sekko · 2012-06-15 07:35:23 UTC+9 · 投稿 #622
『ヨーロッパの死者の書』は、私の読んだのは1981年版の
http://www.amazon.fr/livre-morts-occidentaux-Prieur-Jean/dp/2221006151/ref=ntt_at_ep_dpt_8 なんですが、最近新しい版も出たようです。
この著者はもう百歳近いのですが、まだ活躍しているようで、タイトルだけ見ると、日本だとオカルト本じゃないかと思われるような怪しいジャンルもあるのですが、実は本格的な歴史家で信仰者でもあるという、すごくフランス的な人だと思います。
翻訳出版する出版社があれば私はもちろん協力しますが、どうでしょう。
それから、mimemegene さま、ルチアさまへのお言葉ありがとうございます。しかも、私のことをあんなふうに言っていただけるなんて、それだけでもこのボランティア掲示板を残しといてよかったなあと思います。
サイトを作る時、基本的に、自分の宣伝はしない、私生活は垂れ流さない、目立たないようにする、という路線を決め、ブログも、ネット上で出会ういい加減な批判にうんざりしていたのでコメントもトラックバックも受けつけない「覚書」に限定していたのです。まあ、ネット上であれこれ言われるのは読まないようにしているのですが、今回は、紙の媒体での誤解をきっかけにネットですてきなお声を聞くことができました。
今回のことに関して、なかよしのシスターから、
「わずらわしいことがあったとしても、プラスのことはその何倍もでしょうから。。。そう考えてまたどんどん発信なさってください。」
とメールで言ってもらえたんですよ。確かにそうだなあと思います。
人間、マイナスのことの方がなんでも強烈にインプットされがちですが、公平に考えたら、絶対にプラスのことの方が多いと実感します。
皆さまほんとうにありがとうございました。
sekko · 2012-06-15 00:59:32 UTC+9 · 投稿 #621
女の人は・・・というのは、他の人のことは知りません。
私の場合、フランス語なんで、敬語がなく、こんな感じなんで、日本語にしたら違和感があるかもしれません。私の年代のフランス人なら、カテキズムを受けた時はまだ第二ヴァティカン公会議の前だったでしょうが、私にとってのキリスト教は1980年以降のフランスのリベラルなキリスト教なんで、まあこんなもんです。
イグナチオのイエス像は磔刑像でないのでいいですが、フランスにはリアルなのが多くて、この頃、磔刑像で痛そうにしているキリストを見ると気の毒で気の毒で、こんな痛そうな人に何かお願いしている場合じゃない、一人くらい「私ががんばってあげるからね」と声をかけてあげればいいような気がしまして…
特に五十肩をして腕が痛いのを経験した後では、磔刑像を見るだけで痛くて。
まあ、これは私の内臓的な反射に近いので、スルーしてください。
末っ子の役割の問題、これは面白いテーマで、いつかじっくり書いてみたいと思っています。
こちらでは、半年年上の親戚である洗礼者ヨハネに対するイエスの優越というか、ヨハネが自分は衰えねばならない(ヨハネ3-30)と言ったことも、必ず、聖書の中の年齢の話に引き合いに出されます。また、旧約でいうと、カインがアベルを殺して追放されて、困った(?)アダムがその後にセトをもうけて、そのセトが人類の先祖(カインも子孫を残したしアダムもその後にも子供ができたとかいうのは無視です)になったんで、三番目の子が後継ぎになったというストーリーも(長子の歩が悪い例として)引き合いに出されることがあります。
ユダヤの律法では長子の特権は明らかなんですけれど、古代社会では実際、末っ子が実家に残って老親の面倒を見て家督を継ぐという形態もめずらしくなかったようです。
ヨーロッパでいうと、本当の意味で長子相続が確立したのは11世紀頃らしくて、その長子には、家督や財産を守るために軍事教育を施し、下の子は聖職者に、というのが多くて知的教育を施し、実際聖職者や文人には長子ではない子が多いそうです。テレーズの姉妹のようなのは例外として、修道女になるのも末娘が多いという統計も読んだことがあります。
また、ガラテヤ(4,21-31)にあるように、最初の子は奴隷の子、二番目の子が自由の子、という比喩もあって、この話(アブラハムの2人の子の話)も文字通り読むと、なんだか最初の子に対して不当だと思えますが、「自由」ということについていろいろ考えさせられますね。
つまり、こういう例えがいつのまにか、「家督や財産」などこの世の名や富を継承し守るべき長子的なのが「肉」の子で、聖職者になっちゃって子孫を残さず神にだけ仕えるのが長子の権利と義務を負わない「霊」の子、みたいな図式にすり替わって、安定したのかもしれません。日本でも昔なら子供がたくさんいると末っ子くらいはお寺に修行にだすとか、フランスでも昔はやはり末の子くらいは聖職者にして家族のために祈ってもらうとか、いろんな思惑があったのかもしれません。
旧約聖書って、律法はもちろん細かくて厳しそうですが、実際に展開する物語はなんだかリアルで、人間の家族の微妙な心理とかが露わになっていて、その落差が次の新約になだれ込む契機を作っているのかもしれませんね。そしてその後に続いたたくさんの神学者とか聖職者たちも、その流れの向かう何かの中でいろいろな試行錯誤をしているのかも。
あまり答になってませんが、とりあえず書いてみました。
jean · 2012-06-14 20:44:06 UTC+9 · 投稿 #620
竹下さま
女の人は、聖堂でこんな風にイエズスさまに話しかけるのですか。
私は「今日もここに来ることができました。これから始まる御ミサ、カルワリオの再現に与らせてください」といった感じです。中年のときも年を取っても、ミサの前のこの語りかけは変わりません。
竹下さんに、ひとつ質問があります。答えるのが面倒であれば無視していただいても構いません。質問とは、「末っ子に大きな役割が任されるのは何故」「このことをヨーロッパの人たちは、どう考えているのか」です。
ヤコブの12人の息子のうち、エジプトの宰相となってイスラエル人を救ったのは末っ子のヨゼフでした。ダビドも兄たちが次々に面接ではねられ、最後に残ったのは末っ子のダビドでした。12使徒の中でイエズスさまに最も愛されたのは一番若いヨハネでした。ヤコブの弟です。怠惰に見えるマリアのことでイエズスさまに文句を言ったマルタはお姉さん、そのマリアは妹で、マリアの方が大切にされているような感じがします。有名な放蕩息子も弟、帰ってきた弟のために宴会を催した父に文句を言ったのは兄ですね。日雇い労働者の話で、朝早くから汗水流して働いたのに、夕方に少しだけ働いた人が同じ賃金をもらったのはおかしいと文句を言ったのは、聖書には書いてありませんが、何となく兄、夕方だけ働いたのは弟という感じがします。「L’art de croire」で「リジューの聖テレーズを読み返すことにした」と書いておられた教会博士の聖テレーズも4姉妹の末っ子です。何故なんでしょう。なぜ、末っ子がこのように大切な役割を任せられるのでしょう。このことを、ヨーロッパの人たちはどのように解釈しているのでしょうか。
『弱い父「ヨセフ」』を書いた竹下さんなら、この疑問にも答えをお持ちではないかと、お尋ねした次第です。
jean · 2012-06-14 20:42:55 UTC+9 · 投稿 #619
ルチアさま
竹下さんの回答があるので、それで十分なのですが、あえて付け加えるなら、「主よ、憐れみたまえ」「天のいと高きところには神に栄光」「神の子羊」と比べると「聖なるかな」の歌は確かに少し違った感じがあります。さあ、これからミサの中心、とっても大切な奉献文が始まるのだぞ、という意気込みがあるような感じがあって、私は嫌いではありません。「万軍の神なる主」に限らず、ルチアさんの疑問はほかにもあるでしょう。そんなときは、遠慮せずここで質問されたらいかがですか。難しい問題は竹下さんが的確に答えてくださるでしょうし、簡単な問にはmimemegeneさんや私もお役に立てるかもしれません。
mimemegene · 2012-06-14 19:33:53 UTC+9 · 投稿 #618
竹下様
4月の聖イグナチオ教会での講演会は,とてもわかりやすく,ありがとうございます.
又ご挨拶ができて,幸せでした.
お尋ねが一つございます.
「ヨーロッパ死者の書」で取り上げている,ジャン・プリユールの「死者の書」が,とても心に残っております.
それで,竹下様は,日本で翻訳出版なさるご予定やおつもりはございますか?
ルチア · 2012-06-14 11:16:18 UTC+9 · 投稿 #617
丁寧な文章で伝えて頂き、本当に有難うございます。
私はmimemegene 様のような深い信仰は得ておりませんが、仰られていることの意味は少しだけ分かるような気がしてきました。「自分を出る」「開心」はなかなか奥が深く、時間がかかることのように思いますが、「全てを理解しないと受洗できない」という考え方は却下の方向で進んで行きたいと思っております。
御礼申し上げます。
ルチア · 2012-06-14 11:04:38 UTC+9 · 投稿 #616
私の拙い迷いに対応してくださり有難うございます。
このような場所で見知らぬ方から受ける好意に、何と感謝して良いかわかりません。
また、迷った時に投稿させていただくかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
ルチア · 2012-06-14 10:55:07 UTC+9 · 投稿 #615
竹下様、初歩的な疑問に調べて答えて下さり、有難うございます。
「天使の軍団」とても受け入れやすくなりました。竹下様の仰る通り、あまり表面的な字句にとらわれずに勉強していこうと思います。「神学」の道を目指しているわけではありませんからね。
日経の記事から波及した皆さんの反応に、一番驚いてらっしゃるのは竹下様ご自身かのように見受けられます。確かに、私も単純に興味を持った本として読むのであったなら、著者が「信者さん」かどうかは全く気にならないと思いますし、推測もしないと思います。
シスターが仰られたように「好都合」(信仰から距離を置いた宗教本という意味かと思いますが)のほうが、読者に先入観無く受け入れられて良いのでしょうか。
読み手としても、熱心な信者さんの書かれた本は「布教目的?」というバイアスがかかって読んでしまいますね。
竹下様がご自身で書かれた「複数のアィデンティティ」は、竹下様の魅力の中で「補完的」ではあっても、大きな部分のように思います。一読者として、どのように「なる」のか、この先をとても楽しみに思っております。
L'art de croireも愛読させて頂いておりますが、この「哲学・宗教質問箱」とは文体も違うし、「複数のアィデンティティ」を感じております。
一つだけ、質問をさせて頂いてよろしいでしょうか?全くの興味だけからの質問です。
ここに投稿してくださった方々は、主日のミサに与ってらっしゃるように思いますが、竹下様はフランスでミサにお出になったりはしないのでしょうか?(純粋にミサ出席だけの為に)
私もイグナチオしか知らないので、認識に偏りがあると思いますが、平日でも夕方6時のミサの前にベンチに座っていると、人が行き交い会話が交わされ、教会が大きな家族として機能しているのを実感します。竹下様の文章から推測するに、これは日本でカトリックが少数派だから起きていることなのでしょうか…。ヨーロッパで教会へ行って、とにかく驚いたことばかりで、人は少ないしベールを被っていらっしゃる方も見当たらないし、考えさせられてしまいました。
お時間の許す時に書いて頂けたら、幸いに存じます。
mimemegene · 2012-06-13 23:29:24 UTC+9 · 投稿 #614
前略,
ルチア様を端緒とする交わりに,私も加わりたいと願って,メールをしてしまいました.
私は竹下様が受洗されていると知覚していました.
主イエスと出会った人だ,神が育てた人だ,と感じると言ったほうが,わかりやすいかも知れませんね.
決意をした人,崇め頼む方をハッキリ知っている人の語り方や感じ方の表現を著書に沢山感じています.
私はイグナチオ教会で30年程前に成人洗礼した一般信徒.年の霊操を始めて15年程の男性.
それで,ルチア様に私の日常を,少しだけ分かち合いたいと願います.
書かれている文を読んで,受洗に向き合うセンスがとても素晴らしいと感じたからです.
私個人のつたない経験で,しかも少し長くなってしまったので,
お時間があるようでしたら,読んでみてください.
無視しても全くかまいませんので.
①「ありがとう」「ごめんなさい」「助けてください」
私は毎晩,一日を振返ります.
三位一体の御交(おんまじわり)が私に触れて下さったことを思い起こします.
振り返る順番はタイトルにある順でないと,上手くできない事は,やり続けるとわかってきます.
例えば,「御交様,今日怒りそうになった時,心がなぜか柔らかくなりました.感謝します」という感じです.
この振返りをした後に,前後での心の変化に集中して,何らかの変化を感じたら,それも言葉にします.
できれば,一連のことを簡潔に書き留めると,1週間毎の振返り,1ヶ月毎の振返りの時に助けになります.
①は,「御交との交わりを体験したらどんなに素晴らしいか」というのを,誰もが感じられるやり方だと思っています.
②主イエスは私を慕う
谷川の水を求める鹿のように「あなたを慕う」というのは旧約のイメージですね.
この聖歌で言うと,新約は「神よ,あなたは私を慕う」となります.
御子イエスの方から,私を求めて来て下さっている.人間になった.
更に,御聖霊が常に私と共にいてくださいます.
知識よりも御聖霊への感度をUPするように,私は常々お願いしています.
身体が霊魂を持っているのではなくて,霊魂が今だけ身体を持っているというイメージを描き,
共にいてくださる感覚を味わうように私はしています.
しかも神様は無理強いを決してなさらないので,いつも安堵ですね.
③改心よりも開心
マザーテレサが著書に書いています.
「テオドーア修道女が亡くなる少し前に、どれほど苦しみがひどいか彼女にたずねました。すると彼女は美しく答えました。
『それはイエスと私の間の秘密です』と。」
それで,テオドーア修道女は,「何故私がこんな死を迎えるのか」等も含めて,全てをイエス様に言い続けたと思います.
イエスはその全てに触れたので,イエスとの秘密が生まれたと思います.恵みですね.
テオドーア修道女のように開心せずに,つまり,「誰にも言わずに自分で解決しようと心にしまってある事」は,解き放たれたくて,「心の傾き」になって,常に関わりを求めてきます.
ですので,ルチア様がミサ応答でひっかかりを覚える言葉は,「心の傾き」を照らすきっかけ,神様からの働きかけの光ではないでしょうか.
私の経験では,このようなきっかけは「しまってある事を神に捧げてほしい」というメッセージです.
また,デーケン師が「より深く他者と出会う事」と表現されているのは,心の中の「二人の自分」(慰めと荒みの二人)の出会いも示唆していると思います.
それで,タイトルの開心のことですが,
「私だけの秘密で,御交にもみてほしくない」というような事は誰にでもあると思います.
その秘密こそ,御交にむかって心を開くのは,恵みだと思います.私も度々恵みを感じています.
言葉では説明できない恵みの塊のような,常に心も身体も温めている体内の塊のような,そんなものが私の中に感じられるようになってきて,これは御交との秘密としか表現しようがないと思っています.
神様がきっと受け取ってくれるだろうと勝手に思った事の方を神様に見せますが,隠している事の方を本当は捧げてほしいと働きかけて下さいます.
神様は全てをご存知だから,私の場合は,「全てをみてください」と言うだけでも開心の扉は開いてゆきました.
恐れは全くないので,①が日々の開心です.
最後の晩餐で「私の身体」と言って割かれたパンはイエス様ですね.
そして,イエス様はパンの形で弟子達の身体の中に入って行きました.
その時のイエス様は,どんなお気持ちで,何を感じられていたでしょうか.
現代では,日々のミサではどうでしょうか.
自分の心を開いて,キリストの心を感じ取れるように求めるために,
私の場合は,言葉や定義ではなく,「感じる」事が全てです.
竹下様の著書は,この「感じる」時に,私の心の霧を晴らす風のようです.だから冒頭で知覚していると書きました.
神父達が言うように,神を愛する心や神との歓びも,既に私に与えて下さっているから,「私は神を愛している」と言えます.
既に恵みを全てをいただいていて,それに少しずつ気付いていく日々が,ルチア様にも始まっていると感じております.
「イエス様を愛している」と言葉はありませんが,そのニュアンスが文から匂い立っていませんか?
sekko · 2012-06-13 19:24:17 UTC+9 · 投稿 #613
>ここ数年、こんなにびっくりしたことはありません。
ということにこちらこそ驚きました。
日経の記事よりここでの返事の方がインパクトがあったわけですね。
このことで、あらためて、私の関係するカトリック雑誌の連載や出版物の紹介文を見てみたのですが、確かに、別にどこにも私が洗礼を受けているとかどうとかいうことは出ていませんね。
でも、そういうところ自体が、カトリックがいかに党派性や今ある共同体だけに固執しない、開かれた世界であるかという特色の出ているところで、私としては好感が持てます。
Jeanさんはイグナチオ教会に行かれるのですね。
先日ヨセフホールでトークする前にもちろん聖堂に行きました。復活のキリスト像に、いつも通りフランス語で「ほら、私よ、あなたのためにここにいるのよ」(近頃年齢のせいかおかあさんモードになりつつあるので)と話しかけてしまいました。
Jeanさん、ルチアさんの疑問などにもどんどん答えてさしあげてください。ありがとうございます。
sekko · 2012-06-13 19:00:58 UTC+9 · 投稿 #612
>事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」
というところですが、記者さんの名誉のために申し上げますと、私も驚いて問い合わせたのですが、私が今カトリックであることに気づかなかった、というお話でした。記事の確認を事前にしなかったことが一番の問題で私にも責任の一端はあります。私は都会の核家族で育ったので、葬儀社以外から家族の宗旨を聞かれたこともありません。多分日本の多くの人がそうでしょう。
フランスのカトリックの多くもそうで、十代初めのコミュニオン・ソロネルという儀式(家族が集まるイヴェントとしては大事)の後は、教会に縁がない人が多いです。後は、結婚(これも事実婚が多いので教会で結婚する人は少なくなってます)とか自分たちの子の洗礼(これはお宮参りと同じで家族の大事なイヴェント)の時に洗礼の日付と場所を聞かれたり堅信をしているか聞かれたりすることでアィデンティティが出てくる感じです。
これに対してフランスで成人してから仏教徒になった人は、ちゃんと瞑想会や勉強会に行ったり、菜食主義になったり、ダライラマを追っかけたり、自分は仏教徒だというアィデンティティがちゃんと見えます。
私のカトリック感覚(帰属意識としての)はフランスのリベラルなカトリックに近いのであまり気にしていず、日本でも宗教の帰属意識が希薄な普通のうちに育ったので、他の人の宗教意識をチェックする習慣もありませんでした。それで、ずれが生じているのだと思います。フランスでカトリック雑誌からインタビューを受けたことがありますが、その時も別にカトリックかどうかなど聞かれもせず書かれもしませんでした。
でも切実な帰属意識のある方や受洗を迷っているような方にとっては、それは大切なポイントなのでしょう。
逆に、私のポジションのそういう「ずれ」にポジティヴな可能性を見てくださる方もいるので、そして、もしそういう方の方に私はより多く役に立つとしたら、このまま行こうと思っています。
私の中にある複数のアィデンティティは、私がそうで「ある」ことを規定するものではなく、私がそう「なる」ことに向かわせてくれる補完的な活力源だと思っています。それはやはり他者との関係性の中で醸成されるものだと思います。
一つ言いますと、この日経の記事を読まれたあるカトリックのシスターが、今朝メールをくださって、次のようなものでした。
「西洋中心の国際社会に対して、日本が逆にキリスト教的価値を突きつけるくらいにならないといけない」。ほんまにそうです。(絶対にそうはならない、なれない日本ですけれどね。) いいことを書いてくれたと思います。朝日や三大新聞がこういうのを載せてほしいですね。
(中略)
竹下さんが大いにお働きになれる場を神様がくださいますように。ところで上の記事、あのままでは竹下さんは「カトリックではない」ことになりますね。それも真実ではないですね。ただ、あぁいう記事を書くときはカトリックでない方が、好都合ですが。
(引用終わり)
ということで、むしろ「いいこと」に注目していただいたのはありがたいことです。そして誤解とはいえ記者さんの意図もくんでくださっているので、ありがたいと思い救われました。
さて、
「万軍の神なる主」についてですが、
日本語の共同訳でイザヤ6-3 を今見ましたら、確かに万軍の主となっているのですね。
Sabaothは軍隊だけでなく、組織された集まりを指すので、ここでは宇宙を司る神の意志を実行する天使の軍団のような意味なのでしょう。
でもここで「軍」という言葉を入れると誤解されるというのでフランス語でも「天の」という形容詞をつけて緩和してきた歴史があるそうです。
今はもうたいていのフランス語の聖書はSabaothとそのまま書くか、Dieu Maitre de toutすべての主である神、Dieu tout puissant最強の神みたいな訳になっていて、ある領域の支配者の暴力装置としての「軍」という誤解を避けるようになっています。(私の使っているLa Bible de Jérusalem ではSeigneur Yahavé Sabaot です)
訳文にはいろいろな歴史の文脈もありますし、普通の人はあまりこだわらない方がいいんじゃないかと思います。(こういうことを書くとまたどなたかから叱られそうですが…)
ルチア · 2012-06-13 17:02:12 UTC+9 · 投稿 #611
竹下様、お忙しい中、私の質問に丁寧に答えて下さり、心より御礼を申し上げます。
頂いた返答を読み、まず事実が違うことに驚きました。確かに宗教は微妙な問題ですが、事実と違うことを公の紙面に載せてしまう記者さんの倫理観に「?」マークになってしまいました。微妙な問題ととらえるなら、違った書き方もあったのではと思いますが。
とはいえ、そのおかげで竹下様の受洗の経緯も教えて頂ける事となり、感謝しなければいけないのかもしれません。フランドルで受洗されたのですか…。加賀乙彦さんに「フランドルの冬」という御本がありますね。竹下様の文章を読んでいるだけで、こちらも胸が暖かくなってくるような受洗の光景だと思いました。素晴らしい受洗を得られたのですね。
竹下様が仰るように、「大人の受洗は内的な必要に駆られて」の方が殆どで、通っているクラスでも、何か深いお悩みをお持ちの方が「受洗」有りきでクラスに通ってらっしゃる方が多いように思います。私的なことで申し訳ありませんが、私は大きな悩みが有るわけではなく、知的興味(知的と書くのは恥ずかしいくらい低レベルです)から勉強を始めて、想像していた世界よりもカトリックは遥かに奥行きが深く、包容力があることを知り「受洗」を考えるようになった次第です。個人的に確実なことは、勉強を始めてから世界の受容の仕方が変わったことです。これは既にプレゼントのうちに入っていると自分でも思います。
竹下様の返答は「大きなアドヴァイス」になりました。改めて御礼申し上げます。
応答の言葉でひっかかりを覚えるのは「万軍の神なる主。」「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。」でしょうか。一般的な意味での日本語が指すものとは違うとは考えますが…。
余談ですが、竹下様は「ハンス・リヒター展」を観に行かれたのですね。羨ましいです。リヒターは現役の現代アーティストの最高・最大の作家で、私も観に行きたいのですが、贅沢な願望なので我慢しています。3月にはマチス展が開催されていたので、観ました。その時の「DANCE」の展示があったところでリヒター展は開催されたのでしょうか。こういう大きなアーティストのツアーも、最近はアジア開催があっても日本は素通りだったりして残念です。
竹下様が対応してくださったこと、こちらのホームページを運営されていらっしゃる方のご努力に心より感謝いたします。このような場に触れる機会を得ることこそ「恵み」かと思っております。
ありがとうございました。
jean · 2012-06-13 00:32:43 UTC+9 · 投稿 #610
びっくりしました。竹下さん、信者だったのですか。竹下さんの著書は何冊か図書館で借りて読み、それも始めから終わりまで読むのではなく、つまみ食いする程度の知識しかないのですが、この人、信者でもないのにカトリックのこと、あれこれ調べて書き散らしているぐらいに思っていたのですが、信者だったとは。日経朝刊(6月10日)に載った記事は私も読みました。そのとき、やっぱり、この人、信者ではなかったんだと再確認したつもりになって、イグナチオの8時半のミサに行ったのですが、信者だったとは。ここ数年、こんなにびっくりしたことはありません。それで、思わず投稿してしまいました。
ルチアさんは竹下さんと同年齢とのことですが、私も同世代です。違うのは、私は女ではなく男だということ。1952年生まれ。受洗は1984年の復活徹夜祭。妻と1男1女。キリスト教とは何の関係もない家庭で育ったのに、小さいころから何となく十字架やキリスト教に関心があって、カトリックになってしまいました。でも今では、カトリックではない自分は考えられません。
ルチアさんは、「ミサの・・・応答の言葉の所々にひっかかりを感じる自分を見てしまいます。(これが、一番迷っている所なのですが)」と書いておられますが、具体的に、どのようなところでしょうか。ミサの典文を聞いていて、ちょっと変かなと思うところは私にもあります。教えていただければ、お役に立てるかもしれません。あまり他人のことには関心がなく、洗礼に導かねばという使命感もないので、おかしいと思うことを気楽に話し合えればと思っています。
sekko · 2012-06-12 22:21:08 UTC+9 · 投稿 #609
ごめんなさい。記事を事前に確認しなかったので、誤解されるような書き方をされていることに気づきませんでした。記事をまとめられた方は、私の著書を読んでキリスト教徒の視点というよりも、客観的で冷静な視点でキリスト教文化を分析し、語っているといつも感じていられたということで、ああいう書き方になってしまったそうです。
信者であることと冷静な視点は両立しますが、キリスト教がマイノリティの日本では、私自身も、昔、宗教学科でキリスト教を教えている人はみんな信者か聖職者、みたいなイメージでバイアスがかかっているんじゃないかという偏見も無きにしも非ずでしたから、特に表に出す必要はないと思っています。
この記事を読んだ担当の編集者は「信仰を明らかにすると何か不都合が生じて、テロリストから狙われるのかと懸念」した、などと言っていましたが、もちろんそんなこともないです。
私は日本でごく普通の家庭に育って、キリスト教とは知的な興味以外の付き合いはありませんでした。ミッションスクール文化ももちろん知りません。
ミッションスクールで中学高校を過ごし上智で洗礼を受けられたエッセイストの故・島村麻里さんは、「竹下さん、日本にはカトリックお嬢文化というものがあるんですよ」と教えてくれ、彼女は馬小屋セットでお人形遊びをしていたとか、「ルルドのひめぎみマリア様」というような「カトリックいろはカルタ」で育ったと言っていました。私は同じころ、「世界の王者ルーテーズ」といった「プロレスカルタ」で遊んでいましたから、あまりの違いに笑いあいました。
島村さんもそうですが、洗礼を受けた後で教会から離れ、少し罪悪感があったのが、私の本を読んでまたカトリックに親しみを受けた、楽しくなったという人は何人もいらっしゃるようです。「実は、私は、幼児洗礼を受けていまして…」と突然「カミングアウト」なさる仕事関係の人もいて、どう反応すべきなのか分からなかったこともあります。
フランスでは幼児洗礼を受けている人は今でもマジョリティですが、教会に毎日曜行っている人は一割をきっています。まあ、日本人がお宮参りに行ったりお葬式でお坊さんを呼んだりするように、クリスマスや復活祭にだけ教会に行ったり、葬儀ミサだけはするという人はたくさんいますが。
フランスでは逆に仏教徒と称する人は、カトリックの洗礼名簿からわざわざ消してもらって仏教の戒を授けてもらって戒名をもらう、という熱心な人がほとんどです。そんなフランス人の集まりに行くと、私なんて、日本人だから、自然に一目置かれたりしますよ。なんか「Zen」な感じがするらしく。それなりの仏教国カルチャーもありますから。
そんな国で、しかも、フランドルの田舎で、今から30年以上前に成人洗礼を受けたのですが、80歳を超えていた司祭は、そもそも成人洗礼のやり方を知らず、多分司教に問い合わせるという智恵もなかったのか、生まれて初めて授ける成人洗礼(その村にはカトリック以外は存在しません。小教区と町内会の区別がないという感じです)に興奮するばかりで、私は、いわゆるカテキズムなどもなしに、幼児洗礼と同じような感じで、洗礼を受けました。(しかも巡礼者が分けてくれたヨルダン川の水で。)
そんなわけでその日には地方の新聞社が来て大騒ぎになり、その地方新聞に写真も載りました。代父も代母も、幼児洗礼なら絶対に選んでもらえないような老人で、とっても感激してました。
でも、聞かれてこの話をすると、フランス人は面白がるだけですが、日本のカトリックの人には、真面目に勉強している他の人に悪い影響を与えるからそういうことを話すな、と注意されたことがあります。まあ、そういうこともあって、なるべく目立たないようにはしていますが、別に、隠れキリシタンをやってるわけではありません。
こちららの子供のカテキズムでは「キリスト教的生活とは他の人の生活をより快適にするよう努力すること」と言われるので、私は、老司祭さん(私の洗礼の後、それをずっと自慢したいて一年後に亡くなりました)も幸せにしたし、村中を喜ばせたので別に罪悪感はありません。そういうコンテキストで、会衆の応答の言葉とかクレドに対して「全部はいまいち信じてないかも」などというそれこそ皆の予定調和の世界を破って困らせるようなことを突き詰めて考えることもありませんでした。
大人が受洗できるかどうかなどは資格の問題ではなく内的な必要に駆られてだと思いますし、基本的に無償でいただくプレゼントだと思うので、それを大事にしていくかどうかはまた別の問題です。まさに「より深く他者と出会う」ことなしには意味がありません。
日本の方に対しては、そんなわけで、信者としてアドヴァイスするような立場にはまったくありませんが、できるだけ他の人の立場に寄り添うことを自分に課すことを続けています。
そして、ある時、誰かに「えっ、あの人がカトリックならカトリックって信頼できるのかも…」と思ってもらえることがあるとしたら、最高です。私の周りにはそういう素敵な人がたくさんいますよ。
ルチア · 2012-06-12 09:37:52 UTC+9 · 投稿 #608
初めて質問させて頂きます。竹下様と同年齢の主婦です。初めに、いつもホームページにて「無料」で勉強させて頂いていますこと感謝しております。
竹下様が4月にイグナチオ教会でお話しされた時に、参加させて頂きご本も購入し、大変面白く読みました。(他の著作も愛読させて頂いております)
私は竹下様が信者様なのかどうか、以前から疑問に思っておりましたが、4月の講演で「信者様」だと確信しましたのに、先日の日経新聞でそうではない事を知り考えてしまっています。
私事で申し訳ありませんが、現在、イグナチオで「死生学」で有名な神父様のクラスに3年程通い、「洗礼」を受けるべきかとても迷っています。
神父様の「カソリックで大事なことは、自分を出て、より深く他者と出会う事なのですよ」という言葉に共感しております(神父様はクラスでは、あまり深い話はなさりませんが…)。教会に出入りするようになり、教会の門は開かれており、「洗礼」は聖体拝領を出来るかどうかの問題なのかもしれないとも感じたりしております。とはいえ、今以上に勉強をしたいと思えば受洗された方の為のクラスになってしまいますし、どうしたものかと思っています。もちろん、勉強は本を読んだりして個人でも出来るものではありますが、ボランティアに参加しても自分のみ非受洗者で居心地が悪い(周りは本人ほど気にしてないようですが)部分もあります。
神父様のお話や竹下様の書かれたものには、とても共感しますが、ミサの会衆の応答の時に「復活」を完全に信じていない自分や、応答の言葉の所々にひっかかりを感じる自分を見てしまいます。(これが、一番迷っている所なのですが)
出来たら、竹下様が「洗礼」を受けない理由。竹下様が考える「受洗者」と「非受洗者」の違い。二点をご教示願えたらと思い、投稿させて頂きました。
(余談となりますが、3月に家族でパリに滞在したとき、近くにある「Ste.Trinite教会」に行きましたが信者さんの数の少なさに驚きました。皆さん、教会へ行かれないのでしょうか…)
拙い文を読んで頂きありがとうございます。
迷える大羊 · 2012-05-29 21:18:33 UTC+9 · 投稿 #607
なるほど、この辺りの感覚は欧米でも、国によってかなり感覚が異なるんですね。それにしても、フランスの政教分離は徹底してますね。恐らくは世界一徹底しているのでは?と思ったりします。
>ついこの前までは税金の申告書に宗教を書いたり公立学校でも宗教の時間のために宗教を聞かれてましたから「答え方」も皆心得ていたんでしょうが…
映画のケースは(現実に基づいているとすれば)、このケースなのかもしれませんね。あるいは・・
>ひたすら近所づきあいや生活習慣
で、聞かれたら機械的に答えただけ・・であまり深い意味はないんでしょう。大半の英国人やヨーロッパ人からすれば。キリスト教との距離感覚でいつも思い出すのは、かのビートルズのジョン・レノンの「キリスト発言」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E7.99.BA.E8.A8.80 英国では全く問題にならず、というかほとんど無視されましたが、米国に伝わるやいなや大騒ぎ。ビートルズ排斥運動やらメンバーの脅迫やら、大変な事態になったみたいで。
いわゆる「信心深い」人は英国よりアメリカの方が遥かに多いんだ、キリスト教に対する距離感が英国と米国では全然違うんだ、実はこれこそが、英国と米国を区別する最大のポイントなんだ、ということがよく解るエピソードでした。
sekko · 2012-05-26 17:09:38 UTC+9 · 投稿 #606
なんというか、社会生活に必要なモラルを内包しているまともな宗教をまともに信仰している人は「ワル」を抑制してるでしょうけど、ワルの側に安住している人にとっては宗教の諸族など関係ないのでは…。
逮捕された後という特殊なケースなので私には分かりませんが、フランスは少なくとも英米と違って、共和国の建前上、公文書に宗教の所属や人種を書きこむことはあり得ないので、犯罪者(容疑者)が収監された時にそういうことを聞かれたりサインさせられたりすることはないはずです。刑務所内で聖職者を読んでもらう権利は保証されてますが。
だから、そういうことを聞かれる機会もないわけで、また、歴史的にイデオロギー的無神論者も少なくないので、「非行少年」みたいなのが、自分の宗教を聞かれてすぐに答えられるなんて、日本の「非行少年」が実家の檀那寺の宗派を答えられるのと同じくらいの確率だと想像します。
ドイツなんかは、ついこの前までは税金の申告書に宗教を書いたり公立学校でも宗教の時間のために宗教を聞かれてましたから「答え方」も皆心得ていたんでしょうが…
毎週教会に行っている人、のイメージは、教区によって違います。
移民(中南米系とかアフリカ系)の多い教区では、連帯や支援を求めて、また、生き抜く力を求めて本当に信仰を必要としているとか、神頼みを必要としている人も多いです。情報収集の場、ボランティアとコンタクトできる場でもあります。
ブルジョワの多い教区では、やはり彼ら同士の仲間の社交的な情報交換の場、アィデンティティの確認の場、また、特権的人脈を広げる場にもなりますし、ボランティアをする場でもあります。
後は、地方の小教区などでは、教会は氏神さまみたいなものなので、町内会(というようなものはないので)と同じような感じで、ひたすら近所づきあいや生活習慣、典礼カレンダーにそって季節の移り変わりを感じるリズム、などが続いている人、というイメージでしょうね。
モラルとはあまり関係がないのでは…
逆にフランス人仏教徒で週末には仏教センターなんかに行って講習を受けたり瞑想したりしている人たちに対しては、菜食者で殺生をせず、エコロで痩せてて、まじめで堅い人というイメージがあります。
多分、宗派と関係なくマジョリティとマイノリティの関係でしょう。
迷える大羊 · 2012-05-25 13:48:50 UTC+9 · 投稿 #605
現実のお話ではなく、映画中のお話ですが・・。「2001年宇宙の旅」で有名なスタンリー・キューブリック監督の作品で、「時計仕掛けのオレンジ」という作品がありまして。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%98%E3%81%8B%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8 気になるのは、その作中で、浮浪者イジメ、レイプ、強盗・・とワルの限りを尽くす主人公が仲間の裏切りにより逮捕され、刑務所送りとなり、看守から「貴様の教会は?」と聞かれて「英国教会」と即座に答えるところ。(動画中の3:30~3:36の辺り)
http://www.youtube.com/watch?v=Q1UUZSXFlyc&feature=related フランスではなく、英国の話ですが、ああ、あちらじゃ、あんなワルも「クリスチャン」(真面目に信じてるかは別にして)なんだなぁ、所属教会がすぐに出てくるんだ・・映画ではなく、現実でもそうなのかな?と、いろいろ考えさせられました。
何を今更・・とお思いになるかもしれませんが、日本でクリスチャン、教会員というと、ステレオタイプと半ばわかってはいても、すごく真面目で道徳的、「不道徳」などという形容詞がつく言動とは無縁、性に関してはひたすら保守的・・なんてイメージが強いので、こういう映像をみると、改めて違和感と驚きを感じてしまうのです。
フランスではどうなのでしょう?イスラム系の移民は別にして、例えば、およそ神とか信仰などとは縁が無さそうに見える、不良やらワルやらでも、映画のように所属教会を聞かれたら、すらすらと答えられるものなんでしょうか?
あちらでも、毎週教会にやってくるような人はやはり、「真面目」「道徳的」な人ってイメージが強いですか?
sekko · 2012-05-16 22:47:28 UTC+9 · 投稿 #604
いや、私の知っている限りでは、たとえば最近のカトリックの活動型修道会などは、弱者を生むシステムや制度そのものを問題にしたり、新しい時代の新しい形の弱者の「分別」(?)にも力を入れていて、今ここで貧しい人にお食事を提供して、という従来の形ではだめだと言っていて、情緒的どころかなかなか過激ですよ。
日本のカトリック司教団の原発即時廃止の話ですが、日本のことはよく分かりませんが、少なくとも、フランスの司教会議のいろいろな宣言だとかコメントに関しては、別にカトリック全体としての決議とか行動指針ではなく、彼らの内部での多数決の決議だと私は了解しています。必ず反対派の司教もいるわけで、それは教義だの信条だのと違って、何の拘束力もないはずです。もちろん、ヴァティカンの指針としてのエコロジー、環境保護というのは合意となっていると思うので、まあ、最近の日本の状況で宗教家たちが反原発を唱えるのは、全日本仏教会の「反原発」宣言文もあったかと思いますが、妥当なんじゃないでしょうか。
私は個人的には、反原発とか即時廃止とかいっても、即時廃止できるような問題じゃないところが問題なのだと認識しています。こうなった今はもう、テクノロジーの暴走の後始末は、祈りや善意よりも、テクノロジーをさらに駆使して何とか抑え込んでほしいと思っています。核廃棄物処理への長い戦いをどう予算化するかのほうが気になるんです。
二元論的なまたはイデオロギー的な言説はいろいろあるかと思いますが、そんなこと気になさらないで、これまでどおりの複眼で本質をキャッチするようにしてください。
迷える大羊 · 2012-05-16 13:34:57 UTC+9 · 投稿 #603
>過去の迫害のされ方の歴史の見つもりの実態なんて関係ないと
これなんですが、もしかすると、「事実関係調べたら、日本でキリスト教は当のキリスト教会が主張するほどにはいじめられてないじゃん、だから、問題なし」という風に思われた?だとすると困ったなぁと思ったりします。
うまく説明できず困ってますが、これは自分の性格とか経歴の問題かもしれませんが、私、初めにストーリーありきで、情緒優先な話の仕方が体質的に受付ないのです。
弱者保護とか寄り添うことは、もちろん、とても大切だと思ってます。ただ、本当の「弱者」がそういう、情緒優先、初めにストーリーありきの発想ではわからなくなってしまうのではないの?世の中、そんなに単純なの?という疑問がわいたからです。
あと、日本のキリスト教、特に戦前期についていえば、確かに個人単位で偏見を持つ人間もいたでしょうが、理解者だって多かったはずです。例えば、聖公会系の知的障害者の福祉施設「滝乃川学園」の理事長は、あの渋沢栄一が勤めていますし、勝海舟の支援も受けてます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E4%B9%83%E5%B7%9D%E5%AD%A6%E5%9C%92 そんな面を全く無視して、あるいは知らずに、情緒とストーリー優先で1945年まで迫害と偏見に晒され、未だにクリスチャンは増えず・・みたいな話をされると、「そんなメンタリティだから、キリスト教は日本で普及しないんじゃないの?」っていいたくなります。第一、キリスト教への理解者、シンパだった日本人に対し失礼以外何ものでもないし、「感謝」という念を知らんのか?と思ってしまいますし。
あと、こちらで書くのはどうなのかな?と思う話なんですが、日本カトリック司教団が「原発の即時廃止を」という主張をしています。個人単位でこういう主張をすることは一向に構わないですし、私だって原発は安全、未来のエネルギーなんて夢にも思ってないですし、不信感はいっぱいあります。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/111108.htm しかし、キリスト教会の名義で、信仰の名において、そういうことを主張するのは、それは一体どうなのよ?と思ってしまいます。単に清貧の生活をすればいい、なんて個人単位でどうこうなる話じゃないでしょってことで。
合法的に営業していた企業が、電力不足で突然自社の生産設備の半分を「廃棄しろ!!」などと言われたら、どうするのか?
最悪、生産縮小、他地域への移転などなどで、地元の雇用が無くなり・・なんてこともあり得るわけで、そうなったら「弱者」に寄り添うとか、救済どころじゃなくなるぞ、ってことですし。
第一、原発の立地自治体は原発の運用で財政収入とか雇用を得ているところが多いんだし、そういったところの住民、自治体をどうこうする策でもあるのか?実際、関西電力大飯原発の地元、大飯町は原発再稼働を求めてますし。
http://www.asahi.com/national/update/0514/OSK201205140063.html 単純に原発即時廃止=正義、再稼働、存続=悪という問題じゃないだろ、そんなところに信仰とか神を安直に絡ませてどうする?そんな、学生とかその辺のオジサン、オバサンレベルの、わかりやすい「正義」をキリスト教会で聞きたいんじゃない、むしろ、そういう、あちら立てればこちら立たず、本当の弱者救済とは?という悩みとか矛盾にキリスト教はどうこたえるのかが知りたいのに・・。と思ってしまうのです。
それどころか、自分は「安全地帯」(物理的にという意味ではなく立場的に)にいて、何「御花畑」を語ってんの?いい子ぶってんの?と反発すら感じてしまいます。
いささか、不愉快な話があれば、申し訳ありません。でも、どうも、ここのところ、キリスト教会で話を聞いていて、イラッとすることがしばしばあるもので。
やはり、私はキリスト教には向いていないのかなぁ?と思ってしまう今日この頃です。
sekko · 2012-05-09 22:19:18 UTC+9 · 投稿 #602
被害者意識は、連帯に向けたマイノリティ・グループのとるサバイバル戦略の一種ですから、そこから自由になるのは難しいですね。
でも、逆に、マジョリティ・グループが、加害者意識と贖罪ばかり考えている自虐的なケースだってこの世には多いわけで、私たちはいつも、そのどちらかに安易に落としこむ誘惑を避けてバランスをとる必要があります。
キリスト教的メンタリティというのは、結局は、信仰に照らされて、人間の生命を絶対に尊重したり、常に、「より弱いほう」に寄り添ったりということだと思うので、過去の迫害のされ方の歴史の見つもりの実態なんて関係ないと私は思います。
迫害した側がそれを正しく認識するのは大切で必要だとは思いますが。
迷える大羊 · 2012-04-21 00:06:08 UTC+9 · 投稿 #601
先日、身内の付き合いで教会に行ったのですが、説教の際、日本においてキリスト教が1945年の敗戦・終戦に至るまで、いかに迫害され、偏見にさらされてきたか・・なんて話をされました。別に、件の教会に限らず、この種の話は日本の教会ではよく聞きます。
でも、個人的にこの種の話を聞くと、なんだかイラっとしてくるのです。なんか、私たちはいつも正しいのに、苛められてばっかり・・なんて被害者妄想全開の愚痴かつ独善的な感じがしてきて。
いえ、別に日本においてキリスト教に対する偏見とか、障害がなかった、とはもちろん思っていないし、戦前、特に日中戦争勃発後の戦時色の強まった時期においては国家神道との兼ね合い、信仰と戦争協力との矛盾に悩んだりとかあって大変でしたでしょう、確かに。
さらに1941年にプロテスタント諸派は強引に統合されて「日本キリスト教団」になりましたし。かの遠藤周作氏も「天皇とキリスト、どっちが大事かいうてみい」なんて嫌がらせをよく言われたそうですし。
あと、江戸時代はもちろん、間違いなく迫害の時代、クリスチャンには暗黒の時代だったでしょうね。
だけれども、明治時代から終戦に至るまで、絶え間ない迫害と偏見に・・なんて言われると「??」です。そんなこと言うのなら、日本にあるキリスト教会は、戦前はすべて、ローマ時代のカタコンペみたいな地下教会だったのか?
手元に遠藤周作氏の「私にとって神とは」という本があるのですが、それによると遠藤氏が離婚して入信した母親に連れられてカトリック教会に行き、洗礼を受けたのが10歳か11歳ころの話。遠藤氏は1923年生まれですから、それは1933、34年、元号でいうと昭和8年か9年ごろの話となります。バリバリの戦前期ですが、別に官憲の目を気にして、隠れ家のようなところに行き・・などという描写は出てきません。どう考えても、読んでも白昼堂々と教会に通っていたとしか思えないのですが。
あと、戦前期の大事件の一つに昭和7年(1932)、白木屋デパートの火災事件があるのですが、その原因は「クリスマスセール」に使用するクリスマスツリーの電球のスパークによるもの・・って「クリスマスセール」??。いくら、信仰とは無関係の商売・イベントとはいえ、常に「偏見と迫害」にさらされている宗教の行事を「祝ったり」するなんてことがあり得るのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9C%A8%E5%B1%8B_(%E3%83%87%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88)#.E7.99.BD.E6.9C.A8.E5.B1.8B.E7.81.AB.E4.BA.8B さらに突っ込むと日本にミッションスクールはすべて、戦後の創立なのか?と思って調べますと、全然、そんなことはない。日本を代表するミッションスクール・上智大学の沿革をみると、1913年(大正2年)の創設、学長にはヘルマン・ホフマン氏という外国人、それも、どうみても教会関係者としか思えない方が学長に堂々と就任しているんですが・・。
http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/HISTORY-CHART/ayumi1 あと、明治期から昭和初期のクリスチャンには当時のインテリ階級の武家出身者が多く(内村鑑三、新島襄、津田梅子・・etc)、勝海舟とか渋沢栄一など当時、一級の人物と交友のあった人間も多い。忘れてはならないのがクウェーカーの新渡戸稲造氏で国際連盟事務次長までやっているんですが・・。「偏見と迫害」にさらされて、苛められてばかりの宗教でこんなことあるんでしょうか?
公平にみて、明治以降、確かに戦時中の一時期、肩身の狭い、つらい思いをしたこともあったかもしれませんが、全体的にみれば、インテリっぽいイメージ、あと欧米先進国のバックがあることもあってイメージはすこぶる良かった、むしろ、迫害・偏見ってことなら金光教とか大本教とか、仏教・神道系の新興宗教あたりへの方がよっぽどひどかったように思えるんですよね・・。
戦国末期から江戸時代の迫害にしたって、当時のキリスト教はヨーロッパ諸国の植民地獲得の斥候、みたいな側面があったし、じゃあ、同時代のキリスト教国であったヨーロッパって思想・信仰の自由が花開くパラダイスだったの?とのツッコミをどうしても入れたくなりますし。他にもいろいろあるのですが、キリがないのでこの辺りで。
なんていうか、そこらへんの「事実関係」とか、わりと「恵まれた」環境を「無視」して一方的に迫害、迫害みたいに言われると「いい加減にしてよ」って気分になるのです。
あと、詳しくは知らないのですが、日本のカトリック教会は戦国末期だか江戸時代初期だかに迫害された人々を聖人候補に申請して認められた(のかな?)ようですが、彼らを否定したり、貶めたりするつもりは全然ないけれども、なんていったらいいのか、もっと前向きな人選はできなかったものなのか?と思ってしまいます。
質問としては、私みたいに考えるクリスチャンとか教会関係者っているのかな?ってことと、私のようなメンタリティっていうか、ものの見方をする人間はクリスチャンとかカトリック教徒として受け入れられるのかな?ってことですが、どうなんでしょう?
迷える大羊 · 2012-03-22 13:24:41 UTC+9 · 投稿 #600
まあ、もちろん、初音ミクみたいなボーカロイドがリアルのアイドルにとって代わる、なんてことはなさそうで、一種のニッチ産業でしょうね。たとえ、SFに出てくるようなアンドロイドが実現したとしても・・。初音ミクにしても、冗談が本当に、ひょうたんからコマ、みたいな展開で販売会社自体がビックリしてたりしますし・・。
私自身はそのSFチックな展開を面白がっている、という立場ですね。あと、従来の作り手→受け手、大手プロダクション、大手テレビ局、電通などの大手広告代理店、マスコミ経由というアイドル製造のパターンを全く破った形で出てきた、という点に痛快さを感じたのもありますね。
で、そんな「アイドル」が生身のアーチストだって困難な海外ライブ、ロサンゼルス・ノキアシアターライブをあっさり成功させたっていうのも、これまたSFというかギャグ以外なにものでもないてな感じで。(アメリカにも、世界にも「ニコ厨」「2ちゃんねらー」みたいな人々が大勢いるんだなぁって思いました)。
2009年に「アルバム」がオリコンチャート一位を獲得した際に古い音楽ファンやテレビ局からの「生身のアーチストより仮想歌手の方が人気なんて、世も末」との反発もこれまた予想通り・・てな感じです。
あと、初音ミクの場合、ヤマハの音声合成技術「ボーカロイド」、SEGAの3DCG、ホログラム技術、アニメ・マンガ、同人文化、ニコニコ動画、2ちゃんねるなど日本独自のネット文化、山口百恵、ピンクレディー、キャンディーズから松田聖子、小泉今日子などを経てAKB48に至る、これまた日本独自の「女の子アイドル」カルチャーなどなど、善し悪し、好き嫌いは別にして、ある意味、日本の技術と文化(サブカル)が集大成されている、といったところも興味深かったです。
まあ、もちろん、所詮は娯楽ですし、キリスト教とは「内容」が違いすぎるので比較は何なんですが、純粋にイエスのイメージや聖書が流通、拡散していく過程は良く似たところがあるよなぁ、と思った次第です。
でも、乱暴なのは承知しておりますが、キリスト教には「聖と俗」、「信仰としての真実」と「客観的な事実」を使い分ける姿勢っていうか、伝統みたいなものがあるように思えますが。いえ、遠藤周作氏からパクッた理屈ですけど。でなければ、復活とか奇跡とか、一般常識的にはかなり「ヘン」なことを信じている人々が浮世離れしないで生活していられないでしょうし。
その辺の感覚が壊れちゃった人がいわゆる「原理主義者」「過激派」になるんだろうなぁって思いますし。ちなみにネットでは初音ミク、ボーカロイドに入れ込み過ぎ、な人を「ミク廃」と呼んでます(笑)。
sekko · 2012-03-20 08:58:03 UTC+9 · 投稿 #599
うーん、なかなか面白いお話ですね。
でも、私は、この初音ミクのライブの動画を見てカルトの大会みたいな印象を受けます。観客というかファンは、脳内の仮想空間だけを互いに共有しているので、ステージの初音ミクからの情報って、予測できるものばかりですよね。
これが生身の歌手なら、その場は華やかでも、覚醒剤中毒とか、暴力沙汰とか結婚とか妊娠とか離婚とか病気、老い、怪我、事故、酔っ払い運転、激やせ、激太り、いろんなことが起き得るわけだし、過去も背負っていたり、家族や子供を背負ってたり、いろいろあって、いつファンを裏切るかもしれないわけです。そういう危うさも含めて、情報処理負荷がずっと大きい。
これに対して、初音ミクはオーバースペックであっても、中につめられる情報は、受け手の脳の情動システムを本当に駆り立てるようなものではない、と思うんです。逆に、快感を得るために要求される脳内資源というのは小さいと思われます。だから安易にはまってしまう。もちろん、ゲームデザインによる規制には縛られるわけですが、この世で一番ストレスフルな「予測できない他者」とは対峙しない。
でも、生きた他者と対峙しないところには創造的知性は生まれないし、創造的知性のないところに真の救済もないと思うんです。
キリスト教はむしろ、ひとつのテンプレートとして西洋世界に今も使いまわされているので、それを共有しない文化では、仮想空間としてもなかなか認知されにくい気もします。
キリスト教が普遍宗教としてその福音宣教にかけてきた情熱は分かりますが、そして今の福音派のように巧妙なマーケッティングをしているところもありますが、特にヴァーチャルだとは思えません。ヒーローや教祖や神の記号性というのはキリスト教だけではなくてどの宗教や支配者神話にも当てはまると思います。
むしろ、ナザレのイエスは、出自などはなるほど曖昧ですが、受難のシーンというのはかなり真に迫ってリアルに書かれていて、痛みとか傷とかの身体性があり、弟子からの裏切られ方、見捨てられ方、民衆からの嘲罵、どれをとっても、普通の予測を超えたシーンの連続なので、それを消化するだけでも、信者は大変なんじゃないでしょうか。
でもどんなにつるりとしたヴァーチャルな教義に閉じ込めようとしてもそこから必ずしみ出てくる血と水みたいなのがあるところが醍醐味だったりして・・・
迷える大羊 · 2012-03-19 22:44:44 UTC+9 · 投稿 #598
以前、雑談スレで話題にした、日本のヴァーチャルアイドル「初音ミク」ですが、ネット上を見る限り、その人気はリアルのアイドルを押しのけて世界的になっていて、海外では日本のポップスターといえば「初音ミク」と思われているようで、英国の通信社ロイターが今月3月8日、9日に東京で行われた、彼女(それ?)のライブのニュースを世界中の報道機関に配信したみたいです。
http://www.reuters.com/article/2012/03/09/us-japan-digital-diva-idUSBRE8280DO20120309 こんなエピソードもありました(毎日新聞WEB版より)
http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20120129ddm002070124000c.html http://www.youtube.com/watch?v=HWcw8S9_0ts&feature=related いろいろ興味深いことが多いのですが、なぜ、哲学・宗教スレで話題にするのか?というと、この初音ミクがメジャーになっていく過程が、イエスとかキリスト教のそれとそっくりなのではないのか?という気がしてしょうがないからです。以前は冗談半分でしたが、詳細を知るにつけ、もう冗談ではないような気がするもので。具体的には・・。
・イエスと「初音ミク」の「キャラクター」設定
初音ミクに発売元のクリプトン社がつけたキャラ設定は16歳 身長158cmだけ。しかし、その透明さが却ってネットユーザーの想像力は刺激され、動画サイトには思い思いの初音ミク像を反映した自作曲・PVが次々とアップされブーム化。
イエスも、福音書でもヨセフとマリアとの間に生まれ、家業の大工を営んでいたらしい、ということくらいしかわからず、救い主としてではない、リアルな人間としての「キャラクター設定」はほとんどないような。単に不明なのか?でも、イエスの弟子たちが何も知らなかったとは思えないし、取材だってしようと思えばいくらでもできたわけで、あえて「真っ白」にしているのではないか?と思えるのですが、どうでしょう?パオロもリアル・イエスについては全く追及していませんし。
初音ミクの場合、オリジナルは存在せず、ファン同士が動画サイトでさまざまな「初音ミク」を共有できたのがブームの理由ですが、初期のキリスト教会もこういう効果を狙ったんではないか?と思えてくるのですが・・。
・聖書と「初音ミク」の楽曲・イラスト等の作品
初音ミクの楽曲等の作品は特定のアーチスト、制作グループが作っているわけではなく、インターネット上のユーザーがプロ・アマ入り乱れてよってたかって投稿(主にニコニコ動画)したもので、そのうち、ネット上で人気のあるもの、高評価であったものがCDになったり、ライブ演奏されたりしているわけですが。
その辺りの様子はグーグル日本版のCMに要領よく表現されてます。
http://www.youtube.com/watch?v=MGt25mv4-2Q&feature=related そういえば、聖書も特定の作家によって書かれたわけではなく、信者(アマ?)、聖職者(プロ?)入り乱れて作り上げた、さまざまな伝承、信仰告白、信仰証言のうち、クリスチャン社会(ネット?)で人気の高いエピソード、信憑性の高いエピソード(曲?)が取捨選択されて、文書となった(CD化?)もので、トップダウンではなくボトムアップで作られた・・という点では共通しているような気が。初音ミクはネット、動画サイト、聖書は印刷機、とその時代の「先端メディア」にうまく乗っかって爆発的に「ヒット」したのも同じ?
・二次創作による豊かさの獲得
「初音ミク」制作のクリプトン社は著作権を厳密に解釈せず、商業目的ではない、過激な暴力・エロがない限り、二次、三次創作を認める、というよりむしろ積極的に推奨する姿勢をとったおかげで、レベルの高い創作環境が整備され、作品世界が非常に豊かになったわけですが、キリスト教、聖書も、それを元にした二次創作ともいうべき、宗教画、彫刻その他の芸術作品が非常に多く生み出され、ヨーロッパの文化レベル向上に貢献、といった面があるのと似てるのかな?と思ったりします。少々大げさですが・・。
ミケランジェロやダ・ビンチは「オタク」?現代人に生まれていたら、作品をニコニコ動画に投稿したり、2ちゃんねるあたりに「マリア様、マジ女神」なんて落書きをしていた、かもと思うとなんだかおかしいです・・。
・「プラットフォーム」としてのイエスと初音ミク
カナダのフランス語新聞は初音ミクを「人物というより、インターネットユーザの協力、コミュニティの出現、そしてアイデアの流通を許すプラットフォームなのだ。」と評していますが、キリスト教におけるイエスというのも神様へのアクセス、コミュニティの出現、協力を許すプラットフォームみたいな存在、なんでしょうか。
http://www.cyberpresse.ca/arts/musique/201111/25/01-4471639-hatsune-miku-paternite-multiple.php http://lunaticprophet.org/archives/6013 クリスチャンが信じているのは、なんというか、プラットフォームとか信仰の集合体としてのイエスであって現実の人間を崇め奉っているわけではない、というのが「人であり神であり」という話なのかも、と思ったりします。
「復活」も死人が蘇る、ではなく、リアル人間としてのイエスは死んでしまっても、プラットフォームとしてのイエスは永遠に存在する、みたいな話だったのかも。古代世界に、ネットとかバーチャルとかリアルなんて技術も概念もなく、ボキャブラリーも貧困であったために、うまく表現ができず、いろいろな「誤解」を招くことになった・・と思えるのですがどうなんでしょう。
こうして書き連ねてみると(もし意図的にやっているとすれば)、キリスト教ってすごい宗教だな、2千年以上先のネット社会を先取りしてるじゃないか?と思ったりします。それとも、単にメディア戦略の基本は時代が変わっても変わらない、というだけのことでしょうか?
また、こういう解釈ってクリスチャン一般の感覚に近いものなんでしょうか?(特にイエスの位置づけとか「復活」とか「人であり神であり」の部分)
初音ミクの「ライブ」の様子
http://www.youtube.com/watch?v=aY44nr0ZUZ8&NR=1