2012年の投稿

phantomさま

Sekko · 2012-10-07 19:39:56 UTC+9 · 投稿 #674

ブログを読んでくださってありがとうございます。

ディープな聖女もので書きたいテーマはいくつもあるのですが、そのうちにと思っているうちに持ち時間が少なくなっていくような…

私はかなり昔からヒルデガルトが好きでしたが、オリバー・サックスの『偏頭痛』でヒルデガルトの幻視が網膜に映るスコリーだという解説を読んでその図を見た時に、それが私が昔から目を閉じた時に見ているのと同じなので驚きました。目を閉じた時に見える形がいろいろ変化するのは誰にでもあることだと思っていたからです。今でも寝床に入っても眠れないときはその画像をいろいろ操作しながらずっとながめています。

ヒルデガルトが本当に見ていたのは何か分かりませんが、不思議なのは、そういうものを見て、神から与えられたビジョンだと思える心のメカニズムです。

ただの偏頭痛の症状や幻聴をビジョンやお告げだと信じ込む人もいれば、ひょっとして、本当にビジョンやお告げが来ているのに、全くスルーするするタイプの人もいるのかもしれません。

信じ込むためには何かどこかが壊れなくてはだめなのか、たとえ壊れても真実に導かれる人がいるのか、そんなことも気にせずに境界領域をぼんやり生きていける人もいるのか、謎です。

米国大統領候補のロムニーのような人が本気にモルモン教を信じているのか(代回頃フランスに布教活動で滞在していた)というのも私には謎です。

アニミズムとか、お天道様やご先祖さまを拝んだり、各種の神々だとか遠い昔の預言者を崇めたりするのはなんとなく分かります。距離の取り方によっては人生の潤滑油になるかもしれません。

でも、近代以降とか現代になって新たに自分がキリストの再来だとか最終預言者だとか最終解脱者だとか突然新たなお告げを発掘して訳したとか、各種聖人の霊言をキャッチするとかいう生身の人間を教祖として、巨大な金が動く教団になっているような新宗教の場合、現役の社会人に、その「教祖」の言うことを本気で信じるための一線を越えさせるものとは、一体何なのだろうと思ってしまいます。

もちろん育った家庭や地域の影響がある場合は理解できますが、それでも、ロムニーのような人が、単に「信仰を持っている」というアメリカ的モラルの担保として以上にモルモン教に軸足を置いているのは不思議です。

ヒルデガルトの場合は、自分の周りにいる教会の権威たちには全然屈していませんから別ですが、あの時代にあの環境で、自分の言葉で語るには、やはり神のひと押しがあったのか、神の言葉とセットにしてでないと表現できなかったのか、探ってみたいところです。

中村 千尋 さま

Sekko · 2012-10-07 19:05:50 UTC+9 · 投稿 #673

中村千尋さま、前に書きこんでいただいていたのですが、何か続きがあるのだろうとそのままになっていました。もし、続きがあるなら加筆ください。

教会博士

phantom · 2012-10-07 15:51:24 UTC+9 · 投稿 #672

竹下先生、こんにちは。ブログを拝読致しました。
ビンゲンのヒルデガルト、今年は大出世ですね!
このまま、非公式な聖女のままなのだろうなぁ、と思っていたたけに、驚きました。
先生と同じように、私も彼女が大好きなので嬉しいニュースでした。

ヒルデガルトは邦訳がほとんどないのが残念です。日本語では関連書籍も極僅か…題材としてこんなにユニークな存在は他にないのに、もったいないですね。特に精神医学的なアプローチをしたら、面白そうです。

竹下先生の書いたヒルデガルトやアビラのテレサについての文章、いつか読んでみたいです。どうか、是非ご検討を!

竹下様

mimeme_gene · 2012-08-26 14:22:26 UTC+9 · 投稿 #670

私の感覚ですと、罪は何かを限定や特定してしまうと感じます。
その方にも私と同じ限界があると感じます。
罪に無限の広がりを感じることは、私にはありません。

竹下様のおっしゃるように、「想像力の欠如のせいもあるかなあとおもいます」というのは、とても暖かい感じがします。

御交が全てなさってくださるから、私は、他の人に罪を感じたら「罪という契機から、愛されている実感に私が気づいたように、その方も御交の無限の愛に気づかれますように」と沢山いのります。

御交が無限の愛だから、私たちも愛になるようにと、御交から愛されていると感じます。
聖イグナチオの愛を得るための観想を、「愛になるための観想」と読み替えて、私は日々祈っています。

私自身の大小様々な罪については、日々感じます。
罰という感覚はなくて、御交の愛を受け止めていないという事実を痛悔します。
特に霊操の罪の究明のやり方にならっています。

「キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。」と書かれていた文章を読んで、私は、「永遠」というイメージと、今の生活にこの「永遠」をもっと埋め込んでいきたいと強く願いました。

本当にありがとうございます。感謝です。

ゆるされること、など

Sekko · 2012-08-22 23:28:49 UTC+9 · 投稿 #669

mimeme_gene さん、いろいろフォローしてくださってありがとうございます。

>「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です

というのはほんとですね。

「他人の罪や欠点をあげつらう」というのは、想像力の欠如のせいもあるかなあと思います。自分に厳しい人が他人にも厳しいというのはよくありますがそれですら的外れのことがほとんどなのに、中には自分に厳しくなくて他人にだけ厳しいって人もいますよね。

私は他人に厳しくしないことで自分に厳しくしないことを正当化するタイプかもしれません。

罰せられるのは嫌だけど、あれやこれやの多少の罪悪感はいつも抱いているので謙虚になっていいだろう、ぐらいのいいかげんなスタンスなので自戒します。


キリスト教がおめでたい宗教、というのは私も感じます。いろいろ紆余曲折を経て、本来のおめでたさを回復しつつある、みたいな感じ。

すべての人のあらゆる罪が赦される、ということについて、前にもユダのことで少し触れましたが、今ユダ論でちょうどオリゲネスのアポカタスタシスなどについて書いていたので、あらためて考えさせられます。

「罪が赦される」とは、単にこの世で「罰せられない」ということなのか、あの世で地獄だの煉獄で責められないということなのかと考えると、この世で社会的に罰せられない罪しか犯していず、死後の世界も信じていなければどうでもよくなりますよね。それでも「因果応報」とか「悪業のたたり」みたいな言葉がどの文化にもあるということは、たとえばあまりにも利己的な行為に対して自然に「後ろめたさ」を感じるような心性があった方が、全体として種の存続に有利だからこそ受け継がれてきたとも考えられます。

で、「罰せられない」ということが即「救い」なのかどうかということも気になります。

古来、富や権力を掌中にした支配者などは、人間からは「罰せられない」立場にあるわけですが、満足して生きているかと言えば、最後は「不老不死」の秘法を求めるとか、結局、実存的な不安からの救いを求めてしまうのかもしれません。あるいは老いや死そのものを一種の「罰」だと感じるのかもしれません。だとしたら「原罪によって人が不死の存在でなくなった)という考え方もそれと表裏をなしているのでしょう。

キリスト教が、すべての人のすべての罪がゆるされるという時、その前提は、全ての人はイエスを通して永遠に生きるということがあるからだと思います。永遠に生きるという見方に立ったときには、もう罪とか罰とかいう限定的な枠組みは消えてしまう。「地獄で永遠の劫火に焼かれ続ける」などという表現は、それ自体が現世的な表現であって、神的な永遠や無限の中にはそういう「仕分け」はないという考え方も古来ありました。少なくとも「永遠に生きる」という視点なしには「救い」も「ゆるし」も成立しませんでした。

何年か前に、プロテスタントの教会に垂れ幕がかかっていて「イエスを信じる者は死なないで永遠に生きる」とあったのを見た時に、ものすごくカルト的な印象で愕然としたことがあります。ボーン・アゲインのような運動にも個人的にはすごく違和感があります。でも、確かにキリスト教のおめでたさは「永遠に生きる」「死んでも生きる」ところにあるので、そのことを、今生きている間に本気で視野に入れないとしたら、「救い」も「ゆるし」も言葉だけになってしまうかもしれないなあとも思います。

でも実際そういうことを視野に入れて生きて、死んで、その結果、その後もずっと人々を結びつけつつ生かし続けている人々は決して少なくありません。継承され分かち合われるメッセージ性はそれが思想的なものであれ芸術的なものであれ、永遠とか超越とかいうコンセプト抜きには生まれないのだというのが実感です。

実存的不安に対して儒教や仏教系の「安心立命」的な悟りの境地に至るのは、私には多分不老不死の薬を得るのと変わらないくらい難しいので、それに比べれば、とりあえず、死後も超越的な何かを通してみんないっしょに永遠に生きると想定して「立命」できたらなあと思います。(みなさまからのお祈りが効いてきたのかも…)


まよえる大羊さまへ

mimeme_gene · 2012-08-21 01:58:21 UTC+9 · 投稿 #668

大羊様はイエスが「大好き」と書かれています.相思相愛ですね.私もそうです.

キリスト教ほどおめでたい宗教はないと思います.
「全ての人のあらゆる罪がゆるされる」からです.
「じゃあ,どんな悪事をしても,ゆされるの?」と聞かれます.
答えは「ゆるされる」です.公教要理等にも書かれています.

ですので,「その人の罪が私の罪とは違うものだからといって,その人を裁かないように」というのが,私のいつもの自省です.

更には,天国で,「なんでこの人がゆるされて天国にいるの?」と思いたくなってしまう人がいたりして...
私は天国に行く前に,その方からゆるされたいし,和解したいです.

でも,その前に,私にできることは,祈りです.

罪であっても,その人の命の一部だから,イエスは喜んで受け取って,イエスの命へと清めてくださり,私達に返してくださいます.

こう書きたくなる実感があります.
祈りの中で,十字架の下に行き,自分の罪を取り出し,掌にもって,五官の全てでそれを感じてみて,イエスに差し出します.
罪の手触り,味,匂い,色合,温度・・・と感じてみると,自分との対話になります.
そして,その後の喜びは,一度なさってみると,感じると思います.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)
を私なりにやっています.

竹下様の著書を読んで,「この方は,三位一体のどなたかと,何か話されて,それを文章にしている」と直感しました.

正直に言いますが,私は,大羊様の文章を読んで,竹下様が答えられているようには,ピンときていません.
もちろん素養や知性が違います.そのストックは,計り知れないようです.

でも,それだけではなくて,大羊様がイエスに何を話されたかよりも,イエスが大羊様に何を話されているかの方に,私の関心があるからだとわかりました.相思相愛の豊かさや楽しさでしょうか.
大羊様の文に,もっと見つめられるように,なりたいです.

今日はこのへんで.

ありがとございます

迷える大羊 · 2012-08-20 20:18:20 UTC+9 · 投稿 #667

mimeme_gene様

ありがとうございます。こちらのBBSでは、聖書のアラ探しみたいなこといったり、一丁前に教会批判みたいなことを言ったりしていたので、キリスト教が嫌い、バカにしている、なんて誤解されていないか?いつも気になっていました。
全然、そんなことないです。イエスそのものは大好きです。ただ、ちょっと一般的なクリスチャンの方々の「信仰」とはズレているところがあるかもしれませんが・・。

身内と宗教については、いろいろ気になる(墓やら子供やら・・・etc)ことがあったりしますが、でも、お話をいろいろ伺うと皆さん、いろいろな事情を抱えておられるみたいで・・。別に具体的なアドヴァイス(直接、面識がないのですから無理ですし)でなくとも、「わかっていただける」だけでも大きな励みです。

そういえば、明日を思い煩うことなかれ・・って聖書にもありましたね。

投稿の件

迷える大羊 · 2012-08-20 19:51:27 UTC+9 · 投稿 #666

おばさん様がどのようなお立場の方であるか、存じ上げませんが、もし、こちらのホームページ、BBSの運営関係者で、私の投稿により何か不都合、不具合を与えたのであれば、お詫びする以外にありません。
しかし、内容に関係なく、ただ、投稿が多すぎる、目障りだ、不愉快だ、というご批判でしたら、他のBBSでは受けたことのないご批判ですので、戸惑いを隠せない・・というのが正直なところです。
掲示板依存症であるのは認めます。何しろ、リアル世界では相談相手が見つけづらいテーマでも簡単に質問出来たりするのですから、つい、いろいろと余計なことを語ってしまいます。実のところ、リアル世界では私、宗教やら政治やら、海外情勢やらって相手が話を振ってこない限り全然話しないのです。そういうことには関心のない人、と思われています。

ただ、言い訳めいてしまいますが、かなり以前になってしまいますが、竹下先生にはレスについてはムリしないで下さい、忙しい、あるいは答えようのない投稿には無理にお答せずとも結構です、とお断りさせていただいたように思いましたし、実際、お答いただけないことがあっても、なんとも思ったことはありません(他のBBSでも)。

内容が稚拙、あるいはタイミングが悪い、絡みようがない、などなどでレスがつかない、というのはネットではよくあることですし、ましてや先生はそれが仕事でも何でもないのですから。レスがつかなければ、あ、ちょっとこれは何かまずかったかな?ということで、それ以上話題を進めないようにするだけです。
私自身もせっかく先生からレスいただいたのに、礼も感想も延べずにほおっておいてしまったこともありますから、お互い様です(忙しかったり、うまく文章が書けない、などで)。

それより何より、ここは「BBS」ですから竹下先生「だけ」のご回答を求めているわけではありません。特に家族と宗教の問題については多種多様な方々の体験談が聞きたかったところなのですが、私の文章力の稚拙さ故か、内容故か、竹下先生にしかお相手していただけない場合が多く、結果として(特に第三者からみると)、私が竹下先生に怒涛のごとく「課題」を押し付けている・・みたいな形になってしまっているのは、我ながら困ったものだなぁ、悪いなぁとは思ってました。

こちらのBBSでは、私の「発言中」は他の方は投稿できない、質問できない、とのルールがあるのでしょうか?それならば、申し訳ない、以後気を付けます。
あるいはそのようなルールがなく、単に遠慮されているだけならば、どうぞ、お構いなく投稿願います、です。

竹下先生やこちらの方々には感謝こそすれ、悪意など全くない、ましてや「掲示板荒らし、乗っ取り」の意図なんて全くありませんから。

迷える大羊様へ

mimeme_gene · 2012-08-19 12:05:44 UTC+9 · 投稿 #665

大羊様

私は毎日祈りますが,その中で幾度もあなた様が心に浮かびました.
だいぶ時間をかけて,少しだけでも,お伝えして良いことを書きます.


●私は,大羊様が御子イエスと出会いますようにと幾度も祈っています.

最初の使徒達は未受洗者です.
多くの方々と同様に,私も幾度も会っています.
全てが恵みで,奇跡ではなく,ともに生きている実感です.

まだでしたら,
イエスと出会いたいと,強く何度も願い,イエスに言い,

出会われているなら,
その出会いを悟り,深められますようにと,祈ります.


●悟りと対話を祈っています.

「心を満たし満足させるのは、広い知識ではなく、ものを悟り、それを内的に味わう事」(霊操2番)

ご自分との内的対話で,御子が全て答えてくれます.
何を聞いても返事があります.
様々な選びも御聖霊が導いてくださいます.

もう既に悟りが芽生えていらっしゃるのかもしれませんね.
三位一体の御交が望む大羊様へのご計画は,
大羊様にしかわかりません.

大羊様は多才な方とお見受けしますので,
一つの深まりや悟りが,全ての対話のきっかけとなりますようにと,祈ります.

投稿について

sekko · 2012-08-12 00:36:30 UTC+9 · 投稿 #663

私が迷惑だと思った時はそれなりに表明していますし、偏見のひどいものなどは削除もしていますから、ここで返事しているものについては、みなさまお気づかいなきようお願いします。

「迷える大羊」さまだって、その気になればハンドルネームを変えて続けることもできるのだし、私も普段考えていないことを考えさせてもらっている部分もあります。

一昔前、毎日のようにFAXで長々と質問を寄せられる読者(私より十歳位年上の方でした)がいました。しかも手書きで判読しにくく、大変でした。私はちゃんと返事を書いていましたが、せっかくいろいろ考えて返事を書いたのだから、それを他の人と共有できないのはもったいないなあと思っていました。

FAXでのやりとりは、今はもう限りなくゼロに近く、ネットのスキルのないその方とは、結局私の方から音信を途絶えさせた形になり、申しわけなかったと今でも罪悪感があります。私もデジタルスキルは低いですが、それでも、簡便な今のやり方を一度知ると、もうなかなか昔には戻れません。

ネットのおかげで外国にいても、昔日本にいた頃よりずっと日本のいろいろな人の状況がよく分かって、毎日拝見しているブログなども複数あって、私も依存症と言えば依存症です。まあ誰にも迷惑かけないなら、みなうまくつきあっていきましょう。

私もできる範囲でしかやっていませんので、どうかあまり気になさらないでください。

迷える大羊様

おばさん · 2012-08-11 11:53:23 UTC+9 · 投稿 #662

竹下様
ホームページで勉強させて頂き有難うございます。運営されていらっしゃる事に感謝しております。

迷える大羊様
現在、この投稿を制作時点で、このサイトの3つの板が全て「迷える大羊様」からの投稿になっております。ご自分で仰られているような「イエス依存症」というよりも「掲示板依存症」のような印象を受けてしまいます。1か月程、投稿をお休みになられて、ご自分の様子をみられてはと考えてしまいますが。
出過ぎた投稿、お許しください。

恐れ入ります。

迷える大羊 · 2012-08-10 21:23:09 UTC+9 · 投稿 #661

御心配をおかけします。まあ、細かい不満、不安はあるにせよ、不和というわけでもないです。宗教については最初からわかっていましたし、
まあ、宗教というのは数ある家庭問題のバリエーションの一つで、そういう問題がなくても離婚してしまう夫婦は離婚しますし(友人が離婚しました。)、キリスト教とかイエスそのものが悪いわけでも、不満の原因でもないです。ただ、その信仰具合、形態が「予想外」だったということで・・・。
私が身内の宗教についてあまり気にしなかったのは、実母がとある仏教系宗教団体の信者なのですが、そのことで家庭内に問題が起こったことなんてなかったからでして、キリスト教?プロテスタント?別に怪しい宗教でなけりゃいいんじゃない、くらいに考えていたのでした。
実は身内の実家はクリスチャンではなく、ごく普通の無宗教の日本人です。子供時代に肉親を亡くしつらかったところ、日曜学校で通っていた教会の牧師先生にいろいろお世話になり、洗礼・・という、キリスト教に限らず、宗教に入るきっかけとしてはよくあるパターンです。

ただ、私的に困ったもんだ・・と思ってしまうのは、その牧師先生というのが、話を聞く限り、私からすると非常に保守的というか、ちょっと教条主義的な信仰解釈をする方だったみたいで・・・。今は、その牧師先生もいませんし、身内も引っ越したこともあって、実質的な所属教会も変わってます(というか、正規に所属している教会はない)けども、影響はかなりあったみたいです。何しろ、自分を「導いて」くれた人ですし・・。

私としては、ノンクリスチャンの私がいうのも変だし、おこがましい気もしますが、「君が知っているキリスト教ばかりがキリスト教の世界じゃないんだよ、キリスト教たっていろいろだよ」ってことをいいたくて、一時期、カトリックとか聖公会の教会やら、いろんな教会に引き回しましたけども。
以前に比べれば、(私からみて)頑ななところは少なくなったかな・・と思ってますが。

仮に私がクリスチャンになったとしても、別に洗脳を施されるわけではないですし、この辺の、なんていえばいいのか、神様とか信仰に対する姿勢とか感覚は変わりそうにないですし、万事万歳ってわけでもないと思いますね。

おっしゃる通り、イエスとか宗教は不満の直接の原因ではありません。それに、身内と出会わなければ、キリスト教とか宗教について、ずっと無知、無理解のままでしたでしょう。 そういう意味では感謝すべき面もあります。

しかし、かくいう自分も、ノンクリのくせにキリスト教サイトの常連のようになってしまい(なんだかかなり年数が経ったような)、聖書もよく読み(自慢してるわけじゃありません、本当にただ読んでるだけですし、神学的なこ難しい話の知識は未だゼロ、です。むしろ自虐です)、そこいらのクリスチャンより、いろんな教会を訪問した俺って奴も、もしかすると「イエス依存症」か?人のことは言えない・・と思わないでもないです(笑)。

迷える大羊さま

sekko · 2012-08-09 00:51:28 UTC+9 · 投稿 #660

この掲示板を昔から見ている人はご存知かもしれませんが、迷える大羊さんは、今の奥様とご結婚なさる前にすでに、奥様のキリスト教との熱心な関わりについて不安を抱いていらっしゃって、ここでご相談されていました。

私は大羊さんも奥様もリアルには存じ上げませんが、その頃、そのテーマをいっしょに考えてコメントしてくださったリアルの友人がいます。

実は、あの頃、その彼女と会った時、大羊さんの話題が出て、「後から難しくなることが見え見えだから、やめておいた方がいいのに」とか、「もし私の息子なら考え直しなさいとアドヴァイスするのに」とかいう話になりました。

あの時そういう「本音」を言わなかったのは、もちろん、大羊さんが宗教について誠実に考えていらっしゃること、当時フィアンセだった奥様を真剣に愛していることなどを理解したからですが、もう一つ、私の方針というか指針があって、それに従ったからです。

それは、

イエスを不和の原因にしない、イエスの名において人と争わない、

ということです。

これは、イエスだけでなく、神さまでも仏さまでもアッラ―でも同じです。

多くの人の「救い主」として信仰の対象になっているシンボルを不和、争い、戦争などの原因にするのは常に人間の愚かさや弱さ、頑迷さや卑怯さからくることだと思います。救い主として崇められているような存在が、自分の名のもとで人々が不和になったり不幸になったりすることを望むとは思えません。

で、私は、大羊さんが今でも「迷える」大羊でありながら、その一線を守っていることを、頼もしく思います。

こういうことって、日常の小さな不満の積み重ねがいつしか、

「君はぼくとイエスとどっちが大切なんだ」とか

「ぼくをとるのかイエスをとるのか」というような短絡的なフレーズとなって口から滑りだし、

「もちろんイエスさまよ、最初から言ってるじゃない」とか

「そんな問題の立て方をする人なんて信じられない」とかいう応酬と共に、

愛だの絆だのがあえなく消えたり切れたりすることが往々にしてあるからです。

もちろんそのような問題の立て方は「イエスを不和の原因に巻き込む」ことであり、なすべきことではありません。たとえ、ある種の人が、自分でも気づかずに、神さま大事、教会第一で家庭の不和を招いているようなことがあったとしても、それに対して宗教の言葉で返すのは正しいやり方ではないと私は思っています。

大羊さんは、共同体の縛りの強い信者や信念を前にしていろいろフラストレーションもあると思いますが、一度、それらを宗教の地平から切り離して、どうすればお二人の生活で互いの力や思いやりをつなげていくことができるか工夫してみてください。大羊さんが奥様をリスペクトし抜く決意はどんな神さまだって肯定してくれますよ。

以上、なんだか、大羊さんの一連の質問の陰にもやもやしたものを勝手に感じたので書いてみました。的外れならスルーしてください。

お忙しい中、恐れ入ります

迷える大羊 · 2012-08-07 19:40:16 UTC+9 · 投稿 #659

誤解されては困りますが、教会に通ったり、イエスとか神様に頼ること、信じることを貶めてるわけでもありません。
私だってちょくちょく行きますし、聖書だって読みますし・・。

この問題は善し悪しっていうより、私自身の性格というかメンタリティとの兼ね合いの問題もあるのかも?です。
身内は食事の際も「イエス様の御名により」って毎回唱えてお祈りします。当人にとっては大事なアイデンティティ確認であるのはわかりますが、こちらとしては毎回連呼されると、ちょっと押し付けられてるような、プレッシャーを感じちゃうのですよ・・。
私にイエス様への願いに付き合わせるくせに、焼香しない、他宗教の流儀には従わない、付き合わない・・っていうのはなんだか手前勝手にみえたこともありましたね。
まあ、時々ふざけて「イエス様にも、仏陀様にもお願いして」って混ぜ返しますけど(^^;。

自分で何がどう気に食わないのか、整理して考えると、どうも、その「自意識過剰」さがハナについてしょうがない、ってことですね。例の焼香の問題も、別に信仰を試す儀式であるわけでもなし、三位一体のキリスト教の神も異教の神も、誰も気にしとらんわい!って言いたくなってしまって・・。
つまりクリスチャンであること、というアイデンティティを(私からみて)過剰に確認したがる部分がどうにも、個人的にイラっとするところがあって。「私の宗教ですか?キリスト教ですけど、それが何か?」ぐらいの信仰の方が個人的には好ましく映るんです。
私としては、身内の信仰に関しては、もうちょっと「さりげない」ものになってくれないかな?と。
でも、こればっかりは善し悪しでなく、人それぞれですからね、面と向かっては言えないところが、つらいところ。

ここがカトリック関係者のサイトだから「ヨイショ」をしているわけではなく、カトリックとか正教会とか聖公会の方が個人的に、なんとなく良さ気に映ったのは「さりげない」人が多い印象があったもので。毎週のように教会に来てる人って意外と少なくて、あんた本当に洗礼受けた教会員なの?って人が結構いるし、「現法王が嫌いだからミサいかねぇ」なんて人がいたりしますし(笑)。
本来は「誉める」ようなことでもないのかもしれませんが、私個人としてはなんとなくそっちの方が「安心」なんですよね。

もっとも、カトリックとか正教会の場合、自発的に信仰の道を選んだっていうより、家代々の宗教という人が多く、それらの人々にとっては日本の葬式仏教における「檀家」に近い感覚になっているせいもあるかもしれないですが・・。
あと、これらの教会は世界各地に教会があるグローバルな組織で、歴史も長く、異文化間の摩擦、コミュニケーションに関しても「経験豊富」で「老獪」である、って部分もあるんでしょうね。
プロテスタントの場合、教会にもよりますが(というか差が激しい)、細かい教団組織にバラバラに分裂し、個々の教会は決してグローバルとか「経験豊富」とはいえず、少人数でこじんまりとまとまっていることが多い、この辺の孤立感とか「若さ」が「自意識過剰」な信仰になりやすい理由かな?と思ったりもしました。

まあ、以上は私の体験と独断と偏見から、勝手に考えたことで、どこまで的を得ているかは不明ですし、もし不快感を覚える部分があったならば、ご容赦願います、悪意はございません。




迷える大羊さまへ

sekko · 2012-08-01 01:45:41 UTC+9 · 投稿 #658

しばらく留守にしていたのでお返事遅れてすみません。

まず、「教会通い」が親戚のイベントよりも優先したりする話について。

上智大学のサイトのキリスト教Q&Aでこんなのがあります。

54.洗礼を受けたいと望んでいるのですが、家で反対されます。家庭に不和を起こしても洗礼を受けるべきでしょうか。

家の人がキリスト教のことをまったく知らなかったり、伝統的な宗教に熱心であったりする場合には、反対されても当然でしょう。娘が洗礼を受けるとお嫁にやるときに障害になると考える人もいれば、主婦が家事を放りだして信心などにこりはじめると迷惑だ、と考える人もいるでしょう。家の墓はどうなる、と心配する人もいるかもしれません。いずれにせよ、あせって無理をしないようにしてください。
あなたがまだ自立して生計を立てておられないなら、やはりご両親の許しをいただいてください。若い人たちがいかがわしい新興宗教の勧誘にのって大変な被害 をこうむった例もありますから、心配されるのは当然です。指導してくださった司祭や先生に頼んで、ご両親と話していただくのもよいかもしれません。時機を 待てば、そのうちわかっていただけるでしょう。
もしあなたが一家の主婦で、ご主人がキリスト教のことをよくご存じないとしたら、やはりきちんと話しあって、了解を得ておかれることをお勧めします。主婦が教会にいりびたって家事をなげやりにする、というのであれば、それはキリスト教的に見て正しくありません。神への愛はもっとも近い隣人への愛として表れるはずですから。でも、もし教会に行くことが家事に支障をもたらさず、むしろ奥さん、お母さんが教会に行って、喜びをもって帰ってきて、家庭がもっと明るくなった、と喜ばれるようになれば、しめたものです。洗礼の望みも、自然に了解されることでしょう。
確かに福音書には、キリストに従うための厳しい心構えが言われます。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。でも、このような言葉は、それが語られた文脈や状況を無視して理解すべきではありません。 それは確かに、人間が生きていく上でよりどころとする最終的な価値基準のことを言っています。そして神の前で、家族や血縁の愛は決して絶対的な基準とはなりません。でも、その神への愛に目覚めさせ、それをはぐくんでくれるのは、実は他ならない両親の愛であり、家族の愛であり、隣人の愛です。
隣人の愛を深く体験した者のみが、逆説的に、それを越える神への愛を知るようになるのですね。
洗礼は大きな恵みですが、でも、神の大きなみ心を信 じて、あまりあせらないようにしてください。神は一人ひとりを心にかけ、いちばんよいように導いてくださいます。もし神があなたに、洗礼への本当の望みを お与えになったのなら、きっとそのための道も準備してくださるでしょう。

引用終わり。

私はこの意見に全面的に賛成です。

でも、個々のケースで、どんな習慣でも大羊さんのおっしゃるように、「依存症」みたいになってしまうこともあると思います。

それは信仰とかキリスト教とか教会とかとはもう別の次元の問題だと思います。

でも、本人が信仰のため、と思い込んでいるなら、その共同体内のしかるべき人に相談してその依存症状態から脱却するのに協力してもらうことも可能かなあと思います。

その共同体自体が依存性を誘発しようとしているなら別ですが。あり得ない例えですが、もし誰かが私に夢中になって家族関係をおろそかにしているという訴えが家族からなされたら、私なら本人とよく話し合って、もっと柔軟で自由なスタンスでいてくださるように仕向けるでしょう。

もうひとつ、いじめの話。

いろんな言説がありますし、私も書いたことがありますが、

玉聞伸啓さんの「いじめと闘おう!」サイト

http://www.ijimetotatakaou.com/

が、対策と克服を具体的に提示していて今、一番共感しています。

昔のいじめはいわゆる「弱い者いじめ」が多くて、そこにははっきりと「弱い者いじめはダメ」という自主規制もそれなりに生まれていたと思うんですが、今はみんなが横並び的な部分で、何が基準でいじめられているのか分からない、権力関係にも似ていて、外部からの介入がより難しい部分もあるのかもしれません。

ネットを通してなどだとなおさら分からないし。

やられればやり返せ、と言うのも、大人ですら一度自力で負のスパイラルに落ち込んだら鬱から抜け出せないことも多いくらいですから、簡単なことではないし、ましてや赦すとか赦さない以前に、被害者の自死をふせぐためには、これはもう、大人が命をかけて関わるべきだと私は思っています。

大人の社会のハラスメントやDVも、絶対に他からの援助が必要な場合の方が多いと思います。

あとはやっぱり、子どもが幼児のうちから、理屈抜きで、理由なしに誰かをいじめたり攻撃してはいけない、他の子どもたちはたとえ好きになれなくとも絶対にリスペクトしなくてはならないことを徹底的に繰り返すのが必要だと思います。

イジメとキリスト教

迷える大羊 · 2012-07-29 20:52:18 UTC+9 · 投稿 #657

現在、日本では、滋賀県大津市で中2の少年がイジメを苦に自殺した事件が大体的に問題になってます。イジメそのものの酷さもさることながら、学校、教育委員会、警察の事なかれ主義、隠蔽が非難の嵐となっていまして・・。概要はこちら。

http://wiki.livedoor.jp/emiliano/d/%B9%C4%BB%D2%BB%B3%C3%E6%B3%D8%B9%BB%A4%A4%A4%B8%A4%E1%BC%AB%BB%A6%BB%F6%B7%EF#

今回の確かに大津の事件は酷過ぎるとは思いますし、実態ののさらなる解明が望まれます、と思う一方で、私個人は加害者当人はともかく、それ以外の関係者をあまり高飛車に「裁く」気にもなれないのです。

誤解を招きそうな話ですが、古今東西、少年少女の集まるところにイジメが100%ない、なんてことはあり得ない、と思うのです、単に程度の差の問題で。大人社会にだって酷いイジメはあるところにはありますし・・。
はっきり言って、「私はイジメに関わったことありません」なんて言いきれる人なんてどれだけいるんでしょう?ひどいイジメを食らっていない、あるいは積極的にイジメに加担したことがなくても、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていた、くらいは誰にでもあるのではないのか?と。もし、そんなことない、と言い切れる人がいたら、イエスの「罪なき者からこの女に石を投げよ」とか、「偽善」の文字が思い浮かんできます。

昔はこんなことなかった・・みたいなことをいう年配者の方もいますが、警察庁や法務省のデータを丹念に調べると、少年非行・犯罪は「昔」の方が圧倒的にひどく、荒れ果てていて(特に昭和30年代)、そんな中で、イジメだけは酷くなかった・・というのはちょっと信じ難い話です。単に記憶が美化されているだけ、単に問題にならなかっただけで、今以上に酷いイジメが横行していた、と考える方が自然・・だと個人的には思っています。

私自身の少年時代を「正直に」振り返れば、いじめられっこだった時期もありましたが、逆にイジメてた(今にして思うと)、あるいはイジメに加担はしないまでも、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていたこともあります・・。
関係者は何してた、ともいいますが、自分自身の少年時代を省みるに、自分がいじめられっこと認めるのは非常に屈辱的で、大人に訴え出るのは二の足を踏みます。現実的にも、大人に頼った・・という事実は子供社会での立場を一層悪くすることも多いですし・・。
まあ、今回の大津市の場合の「関係者」は酷過ぎますけども。

個人的に考え付く策としては、戦争や殺人、その他犯罪が世界から無くならないのと同様に、人間、特に子供の世界にイジメは付き物という前提、つまり性善説ではなく、性悪説で学校運営のスタイルを考える、例えば、特定のメンバーばかりで固定された閉鎖的な人間関係をつくらないようにする、逃げ道を用意する、イジメられっこであることを公の場に訴えることは決して恥ずかしいことでも何でもない、という啓蒙、教育を行うってことが必要な対策かな?と・・。
少なくとも思いやりの心を育てるだの、道徳教育だのみたいな精神論、観念論は全然役に立たない、と個人的には思ってます。

前置きが長くなりましたが、このイジメに関して、私は優等生的発言、現実からかけ離れた理想論はガラでない、嫌いな方なので、ずばり本音をいうと、イジメに関しては評論家・呉智英さんの2006年11月26日の産経新聞紙上での発言

「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ、少年法が君たちを守ってくれるから」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%99%BA%E8%8B%B1

に共感してるんですが、これ、クリスチャン的、キリスト教的にはマズい・・んでしょうか、やっぱり・・。でも、現実のキリスト教圏とかキリスト教国の人間、特にアメリカなんかみると、とても「敵を赦せ」とか「敵を愛しなさい」って感じはしませんが・・。むしろ、日本など目でないくらいにやられたらやり返せ、やられっぱなしで帰ってくるな、が徹底しているような気もしますが、偏見でしょうか?まあ、聖書でも旧約の方には 目には目を」という言葉もあったりしますけれども・・・。

それにしても、子供時代の人間ってどうして残酷なんでしょうね?

竹下様、 感謝!

mimeme_gene · 2012-07-23 14:49:43 UTC+9 · 投稿 #656

竹下様

妻の友人の奥様が自死で帰天されました。
ご著書の「聖アウグスチヌスの祈り」をカードに転記して、その友人に妻が渡しました。
友人から、翌々日に電話が妻にきて、

「これからは、子供たちと3人で暮らすと思っていました。
この詩を読んで、
これからも家族4人で暮らしていくんだと納得して、とても慰められ、救われました」
と分かち合ってくださったそうです。(友人は未信者)

妻と二人で、とても良かったと話し合いました。

竹下様のおかげです。
妻と二人で、竹下様に感謝します。

教会通い

迷える大羊 · 2012-07-22 19:10:35 UTC+9 · 投稿 #655

いつも、恐れ入ります。ところで、クリスチャン、キリスト教信者の教会通いについて、ですが・・。
キリスト教徒にとって礼拝やミサは安らぎと大切なコミュニケーションの場であることは理解しているつもりですし、通常の週末に毎週通うのは、別に何らあれこれいうべきことでもないのは当然です。

しかし、年に何回もない旅行やらお出かけやらの際にも、また、年に何回、どころか十何年に一回の葬儀だとか、親類の集まりの際にまで「教会があるから、早く帰る・・」みたいなのは一体どうなのか?と・・。イエス様って年に何回単位の行事の際すらも、ミサとか礼拝に参加しないと、忠義を認めない、救いを与えてくれない神(であり人間)であるお方なんですかねぇ?という疑問が・・。

それ信心深いっていうより、「イエス依存症」だろ?って思うんですが、このような人に対してはどのように接したらいいんでしょうね?

葬儀のお焼香にしたって、レスいただいたように「他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」でええやん、大体、踏絵と違って信仰を試しているわけでなし、遺族や故人がクリスチャンじゃないんだからしょうがないじゃん、としか言いようがない、と思うんですが・・。

しかし、ことがことだけに言い方には注意せんと、と思いますが、一方ではこんなに人に気を遣わせる「信仰」って何やねん?と思ってしまいます。

いろいろ大変ですね。

sekko · 2012-07-19 05:28:38 UTC+9 · 投稿 #654

フランスでは、一般的なカトリック信者、なんちゃって信者も含めて(もちろん少数の教条主義的な人はどこにでもいるでしょうが)、つくづく思うんですが、たいていは意識していないと思いますが、もちろん他宗教一般に寛容で、でも、その本音は、前にブログでも書いたんですが、要するに、

「自分ちの伝統宗教だけが宗教だと思っていて、世界の他宗教は宗教じゃなく《文化》だと思っている」

ような気がします。もちろん、自分ちでいろんな原理主義的主張をするイスラムとか、歴史的罪悪感を持たざるを得ないユダヤ教とかについては、同じ「アブラハムの宗教」として葛藤だの警戒だの偏見だのがそれなりにありますが、それ以外の地域の多神教だの仏教だのは「エキゾティックな異文化」程度の認識です。

仏教が無神論で哲学で生き方マニュアルだという見方は根強いですし、仏教、ヒンズー教、神道など、ギリシャ・ローマ神話と同じくらい歴史的、文学的、民族学的、審美的な扱いだし、ヨーロッパに直接の影響関係がない分もっと単純に憧れたり反対にスル―したりするので、セレモニーに参加する機会があるとしても、「信仰の踏み絵」にならず「興味深い異文化体験」か、もしくは「他文化リスペクト原則」の体験という認識だと思います。

いろいろなセレモニーというのは、時代や環境とともに変化してきたもので、セレモニーが人のためにあるので人がセレモニーのためにあるわけではありませんし。

私なんか、母の一周忌のお経をお墓の前で浄土真宗(実家の宗旨)のお坊さんにあげてもらいましたが、その時参加したのはカトリックのシスターたちも含めて全員カトリックだったので、それでもいいですか、と聞くと、お坊さんから「私が行っても、よろしいんですか・・・」と言われてしまいました。でも、浄土真宗では亡くなれば南無阿弥陀仏で即成仏で極楽浄土にいるわけなので、お経も回向のためというより出席者が故人をしのぶためだとも言われたので、どちらもノープロブレムでした。「何教でも何宗でも宗教者が故人のために祈ってくれるのはありがたいことだ」というのは、伝統のメジャー宗教にいる人にはよくある感覚だとも思います。

故人の宗旨をリスペクトして、遺族感情もリスペクトして、自分の立場が周りにとって挑発的なものにならないように控えめにしている、というのが葬儀に臨んでの「普通の大人」のスタンスだという気がします。

クリスチャンと葬儀

迷える大羊 · 2012-07-18 22:24:29 UTC+9 · 投稿 #653

こちらに出入りするようにになって以来、何度となく繰り返している話で申し訳ないんですが・・。
日本の一般的な仏式の葬儀の風習、とくに焼香については、人にもよりますが、日本のカトリック教徒は概ねこだわらず、普通に行う人がほとんど。プロテスタントでもリベラルというか、あまり保守的でないところは普通に行いますが、保守的な教会(非常にぶっちゃけて、なおかつはっきりいってしまうと、「新改訳」聖書を使用する教会)ですと「本当に信仰心があれば自然とそんなことはできなくなります」とか「(焼香しないのは)クリスチャンの証です」みたいなことを言われます。

で、ご質問ですが、カトリック国、キリスト教国の一角であるフランスのカトリック教徒(なんちゃってカトリック信徒は除いて)はどうなのでしょう?
つまり、例えば、キリスト教式以外の葬儀に参加する際、「これは異教崇拝だからできません」みたいなこだわりがあったり、日本の神社で「おみくじ」は占いであり、神の御計画を覗き見る不届千万な行為ってことで絶対やらない・・みたいな人が多いんでしょうか?
それとも、日本の大多数のカトリック教徒同様、こだわらない人がほとんど?

なぜ、この話を今頃また遡上にあげたか?というと、個人的に最近、また葬儀というものに関わり合いになりそうな状況だからですが・・。

Takata Yoshitomi さま

sekko · 2012-07-07 21:22:54 UTC+9 · 投稿 #652

『自由人イエス もう一つのキリスト論』を読んでいただいてありがとうございました。この本はほんとうにすごいですね。

偶像崇拝にとらわれている犠牲者は人間ばかりでなく神も同じことで、そこから自分を解放してしこうとする人は、同時に、神もいっしょに解放して連れて逃げなくてはいけない、という感じがしますね。

自分だけ自由になろうとしても、結局、偶像崇拝のシステムを維持している連中と同じく、エゴイズムの足枷に再びとらわれてしまいます。

ほんとうの自由というものがどれだけ、エゴイズムや時間や空間などを超えるものかということが分かりますね。

フランスで、偶像崇拝を否定するあまり無神論という新しい檻の中で発言する知識人たちに比べて、「それでもカトリック教会に残る」という自由な選択をした思想者たちの書くものには、いつも新鮮な解放感を味わわせてもらえます。

Jeanさま

sekko · 2012-07-07 20:45:26 UTC+9 · 投稿 #651

私はむしろ、たとえイエスを裏切った後でも、赦しを信じてすがりさえすれば救ってもらえたはずのユダが、絶望して自殺したという話を伝えてきたことの方が後付けの感じがします。

イエスはユダの足もしっかり洗って、聖餐でも他の弟子と差別せず、復活の時にもユダはまだいたという説もあるほどです。そもそも、ほとんどの弟子がみな保身に汲々として四散していた十字架刑の後で、死刑の判決を聞いてすぐに後悔して自殺したなどというユダの消息に気をとめている余裕などだれにもなかったはずですから、ユダの自殺の話こそ、「勧善懲悪」的な教育的配慮で付け加えられたような…

もっとも、「裏切り者」と「自殺者」を結びつけるユダのエピソードが、その後のキリスト教世界に影響を与えたのは確かで、私は今そこのところを掘り下げる『ユダ論』を書き下ろしているところなので、またごらんください。

まだ迷える大羊さんへ

sekko · 2012-07-07 20:31:01 UTC+9 · 投稿 #650

あ、ラテン系のステレオタイプって、私の感覚では、そしてたとえば普通のフランス人の感覚では「マッチョ」ですよー。

女性の権利を早くから認めて、男女平等共稼ぎ社会が出現した北欧系プロテスタント国とちがって、南欧系カトリック国って、男は外で稼いで、彼ら同士でつるんで、そのマッチョさを男兄弟間の絆の強さで担保するって感じの…まさにちょっとマフィア的な強がりの感じです。

ラテンの母さんは、家の中では絶大な力を持ってたくましそうですが、社会の中での「稼ぎ手」としての認知は低いような。

だから、家族を養えなくなった男のつらさっていうのは自己否定につながるくらい厳しいものもあるのではと想像します。少し前までの日本もそんな感じだったんじゃないでしょうか…

「自由人イエス」を読みました。

Takata Yoshitomi · 2012-07-07 12:27:33 UTC+9 · 投稿 #649

先日「自由人イエス もう一つのキリスト論」をamazonで購入し、数日かけて一応読了しました。スクルス司祭の「すすめのことば」の通り、訳者の竹下さんに感謝します。私が高校時代に福音書を読んだ第一印象は、ここに本当に自由な人がいるということでした。この本はただ一度通読して終わるべきではなく、生活しながら、読み続けるべき著作だと思います。私はフランスの神父、学者としてGerard Bessiere, Joseph Moingt,Timothy Radcliffeといった人の著作を眼にしてその学殖と誠実なキリストへの信仰に尊敬を持っています。最近では訳書の出たミシエル・アンリの「キリストの言葉」を原書と照合しながら少しずつ読んでいます。信仰のキリストと歴史の中のナザレの人イエス、それを繋ぐ十字架と復活という出来事をなんとか理解したいという気持ちです。これからも優れた著作の紹介と現代日本への提言を期待します。

自殺が駄目なのはユダが自殺したから?

jean · 2012-07-02 23:53:05 UTC+9 · 投稿 #648

竹下さんがブログで書いておられたように、自殺は告解できない唯一の罪、自殺したら敗者復活のチャンスがないというのは、その通りですが、それは後付けの理由という感じがしなくもありません。その前に、普通の人々に自殺はよくないと思わせる何かがあったのではないでしょうか。あの裏切り者のユダは自殺した、自殺するとユダのようになる、それは嫌だ、という思いがベースにあったのでは? 何の根拠もない勝手な想像でしかありませんが。