(無題)

(無題)

vénard · 2016-09-24 17:20:39 UTC+9 · 投稿 #883

お返事が遅くなり申し訳ありません。夜勤の休憩時間に読ませていただいて、ヘロヘロだったのですが元気が出てきました。しかし帰宅後、数冊のハードカバーの立派なご本を手に取るにつけ、「何を書けば恥をかかずに済むだろうか…」と迷ってしまったのも一因です。

もう1つは、記事を読み進めて、MJ の問題をわが身に引き比べてもの思ううちに、苦しくなってしまったためです。同性愛が罪深い存在とされた社会にあって、自己嫌悪その他で「まっくろくろすけ」みたいになる危機を、イエスを見るという類稀な賜物を授かって免れたMJ 。ふつう感覚では捉えられないはずの「愛」の、「そのもの」の方と対峙したのですから最強です。うらやましい、というか、ちょっとずるい。愛と罪とに振れながらも、いつの間にか霊的にはある確信を得て前進するMJ が、なんだか遠い人のように見えてきたのです。振り子の紐はイエスその人が握っているから、不安定なようで盤石。それにひきかえ私は、MJ が後にした「暗さ」「罪深さ」の心境にいるようです。

手元の辞書を開くと、en être 同性愛者である、お仲間である、と出てきました。この単純な作りのことばの語感から、当時のMJ の周りの声が、ふいに立ち上がってきました。
「ムッシューマックスはアルティストでお仲間さんだとさ」「ほら、神父さまの前でぱっくり開けてるあの口でゆうべ」 (…って、書いてて胸が痛いです)

神さま、…と、なぜか祈りたくなりました。MJ に賜ったような「お前は愛されているよ」という確信を、私にも下さい。そして、その愛に応えることができますように。その「応え」とは、聖テレーズが「階段の下で足を上げ続ける幼子」と、聖ラファエル・アルナイスが「絨毯の端を伸ばしてばかりいる道化」とたとえ、MJ が「ささやかな改悛の積み重ね」といいました。己の罪を、あなたへのリスペクトのうちに悲しむことです。もし愛なしに自分を悲しむとしたら、私は「まっくろくろすけ」になってしまうでしょう。

今日は夜勤明けでしたが、思い立って『新カトリック大事典』(研究社、2002年)で、「同性愛」の項を引いてみました。最後の記述に「すべての人の尊厳は認められなければならないし、同性愛者が人格喪失者として排除されることがあってはならない。同性愛者の人権も無視されてはならないのである。」とありました。

フラつきながら宗教の棚へ。引かれるように、先生の『知の教科書 キリスト教』を手に取りました(『聖母マリア』『「弱い父 ヨセフ」』は持ってます)。先生の作品は、巻頭のフランス語の献辞がカッコいい!と思っていたのですが、あれ? 巻末にある。

「à celui qui est mort pour moi.」私のために死んだ人に捧げます。

死んだ人?? …気がつくまでにちょっとかかりました。
その死んだ人は。私のためにも死んで下さった方だ。
人は、無視したり、人格がない、と言ったりするかも
しれない。でもイエスは、黙って、オカマの私のためにも死んで下さった。
…ちょっと、キリストと対峙できた気がしました。

私も、MJ が生きた道に呼ばれている…のかな?
まとまりのない長文失礼しました。