1 2 3 4 迷える大羊 · 2012-07-02 11:44:54 UTC+9 · 投稿 #647
ブログ拝見いたしました。良く言えば「寛容」、悪く言えば「適当」なカトリックの世界で、かつて、どうして自殺が殺人犯以上の厳しい扱いを受けていたのか?かねてから不思議だったんですが、その感覚、考え方がよくわかりました。 キリスト教、少なくともカトリックの世界では神の救いを信じられなくなる、絶望すること、拒否することが何よりも罪、という考えなんですね。 あと、私が今回のニュースウィーク誌の記事に興味を持ったのは、痛ましさもあるけれど、自殺もそうですが、他にもカトリック国とかラテン系へのステレオタイプが覆されるような話がいろいろ出てくるから、なんですよね。 まず、カトリック系、ラテン系っていうと、借金や徴税なんて、少々汚い、ずるい手を使ってでも免れて、それこそ、今日本で問題となっている生活保護の不正受給なんかもやって、考えられるあの手この手を使って、経済危機などなんのそので、たくましく強かに生きていく・・というステレオタイプがあったのですが、そういうことができない人間だって大勢いる、という、考えてみれば当たり前の事実が改めてわかったってこと。 あと、男は働いてナンボ、妻子を養ってナンボ、という昔ながらの価値観の男性がこれまた、大勢いたこと。ステレオタイプでいえば、こういう状況になれば、ヒモになってでも、とにかく頼れるものは何にでも頼って、プライドなど捨ててたくましく生きていく・・って思ったのですが、これまた、そういうことができない不器用な「男らしい」男性が大勢いること。 記事中の徴税公社エクイタリアの前で焼身自殺した男性も、結局、自殺するまでに、経営難とか税金とか借金とかについて、奥さんには全然話をしてなかったみたいで・・。個人的には、さっさと話してしまえばいいのに・・、そっちの方が結局のところ誠実だし、楽なのにとも思いましたが、プライドというか、自分の不甲斐なさとか情けなさが先にたってそれができなかったみたいで・・・。 詳細は実際の記事をご覧いただくとして、結局、国や宗教に関係なく、こういう経済苦、借金、徴税苦っていうのは真面目というか不器用で正直な人間ほど、まともに苦しんでしまうっていうのが、なんだかなぁ、と思わされます。 問題の徴税公社エクイタリアの職員にしても、やはり精神的にストレスの多いイヤな仕事で顧問弁護士が辞めたようですね、記事によれば。そりゃそうだろうな、と思いましたけれども。
sekko · 2012-07-02 07:37:10 UTC+9 · 投稿 #646
この件について、あまり答えになりませんが、書きたいことがあったので、ブログの方にアップしておきました。ごらんください。
http://spinou.exblog.jp/18174878/ 迷える大羊 · 2012-07-01 12:10:15 UTC+9 · 投稿 #645
今週(2012年7月4日号)のニュースウィーク誌日本版の「欧州に蔓延する自殺という疫病(EUROPE'S WHITE WIDOOWS)」(バービー・ラッツァ・ナドー記者)について(ウェブ版なし、紙媒体のみ)。 簡単にいえば、財政危機、信用危機に端を発する不景気・失業、緊縮財政で追い詰められ、特に状況のひどいイタリア・スペイン、ギリシャなどで、中小企業主(家族や従業員を養えなくなったことを苦にして)や若者(スペインの25歳以下の失業率はなんと50%超)の自殺が著しく増えている・・という記事です。 記事によればイタリアでは財政再建の為、徴税を厳しくする方向に動いていて、「エク・イタリア」なる徴税専門の公社ができ、その取り立てが例えば、経営難の中小企業の経営者などにとっては厳しいものらしくて。原題のEUROPE'S White WIDOWSというのはイタリアで自殺者の未亡人たちが人生への「降伏」の意を込めて白旗を振ってデモ行進したことからくる題だそうです。 で、この記事を読んで痛ましさもさることながら、疑問に思ったのはイタリアにしても、スペインにしてもカトリック国で、特にイタリアでは実際の信仰の程度はともかく、名義上は9割方がカトリックなわけですよね? もちろん、皆が皆、教会に毎週通い、常に神様のことを考え・・ってわけではないでしょうし、昔みたいに、自殺者は葬儀しない、村八分、なんてことはないにしても、自殺というのはやはり、タブーなのではないのか? 信仰心とか宗教が自殺への抑止力になってないの?との疑問がわきました。現代の現実のカトリック国の自殺への感覚は、非カトリック国と大して変わらなくなっているのでしょうか? まあ、カトリック国であるはずのフランスの離婚率はきわめて高いし、やはり、公式には避妊ダメ、であるはずのカトリック国のイタリアの出生率は世界最低レベルであることを考えると、自殺について同じことがあっても不思議ではありませんが・・。
迷える大羊 · 2012-06-26 22:59:21 UTC+9 · 投稿 #644
>KIMIさん レスありがとうございます。お礼、遅れてすみません。そうですか、ご主人が「あの」教団で、ご自身のご家族はカトリック、と。私なんぞ比べものにならないくらい、いろいろ、おありになるんでしょうね。ただ、ご主人自身は信徒をやめてはいないものの、例の教団に対しての帰属心は、今現在さほどないのでしょう? 聞いた話では、例の教団で一家で信者の場合、離脱したり、「信仰」を捨てようとすると家族と絶縁状態になる、と聞きますが、最近は違うんですかね? まあ、あの教団といえども人により様々ってことなのでしょうか?いずれにしても、家族の宗教とか信仰に関する問題に関しては「正解」がない・・んでしょうね。 余談ですが、私のキリスト教とのファーストコンタクトは「・・バの証人」でした。高校時代の友人がそうでした。話も結構聞きました。人は神が自らに似せて作り給うたもの、進化論など邪悪などなど。ただ、知識はないにしても、子供心にどこかロジックが独善的で変だ・・と思ったのと、自宅に二人組で勧誘に現れるようになったため、心苦しいながらも縁切り・・となりましたが、その友人とは。 その後、双方のご家族がうまくいきますように、お祈りいたします。
KIMI · 2012-06-23 20:54:21 UTC+9 · 投稿 #643
夫の家族が「・・バの証人」でした。私は幼児洗礼のカトリックで結婚はカトリック教会です。夫の両親も来てくれました。夫の兄も成人してから無宗教のようですが、夫は子供の時から神を信じていたので神なしではやっていけないそうです。夫の両親は今も信仰活動を続けているようですが、そのことは話題に出ません。昔は大反対で大騒ぎしていたのにあれはいったい何だったのだろうと思います。夫はまだカトリックの洗礼を受けていませんが、子供は洗礼を受けさせました。私の両親からは反対されたことはないです。両親はふたりともカトリックです。参考になるかどうか分かりませんが。
sekko · 2012-06-23 00:22:51 UTC+9 · 投稿 #642
ご連絡ありがとうございます。 p.85のアウグスティヌスについては、すぐに指摘してくれた人がいたのですが、重版には間に合わず、今度出る3刷りから訂正してもらいました。カンタベリーのアウグスティヌスと呼ばれるこの人は、生年が不詳で、没年はグレゴリウス一世と同じ604年です。文脈からどの時代の人か分かるので私は原稿に入れなかったのでチェックもしていませんでした。大きな誤解はないと思いますが申しわけありません。 後3刷りで訂正したのは、 1)p.83の7行目 「フン族」を削ること。 2)p.108の2行名 「東ローマ帝国」→「神聖ローマ帝国」 3)p.181の5行目 「神聖ローマ帝国」→「西ローマ帝国」 2)と3)は単純ミスですが、世界史を勉強している人などには迷惑だったと思います。 1)は、フン族ではなく七世紀には何度もアウストラシアによって破壊され、八世紀にはサラセン人に焼かれています。ここで関係ある修道院は二つあって、焼かれた年ももちろん分かりますが、このあたりは、もともと細かいことを書きこんでも煩雑になるばかりなのでたたみかけて書いたものなので、新版では ブルゴーニュの修道院も何度も破壊され、 とだけしてもらいました。 丁寧に読んでくださる読者の方々に感謝します。 サイトのerrataのコーナーにもそのうちに載せてもらいます。 まだ他に単純ミスの間違いがあるかもしれません。お気づきの方はご一報ください。
安井 彰 · 2012-06-22 23:40:03 UTC+9 · 投稿 #641
竹下さま、 ちくま新書版「キリスト教の真実」を楽しく読み始めさせていただいています。 ところが校正ミスでしょうか、85ページの教皇グレゴリウス1世によりイングランドに派遣されたベネディクト会士アウグスティヌスの生年-没年がアウレリウス・アウグスティヌスのものになっています。4世紀と6世紀の違いもあるし、アフリカとイングランドの違いもあるし、ちくまにクレームもんではないでしょうか? akirayasui@kxe.biglobe.ne.jp
迷える大羊 · 2012-06-22 00:26:11 UTC+9 · 投稿 #640
広くいろいろな方のご意見、体験談がいただければ・・と思う話なのですが、夫婦、あるいは身内との間で信仰が違う、という方はいらっしゃいますか?信仰が違う、といっても無宗教とクリスチャン、あるいはその他というのではなく、例えば、カトリックとプロテスタント、など所属宗派、教会が異なる場合。あるいはキリスト教と仏教系新興宗教といった塩梅の実際に信仰を持つ者同士の「違い」です。 具体的には・・・。 ・信仰の違いによって、夫婦、または身内の仲に問題が生じた、といったことはないの か? ・子供がいる場合、どちらの教会に連れて行く、などでもめたことはないのか?どう解決 しているのか? ・これが特に聞きたいことのですが、プロテスタント(あるいはプロテスタント同士でも 宗派が異なる場合)とカトリックは同じキリスト教ですが、変に「同じ」だけに、かえ って細かいメンタリティの違いがハナについて・・なんてことはないのか? いろいろワケあってキリスト教に関わることになり6年以上、本もいろいろ読み、こちらのサイトでしつこいくらいにいろいろ聞いて(先生には迷惑だったかな、失礼だったかなと思いつつ)、キリスト教世界の幅広さにいろいろと驚きました。特にカトリックに関してはステレオタイプなヴァチカン発の情報では知ることができない面がいろいろと。 自分でいうのも何ですが、カトリックからプロテスタント福音派まで大抵の教会に足を踏み入れましたし、もしかすると、その辺のクリスチャンより教会によく行ってるかも・・な生活です。 身内はムリは言わないけど、できればクリスチャンになってくれないかなぁ的な願いは今でも、端々に感じられます。 別に無神論者ではありませんし、イエスも好きです。でも、実際のクリスチャンの人の信仰心をみると「そこまでは・・・」と思ってしまうし、教会で讃美歌を歌うことは何年経っても恥ずかしくてたまらない。悩みや困難にぶち当たると神様についていろいろ考えますが、そうでない時は神様のことなんざ全く考えてません。品行方正でもなく、慈愛に溢れているわけでもない、イエスの精神とは程遠い全くの俗人です。 あと、いろいろ教会を巡ったり、講習なども受けた結果、正直いうと、カトリックの方が好きというか、合うような気も。これまで、ある意味失礼だったり、しつこいと思えるような質問をぶつけられた先生からすると「ほんとかよ?」と思われそうですが・・。 いえ、別にカトリックにすごーくいい人がいたというわけではなく、また、プロテスタントにすごくイヤな人がいた、というわけではありません。教義的に納得した、ってわけでもありません。 変なところに感心するなよ、あるいはそれは違うよと言われそうですが、いいなぁと思ったのはその「淡泊さ」でして。なんていうか、「キリスト教ですか?」「ええ、そうですよ、それが何か?」くらいのさりげない信仰ぶりが好ましい感じがして。 「私はクリスチャン、クリスチャンたる者・・」みたいな力みがない、といいましょうか。あと、日本の神社仏閣、関連する行事に妙な壁を作る人も少ない、聖書を過剰に崇めすぎない、教会べったりでもない、というあたり。 あと、現実的な問題として、教会によって、牧師によって、たとえ同じ教団であってもカラーやムード、教えすらガラッと変わってしまうプロテスタントに比べると、カトリックの場合、教会によってあまりにもいろいろ変わってしまう(少なくともプロテスタントほどには)なんてことがなく「安心」という点もありますね。実際、プロテスタントの身内は引っ越しの後、現在の教会に落ち着くまでに、周辺の教会をいろいろ彷徨いましたし。 あとは文化的な重厚さ、歴史の厚さはなんだかんだいっても魅力的です。 まあ、これまでいろいろ述べた通り、キリスト教とか教会自体にまだまだ疑問がありますし、知識は増えたものの、信仰心というやつにもまだわかったようなわからないような、ですし、クリスチャンになるとすれば・・という「仮定」の話ですが。 ただ、仮に「その日」、つまり、クリスチャンになろう、という日がきた場合、プロテスタントの身内に向かって「いや、実は俺、カトリックの方がいいかなぁ~と」なんて言ったらどんな反応があるんだろ?やはり、やめといた方がいいかな、面倒が多そうだし、といろいろ考えたもので、スレを立てさせていただいた次第です。
sekko · 2012-06-20 19:56:49 UTC+9 · 投稿 #639
ヨーロッパの死者の書、古い版ですが、注文したらもう着きました。古本ですが十分読めます。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。この下にあるサイトのアドレスをクリックして、その中のerrataという場所にあるアドレスに連絡ください。すぐ必要でなければ10月末に日本に行く時に持っていきます。10月最後の日曜のイグナチオなどはいかがですか。ルチアさまもよろしければどうぞ。
ルチア · 2012-06-17 17:08:10 UTC+9 · 投稿 #638
mimemegene様 「無視」など、とんでもありません。何回も読んでしまいました。 有難うございます、こんなに丁寧な文で伝えて頂き、お時間も頂戴してしまったでしょうに、何と御礼を伝えたら良いのでしょうか…。 竹下様 「竹下様のサイト」で勝手にやりとりして申し訳ありませんでした。こんなに素晴らしい真心をお持ちの方が集うのは、運営なさる方の心の大きさかと考えます。竹下様、有難うございました。 前回の主日に「驚いて」から、また次の主日を迎えました。一週間前には予想もしなかった思いで、今日を過ごしております。 皆さん、お世話になりました。ご厚意、この先も忘れられないと思います。 有難うございました。
ルチア · 2012-06-17 16:41:22 UTC+9 · 投稿 #637
伝えて頂いたこと、有難うございます。 助言して下さった事を大事にしていきたいと思っています。『カルメル会の会則とその精神』、読んでみます。jean様の紹介文を読んだだけでも、魅力的な御本である事がわかりますので。 見知らぬ人間に親切にしてくださり、御礼申し上げます。
mimemegene · 2012-06-17 13:03:31 UTC+9 · 投稿 #636
祈りのこと 「ヨーロッパの死者の書」194頁に, 「子供を対象にした公教要理のクラスでも,自分の言葉で祈りの文句を作文させる.神は初めから『対話する相手』として教えられているのだ」とあります. 日本でよくある,もらうばかりの勉強よりも,このほうがステキですね. 私も祈りの作文をしてみました.良かった! ルチア様も作文してみませんか? さて,私の例ですみませんが,祈りが「生活そのもの」で,「難しいのは祈りではない」ことを分かち合います. このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので, 個人的なほんとに一例に過ぎず,私的な濃いめなあり方だけなので,全て無視して下さっても,結構です. 「大問題で難しい」とおっしゃるので,そのお気持ちを受け留め,一度だけでも,分かち合えればと願いました. ●「霊操」114番 「観想における人物を見ること。すなわち、聖母マリア、ヨセフ、はしため、また、誕生直後のみどりごイエスを見る。さながらそこにいるかのように、出来る限りの畏敬と敬意を尽くし、自分を貧しき者、とるに足りぬ小さき下僕とみなし、この方々を見、観想し、入用な物の世話をする。」 と,とても堅苦しく,?な,表記です.(大問題で難しいかも) でも,この最後にある「入用な物の世話をする」を,私は今でも実際にします.霊操の時も,日常でも. どのようにするかというと,イメージします.(驚かないでください) 祈りの中で,イエス様のオシメを取り替えたり,抱っこして散歩に行ったり. 「イエス様,少しお爪が伸びましたね.」「イエス様,お体を拭きますよ.梅雨時だから,汗をよく拭きましょうね」.と声をかけ,奉仕します. 私の気づきで言うと, ルチア様の目の前に,みどりごのイエス様がいらっしゃる. イエス様は,ルチア様に,全てをゆだねて,保護と養育を求めていらっしゃいます. ルチア様はそれに応えて,イエス様を抱き,奉仕します. この幸せを一生涯味わって生きている人達も沢山います. 家事で言うと,マリア様,ヨゼフ様に仕えます. ベッドメークをしたり,シーツを綺麗にして,洗濯をします.お部屋の掃除をします. 「マリア様,ヨゼフ様に言われて,ヨゼフ様のベッドよりも,藁を多く入れました」・・・ 朝食時,パンにバターをぬる時「ヨセフ様,バターはこのくらいですね」 「マリア様,今日はお好きないちごジャムですよ」と言って,自分のパンをぬります. 「卵は上手く半熟にできて,嬉しいです.ヨセフ様,どうぞ召し上がって下さい」・・・ ポイントは,イエス様,マリア様,ヨセフ様,とお名前を呼んで,入用な物の世話をすることです. 普段している家事が,そのまま聖家族への奉仕になります.聖家族も,生活し,暮らしをしました. ままごとのようですが,聖イグナチオ・デ・ロヨラは,大切な祈りとして,この「お世話」を取り上げています. 祈りの時間をとって,お世話をイメージしても良いですし,単に家事をしながらやってもいいんです. 福音書を読むときも,このような感じを思い起こすと,リアルに体感できて,うまくいくことが多いです. これは私の傾きです. ●祈りの時間を取れないなら,無理をすると,誰でも疲れるだけで,心から捧げられなくなってしまいます. では,どうするかというと,日常生活で,食事の時,お風呂や,トイレや,家事や,通勤他で祈ります. 私の場合,青信号で歩き出す時,「さあ,イエス様,一緒に渡りましょう」・・・ というように,動作をイエス様と一緒にします.主語をイエス様にして.それだけでも私には祈りです. ●ルチア様が聖堂の中で心の落ち着きを「感じ」るのは,とても素晴らしいです. ですので,その落ち着きの「感じ」を,普段の忙しさの最中に,思い起こして,味わうのは,どうでしょうか. できれば,五感夫々を感じながら. 私なら,これは神様を感じること=祈り になります. ●大問題で難しいと思っているものは何でも,大問題になります. 小さく,具体的な行いや動作でも,祈りです. 例えば,今,心臓のあたりに手をあててみてください.何かが変わりますか? 聖堂の中での心の落ち着きの「感じ」を心に感じてみませんか? 胸: 最後の晩餐で主イエスの胸に顔をうずめていた,羨ましいヨハネ. 死後に槍でつかれた胸. 百人隊長が拳で叩いた胸 放蕩息子が父親と重ね合った胸 どんな感じがしますか? そのうち,その部位が,イエス様の部位と重なって感じられるようになってきます. ●祈った後,振り返った時にも分かります 「~だと思った」と書いている時は,祈ったのではなく,考えていた. 「温かくなった」「嬉しかった」等と心の言葉がでてきた時は,祈っていた. 「何の理由もなく,幸せを感じた」時は,祈っていた. 「悲しくなった」ら,祈りが失敗しただけ.やり直す. ●御言葉を書き写す時に,イエス様を思い出して書く祈り. 書き写す時が祈りの時だと思えれば,それも祈りです. 祈り味わいながら,書いている自分を,どう感じますか? 私なら,「私って,なんて幸せなんだろ~」と言います. ●私の変化 例 勉強しているという思い込みが弱点になるので捨てた 教えてもらって,その場で心が温かく豊かになったら,それは勉強ではなく,恵み.(このサイトのように) 恵みと知識,どちらを求めているかがわかってきた. 互いの,本当の気持を,イエスと語り合う 「どうしたら良いか示してほしい」と,神に強く言い続ける 「直観」だけが頼り 祈って,心が温かくならなかったら,祈りを失敗しているから,やり直せばよい. 祈りは対話 傾聴だけだと,イエス様は物足りないとお感じになるかも.イエスの聖心で,私はそう感じます. ●人さまざまで・・・ 十字架の根本にひざまずき,死んでいくイエスを見上げ続け,歓びに溢れて,語り合い続ける. この祈りだけを,毎日ずっとしている人がいます. ルチア様も色々な祈り方をお聞きだと思います. ●「できない」と思うのは・・・ 仕事でも,何でも,「無理だ,できない」と思う時,それは神様の働きかけではないようです. その思い全部を,イエス様に丸投げしたら,受け取ってくれます. 私も知人から教えてもらって,スッキリしました. いやな気持ちを数分味わって,楽になるまで,その気持を何度も手放してみて,渡してみて,綺麗サッパリ,なかったコトに. 先々の事で心配するくらいなら,それを全て渡してしまって, 今(過去でも未来でもなく)を幸せだと感じます. 私には大事な祈りです. ●知らなくて,恥ずかしくて,自己卑下してしまうとき・・・ 未来の心配や問題を思い起こさせるのは,悪い手口からの影響です. 自己卑下や無関心は,愛の反対だから, イエスを愛する心を消し去ろうとする策略です. 神様は,誰かとルチア様を比較して,どちらが良い等は,なさらないです. ●自分もゆるせない・・・ 沢山の祈り方があります... ●私は,迷ったら,神が喜ぶ方を選び,選んでもできなかったら,できるようにと願います. 神が喜ぶ方の選び方は,恵みと暖かさを感じる2択を並べて,味わって,神様の望みはこちらでしょうか?と尋ねてみたとき,しっくり来る方です. --- それで,ルチア様のご返事に感謝しています. また私は,勉強の仕方を教える意図等なく,私の経験を分かち合っているだけなんです. このサイトは竹下様の意図を大切にする場所なので, 私も,上記のように,「不器用だから,こんな事までしてるのか~」という事も分かち合っています. 神様はルチア様を愛し,ルチア様用のプロセスを計画されています. ルチア様が好まれる事だけ,なさって下さい. ご紹介した本は,デーケン神父がイエズス会士なので,その傾向にしました. カトリックの多様な宝石は,竹下様の著書から掘り出してください.ザクザクと. 全冊目の前に並べたら,「少しだけでもわかれば,そこから始めよう!」と謙虚に思う程の量ですね. まず優しい1冊を複数回通読して,気に入った箇所を味わうようになさってみてはいかがでしょうか. ルチア様の「心の中にある聖書」と比べてみると,楽しいです. 竹下様の3冊も,冒頭で書いたように,味わい深いですね! 「二人の自分」や「祈りを深めるために」だけでも,数ヶ月かかります. 楽しいから読みたいという気持ちの時に読めたら,もっと幸せですね. 福音書も,腑に落ちたり,気に入ったり,気づきがあったりしたところを深めると,それが心の扉になっていきます. 神様は無理強いをしませんから,締め切りもありません. 浅く広い知識よりも,神様とルチア様との対話で培われてきたお智恵を大事になさって下さい. これまでの素敵な人生経験は全て神の御計画だと思います. スペシャルプログラムをルチア様のために神は用意されています! 以上
sekko · 2012-06-17 01:55:53 UTC+9 · 投稿 #635
ここでのやり取りはとても勉強になりました。 何が求められているのか、わかったような気がします。 書きたいことがたくさん出てきました。 元気で長生きしなくっちゃ。 (で、死んじゃったとしても、その時はまた別の形で同じ路線で行こうとは、まさにテレーズや多くの聖人や、それから先だった多くの方に教えていただいたんです。キリスト教とは限りません。死後、あえなくブラックアウトってことも当然考えられますが、どういう場合にどういうことができるのかって、ずっと考えてきたんです。それが、『自由人イエス』の解説で書いた「自由他在」なのです。「他在」の流れにいる限り、自分が死んでもあんまり関係ないんですよ。私の年代の日本人は戦争も飢饉もない国に生まれて60年も生きてきたという多分人類史で初めての幸運な世代に属していると思うんで、これをみんなで還元していかないとだめだなあと思います。)
jean · 2012-06-16 23:16:50 UTC+9 · 投稿 #634
>今私が勉強をするならどのような本をお勧めに 勉強もいいですけど、時間があるなら聖堂に座っているのはもっといいかもしれません。 でも、それだけでは突き放したような冷たい言い方なので、一冊挙げておきます。人それぞれに好みや感性の違いがあるから、ルチアさんに向くかどうか分かりませんが、私はこの本、好きです。『カルメル会の会則とその精神』。ドン・ボスコから出ています。文庫本サイズの、青色の表紙の割と薄い本です。700円ぐらい。執筆者はフランス人の神父さんです。本文は取っ付きにくいかもしれません。序文が4、5ページあって、これは日本在住の神父さん(多分イタリア人)が書いています。この序文が良く出来ています。熟読玩味されたらいかがでしょう。四谷のサンパウロでも棚に置いてあります。入って右の奥、カルメル会の著作がある棚です。
jean · 2012-06-16 18:19:45 UTC+9 · 投稿 #633
>末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。 楽しみにしています。本が出たら、買います。 竹下さんの周りには各社の編集者がいて、原稿の相談に乗ってくれるでしょうが、私も2年ほど前まで某出版社(ビジネス・理工系)にいたので(編集です)、もし出版先とは関係のない編集者に頼んでみたい何かがあれば、協力しますよ。いまは早期定年退職し、時間はありますから。
ルチア · 2012-06-16 16:23:08 UTC+9 · 投稿 #632
竹下様 伝えて下さった事、有難うございます。 「風姿花伝」も「ベルグソンの Elan Vital」も、ネットで調べてみました。(分かったふりをするのは良くありませんから、すみません「お能」とか古典の素養がないのです)私に理解できたのは「とても難しそう」という事と、神父様が恩師と仰っている「ガブリエル・マルセル」はベルグソンのお弟子さんという事だけです。そして、竹下様の「音楽」「ダンス(身体表現)」と、カソリックがやっと繋がって理解できました。 ミサの与り方の姿勢というものを教えて頂いた気がしております。そして、個人が孤立した点として存在しているのではないという事も。 竹下様は「私の書いた本を、しっかり読んでください」と仰らずに、初歩的な質問に答えて下さり、何とも御礼の言いようがありません。 有難うございました。
ルチア · 2012-06-16 15:43:11 UTC+9 · 投稿 #631
mimemegene様 私の質問に丁寧に答えて下さり、感謝いたします。 mimemegene様が教えて下さった本を全部ネットで見てみました。 ご教示頂いたところをプリントして、これからの勉強の指針にしたいと思います、何冊か既に持っている本もありますが来週本屋さんへ行ってみます。(竹下様の御著書が、どんなに重要かという事も再理解できました) そうですね、聖書の中で気に入った所をノートに書き写せば良いのですね。お祈りのカードはノートに挟んで折々に見るのですが、思いが及びませんでした。いつも神父様が「皆さん、私の話を聞きに来てくれるのも良いのですが、一日5分聖書を読んでくださいね」と仰っていることが、形を持って感じ取れてきました。 こうして、自分の勉強の仕方を見つけて行くのですね。お力添え有難うございます。 「祈り」難しいです…。これも個人的には大難問の一つです。理由は簡単で私が現実的すぎて、忙しい人間だからだと思っています。でも、聖堂の中に入ると心が落ち着きますので努力してみます。 ご親切、心より御礼申し上げます。
mimemegene · 2012-06-16 14:20:06 UTC+9 · 投稿 #630
竹下様 ご返事に,深く感謝しております. ●あまりに嬉しくて,今朝1時間の黙想は,竹下様の書かれた 「私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。」をずっと祈りました. これまで私の今への「神の望み」は沢山祈りました. それが死んだ後にも続く「望み」であることに,気づきが深まりました. 22日から年の霊操に入るのですが,その準備のために,神様は竹下様を通って,メッセージを伝えていると,感じました. 竹下様に心から感謝します. ●プリユール氏の「死者の書」では,最初に書くべきことが抜けておりました. 全て竹下様のお陰で,心の霧が晴れたので,翻訳等をお尋ねしました. 経緯で申しますと, 私は実母葬儀で,「母が帰天しました.『別れは小さな死』だと感じています」と挨拶しましたら,司式神父が「神の元では,死は小さな別れです」と言い直して下さいました.この神父の言葉に,私も家族親族一同大変癒されました. この経験を深める本を探してもなく,ようやく竹下様ご著書「ヨーロッパの死者の書」に出会いました. 通読して「死者の書」の著述意図に照らされました. そして,ご著書には, -人々は「良き死」のための実用的な智恵の貧困さに愕然とする時がいつか来ることを予感し始めた.そんな時代に,新しい「死者の書」の創造が目指されるとしたら,それはより完全な「生」を知るための模索でなくてはならない.172頁- -要は,こういうテキストで編まれた「死者の書」が葬礼の書ではなくて「希望の書」となることである.「死者の書」は死者を送る時に読む「生きるガイド」であり,自分が死に直面した時に読む「死ぬガイド」であり,死後に近親者に思いを込めて読みあげてもらう時には「生き続ける」ガイドとならなければならない.174頁- -死者と残された者とがともに生きた精神の風景の中に,時空を超越するような普遍的なメッセージがきっと隠されている.そんな確信を持って,ジャン・プリユールは「西洋人の死者の書」を著した.173頁- と書かれています. 「これだ,これなんだ」とその時思いました. 第7章プリユール氏著書解説は沢山の教示がありました.でも,上記3センテンスがとても意味深く,私の求めを言い表して下さっています. 3センテンスがなければ,アウグスチヌスの祈りでのお尋ねで,私の求めは止まっていたと思います. ご著書発刊の意図に促されて,私は動いていると感じております. 第7章の何処かに「なおこの「死者の書」は来春翻訳出版を予定している」等の予告を探したのは,私だけではないと思います. ●それで,ぜひ原著を手にしたいと願います.何卒よろしくお願い致します. 私はフランス語は初歩レベルです.まずは,在日フランス人や神父他数人で読んでみようと思います. 本当に有難うございます!!
sekko · 2012-06-16 01:07:35 UTC+9 · 投稿 #629
Jeanさまのお答えからルチアさまがミサの「流れと起伏」というのに注目なされたことはよかったです。 ミサの一番大事なところは一つのストーリーが毎回更新されるところで、それで各自がまた大きな流れに入っていけるところだと思います。 唐突ですが、私は最近、風姿花伝のおかげでベルグソンの Elan Vitalがすごくよく理解できました。 お能のテクニックやら型は、マチエールとしての水のようなもので、それは完全に習得しなくてはならないのですが、それを一つの流れとして動かすものは、言葉では表せない、というものです。でも、その流れの中にだけ能の本質があるので、マチエールとしての水がどんなに完璧でも能にはならないのです。 音符と音符の間、楽節と楽節の間に音楽があり、ステップとステップとの間にダンスがあるのと同じです。 ミサの典礼のひとつひとつのパーツはいわばマチエールの部分であって、それをどんなにチェックしたり変えたりしても、一番本質的なのは、そのマチエールを貫いて動かして、どんな流れとするのかということではないでしょうか。 Elan Vital をインスパイアしてもらって、各自の支流に戻ると、マチエールとしての水は、また濁り水になったり蛇行したり堰き止められたり汚染されたり、悪くすると涸れてしまったりするかもしれませんが、そんな時に、また、大きな流れとは何なのか、この流れをスタートさせた最初の息吹きとか何なのかを感じなおさせてくれるのが、各種の典礼とか霊操とか祈りなんだと思います。 私が前に、「ある」ではなく「なる」に向かいたいと言ったのもそういう意味なんです。 「ある」のは、この世のレベルでは私を構成するさまざまなマチエールに過ぎず、それをすり合わせたり統合したりしながら「なる」に向かう流れを大事にしたいということです。 「なる」に向かって人間が自由意思を行使できるかどうか、それが、人間に自由意思を与えた神の賭けなんだとユダヤ教の話で読んで感心しました。聖霊の風と自由意思の風が共振して流れに参入するように招かれているという感じでしょうか。その「神の賭け」に加えて、神が先に私たちを愛したので救い主をおくってくれたというのがキリスト教ですね。 で、「神」は、「ありてある者」「私はあるという者だ」というように、「ある」ものなんですが、もちろんマチエールではなく、無限なわけで、そのような「ある」に「なる」ための流れが創られた、その流れは私たちの中にもある、と思います。 音やステップをただ連ねても音楽やダンスにならないように、人生も、小さな幸不幸や成功や失敗や困難やアクシデントの集積ではなく、それらを運ぶ大きな流れなので、この人生が終わったとしても、その流れは続き、どこに向かうかべきなのかを知っているかどうかで、「なる」ための歩みは変わってくると思います。
mimemegene · 2012-06-16 00:53:21 UTC+9 · 投稿 #628
sekko · 2012-06-16 00:22:45 UTC+9 · 投稿 #627
リンクした通り、古い版ならこちらのamazonでは6ユーロから手に入ります。もしフランス語がOKでしたら、注文して次に日本に行く時に差し上げますよ。 そこまで言ってもらえる本って幸せですね。 もし、どうしても翻訳が必要なら、すぐには無理ですが、個人的に少しずつ翻訳してmimemegeneさまのところに配信しますよ。 私はまさにリジューのテレーズの死後への決意を読んで、死ぬ前に死んだ後にやることをきっちり考えておくのと考えないのでは差が出るなあ、と納得したんです。「だめもと」だし、一応、できるだけ多くの人の役に立つことを考えとこうと思います。
ルチア · 2012-06-15 18:28:18 UTC+9 · 投稿 #626
フランスでのミサ模様の様々を生き生きと伝えて下さり有難うございました。 「はい、未信者の人は祝福に並んでください」に驚かれたというところを、興味深く感じました。(最近のイグナチオで個人的に驚いたことは、平日の12時のミサの司式の奉仕者がお二人とも女性になられたことです。) 私は時を経るごとに「カソリックの信者さんの信仰のあり方が、一人一人個性的」と強く感じております。信者さんの中で信仰の方向が違うのは問題となるでしょうが、信仰のあり方はとても個性的に感じます。こちらの掲示板でも、様々な角度から助けて頂いていますし。 mimemegene様も仰ってらっしゃいますが、私も本当にこの掲示板に感謝しております。 竹下様は「みなさんありがとう」と謙虚に仰ってらっしゃいますが、運営者の捌き方ひとつですから、竹下様のお力によるものと強く思います。 有難うございました。 いろいろと助けて頂いた流れで書いてしまいますが、mimemegene様・jean様、今私が勉強をするならどのような本をお勧めになられますでしょうか?
ルチア · 2012-06-15 17:38:28 UTC+9 · 投稿 #625
jean様の答えて下さった中で「さあ、これからミサの中心~」というところを読み「ミサをそのように受け取る捉え方が有った」ということに遅まきながら気づきました。考えてみれば、ミサの中で流れの方向と起伏があるのは当前のことで、それに気づかず語句にとらわれていたのかもしれません。jean様の投稿を読んだ後で「キリストと我等のミサ」を読み直してしまいました。 有難うございます。
mimemegene · 2012-06-15 15:08:45 UTC+9 · 投稿 #624
竹下様 『ヨーロッパの死者の書』 不躾なお尋ねにご返事下さって,本当に有難うございます. 私の帰天ミサの手本・台本にしたいと願っている位です. 私のmimemegeneは「模倣の遺伝子」という意味で使っていて,少しずつ色々倣って,将来の前備にしたいです. 実現できるように,まずは祈っていきます. Le livre des morts des occidentauxは,東京の大学図書館(東大,上智,聖心,その他私大6校)にはいずれも蔵書がありません.プリユール氏の他書は東大で8冊,上智で6冊とかありました.日本版のアマゾンでは,ISBN検索でもヒットせず,他のネット書店で1冊だけ(1981年版)見つかりましたが,価格が7千円弱位でした. ------------------ ★それから,このボランティア掲示板には,心から感謝しています. 例えば,2月にお尋ねした「アウグスティヌスの祈り」について,竹下様から深く教えていただきました. 私はこれを味わって,「輪廻転生」してしまうかもしれないというなんとも言えない心のささくれがとれて,霧が晴れました. 「霊操」の230番に「愛は言葉よりも行いによって示すべきである」とあり, 竹下様は,まさに著述で愛を示されていると,私も皆様と同様に感じております. 私の場合は,「感じたいのは,キリストの心」です. こういう内的理解を祈っていて,私の気づきの傾向が単調になってしまって,つらい時期がありました. この時期に竹下様の著書を読んで,腑に落ちる光源を幾つも知り,気持ちも落ち着きました. まさに著述のおかげです!
sekko · 2012-06-15 08:34:03 UTC+9 · 投稿 #623
ええと、ご質問の答えとして… 平日の6時のミサ、みたいなのは、ルルドなどの巡礼地に行った時でもないと出席したことはありません。 フランドルの田舎のうちがあった頃(今はもうありません)は、日曜は絶対行ってましたよ。鐘がうるさいので忘れられないし、というか、町内会みたいなものなので顔を出さないと近所の人に病気だと思われそうだし、司祭さんが気の毒だし、という感じです。 私は歌を歌うのが好きなので、苦になりません。昔、歌を歌えなかった時があるそうで、じっと聞いてるだけだったら苦痛かもしれません。 イグナチオでも昔、フォークミサというものがどんなものか見たくて行きました。そういえば結構人が来てましたね。ミサの前にちょっとリハーサルみたいなものがありました。後は日本では、演奏会や講演を別としたら、町田教会、水戸教会、垂水教会、成城教会で一度ずつ、ミサを体験しましたが、エキゾティックな感じがしました。日本じゃない別世界って雰囲気でした。よそ者には敷居が高い感じもしました。 舞子の愛徳姉妹会に泊めていただいた時は毎朝6時半のミサにつきあいました。シスターたちはみなすてきな歌声です。 日本の教会では、「はい、未信者の人は祝福に並んでください」、とかいうシーンがあるのに驚きました。フランスの都会なら、互いに顔を知らない人も多く、日本人の観光客で、ただ好奇心でフランスの教会のミサに出て、なんとなく並んで聖体拝受までした学生とか何人も知ってますよ。 パリのモスクとかシナゴーグとかだったら、無知からとは言え、そんなよそ者が儀式に参加したら恐ろしい感じがしますが、やっぱカトリックって、老舗の大所帯だから、鷹揚というかルーズというか、怖くはないです。 あ、もちろん、個人的にすごく気にする人はいるので、離婚したとか再婚したとかで聖体に近づかない人もいます。 でも、初聖体前の娘がガールスカウトの仲間と聖体を拝受してしまったと言って真っ青になって、司祭さんのところにかけつけてきたお母さんを見たことがありますが、司祭さんは笑って、「それはコミュニオン・ソヴァージュ(野生の聖体拝受)と言って、気にしなくていいよ、聖体をいただくのは資格の問題でなくて必要の問題なんだから」と答えていました。 ミサで、今はほとんどの人が席から立つ時に、しっかり跪く人もいます。ホスチアをもらう時、舌の上に乗せてもらう人も、跪く人もいます。他の人と同じようにしなくてはならないという感じは特にありません。 これも日本人のブログで、教会で跪いて口でホスチアを受けようとしたら司祭に拒否されて無理やり立たせられたとかいう人がいるのを知って驚きました。第二ヴァティカン公会議でいろいろ変ろうがヨーロッパ中ではいろんな司祭さんや教区があるので、それこそ巡礼地に行っていろんな国の巡礼団のミサを見ると、千差万別だなあと思います。それでもみな親近感があってつながりがある感じで、私はすごく好きです。 以上、ただの観察と感想のレベルでお答えしただけで、信仰の話ではないので、霊的なことが気になる方は無視してください。
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