vénard さま
>>「何を書けば恥をかかずに済むだろうか…」と迷ってしまったのも一因です。
そんなことおっしゃらないでください。
私の書いているものがひょっとして役に立っているかもしれない、と思うだけですごく励みになっています。
MJですが、彼の書いたものや、若い人たちへの献身的な助力や、最後に殺された時の事情など、全部を知る必要があります。彼の死の後も社会からの侮辱は続きました。でも、今はサン・ブノワ・シュル・ロワールそのものが彼の聖地みたいになっています。彼の生き方は、彼の「死後の生き方」に確かにつながっています。
>>うらやましい、というか、ちょっとずるい。愛と罪とに振れながらも、いつの間にか霊的にはある確信を得て前進するMJ が、なんだか遠い人のように見えてきたのです。振り子の紐はイエスその人が握っているから、不安定なようで盤石。それにひきかえ私は、MJ が後にした「暗さ」「罪深さ」の心境にいるようです。
光に向かって進むたくさんの道があるというのでなく、「光の中にいる」ことにいつ気づくかということなのではないでしょうか。
私も神秘体験などを得る人が、「遠い人」に見えるのですが、私のようなタイプの人が「神秘体験」をしたら、かえって迷いの種になって混乱するだろうなと思います。
>>神さま、…と、なぜか祈りたくなりました。
とおっしゃるvénard さまはもう光の中ですよ。
>>『新カトリック大事典』(研究社、2002年)で、「同性愛」の項を引いてみました。最後の記述に「すべての人の尊厳は認められなければならないし、同性愛者が人格喪失者として排除されることがあってはならない。同性愛者の人権も無視されてはならないのである。」とありました。
わざわざ同性愛についてこう書かれているのはもちろん歴史的に排除してきた間違いに対する反省です。でも、他のマイノリティもみな同じです。
「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである(使徒言行録/ 02章 47節)」
ですよ。
>>>「à celui qui est mort pour moi.」私のために死んだ人に捧げます。
私の寝室にある修道院から来た大きな十字架があって、そのイエスはとても苦しそうです。
はじめは、せっかく復活したのにいつまでこんな苦しそうにしてるんだろう、不健康だ、とか思っていたのですが、ああ、きっと世界中の人が毎日彼をあらたに十字架に釘打っているんだろうなあ、と思うようになりました。しかも、こんな気の毒な十字架の人にいろいろ祈願し続けている人の数も膨大だろう、と。
そう思うと、「すくなくとも今日は釘を打ちたくない」と思い、またvénardさまと同じ年のイエスが私の息子のような年になるにつれて、彼を何とかしてこの十字架から降ろしてあげなくてはと思うようになりました。今は毎朝、苦しそうな彼を見ると、「わかった、わかった、ママががんばるから」みたいな気になります。
vénardさまの姿とも重なってしまいます。
MJの物語はすべての人の希望につながる物語になるはずです。
そういう物語を、いっしょに、紡いでいきましょう。
ファティマに向かっています。
vénardさまにためにお祈りしますね。
そんなことおっしゃらないでください。
私の書いているものがひょっとして役に立っているかもしれない、と思うだけですごく励みになっています。
MJですが、彼の書いたものや、若い人たちへの献身的な助力や、最後に殺された時の事情など、全部を知る必要があります。彼の死の後も社会からの侮辱は続きました。でも、今はサン・ブノワ・シュル・ロワールそのものが彼の聖地みたいになっています。彼の生き方は、彼の「死後の生き方」に確かにつながっています。
>>うらやましい、というか、ちょっとずるい。愛と罪とに振れながらも、いつの間にか霊的にはある確信を得て前進するMJ が、なんだか遠い人のように見えてきたのです。振り子の紐はイエスその人が握っているから、不安定なようで盤石。それにひきかえ私は、MJ が後にした「暗さ」「罪深さ」の心境にいるようです。
光に向かって進むたくさんの道があるというのでなく、「光の中にいる」ことにいつ気づくかということなのではないでしょうか。
私も神秘体験などを得る人が、「遠い人」に見えるのですが、私のようなタイプの人が「神秘体験」をしたら、かえって迷いの種になって混乱するだろうなと思います。
>>神さま、…と、なぜか祈りたくなりました。
とおっしゃるvénard さまはもう光の中ですよ。
>>『新カトリック大事典』(研究社、2002年)で、「同性愛」の項を引いてみました。最後の記述に「すべての人の尊厳は認められなければならないし、同性愛者が人格喪失者として排除されることがあってはならない。同性愛者の人権も無視されてはならないのである。」とありました。
わざわざ同性愛についてこう書かれているのはもちろん歴史的に排除してきた間違いに対する反省です。でも、他のマイノリティもみな同じです。
「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである(使徒言行録/ 02章 47節)」
ですよ。
>>>「à celui qui est mort pour moi.」私のために死んだ人に捧げます。
私の寝室にある修道院から来た大きな十字架があって、そのイエスはとても苦しそうです。
はじめは、せっかく復活したのにいつまでこんな苦しそうにしてるんだろう、不健康だ、とか思っていたのですが、ああ、きっと世界中の人が毎日彼をあらたに十字架に釘打っているんだろうなあ、と思うようになりました。しかも、こんな気の毒な十字架の人にいろいろ祈願し続けている人の数も膨大だろう、と。
そう思うと、「すくなくとも今日は釘を打ちたくない」と思い、またvénardさまと同じ年のイエスが私の息子のような年になるにつれて、彼を何とかしてこの十字架から降ろしてあげなくてはと思うようになりました。今は毎朝、苦しそうな彼を見ると、「わかった、わかった、ママががんばるから」みたいな気になります。
vénardさまの姿とも重なってしまいます。
MJの物語はすべての人の希望につながる物語になるはずです。
そういう物語を、いっしょに、紡いでいきましょう。
ファティマに向かっています。
vénardさまにためにお祈りしますね。