところがJP2はトーミズムの現象学的再考によって、むしろ福音書のイエスに近いラディカルな平等主義、個人の尊重、共同体の縛りからの解放、自律としての自由を志向したので、あれほど徹底した社会主義陣営との戦いを展開できたわけです。 これらについては今準備中の本でもう少し分かりやすく解説するつもりです。 ここではこのテーマは打ち切りですのでよろしく。
エクリチュール千代丸 · 2011-04-06 21:22:03 UTC+9 · 投稿 #563
「実存主義者である、ハイデッカーやサルトルも、文献によれば現象学の部類に入っています。 彼らの説のどの部分が、現象学なのでしょうか?
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