組長はイエス?
ノンクリスチャンながら、身内の信仰がキリスト教でその世界に片足を突っ込むようになって大分経ちます。決して悪いものとは思っていないし、人類史への貢献ぶりは認めるものの、信仰となると躊躇してしまっているところ。その理由の一つにこれはイエスという2000年前の実在する宗教家を実質的に神と崇めるということがあるのですが・・。
でも、最近読んだ、牧師やクリスチャンになった元ヤクザのグループ(?)ミッション・バラバの本にそのことに関して妙に納得のいく説明があって、それは、誰の発言かは忘れましたが「親分がイエス様になっただけのこと」といった趣旨の発言で、思わず、ああなるほどね、と思ってしまいました。以前も似たような趣旨の発言を冗談半分にUPしましたが、最近は冷やかしでも冗談でもなくそう思うこと多いです。
うまく、言葉にできないんですけど、そういうヤクザ的な論理で考えると、つまり、構成員(信者)にとって「親分、組長は絶対だ、神同然」というのは当然のことで、カタギの理屈で「個人崇拝だ」「三位一体なんてヘン」なんてツッコミを入れる方が野暮に思えてきますし、自分が頼みとする親分が「奇跡を巻き起こし」、「永遠の存在(復活した)」である無敵の存在であって欲しい、という願望、信仰も物理的、歴史的事実としては到底受け容れ難い話ですが、心情としては分かる気がしてきます。
もちろん、クリスチャンとかキリスト教はヤクザと違って反社会的な行為を生業としているわけではないですし、長い歴史に揉まれた末、そのスタイルも考えも洗練されたものとなってはいますが、なんていったらいいのか、カタギの常識的な発想で考えると理解不能な風習、慣習もやくざ的論理を当てはめるとな~るほど、と思えるところが少なからずあるような感じがするといいますか、根本的な発想に似たようなところがあるんじゃないのか、という気がして・・。
例えば、ヤクザもクリスチャンも建前上、ともに組長、親分、イエスを中心とした擬似家族制ですし(教会報など公の文書では信者同士~姉とか~兄なんていいますし)、構成員(信者)になるに際して、盃を交わす、洗礼を受けるなどの儀式がある、組員(信者)からの上納金(献金)で組織が成り立っている、ともに構成員(信者)の高齢化が進むなどなど妙な共通点がありますし・・・。聖母マリアはさしずめ「姐さん」といったところでしょうか・・。極端な話、宗教とかキリスト教とヤクザとか暴力団というのは裏と表、神と悪魔、光と闇のような関係なんじゃないのか、と思ったりします。
パンやワインをイエスの血と肉になぞらえた聖餐式も亡き(という表現はキリスト教的には変か?)「組長」「親分」との今も変わらない連帯感の確認の儀式と考えればなんだか私的に理解できるような・・。
そう、クリスチャンとはイエスを「親分」「組長」とする任侠道ならぬ、人道団体の構成員(組員)と思えば、これまでキリスト教に関して不思議でならなかった風習、考えの謎がクリアーに分かる気がするのですが、どんなものでしょうかね??
この譬え、もし不謹慎、不快に思われる方がいらっしゃればごめんなさい。
でも、最近読んだ、牧師やクリスチャンになった元ヤクザのグループ(?)ミッション・バラバの本にそのことに関して妙に納得のいく説明があって、それは、誰の発言かは忘れましたが「親分がイエス様になっただけのこと」といった趣旨の発言で、思わず、ああなるほどね、と思ってしまいました。以前も似たような趣旨の発言を冗談半分にUPしましたが、最近は冷やかしでも冗談でもなくそう思うこと多いです。
うまく、言葉にできないんですけど、そういうヤクザ的な論理で考えると、つまり、構成員(信者)にとって「親分、組長は絶対だ、神同然」というのは当然のことで、カタギの理屈で「個人崇拝だ」「三位一体なんてヘン」なんてツッコミを入れる方が野暮に思えてきますし、自分が頼みとする親分が「奇跡を巻き起こし」、「永遠の存在(復活した)」である無敵の存在であって欲しい、という願望、信仰も物理的、歴史的事実としては到底受け容れ難い話ですが、心情としては分かる気がしてきます。
もちろん、クリスチャンとかキリスト教はヤクザと違って反社会的な行為を生業としているわけではないですし、長い歴史に揉まれた末、そのスタイルも考えも洗練されたものとなってはいますが、なんていったらいいのか、カタギの常識的な発想で考えると理解不能な風習、慣習もやくざ的論理を当てはめるとな~るほど、と思えるところが少なからずあるような感じがするといいますか、根本的な発想に似たようなところがあるんじゃないのか、という気がして・・。
例えば、ヤクザもクリスチャンも建前上、ともに組長、親分、イエスを中心とした擬似家族制ですし(教会報など公の文書では信者同士~姉とか~兄なんていいますし)、構成員(信者)になるに際して、盃を交わす、洗礼を受けるなどの儀式がある、組員(信者)からの上納金(献金)で組織が成り立っている、ともに構成員(信者)の高齢化が進むなどなど妙な共通点がありますし・・・。聖母マリアはさしずめ「姐さん」といったところでしょうか・・。極端な話、宗教とかキリスト教とヤクザとか暴力団というのは裏と表、神と悪魔、光と闇のような関係なんじゃないのか、と思ったりします。
パンやワインをイエスの血と肉になぞらえた聖餐式も亡き(という表現はキリスト教的には変か?)「組長」「親分」との今も変わらない連帯感の確認の儀式と考えればなんだか私的に理解できるような・・。
そう、クリスチャンとはイエスを「親分」「組長」とする任侠道ならぬ、人道団体の構成員(組員)と思えば、これまでキリスト教に関して不思議でならなかった風習、考えの謎がクリアーに分かる気がするのですが、どんなものでしょうかね??
この譬え、もし不謹慎、不快に思われる方がいらっしゃればごめんなさい。