ともちゃんさま
福音書のこの箇所についての私の考え方は数年前『カトリック生活』で書きました。その後、ドン・ボスコ新書の『カトリック・サプリ』のp106-113『マリアかマルタか』に再録されていますのでお読みください。
ともちゃんさまがこの話を「現代の「教会」に向けてのイエズスの叱正」とおとりになられたのは理解できます。
>価値なしのシンボルはむなしい、でもシンボルなしに価値は保てるか?の底なし沼に少し前まではまっていました。
というともちゃんさまの問題意識の中で得られた解釈だと思います。
価値は何らかのシンボルを通じて伝えられるものだと思いますが、その後で「形」が独り歩きしてしまうことの問題ですね。
残った「形」や「シンボル」はそれなりに美的感興をそそったりルーティーン化した安心感を与えてくれたりということはあると思います。それが本来担っていた価値をそこからもう一度汲みとれるかどうかはまた別の問題ですが、形骸化した「シンボル」を捨ててしまっては、その源泉にあった価値に遡る道も一つ失われるわけですから、少なくとも手がかりとして残す意味はあると思います。そのシンボルの中で価値を絶えず再生している人たちもいるかもしれません。
教会の典礼などが単に仲間うちのコードになってしまっている場合はそれをどのような形で刷新するか、あるいは、外に向かっても価値観を伝えていく推進力に変換していくかは、とりあえずは、一人一人の生き方にあるのだと思います。その意味でも、ともちゃんさんの問いは大切なものだと思います。
ともちゃんさまがこの話を「現代の「教会」に向けてのイエズスの叱正」とおとりになられたのは理解できます。
>価値なしのシンボルはむなしい、でもシンボルなしに価値は保てるか?の底なし沼に少し前まではまっていました。
というともちゃんさまの問題意識の中で得られた解釈だと思います。
価値は何らかのシンボルを通じて伝えられるものだと思いますが、その後で「形」が独り歩きしてしまうことの問題ですね。
残った「形」や「シンボル」はそれなりに美的感興をそそったりルーティーン化した安心感を与えてくれたりということはあると思います。それが本来担っていた価値をそこからもう一度汲みとれるかどうかはまた別の問題ですが、形骸化した「シンボル」を捨ててしまっては、その源泉にあった価値に遡る道も一つ失われるわけですから、少なくとも手がかりとして残す意味はあると思います。そのシンボルの中で価値を絶えず再生している人たちもいるかもしれません。
教会の典礼などが単に仲間うちのコードになってしまっている場合はそれをどのような形で刷新するか、あるいは、外に向かっても価値観を伝えていく推進力に変換していくかは、とりあえずは、一人一人の生き方にあるのだと思います。その意味でも、ともちゃんさんの問いは大切なものだと思います。