小寄道さま
まったくおっしゃるとおりです。
この件は、10月に中公新書ラクレから出る予定の『キリスト教は「宗教」ではない』や、今執筆中の単行本で「神・金・革命」の偶像化の歴史を書いているものと大いに関係があるので書きだすときりがないので、ブログでは一般論に留めておきました。
前回お話した、『フリーメイスン』のジャズの歴史にもあるのですが、ともかくアメリカのプロテスタント教会というのは、黒人教会と白人教会とに分かれていた(今は建前上分かれていませんが実質的に分かれている)時点で、全然「普遍教会」でもなく、「自由・平等・博愛」の場所でもないんですね。
こう言い切ってしまうといろいろ語弊があるからこそ書いていないんですが、アメリカの中西部とか南部とかの、「普通の白人」の「宗教」は「共同体宗教」であって、氏神様を祀る町内会みたいなエスプリです。
地元の英雄だとか地元の「伝統」を維持したり復活させたりするために役立つ人物はみな崇敬されるべき「聖人」なんですよね。
アッシジのフランチェスコの平和の祈りとか太陽の賛歌と、ヴィクトル・ユゴーの革命賛歌はそっくりなんですが、ユゴーは「あらゆる宗教を廃止せよ」と言っています。社会の中で「宗教」組織という形をとる時点で、「宗教」は人間のあらゆる活動と同じく「お仲間ファースト」になるからでしょう。
その意味で、アッシジのフランチェスコのキリスト教は、「宗教」ではなかった、と言えます。ナザレのイエスが「キリスト教信者」でなかったのと同じですね。
いつか詳しく書いていくつもりです。
この件は、10月に中公新書ラクレから出る予定の『キリスト教は「宗教」ではない』や、今執筆中の単行本で「神・金・革命」の偶像化の歴史を書いているものと大いに関係があるので書きだすときりがないので、ブログでは一般論に留めておきました。
前回お話した、『フリーメイスン』のジャズの歴史にもあるのですが、ともかくアメリカのプロテスタント教会というのは、黒人教会と白人教会とに分かれていた(今は建前上分かれていませんが実質的に分かれている)時点で、全然「普遍教会」でもなく、「自由・平等・博愛」の場所でもないんですね。
こう言い切ってしまうといろいろ語弊があるからこそ書いていないんですが、アメリカの中西部とか南部とかの、「普通の白人」の「宗教」は「共同体宗教」であって、氏神様を祀る町内会みたいなエスプリです。
地元の英雄だとか地元の「伝統」を維持したり復活させたりするために役立つ人物はみな崇敬されるべき「聖人」なんですよね。
アッシジのフランチェスコの平和の祈りとか太陽の賛歌と、ヴィクトル・ユゴーの革命賛歌はそっくりなんですが、ユゴーは「あらゆる宗教を廃止せよ」と言っています。社会の中で「宗教」組織という形をとる時点で、「宗教」は人間のあらゆる活動と同じく「お仲間ファースト」になるからでしょう。
その意味で、アッシジのフランチェスコのキリスト教は、「宗教」ではなかった、と言えます。ナザレのイエスが「キリスト教信者」でなかったのと同じですね。
いつか詳しく書いていくつもりです。