jpakayuki さま

jpakayuki さま

sekko · 2013-02-07 23:09:14 UTC+9 · 投稿 #747

『自由人イエス』(ドンボスコ社)を引き続きご愛読ありがとうございます。

Jpakayukiさまがここでお便りしてくださる度に私ももう一度本を手にとって、ここにはキリスト教の真髄というか、人間と超越との関係(私たちは超越的なものとは本来関係を築くことができないので、いろいろな意味での偶像などを介してしまいがちです)への究極の答えがあるなあと感動します。

おたずねの箇所の原文は

Jésus ne donne seulement le visage humain à Dieu, comme si il lui prêtait une existence historique, il est le visage humain de Dieu dans notre condition. Il ne saurait être question d’aller au-delà de ce visage, de l’abandonner. C’est en ce visage que Dieu devient manifeste.

です。

スピノザは、神性と人間性は両立できない、四角い円のようなものだ、と言っていました。

イエスの生涯の部分だけを見ていると、最後の審判の日も分からないし、渇きや飢えもおぼえ、苦しんで死ぬなど、あまりにも人間的です。

でも、キリスト教は単純に「神が人になった」と言っているのではなく、神性と人間性の両立だけを言っているのではありません。神の第二の神格である「子」というパーソナリティが、神性をもちながら人間性をもひき受けているのだと言っています。

私の好きなA.Massonという若い神学者は、これを説明するのに、ある同じビデオフィルムを性能の違うPCで再生する例えを挙げています。

同じビデオでも、高精度の解像のPCではクリアに見えても、旧式のものではぼんやりしか見えません。

「子としての神」は人間としての体をまとった生においてはそのハードウェアの条件に制限されていました。

もととなる情報は全く同じです。

けれども、神の情報の一部のものは、子なる神のもつ神性か人間性かのどちらを通すかによって振り分けられます。

つまり神は生まれたり十字架の上で死んだりしない永遠のもので、「子なる神」の人間性の部分が生まれたり死んだりするのです。

「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』(ヨハネ8-58)」というのはそういうことだとMassonは言っています。

そういうことを考えながら、

「イエスこそが、私たち人間の存在条件における、神の人間的顔なのである。この顔の向こうに行くことができなければ、この顔を捨て去ることもできない。この顔の中でこそ、神は明らかになるのだ。」

をあらためて読みました。

ありがとうございます。