2008年の投稿

レノン バチカンより赦される

迷える大羊 · 2008-11-26 23:00:57 UTC+9 · 投稿 #394

BBCなどの欧米マスコミに出ている話。元タネはバチカンの日刊紙「オッセル・バトーレ・ロマーノ」らしいです。

こちらのBBSでも以前、話題にもしましたけど、この話は、ビートルズのジョン・レノンが英紙イブニングスタンダードで1966年の春ごろ「ビートルズはキリストより有名」とやって、米国のバイブルベルトの保守的なクリスチャンを中心に猛反発、その騒ぎがバチカンにも伝わり、バチカンもレノンに謝罪と釈明を求めた、というもの。

実に42年ぶりにカトリック教会からレノンは赦されたんですね。でも、この発言、よく読むと、イエスの教えや行動自体は評価してるし、「キリストより有名」っていうくだりもあくまで、比喩のような感じだし、教会に真面目に通うようなクリスチャンには確かに面白くない部分があるにせよ、嫌がらせしたり、ヴァチカンが組織を上げて謝罪と弁明を求めるほどの話かなぁ~という感じがどうしてもします。

実際、騒ぎになりだしたのはアメリカに話が伝わってからで、当初ヨーロッパでは全く注目されなかった発言だし。バチカンが許したっていうよりは「あんなことつまんないことで騒いで、大人げなかったな、今にして思うと」って感じがしますけど、どうなんでしょうね。

大羊さま

Sekko · 2008-11-19 13:34:34 UTC+9 · 投稿 #393

>背景や前後関係をよく吟味した上でよく考えないとトンでもない誤解や事態を招きかねない箇所は他にもいくらでもある、だから教会、少なくともカトリック教会の場合、一人で勝手に聖書を解釈することは許さなかったんです、とのことでした。

というのは、カトリック教会の方が危機管理にすぐれていたのかなあ、って気がしますね。聖俗の境界部分はきちっと管理しといて、内輪では自由に意見交換するっていうのもひとつのやり方です。普通の人って、自分や自分の周りの生活の質や救いとかさえケアできるシステムがあれば、細かいテキストなんてスルーできるだけの健全さがあるのかもしれません。
その「普通の人」に無理やり教条主義的な聖書勉強会をおしつけると、中途半端な独善主義に染まりやすそうです。
ユダヤ聖典に対するイエスの態度は全然原理主義的じゃなかったですからね。生きて滅びる存在はめぐりゆき変わり行く、枠にはめてフリーズさせるともうそれは本質から離れていくのかもしれません。

聖書を読んでも、それを通して、同じ見解の人とだけ連帯するような方向ではなく、宗派を問わずより多くの人々に寄り添えるような読み方がいいんじゃないんでしょうか。

今、日本に来ておりまして、私事で取り込んでいてお返事遅れましてすみませんでした。懲りずにいつでもどうぞ。

聖書のヘンテコな点について

迷える大羊 · 2008-10-25 23:27:45 UTC+9 · 投稿 #392

題名の件について、どう考えるか?とある教会の神父さんにあれこれ聞いてみました。いろいろ話しましたが、答えとして一口にまとめると聖書は一人で勝手に読んで解釈するものではない、とのことでした。
私がここであれこれあげた他にも、背景や前後関係をよく吟味した上でよく考えないとトンでもない誤解や事態を招きかねない箇所は他にもいくらでもある、だから教会、少なくともカトリック教会の場合、一人で勝手に聖書を解釈することは許さなかったんです、とのことでした。

これは納得いきました。解釈を教会が監督、コントロールというとなんだか言論、思想の自由の妨害って感じがしますが、聖書を読むとこれを字義どおり勝手に解釈すると大変だ、って部分は確かに多かったりしますし、現にその過激な部分(イエスの「家族を棄てろ」発言とか)を「利用」しているカルト団体もあるわけで。聖書に関する限り、ある程度のコントロールはやむえないかも、と思います。
思うに聖書って「良いも悪いも読む人次第」な部分がたぶんにあるな、と思うのですが、どうでしょうか。

学校なんかで習う世界史だと、聖書を一般信者から遠ざけ、腐敗の限りを極めていたカトリック教会に対して、ルターをはじめとするプロテスタントたちが敢然と立ち上がり、なんて図式で描かれることが多く、それはそれで間違いではないとは思うものの、ある程度、キリスト教の事情がわかる今となっては「聖書に帰れ」とか「信仰は聖書のみ」って本当に手放しでいいことなのか?と思うようになりましたね。

原理主義についてあれこれここで述べましたけど、実は教派云々ではなくプロテスタント成り立ち、存在自体が一種の原理主義なのかも、と思ったりします。実際、聖書を「字義どおり」信じる人ってプロテスタントの人の方が割合的に圧倒的に高いし。

アメリカの福音派

迷える大羊 · 2008-10-11 14:27:22 UTC+9 · 投稿 #391

SEKKO先生より御紹介された、「宗教右派」読んでみました。なかなか興味深い内容でした。著者の飯山氏の疑問や戸惑いはまさに私のそれです。やはり、アメリカの福音派も日本のそれと同様、一言ではくくれない多様な面があるようで、勉強になりました。

思えば、福音派キリスト教って良い意味でも悪い意味でもアメリカらしいキリスト教って感じがします。アメリカ人のステレオタイプなイメージといえば(あくまでステレオタイプです)、基本的に人は良く、陽気で楽しげ、常に前向き。自国の民主制度と価値観(信仰)が人類を救う、幸せにすると純粋に信じ、それを拡げる(伝道する)ことが使命と強く信じている。

その一方で、他国の文化、価値観(他宗教)に対する理解も理解する意欲も薄く、ときにその押し付けがましく、無神経に映る部分が他国(他宗教、未信者)の反発を呼ぶ場合がある(実際、アメリカ人でパスポートを持つ人々の比率、つまり、外国に出たことがある人の比率は極めて低いらしい)・・。
といった感じで、私の中での福音派のステレオタイプとアメリカとかアメリカ人のステレオタイプって重なる部分が多々あるんですよね。こんな風に思うのは私だけでしょうか??

飯山氏の「宗教右派」中では最近下火になったらしい、とはいうものの、アメリカ社会の中絶と同性愛問題への異様なこだわりってあれ何なんでしょうね?
もちろん、どうでもいい問題とは思いません。でも、そこに至るまでの過程、というか事情は百人百様なわけで、善か悪か、是か非かの二元論で割り切れるものではないし、ましてや国政の場で踏み絵的な政争の具にするなんて、無理がありすぎるというか、エネルギーの無駄遣い以外何ものでもない感じがしますが・・・。

いつだったか「日本の常識は世界の非常識」って言葉がありましたけど、それいうなら「アメリカの常識は世界の非常識」っていうのも十分成り立ちそうに思えます。ただ、日本と違って、アメリカの場合、日本ほど「世間、世界の目」を気にしないし、世界一の経済、軍事大国なので「自国の常識」を強引に「世界の常識」にしてしまう、というだけの話だろ、って気もします。

聖書をひも解くと、同性愛は旧約聖書では非難されまくりですが、新約の方には目立ったコメントがない、イエスは一言も触れていない、中絶については旧新両方ともコメントなし、なんですが・・・。

あと、アメリカの宗教、キリスト教事情に触れた本としては立花隆氏の「宇宙からの帰還」(中公文庫)も面白かったです。

CRAZY AMERICA

vino · 2008-10-08 15:22:55 UTC+9 · 投稿 #390

家族のことで忙しかったり、自分も背中を痛めたりなどでしばらくこちらは拝見するだけにしておりました。皆様、相変わらず、本当に問題意識の高い、博識なご様子、立派です。 今年はアメリカで大統領選挙があり、何故、あの国があんなにおかしいのか、この数年の経験でかなり判るようになった私としては、思うこともいろいろです。 日本の福音派の方々は(現実の世界は汚れきっていて、自分達の価値観の世界を信仰によって作ることこそ大切)くらいの方向性の人が多いように感じられます「政治は関係ない」などと仰いますが、関係あるようにしているのはどこのどいつだっ!と突っ込みを入れたくもなります。(笑)平和よりも正義などとノタマウ人ありで、<おおいなる陰謀>のトム・クルーズのようです。正義、正義って言いますが、反対側から観たら、ただの欲でしょう。いろいろな物が値上がりしていますね。アメリカの子分のような日本ですが、信仰の方向性はかの地に大量に棲息する<敬虔な信徒さま>とは違う道を歩みたいと思います。

下の書き込みについて

Sekko · 2008-10-07 19:13:59 UTC+9 · 投稿 #389

この下の書き込み、スパムの一種かもしれませんが、こういうものにも答えちゃうのが暇な人、じゃなかった、善意の人の義務なんで、ブログに書いときました。http://spinou.exblog.jp/
暇な人は読んでみてください。

しかし、私もそれほどには暇、じゃなかった、善意の人じゃないんで、次に似たようなのが来たら消去しますので悪しからず。

愚かな金持ち

ラザロ · 2008-10-07 14:13:06 UTC+9 · 投稿 #388

イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいのである。あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、やさしい」。 新約聖書の言葉

富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、

あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

キリスト教とアメリカ

迷える大羊 · 2008-10-05 20:47:31 UTC+9 · 投稿 #387

これまで、聖書の内容と現実のキリスト教信仰のズレについてしつこく話題にしましたけど、そういう話となると、アメリカの話を飛ばすわけにはいかないですね。

このギョーカイに関わるまで、アメリカといえば科学、合理主義の極みのような国家。日本以上に宗教色が薄く、なんて思っていたんですが、実際は全く逆、私を戸惑わせた、聖書を字義通りに信じてしまうような教会の出自は大体がアメリカ、なのには本当にびっくりします。

話変わって、本日、とある教会の聖書講座にてぶどう園の労働者の話をいかにも品のいいおばさま、といった感じのシスターを講師に受講しました。ああ、なるほどね、このたとえ話(だけではないんでしょうけど)、社会保険だとか失業保険の発想の源になっているわけね、とこれは素直に感心しました。

この話に限らず、聖書、福音書を読む限り、イエスは度の過ぎた競争社会とか、格差社会には明らかに否定的で、現代でいう社会主義、共産主義的な発想の持ち主のように思えます。
ところが、そのキリスト教や聖書やイエスを進化論を否定するほどまでに信仰しているはずのアメリカは、世界でも有数の競争社会だし、なんといっても驚くのは国民皆保険ではなく、健康保険は自前。豊かそうに見えても、中流以下の人間は一旦、大病、大ケガでもしたりすると、あっという間に貧困層、とういうこれまた世界一の経済大国のイメージからは信じ難い現象があったりで、これまた、頭が混乱します。

ほんとにあなた方キリスト教信じてるんですか?聖書ちゃんと読みました?同性愛者の結婚だの中絶がどうのこうのなど、そんな個人的な問題をぎゃあぎゃあ言う前にもっと他にやることないですか?ってつい言いたくなってしまうのは私だけでしょうか??
特に健康保険の国民全加入なんて、聖書やイエスを信じるキリスト教国なら建国するやいなや即刻実現していて良さそうなものですが、全然そうでない、一体、アメリカの人々は矛盾を感じないのだろうか?聖書のどこをどう読んでいるのだろう?との疑問を感じます。

また、離婚の多さも謎です。日本も最近は多いですし、ヨーロッパもしかりですが、それでも統計を見るとアメリカ人の離婚の多さは群を抜いてますよね。まあ、離婚の是非、現実問題として妥当かどうか、は別として、聖書をひもとけば「離婚はダメよ」とイエス自らが直々に語っているわけで、なんで、そんな宗教信じていながら、あんなに簡単に別れられるんだ??とこれまた矛盾とか感じないのかなぁ、と不思議になってきます。

アメリカに限らず、こういう現象をみると、キリスト教の世界でいくら「聖書は神のみ言葉」なんていっていても、結局は各人が自分の立場、主張に都合のいいとこつまみ食いしてるだけなのかなぁ、とニヒルな意見を持ってしまいます。

ほんとどうなってるんですかね?

進化論とキリスト教

charis · 2008-10-05 08:41:28 UTC+9 · 投稿 #386

Sekkoさんの10月2日のブログはとても勉強になりました。ダーウィンの進化論は、20世紀になってメイナード・スミスやドーキンスなどによる遺伝子レベルからの捉え返しによって、その意味がはっきりしてきました。「弱肉強食」ではないんですね。偶然の突然変異によって生じたごくわずかに形質が違う個体が(たとえば、ほんの数センチ首の長いキリン)、それまでの形質をもつ個体に比べて、一生の間に産む子供の数がほんのわずかだけ多いとします。たとえば首の長いキリンはライオンにすばやく気がつくから、首の短いキリンより産む子供の数が1%だけ多いと仮定しましょう。すると、たとえば数万年の間には、首の長いキリンだけになってしまう(これを数学的にキチンと計算するのが現代の進化論です)。摂理とか目的論とかを一切抜きにして、結果として、繁殖力がわずかに優位した形質をもつものが生き残って現在存在している。これが進化論のポイントです。

重要なことは、進化的に生き残ってきたものは、一定の環境のもとで繁殖力が大きかったという事実だけで、その個体が「生きやすかった」とか「幸福に生きられた」ということではまったくないということです。奇妙な形の動物がたくさんいるわけで、進化論は個体の生の幸福にはまったく無関心です。ここが我々人間の関心と異なるところで、我々は誰でも、自分が幸福に生きたいと願い、これがキリスト教だけでなく、人間の基本的な考え方です。

自然的存在としてのヒトには、たしかに進化論は妥当しますが、人間のあり方の社会的・文化側面に、進化論を当てはめるのは正しくありません。たとえば性欲は繁殖力に関わる自然的性質でしょうが、だからといってレイプが許されるわけでないのと同じです。

福音派など他あれこれ

迷える大羊 · 2008-10-05 00:55:55 UTC+9 · 投稿 #385

といっても、そういうまとまった教派があるわけではなく、保守的、原点回帰的な信仰を持つプロテスタント教会全般を指すわけで、その「濃さ」も教会により、牧師により信徒様々で、一慨にこうだ!とは決めつけられないところもありますね。伝統的教会とさして変わらない穏健なところから、カルトか、これは?といいたくなるところまで、本当に様々。もっとも私も実地、実体験で知っているのは日本の福音派教会だけで、海外のそれは書物でしか知らないんですが・・。
もともとプロテスタント教会自体、教会により牧師によりカラーががらりと変わってしまうところがあって、日本キリスト教団などもあれだけ信仰の形態も考え方もバラけた人たちがよく同じ団体にいられるもんだなぁ、って思うところがありますし。

福音派(以下F派)だからといって全部が全部の牧師や信徒が「神をとるか?進化論をとるか」みたいなこといっているわけでもないし、中には「聖書を字句通りとるのは危険」との私に近い立場の方もおります。でも、まあ、そういう(神か進化論か、的な考えの)人の割合は確かに高いですね。

それより何より日本の福音派の信徒の場合、緊密な人間関係が心地よくて所属している人が多いように思えますね。カトリック、プロテスタント問わず、伝統的な大教会って確かに理性的だし、あまり素っ頓狂なことは言わない代わりに役所的なところがあって、ちょっと厚かましいぐらいでないと聖職者と直に話す機会も少ないし、教会にも溶け込めず、ミサやら礼拝やらを流れるままにすごし、結局誰とも話さずに終わったなんてことになりかねないところあるんですよね。
「聖書についての101の質問と答え」(レイモンド・ブラウン著 裏辻 洋二訳 女子パウロ会)によればアメリカでもその辺りの事情は同じみたいですね。


日本の福音派とあちらの福音派の最大の違いは政治的な立場ですね。あちらで熱心なクリスチャンとか福音派というと政治的には保守、右寄りとなることが多いようですが、日本では福音派(というかキリスト教会全般)って政治的には全く逆の左寄りの場合が多いですね。教会によっては、教会報読むと「あれ、ここは社民党か共産党の事務所だったんかなぁ?来る場所間違えたかな?」と思っちゃうことありますし。

ブログでも触れられておりましたが、進化論って確かに弱肉強食の正当化だとかナチスあたりの人種理論に「応用」された経緯があって、キリスト者としてそれに嫌悪感を抱く、というのはなんとなく理解はできるし、私も現に福音派のクリスチャンの方からそのような趣旨の話を聞いたことあります。でも、それいうなら、キリスト教だって異文化破壊、異教徒弾圧、異端狩りなど到底誇れない歴史があるわけで、だから、キリスト教ダメ、十字架禁止!って理屈も成り立たなくもないわけで、やっぱりヘンというか、理解できないです。それに、人種差別反対とか公民権運動って進化論が出てきた後の話だし、「人は神が自らに似せて作った」ことになっていた時代に不道徳とか不正が何にもないのか、っていうとそんなことまるでないわけだし。

とまあ、キリスト教に関わって世の中のいろいろな面が見えたような気がしますね。

大羊さんへ

Sekko · 2008-10-02 21:35:38 UTC+9 · 投稿 #384

中公新書ラクレの『アメリカの宗教右派』(飯山雅史)という本を最近いただいて読みました。そこに福音派の成り立ちがすごく分かりやすく書かれていたので、大羊さんのことを思い出しました。やはり、歴史的文化的コンテキストに位置づけてみると、すごくクリアになることがありますね。

でもこの本を読んで、多分、日本のほとんどの人にはアメリカの宗教右派の実態なんて興味がなく、遠い世界なんだろうなあと今さらながら思いました。
そんな日本で、福音派に出会ってどっぷり浸かる人もいるのですし、本当に難しいです。今日のブログでも少し触れました。あわせてどうぞ。

イエスとパウロ

Sekko · 2008-09-23 18:52:09 UTC+9 · 投稿 #383

イエスが神懸りの教祖でパウロが宗教組織のオーガナイザーって図式は、昔私も何となく受け入れてたんですが、今は全然違うって思ってます。
イエスをキリストってしたことがキリスト教を成立させたわけですが、受肉とか贖罪の思想におけるその逆説の力はすごいなあと今は感心します。
しかし、西洋近代を生んだキリスト教社会ではその辺のところがまったく闇の中になってしまったんで、過激も毒も逆説も見えなくなり、信仰と懐疑の緊張が、似非科学主義とか、「イエスはシンボル、人としての模範」、みたいな方向とかに行っちゃったのは、ちょっと残念です。

毎度どうもお世話様です

迷える大羊 · 2008-09-22 21:30:33 UTC+9 · 投稿 #382

皆様、いつもお世話様です。

確かに、古代世界ってそんなものかもしれないかもしれないとは思いますが、レビ記を読むと主はモーゼに近親相姦はダメだってはっきり言っているのに、あからさまにそのタブーを犯している連中(サラはアブラハムの妻であると同時にアブラハムの父テラの妻でもあったりする)に何のおとがめがない、というのはどういうこっちゃ?どうも、旧約の神が考えることはようわからん、といった感想を持ってしまいますね・・・。

そのレビ記にある規制の一つに(チベット仏教の僧侶の基本戒にもあるそうですが)、動物と交わってはならない、っていうのがありますが、これまたどうにも気になる話ですね。
「いわれなくとも、しないわい、そんなこと」って思うのですが、こんな規制が出てくるってことは古代世界には動物と交わってしまう人間がいたってことなんですかね??。
同性愛とか、近親相姦ならまだ、私の想像のつく世界の話ですが、動物相手の性行為となると、いくら現在とは価値観が全然違う社会の話とはいえ、もう想像の域を超えていて、これまた頭が痛くなってくる話です。

>どの時代のキリスト教も、『旧約』や『新約』という聖典の「教え」と、自分たちの生きている「現代」とのギャップをどう埋めるかに腐心してきました。

これは、本当に大変だな、と想像できます。一番てっとりばやいのは聖書の内容を変えることなんでしょうけど、世俗の法律や憲法とは違い、聖書は「神との契約」内容なわけで、それが時代や状況によって簡単に変えられるようでは、権威というか重みがまるでなくなってしまうわけで、つらいところだと思います。

>イエスの過激さ

聖書をまじめに読んでみて一番変わったのが、イエスのイメージですね。それまで、なんとなく温和で無抵抗主義っぽいイメージがあったのですが、どうも、この人は一種の過激派(テロリストってことではなく、道徳的な意味での)なんじゃないのか?ということですね。
その過激な部分を中和し、もうちょっと一般人にも受けやすいものに変えて、大々的にプロモーション、プレゼンテーションしたのがパオロって感じですかね。
いってみればパオロはプレスリーのマネージャー、トム・パーカー、ビートルズのブライアン・エプスタインのような有能なマネージャーというか、プロデューサーみたいな。もちろん、独断と偏見ですけど。

大羊さんへ

charis · 2008-09-21 22:58:10 UTC+9 · 投稿 #381

どの時代のキリスト教も、『旧約』や『新約』という聖典の「教え」と、自分たちの生きている「現代」とのギャップをどう埋めるかに腐心してきました。

パスカルに『プロヴァンシャル』という本がありますが(日本語の全集で読めます)、ある意味では『パンセ』より面白い。イエズス会のずぶずぶのマニュアルを批判した本です。新約では、イエスは、「金持ちは天国に入れない。天国に行きたければ、全財産を寄付せよ」みたいな過激なことを言っています。でも、それを文字通りに真に受けたんじゃ、金持ちを敵に回すことになって、教会はやっていけない。だから、イエズス会は、一見すると聖書に反するような階級や人間でも、ちょっと何かすればちゃんと救われるという、手を取り足を取るようなマニュアルを書いているのです。それを原理主義者パスカルが批判したのが『プロヴァンシャル』です。ほんと面白い本です。

大羊さんへ

Sekko · 2008-09-21 17:48:12 UTC+9 · 投稿 #380

私は別に旧約聖書の性的乱脈が気になりませんね。古代社会って大体どこでも似たようなもんだという感じがします。キリスト教的にも、キリスト教は神が受肉したってのがメインで、だから、どこかの時代のどこかの社会に生まれたわけですから、旧約でその文脈を知るのはもっともだと思いますね。
後のキリスト教はストア派的な世界で発展したので、ちょっと厭世的で、禁欲的なのはこれも当然の帰結でしょう。その後、キリスト教的性の禁忌は、はっきり言って、婦女子を男の財産として縛るために維持されてきたと思います。
17世紀頃のヨーロッパの農村とかでもすでに、男たちは結構勝手なことやっていて、それでも女子供は教会に行かせていました。貞潔とか貞節とか、性に対する罪悪感を植えつけることが財の継承システムにとって大事だったんでしょう。
男同士の同性愛がタブー視されるのも、子孫を残さないとそういう財の継承ニ不都合が生じる上に、女の役をする男への同性内での侮蔑感とか危機感があると思います。男っぽい女の方は、どちらかというと女性から憧れられたりするんですよね。これも、社会的な刷り込みから来る反応でしょう。

チベットのお坊さんの基本戒では、僧侶の独身を求めるだけでなく、性行為そのものが禁じられていて、異性だけじゃなく同性とも動物ともダメ、と書かれてます。この方が人間性を心得て厳しいのか、あるいは、キリスト教のほうが抜け道を用意したザル法で人間的なのか、分かりません。カトリックでも時代や場所によっては、聖職者の独身の誓いは、神の秘跡としての結婚ができないというだけで、実際は家政婦的な人と同棲しているケースもよくありましたし、アフリカとかでは今もあるようです。

古代ヘレニズム世界でも同性愛は文化のうちだったし、ストア派的な禁欲は、異性愛とか同性愛に限らず、欲望の抑制がメインだったんでしょう。
同性愛が神の意思に背くといって、即地獄落ちというような教条主義的宗派は今もありますが、同性愛者だって異性愛者だって、それを律していくという意味では同じ試練を課せられているんでしょう。司祭になりたい人は、独身や貞潔の誓いを受け入れればいいので、別に自分の性的傾向をカミングアウトする必要はないと思います。妄想レベルだったら何でもあり得るわけだし・・・

それに普通は異性愛者だって、同性愛者だって、別に生まれてから死ぬまでずっとそれにとらわれてるわけじゃないし、1日24時間それにとらわれてるわけでもなく、習慣とか環境とか、ホルモンの具合によってスイッチが入るんだと思うし。そんなことで、神と人に仕える大切な使命とか召命とかが損なわれないことを希望したいです。
たとえばフランス内での今のカトリックの人にとっては、やはり離婚して再婚した人が聖体拝領できないとか、女性が司祭になれない、とかについて、教皇が一貫して旧守の立場を表明してる方がつまずきになってるみたいです。まあ、歴史的にも文化的にも複合的な問題なので、変わるとしても時間がかかるんでしょう。

面白いのは、こっちでは主に、男たちによる婦女の教育、洗脳、支配、の手段として長らく機能してたカトリックの性教育が、女性の社会的立場が相対的に上のプロテスタントでは、女性の側からの男性の糾弾として使われることですね。

キリスト教の性意識

迷える大羊 · 2008-09-21 14:49:59 UTC+9 · 投稿 #379

聖書と現実のキリスト教信仰の落差がどうにも気になってしょうがないことが多いのですが、その一つに性の問題がありますね。
旧約聖書を読んでびっくりするのはその下ネタの多さ。有名なオナンの話は、要するに子孫繁栄、お家存続につながらない性行為が神の怒りを買うわけですが、その性行為をするべき相手、というのが兄嫁だったとか、イスラエルの始祖となるアブラハムは妻のサラをエジプトのファラオにあてがって、その見返りに奴隷やららくだやらをもらって何の罪の意識もなくリッチな生活をエンジョイしたり・・・。また、堕落したソドムの町から逃げ出し、うっかり後ろを振り向いて塩になったお母さんの話で有名なロト一家の娘たちは、その後、山奥のほら穴で生活、「このまま、男性と縁のない人生を送るかも、父から子種を受けましょう」などといって、父を酒で酔わせ、交わってしまう、、。

エゼキエル書23章では、神様はサマリアとエルサレムを、エッチな姉妹(オホラとオホリバ)になぞらえて、その忌まわしい淫行をかなり露骨な表現で描写してたりして、「これじゃ、聖書じゃなくて、性書じゃないか~」と思わずいいたくなるほど。

いえ、別に聖書の内容がすべて清らかなものでなくてはならないなんて野暮なことをいおうなんておもわないですし、あまりきれいごとばかりでもかえってウソくさいとは思います。でも、キリスト教とかクリスチャンとかいうと、性の問題に関してはよくいえば、極めて真面目で潔癖、悪く言えば、うっかり下品な冗談もいえないくらいお堅い、といったイメージがありますが、その聖典が、そういったイメージとあまりにかけ離れた話を多数含んでいるので、頭がクラクラすることがあるんですよね。

キリスト教の世界では同性愛者には厳しく、カトリックでは今でも同性愛者は司祭になれないし、聖公会や日本キリスト教団では同性愛者の牧師が誕生してますが、やはりかなり激しい議論があるようです。同性愛者に厳しいのは旧約の記述の影響かと思われますが、私としては「じゃあ、近親相姦はいいのか?」「カトリックの司祭は独身制なんだし、同性愛者の方がかえって都合がいいんじゃないの?」なんて思ったりします。

実際、キリスト教世界の同性愛者への風当たりの強さは私にはよく理解できなかったりします。もちろん、私自身にそんな趣味はないですし、個人的には全く受け付けない性向ですが、別に第三者に多大な迷惑をかけているのでない限り、そんなに責められないとならないことなのかなぁ?近親婚の方がよほど問題では?という感じがどうしてもしていまいます。

以前、「女性は産む機械」などと発言して物議をかもした厚生労働大臣がいましたが、旧約聖書の性意識自体がまさにそれ、子孫確保、お家存続のためならなりふり構わず、近親相姦も辞さず、という感じで、この厚生労働大臣を非難するクリスチャンの方は一体、旧約の記述をどう思ってるんだろ?と思わず考えてしまいます。
あと、同性愛の問題で不思議なのは、非難されているのはもっぱら男同士の同性愛、いわゆるホモであって、女性同士の同性愛、いわゆるレズには何の言及もされていないのはまたなんで?との疑問もありますね。

新約の我らがイエス様はさすがにそういう男尊女卑的な言動は全く見当たりません。むしろ、フェミニストといってもいいかと思います。しかし、その使徒でキリスト教界の大貢献者パウロ先生となると「女は男のために生まれてきた」とはっきり言いきっており、これまた、イエスの言動と落差があって「あんた、本当にイエス様の使徒なの?」といいたくなっちゃいます。この人は「目からうろこ」といいつつ、生前のイエスの言動にほとんど興味ないんだ、と改めて思っちゃいます。

だらだら、と書き連ねましたけれども、クリスチャンの皆さんは常日頃、心がけている性とか性生活に対する倫理感と聖書に実際に書かれている、現代の感覚では到底受け入れがたい性行為やその考え方とどう整合性をとっているのでしょうか?
「そんな昔のこと」とお思いになるかもしれませんが、現に業界その昔の記述をもとにして、同性愛者への扱いに様々な論議があったりするわけですから、決して、単なる揚げ足とりではない、と思えるのですが、いかがでしょうか?

岡田さんへ

Sekko · 2008-09-21 01:29:20 UTC+9 · 投稿 #378

見落としていまして、お返事遅れて失礼しました。

以前は L’Oratoire Saint‐Joseph のサイトに載っていたと思うのですが、今調べたらありませんでした。エゾテリックの店の通信販売みたいなのはありましたがお勧めではありません。

もっと調べてもいいのですが、私は、こういう「奇跡のグッズ」的なものの普及に積極的に協力するつもりはありませんので、ご縁がなかったと思ってください。

私は個人的には聖女リタの聖油を持っています。その他、聖油、聖水、メダル類もたくさん持っています。
でも、それで何かを治したとか願いがかなったとかいう体験は全くありません。
信じ方が足りない、心がけが悪い、使用法を間違っていた、効果がでるまで待たずに早く諦めすぎた、それらがただの水や油や気休めのグッズだった、などのいろんな理由が考えられます。でも、たとえ偶然にせよ、これらのグッズのおかげで恩恵を蒙っていたら、つい人にも勧めたくなると思うので、何かのご利益を得たという実感がなくてよかったと思っています。
グッズに頼らなくてもかなう願い事が、その人に適した恵みだという気がします。

私は確かに、「他の人の身に起こった奇跡話」が好きです。で、つい、本にも書いてしまいます。人間の願望やら絶望やら欲望やら、いろいろなものが宗教というシステムやら宇宙やらを動かしていきます。それ自体に感慨を覚えます。
でも実は私は散文的な人間で、お守り類を本当に信じてるわけではありません。開運グッズを手に入れたりするのは、アンティックのメダルでも、温泉地の招き猫でも、わりと好きなのですが、たいていはそれで終わりです。

申し訳ありません。

でも、もし岡田さんが、自分ではどうすることもできないような心配事を抱えていらっしゃるとか、大切な方の病気の快癒を願っているなどのシチュエーションでしたら、どこか身近な教会とか寺社とか、岡田さんの宗教的風景に適した場所でお祈りをなさるだけでも楽になると思います。

私も、信じるとか信じないとかは別に、何かにすがりたくなることはたまにあります。そういう時には、そういうグッズを身につけることで、「まさかこれ以上はひどくならないだろう」とか、「一応やるだけのことはやった」と思えることがありますので、岡田さんが何かを見つけられるとよいのですが。

本にも書きましたが、聖ヨゼフは「効く」という噂なので、聖油で効くものなら、お祈りだけでもきっと効きますよ。

毎年10万本の聖ヨゼフの油が売られている(聖油そのものは売れないので、ビンの値段ということです)とサイトにもありますから、モントリオールにいる知り合いに今度持ってきてもらいましょう。その時には喜んで差し上げますよ。

とやまさんへ

Sekko · 2008-09-21 00:42:48 UTC+9 · 投稿 #377

ローマ・カトリックに関して言えば、カロリンガ朝を始めたPepin le Brefが、ロンヴァルディアを征服してローマ教皇に寄進したことで、ローマ教皇が封建領主の仲間入りをしてからでしょうか。その後、800年にシャルルマーニュが教皇から神聖ローマ帝国皇帝として戴冠されたりしたあたりから、ヨーロッパで王権と宗教の馴れ合いと対立が一体となった歴史が本格的に始まったと思われます。今は、ローマ教会は、いわゆる領地をほとんど持たないし、ヨーロッパ諸国は建前的にはどこも政教分離なので、政教一致はないですね。モナコの王室がカトリックとか、イギリスの王室の国教会とか、王室自体の伝統は残っているところが多いと思いますが。
普通の西洋史の本の中でも書かれてると思いますよ。

キリスト教の歴史

とやま · 2008-09-20 08:44:50 UTC+9 · 投稿 #376

少し前、友人から質問を受けました。キリスト教(カトリック)が、政治と(国家と)深い関わりを持つようになったのはいつ頃からなのでしょうか?現在の日本の教会のような体制ではなく、いわゆる「政教一致」のような状態はキリスト教の歴史にも存在したのでしょうか?また、現在はどうなのでしょうか?
愚問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。

聖ヨセフの油

岡田京子 · 2008-09-08 15:54:09 UTC+9 · 投稿 #374

フレール アンドレの聖ヨセフの油の入手方法がおわかりでしたら、
教えて頂けないでしょうか?

先生の御著書 弱い父ヨセフ を読んで知りました。
宜しくお願いします。

マリアって・・・

迷える大羊 · 2008-09-02 22:20:07 UTC+9 · 投稿 #373

nao様 毎度です。

>私もキリスト教、とくにマリアには疑問だらけで、一人悶々としていました

やはり、そう思いましたか?そうですよね。通常の常識を持ったまま、聖書を読むと、なんでこの人がここまで特別扱いされる?って思いますよね。カトリック信徒でもそうなんだ・・。charis様も引き合いに出されていましたが、ユングもやっぱり同じこと考えたんですね・・。キリスト教世界のど真ん中にいるような人でも似たようなこと考えるとは。
といっても、ユングについては精神分析の大家、としか知らなくて、その著作は全然読んだことがないんですが・・。しかし、何しろ「無意識」という概念の発明者らしいし、一度は読まねばなりませんね。

彼のキャリアのスタートがキリスト教への疑問から始まっているというのは興味深いですね。また、そんな人が、「マリア被昇天」を歓迎、というのもまた興味深い・・。
思うのですが、欧米で反宗教、反キリストを掲げる人って実のところキリスト教にくわしかったり、人一倍影響を受けている場合が多いような・・。

私が知っている例ですと、元ビートルズのジョン・レノンで、反教会ともとれる発言で物議をかもしたりしたものですが、その作る曲とか詞というは「IMAGINE」とか「ALL YOU NEED IS LOVE」とか妙にキリスト教的、イエス的だったりするのがおかしい・・。

マリア問題に関しては私も、少々大人げないのかな?とも思うこともありますね。まあ、言ってみればSF映画の「スターウォーズ」を観て、宇宙空間で音がするのはおかしい、とかなんとかツッコミを入れているようなもので、ひょっとしたらかなり野暮なことを言っているのかなぁって。

もちろん、アメリカのファンダメンタリストのごとく、「処女懐胎は科学的に可能、神は科学の法則も変えるのだ!!」みたいなことを言い出したら、ドン引きしますし、これは何か言わねば、と思いますが、純粋に伝承として、見えない世界に思いを馳せる、ということなら、まあ、多かれ少なかれ宗教ってそういうものかもしれないし、あれこれ言う筋合いもないかな?と・・。

聖書に照らし合わせてあれこれ言ったものの、聖書に忠実ってことが必ずしもいいこととは思えない気もしますし。というのはいわゆるファンダメンタリストとか他宗教、他文化に対して極度に排他的(例えば、仏式の葬儀に出るとか出ないとか言い出す)な姿勢をとるクリスチャンって私の知る限りでは、信仰が「聖書のみ」のプロテスタントの方が割合的にずっと多いので・・。

マリア信仰もどうやらキリスト教以前の民俗信仰が深く関わっているようで、これも一種の文化的な豊かさ、と割り切ればいいのかもしれませんね。

続き

nao · 2008-09-02 09:19:24 UTC+9 · 投稿 #372

途中ではいつてしまいました。続けます。
この問題は精神と身体、肉と霊、人間性と神性、を如何に考えるかということで、キリスト教内部では東方教会のソフイア性、西方教会の男性性、カトリシズムとプロテスタンテイズムというように、キリスト教精神史の展開はこの人間本姓論の課題を軸として回転している・・ということになります。
私は哲学なんて難しくてわからないんですが、湯浅先生のユング論にはこころうごかされました。
でもまだ、満足できなかつたときに竹下先生の「聖母マリア」にであいました。両方の本をあわせて、マリアの問題は、いまのところ、「これでいいや」とおもえるようになつてきています。
ついでにいいますとユングはマリアの被昇天の教義を大変歓迎しました。そこには深層心理学的な観点があります。深層心理学からみると、随分おかしな表現もすごい象徴性をもつている場合があります。やればやれほど、おかしなことの方が、大事だつたりしてきます。
竹下先生は、信仰の迷いといわれましたが、この迷いほど、人生を豊かにしてくれるものはそう、ざらにないと私はおもつています。
大羊さんの疑問はつねに私には刺激です。これからもどしどし、投稿してくださることをねがつております。

私もまた・・

nao · 2008-09-02 08:55:19 UTC+9 · 投稿 #371

charisさまに勢いをお借りしまして、私もまた本の紹介させてください。「気になつてあれこれいいたくなる性格」つて、私は尊敬しますね。イヤな奴なんて、とんでもない。
私もキリスト教、とくにマリアには疑問だらけで、一人悶々としていました。でもそういう人つて、案外多くて頼りになるんですよね。遠藤周作もそうでしたし。
ユングはその最たる人。彼の理論はキリスト教に対する疑問からはじまりました。それだけに迫力があります。
聖母マリアの処女性について、はつきり目えをひらかせてくれたのは湯浅泰雄「ユングとキリスト教」人文書院の解説でした。「ユダヤ教の伝統が肉の中に霊的価値が宿ることを認めようとしないかぎり、原始キリスト教はこれから分離せざるを得ない必然性をもつていたのである。要するに童貞聖母の理念は、霊と肉の分離と一致という論理的に矛盾する二つの考え方の結合を示している。原始キリスト教の人間観のもつ運命的な両義性がここに生まれたのである」「処女懐胎の理念はやがて聖母崇拝を生み出す。古代キリスト教が地中海世界にひろまつてゆく過程で、聖母信仰は非常に大きな役割を果たした。それは古代諸民族の宗教に共通した地母神信仰をキリスト教のなかに吸収してゆく通路の役目を果たしたからである。しかしこの理念は新しい困難をよび起こさざるを得ない。聖母となつた人間マリアは、神といかなる関係に立つのかという弁神論的問題があらためておこつてくるからである」134p。

はじめまして

迷える大羊 · 2008-08-29 21:58:57 UTC+9 · 投稿 #370

charis様 はじめまして。ご指南ありがとうございます。まあ、私は難しい神学、哲学とかの学問の類の話はさっぱりで、きちんと理解できるかな?との不安はありますが。

今回の聖書と実際のキリスト教とのギャップの話も、とにかく、聖書を買って、余計な知識に頼らず、ストレートに読んでみた結果出てきた素朴な疑問、感想をつらつらと並べ立てただけなわけで、神学的、哲学的のバックグラウンドは何もありません。SEKKO先生よりせっかくご返事をいただいても「弁証法的思考?何?うにゃ?調べなきゃ」などという誠にお粗末なレベルです。

ただ、実際に教会や信者の方々に関わった実感からすると、聖書が実際に信仰に占める割合って大きそうに見えて、実は小さいのかも?と思うことあります。かなり信仰歴の長い人でも、聖書を隅から隅まで読んだって人は稀ですし。もちろん、教会でよく取り上げられるところ、ミサや礼拝の説教に出てくるところ、についてはよく知ってます。でも、その「メインルート」から外れた部分については意外と知らない、読んだことがない人が多いみたいで。
考えてみれば、クーデンベルクが印刷機を開発し、ルターが登場するまで、普通の人は聖書などまったく読んだことがないわけで、それでも立派にキリスト教徒、クリスチャンをやっていたわけだし、聖書を完璧に読みこなし、理解しなければクリスチャンできない、なんてことになれば、世界のクリスチャンは激減しちゃいますよね、みんな、そんなにヒマでもないでしょうし。
また、SEKKO先生もおっしゃるように聖書のコンテンツを理性で納得したらOKというものでもなく、聖書のあそこがどうした、イエスのここがヘン、なんていうのは信仰の本質とはあまり関係ないのでしょう。でも、やっぱりつい気になってあれこれいいたくなる私ってヤな性格かな?とちょっと悩んじゃいますが(笑)

迷える大羊さんへ

charis · 2008-08-28 10:33:33 UTC+9 · 投稿 #369

はじまして。この質問箱、たのしく読ませていただいています。たしかに、『聖書』というのは不思議な本で、旧約と新約とでもずいぶん違います。

大羊さんのような疑問に対しては、スピノザ『神学・政治論』をお読みになるのが一番よいと思います。『聖書』を「聖典」としてではなく、人間が書いた文書として、テクスト・クリティークを行った、おそらく最初の本でしょう。

その他にも、ユング『ヨブへの応答』など、聖書の内容とキリスト教信仰とのズレについて書かれた興味深い本はたくさんあります。いろいろと覗いてみられたらいかがでしょうか。