イジメとキリスト教
現在、日本では、滋賀県大津市で中2の少年がイジメを苦に自殺した事件が大体的に問題になってます。イジメそのものの酷さもさることながら、学校、教育委員会、警察の事なかれ主義、隠蔽が非難の嵐となっていまして・・。概要はこちら。
http://wiki.livedoor.jp/emiliano/d/%B9%C4%BB%D2%BB%B3%C3%E6%B3%D8%B9%BB%A4%A4%A4%B8%A4%E1%BC%AB%BB%A6%BB%F6%B7%EF#
今回の確かに大津の事件は酷過ぎるとは思いますし、実態ののさらなる解明が望まれます、と思う一方で、私個人は加害者当人はともかく、それ以外の関係者をあまり高飛車に「裁く」気にもなれないのです。
誤解を招きそうな話ですが、古今東西、少年少女の集まるところにイジメが100%ない、なんてことはあり得ない、と思うのです、単に程度の差の問題で。大人社会にだって酷いイジメはあるところにはありますし・・。
はっきり言って、「私はイジメに関わったことありません」なんて言いきれる人なんてどれだけいるんでしょう?ひどいイジメを食らっていない、あるいは積極的にイジメに加担したことがなくても、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていた、くらいは誰にでもあるのではないのか?と。もし、そんなことない、と言い切れる人がいたら、イエスの「罪なき者からこの女に石を投げよ」とか、「偽善」の文字が思い浮かんできます。
昔はこんなことなかった・・みたいなことをいう年配者の方もいますが、警察庁や法務省のデータを丹念に調べると、少年非行・犯罪は「昔」の方が圧倒的にひどく、荒れ果てていて(特に昭和30年代)、そんな中で、イジメだけは酷くなかった・・というのはちょっと信じ難い話です。単に記憶が美化されているだけ、単に問題にならなかっただけで、今以上に酷いイジメが横行していた、と考える方が自然・・だと個人的には思っています。
私自身の少年時代を「正直に」振り返れば、いじめられっこだった時期もありましたが、逆にイジメてた(今にして思うと)、あるいはイジメに加担はしないまでも、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていたこともあります・・。
関係者は何してた、ともいいますが、自分自身の少年時代を省みるに、自分がいじめられっこと認めるのは非常に屈辱的で、大人に訴え出るのは二の足を踏みます。現実的にも、大人に頼った・・という事実は子供社会での立場を一層悪くすることも多いですし・・。
まあ、今回の大津市の場合の「関係者」は酷過ぎますけども。
個人的に考え付く策としては、戦争や殺人、その他犯罪が世界から無くならないのと同様に、人間、特に子供の世界にイジメは付き物という前提、つまり性善説ではなく、性悪説で学校運営のスタイルを考える、例えば、特定のメンバーばかりで固定された閉鎖的な人間関係をつくらないようにする、逃げ道を用意する、イジメられっこであることを公の場に訴えることは決して恥ずかしいことでも何でもない、という啓蒙、教育を行うってことが必要な対策かな?と・・。
少なくとも思いやりの心を育てるだの、道徳教育だのみたいな精神論、観念論は全然役に立たない、と個人的には思ってます。
前置きが長くなりましたが、このイジメに関して、私は優等生的発言、現実からかけ離れた理想論はガラでない、嫌いな方なので、ずばり本音をいうと、イジメに関しては評論家・呉智英さんの2006年11月26日の産経新聞紙上での発言
「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ、少年法が君たちを守ってくれるから」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%99%BA%E8%8B%B1
に共感してるんですが、これ、クリスチャン的、キリスト教的にはマズい・・んでしょうか、やっぱり・・。でも、現実のキリスト教圏とかキリスト教国の人間、特にアメリカなんかみると、とても「敵を赦せ」とか「敵を愛しなさい」って感じはしませんが・・。むしろ、日本など目でないくらいにやられたらやり返せ、やられっぱなしで帰ってくるな、が徹底しているような気もしますが、偏見でしょうか?まあ、聖書でも旧約の方には 目には目を」という言葉もあったりしますけれども・・・。
それにしても、子供時代の人間ってどうして残酷なんでしょうね?
http://wiki.livedoor.jp/emiliano/d/%B9%C4%BB%D2%BB%B3%C3%E6%B3%D8%B9%BB%A4%A4%A4%B8%A4%E1%BC%AB%BB%A6%BB%F6%B7%EF#
今回の確かに大津の事件は酷過ぎるとは思いますし、実態ののさらなる解明が望まれます、と思う一方で、私個人は加害者当人はともかく、それ以外の関係者をあまり高飛車に「裁く」気にもなれないのです。
誤解を招きそうな話ですが、古今東西、少年少女の集まるところにイジメが100%ない、なんてことはあり得ない、と思うのです、単に程度の差の問題で。大人社会にだって酷いイジメはあるところにはありますし・・。
はっきり言って、「私はイジメに関わったことありません」なんて言いきれる人なんてどれだけいるんでしょう?ひどいイジメを食らっていない、あるいは積極的にイジメに加担したことがなくても、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていた、くらいは誰にでもあるのではないのか?と。もし、そんなことない、と言い切れる人がいたら、イエスの「罪なき者からこの女に石を投げよ」とか、「偽善」の文字が思い浮かんできます。
昔はこんなことなかった・・みたいなことをいう年配者の方もいますが、警察庁や法務省のデータを丹念に調べると、少年非行・犯罪は「昔」の方が圧倒的にひどく、荒れ果てていて(特に昭和30年代)、そんな中で、イジメだけは酷くなかった・・というのはちょっと信じ難い話です。単に記憶が美化されているだけ、単に問題にならなかっただけで、今以上に酷いイジメが横行していた、と考える方が自然・・だと個人的には思っています。
私自身の少年時代を「正直に」振り返れば、いじめられっこだった時期もありましたが、逆にイジメてた(今にして思うと)、あるいはイジメに加担はしないまでも、面倒に関わるのがイヤ、自分自身がターゲットになるのがイヤ、で見て見ぬふりをしていたこともあります・・。
関係者は何してた、ともいいますが、自分自身の少年時代を省みるに、自分がいじめられっこと認めるのは非常に屈辱的で、大人に訴え出るのは二の足を踏みます。現実的にも、大人に頼った・・という事実は子供社会での立場を一層悪くすることも多いですし・・。
まあ、今回の大津市の場合の「関係者」は酷過ぎますけども。
個人的に考え付く策としては、戦争や殺人、その他犯罪が世界から無くならないのと同様に、人間、特に子供の世界にイジメは付き物という前提、つまり性善説ではなく、性悪説で学校運営のスタイルを考える、例えば、特定のメンバーばかりで固定された閉鎖的な人間関係をつくらないようにする、逃げ道を用意する、イジメられっこであることを公の場に訴えることは決して恥ずかしいことでも何でもない、という啓蒙、教育を行うってことが必要な対策かな?と・・。
少なくとも思いやりの心を育てるだの、道徳教育だのみたいな精神論、観念論は全然役に立たない、と個人的には思ってます。
前置きが長くなりましたが、このイジメに関して、私は優等生的発言、現実からかけ離れた理想論はガラでない、嫌いな方なので、ずばり本音をいうと、イジメに関しては評論家・呉智英さんの2006年11月26日の産経新聞紙上での発言
「被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら復讐せよ。死刑にはならないぞ、少年法が君たちを守ってくれるから」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%99%BA%E8%8B%B1
に共感してるんですが、これ、クリスチャン的、キリスト教的にはマズい・・んでしょうか、やっぱり・・。でも、現実のキリスト教圏とかキリスト教国の人間、特にアメリカなんかみると、とても「敵を赦せ」とか「敵を愛しなさい」って感じはしませんが・・。むしろ、日本など目でないくらいにやられたらやり返せ、やられっぱなしで帰ってくるな、が徹底しているような気もしますが、偏見でしょうか?まあ、聖書でも旧約の方には 目には目を」という言葉もあったりしますけれども・・・。
それにしても、子供時代の人間ってどうして残酷なんでしょうね?