めるしーぼく

めるしーぼく

太陽丸 · 2008-04-12 12:13:14 UTC+9 · 投稿 #465

どうもです。最近、教会には行っておりませんでして、そろそろ、顔をだそうかなと思います。やはり、教会には、神様の匂いがありますので。手紙攻勢に弱いというのもありますが。

ところで、つい最近、95歳の祖父が息をひきとったのですが(朝?からすみません)、その少し前に、私は心のなかで、「もし、よろしかったら、私の信じる主イエス・キリストの神様の世界があるんだけれども、特に、おじいちゃんの信じる頼り所がないならば、精霊たちにも頼んでみようか、竹下さんもいるしね!(すみません。)」みたいなことを、精霊のパワーのイメージと合わせて、よびかけてみました。聖女でもあるまいし、日頃の行いに自信もありませんが、一応、お取次ぎ作業をしてみました。そしたら、ほとんど反応なしのおじいちゃんが、呼吸をあらげて、目をかっぴらいて反応?してくれました。時間をおいて、同じような作業をしたら、また大きく反応したので、あっちとこっちの世界を揺れ動く状態だと、そのようなイメージ的呼びかけが敏感に分かるのかも~なんて感じたりしました。

母親が、おじいちゃん娘でわんわん、泣いていたのですが、私の従兄がきて顔みせたら、母親よりもずっとうれしそうに反応したのをみて、急に気持ちが冷めちゃったというのを聞き、がっかりしました。誰かの、一番手の愛情対象でなくとも、頂いた愛情、愛着に丁寧に気持ちを寄せて、感謝する姿勢はないのか!このアダルトチルドレンめ!なんて思いました。アダルトチルドレンの正確な定義などしりませんが、大人のくせにガキみたいな筋の悪い感覚の人を、私は、そう呼んでいます。いや、呼びたいです。

最後の最後まで、主イエス・キリストの救いがその人にもたらされる機会をあきらめてはならない、完全にこんな人はキリストの天国には入れないからとアプローチを見限るのではなく、小津安二郎の「俳優がどこでとんでもないまさかのポイントで壁超え(村上春樹みたいですね)するか分からないので安直に見限ってはならない」的指摘に通じますが、まさに、とんでもないポイントでつい見限りがちな、あの人が悟る期待、欲望をあきらめてはならないと。ひょっとしたら、それは、最後の最後の瞬間かもしれないと。

障害児教育者の茂木さんの指摘に、障害者の個性、感性がより豊かに、正確に広範に発露されることも発達と捉えてよいのではないか、例えIQ的発達に上限があったとしても(そんなの、健常者でも結局同じことですよね)とう指摘に感銘をうけました。これは、具体的には、ある知的障害者がある局面では社系的微笑というなかなか豊かな個性を発露できるのだが、別の緊張的局面ではまったくその個性が発露できなかったとき、いつしか、壁超えして、以前苦手だったその局面でも、自由にそのなかなか豊かな個性を正確に安定的に発露できるようになったとしたら、IQというスペック自体の向上はなくとも、発達ではないかという味のよい捉え方のことである。私の、卑近な例でいえば、同性には創造性あふれるユーモア、自然体、というなかなか豊かな?個性が発露できるのに、かわいい異性の前では、コチコチになって、気の利いたジョークのひとつもいえず、ぶっきらぼうな言動をして相手も緊張させたりすることがしばしばなのですが。(もう慣れっこです。)
ここで、ふっと壁超えして、これまでは緊張的魅力女性局面において、同性的局面同様、正確かつ自然的ジョークが安定供給できれば、これは、もう発達したと捉えようということです。

そして、さらに、この理論をキリスト世界に敷衍させるならば、主イエス・キリストの精神を深く、正確かつ安定的な発露作業にもほぼ限界はないということです。日々、意識していれば、まだキリスト精神が曇っている自身の固定観念にふっと、気づくことの連続ですよね。(障害者も健常者も脳ミソ自体はもうたいしてよくならないけども・・)そこには、なにがあるか、個性の豊かな発達、霊性の豊かな発展があると思います。一人一人異なる個性が、霊性が輝くのです。(まあ、当然、おーらも付随的に輝くのでしょうな。どっちでもいいけども)。一つだけの花-とか、安直、素朴な逃げに薄っぺらく使われては、たまりません。個性、感性、霊性の豊かな発達は、試行錯誤の歴史をくぐりぬけていく結構厳しい過程のなかにあると思うからです。

猫はお元気ですか。春は、ぽ~とゆるみますね。たしかに。