そうなんですか・・・
知りませんでした。へえー。
確かに、白人系の人種差別者(特にアラブ人と黒人に対する)でそれを認めたくない人が、自分は差別主義者ではないその証拠として「日本人って優秀」という傾向はあり、まあ私もその欺瞞の恩恵を多少受けているのであえて突っ込まないままで何十年も来てます。
日本に中東のイスラム系移民が来ないのは、彼らにとって、旧宗主国に行くほうが、地理的に近い、旧植民地人に対して移民やビザの特別枠があることが多い、相手の罪悪感を利用することもできる、すでに移民の家族や知り合いがいるのでそのつてを頼ってきやすい、言葉も公用語だったり、昔から支配層が宗主国で教育を受けてきたので言葉もこなしやすい、などの理由だと思います。日本も同じような問題を隣国との間にかかえていますね。今日本のイスラム移民のほとんどはインドネシア人です。パキスタン人やトルコ人もいますが、いわゆる「アラブ人」は少数ですね。それに日本はやはりつい最近まで移民労働に関する規制がやはりかなり厳しく閉鎖的でしたから、実際に、来れなかったのだと思います。島国で不法入国も楽じゃないし。地政学的理由が大きいですね。
後、見た目の問題もありますね。地中海のラテン系の人たちって、アラブ人もベルベル人もトルコ人もギリシャ人もスペイン人も、日本人から見るとみな似たようなもんです。でも、そういう人たちって、北へ行けば行くほど目立ちます。フランスくらいでとめとけばいいのに、スカンディナビアまで行くなよ、と思ってしまいました。
ただ、日本とフランスに何十年も住んで、今頃になって確信を持ったことがひとつあります。
人は、実は、見た目が違うから、仲間じゃないから、という理由で他人を排斥したり差別したりはしません。
人が、見た目が違うから、仲間じゃないから、という「口実」で他人を排斥したり差別したりする「理由」は、その社会が安定していず、人々が不幸だからです。
言い換えると、みんながある程度自分の生活や環境に満足している社会では、「見た目が違う」とか「仲間じゃない」ことは、好奇心の対象であっても、排斥の対象にはなりません。
ディズニーランドの中では、ミッキーだろうが魔法使いのおばあさんであろうが、みんな「多様性」の世界です。利害関係がない時に、犬や猫など見かけが違って言葉も通じない動物たちとも楽しく異種共存できます。シルクロードの中継地など、多種多様の文化や人種が問題なく混在していた場所や時期もあったと思います。
逆に、ある集団にどこかひずみがあったり、外部からの圧力がかかっているときには、学校のクラスのようなかなりの同質の集団内でもいじめなど排除行動が起こります。
そう、差別行動も、銃乱射も、戦争も、迫害も、複合的な利害関係や、それに伴うさまざまなクォリティ・オブ・ライフの様相によって表面化してくるもので、そこにつけられる「見た目の差」や「国の違い」や「宗教の違い」や「教義の違い」などという理由は、実は、すべて後付けなのです。
「文化の差」や「宗教の差」なんかをいくら分析しても、人間性の本質には到達できないのです。
言葉も通じず、毛むくじゃらで尻尾があって、トイレの始末も自分でできないうちの猫を心から美しい、かわいい、と思えるのが人間です。
最近つくづくそう思うようになりました。
今書いている本で訴えたいテーマのひとつがこれなので、つい長々と書いてしまいました。
確かに、白人系の人種差別者(特にアラブ人と黒人に対する)でそれを認めたくない人が、自分は差別主義者ではないその証拠として「日本人って優秀」という傾向はあり、まあ私もその欺瞞の恩恵を多少受けているのであえて突っ込まないままで何十年も来てます。
日本に中東のイスラム系移民が来ないのは、彼らにとって、旧宗主国に行くほうが、地理的に近い、旧植民地人に対して移民やビザの特別枠があることが多い、相手の罪悪感を利用することもできる、すでに移民の家族や知り合いがいるのでそのつてを頼ってきやすい、言葉も公用語だったり、昔から支配層が宗主国で教育を受けてきたので言葉もこなしやすい、などの理由だと思います。日本も同じような問題を隣国との間にかかえていますね。今日本のイスラム移民のほとんどはインドネシア人です。パキスタン人やトルコ人もいますが、いわゆる「アラブ人」は少数ですね。それに日本はやはりつい最近まで移民労働に関する規制がやはりかなり厳しく閉鎖的でしたから、実際に、来れなかったのだと思います。島国で不法入国も楽じゃないし。地政学的理由が大きいですね。
後、見た目の問題もありますね。地中海のラテン系の人たちって、アラブ人もベルベル人もトルコ人もギリシャ人もスペイン人も、日本人から見るとみな似たようなもんです。でも、そういう人たちって、北へ行けば行くほど目立ちます。フランスくらいでとめとけばいいのに、スカンディナビアまで行くなよ、と思ってしまいました。
ただ、日本とフランスに何十年も住んで、今頃になって確信を持ったことがひとつあります。
人は、実は、見た目が違うから、仲間じゃないから、という理由で他人を排斥したり差別したりはしません。
人が、見た目が違うから、仲間じゃないから、という「口実」で他人を排斥したり差別したりする「理由」は、その社会が安定していず、人々が不幸だからです。
言い換えると、みんながある程度自分の生活や環境に満足している社会では、「見た目が違う」とか「仲間じゃない」ことは、好奇心の対象であっても、排斥の対象にはなりません。
ディズニーランドの中では、ミッキーだろうが魔法使いのおばあさんであろうが、みんな「多様性」の世界です。利害関係がない時に、犬や猫など見かけが違って言葉も通じない動物たちとも楽しく異種共存できます。シルクロードの中継地など、多種多様の文化や人種が問題なく混在していた場所や時期もあったと思います。
逆に、ある集団にどこかひずみがあったり、外部からの圧力がかかっているときには、学校のクラスのようなかなりの同質の集団内でもいじめなど排除行動が起こります。
そう、差別行動も、銃乱射も、戦争も、迫害も、複合的な利害関係や、それに伴うさまざまなクォリティ・オブ・ライフの様相によって表面化してくるもので、そこにつけられる「見た目の差」や「国の違い」や「宗教の違い」や「教義の違い」などという理由は、実は、すべて後付けなのです。
「文化の差」や「宗教の差」なんかをいくら分析しても、人間性の本質には到達できないのです。
言葉も通じず、毛むくじゃらで尻尾があって、トイレの始末も自分でできないうちの猫を心から美しい、かわいい、と思えるのが人間です。
最近つくづくそう思うようになりました。
今書いている本で訴えたいテーマのひとつがこれなので、つい長々と書いてしまいました。