ルチアさま
>事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」
というところですが、記者さんの名誉のために申し上げますと、私も驚いて問い合わせたのですが、私が今カトリックであることに気づかなかった、というお話でした。記事の確認を事前にしなかったことが一番の問題で私にも責任の一端はあります。私は都会の核家族で育ったので、葬儀社以外から家族の宗旨を聞かれたこともありません。多分日本の多くの人がそうでしょう。
フランスのカトリックの多くもそうで、十代初めのコミュニオン・ソロネルという儀式(家族が集まるイヴェントとしては大事)の後は、教会に縁がない人が多いです。後は、結婚(これも事実婚が多いので教会で結婚する人は少なくなってます)とか自分たちの子の洗礼(これはお宮参りと同じで家族の大事なイヴェント)の時に洗礼の日付と場所を聞かれたり堅信をしているか聞かれたりすることでアィデンティティが出てくる感じです。
これに対してフランスで成人してから仏教徒になった人は、ちゃんと瞑想会や勉強会に行ったり、菜食主義になったり、ダライラマを追っかけたり、自分は仏教徒だというアィデンティティがちゃんと見えます。
私のカトリック感覚(帰属意識としての)はフランスのリベラルなカトリックに近いのであまり気にしていず、日本でも宗教の帰属意識が希薄な普通のうちに育ったので、他の人の宗教意識をチェックする習慣もありませんでした。それで、ずれが生じているのだと思います。フランスでカトリック雑誌からインタビューを受けたことがありますが、その時も別にカトリックかどうかなど聞かれもせず書かれもしませんでした。
でも切実な帰属意識のある方や受洗を迷っているような方にとっては、それは大切なポイントなのでしょう。
逆に、私のポジションのそういう「ずれ」にポジティヴな可能性を見てくださる方もいるので、そして、もしそういう方の方に私はより多く役に立つとしたら、このまま行こうと思っています。
私の中にある複数のアィデンティティは、私がそうで「ある」ことを規定するものではなく、私がそう「なる」ことに向かわせてくれる補完的な活力源だと思っています。それはやはり他者との関係性の中で醸成されるものだと思います。
一つ言いますと、この日経の記事を読まれたあるカトリックのシスターが、今朝メールをくださって、次のようなものでした。
「西洋中心の国際社会に対して、日本が逆にキリスト教的価値を突きつけるくらいにならないといけない」。ほんまにそうです。(絶対にそうはならない、なれない日本ですけれどね。) いいことを書いてくれたと思います。朝日や三大新聞がこういうのを載せてほしいですね。
(中略)
竹下さんが大いにお働きになれる場を神様がくださいますように。ところで上の記事、あのままでは竹下さんは「カトリックではない」ことになりますね。それも真実ではないですね。ただ、あぁいう記事を書くときはカトリックでない方が、好都合ですが。
(引用終わり)
ということで、むしろ「いいこと」に注目していただいたのはありがたいことです。そして誤解とはいえ記者さんの意図もくんでくださっているので、ありがたいと思い救われました。
さて、
「万軍の神なる主」についてですが、
日本語の共同訳でイザヤ6-3 を今見ましたら、確かに万軍の主となっているのですね。
Sabaothは軍隊だけでなく、組織された集まりを指すので、ここでは宇宙を司る神の意志を実行する天使の軍団のような意味なのでしょう。
でもここで「軍」という言葉を入れると誤解されるというのでフランス語でも「天の」という形容詞をつけて緩和してきた歴史があるそうです。
今はもうたいていのフランス語の聖書はSabaothとそのまま書くか、Dieu Maitre de toutすべての主である神、Dieu tout puissant最強の神みたいな訳になっていて、ある領域の支配者の暴力装置としての「軍」という誤解を避けるようになっています。(私の使っているLa Bible de Jérusalem ではSeigneur Yahavé Sabaot です)
訳文にはいろいろな歴史の文脈もありますし、普通の人はあまりこだわらない方がいいんじゃないかと思います。(こういうことを書くとまたどなたかから叱られそうですが…)
というところですが、記者さんの名誉のために申し上げますと、私も驚いて問い合わせたのですが、私が今カトリックであることに気づかなかった、というお話でした。記事の確認を事前にしなかったことが一番の問題で私にも責任の一端はあります。私は都会の核家族で育ったので、葬儀社以外から家族の宗旨を聞かれたこともありません。多分日本の多くの人がそうでしょう。
フランスのカトリックの多くもそうで、十代初めのコミュニオン・ソロネルという儀式(家族が集まるイヴェントとしては大事)の後は、教会に縁がない人が多いです。後は、結婚(これも事実婚が多いので教会で結婚する人は少なくなってます)とか自分たちの子の洗礼(これはお宮参りと同じで家族の大事なイヴェント)の時に洗礼の日付と場所を聞かれたり堅信をしているか聞かれたりすることでアィデンティティが出てくる感じです。
これに対してフランスで成人してから仏教徒になった人は、ちゃんと瞑想会や勉強会に行ったり、菜食主義になったり、ダライラマを追っかけたり、自分は仏教徒だというアィデンティティがちゃんと見えます。
私のカトリック感覚(帰属意識としての)はフランスのリベラルなカトリックに近いのであまり気にしていず、日本でも宗教の帰属意識が希薄な普通のうちに育ったので、他の人の宗教意識をチェックする習慣もありませんでした。それで、ずれが生じているのだと思います。フランスでカトリック雑誌からインタビューを受けたことがありますが、その時も別にカトリックかどうかなど聞かれもせず書かれもしませんでした。
でも切実な帰属意識のある方や受洗を迷っているような方にとっては、それは大切なポイントなのでしょう。
逆に、私のポジションのそういう「ずれ」にポジティヴな可能性を見てくださる方もいるので、そして、もしそういう方の方に私はより多く役に立つとしたら、このまま行こうと思っています。
私の中にある複数のアィデンティティは、私がそうで「ある」ことを規定するものではなく、私がそう「なる」ことに向かわせてくれる補完的な活力源だと思っています。それはやはり他者との関係性の中で醸成されるものだと思います。
一つ言いますと、この日経の記事を読まれたあるカトリックのシスターが、今朝メールをくださって、次のようなものでした。
「西洋中心の国際社会に対して、日本が逆にキリスト教的価値を突きつけるくらいにならないといけない」。ほんまにそうです。(絶対にそうはならない、なれない日本ですけれどね。) いいことを書いてくれたと思います。朝日や三大新聞がこういうのを載せてほしいですね。
(中略)
竹下さんが大いにお働きになれる場を神様がくださいますように。ところで上の記事、あのままでは竹下さんは「カトリックではない」ことになりますね。それも真実ではないですね。ただ、あぁいう記事を書くときはカトリックでない方が、好都合ですが。
(引用終わり)
ということで、むしろ「いいこと」に注目していただいたのはありがたいことです。そして誤解とはいえ記者さんの意図もくんでくださっているので、ありがたいと思い救われました。
さて、
「万軍の神なる主」についてですが、
日本語の共同訳でイザヤ6-3 を今見ましたら、確かに万軍の主となっているのですね。
Sabaothは軍隊だけでなく、組織された集まりを指すので、ここでは宇宙を司る神の意志を実行する天使の軍団のような意味なのでしょう。
でもここで「軍」という言葉を入れると誤解されるというのでフランス語でも「天の」という形容詞をつけて緩和してきた歴史があるそうです。
今はもうたいていのフランス語の聖書はSabaothとそのまま書くか、Dieu Maitre de toutすべての主である神、Dieu tout puissant最強の神みたいな訳になっていて、ある領域の支配者の暴力装置としての「軍」という誤解を避けるようになっています。(私の使っているLa Bible de Jérusalem ではSeigneur Yahavé Sabaot です)
訳文にはいろいろな歴史の文脈もありますし、普通の人はあまりこだわらない方がいいんじゃないかと思います。(こういうことを書くとまたどなたかから叱られそうですが…)