2008年の投稿

違和感はないと・・

nao · 2008-02-02 08:43:27 UTC+9 · 投稿 #309

かつて、遠藤周作先生の造られた「キリスト教芸術センター」に属しておりました。じかに先生に触れる機会もおおかつたですし、旅行も一緒にさせていおただきました。旅行はもう20数年前のはなしですが。そのころ先生は「『沈黙』が出たときのカトリツク教会の批判のすごかつたこと、ひどいものだつた。ところがどうだ、今は僕の考えに同調する人がすごく多いじゃないか。かわつたものだよ」とおつしゃつたのを、今まざまざとおもいだします。
今のカト教会で遠藤先生の考えに批判的なことをおつしゃる方にはあまりお目にかかりません。いろんな考えがあつて、当然という雰囲気のようにおもいます。もつとも私はサボりですから、あまり教会の中には深くはいりこんでいませんので、よくわかりませんが、すくなくとも反対とう方にはお目にかかりません。

同伴者イエス

迷える大羊 · 2008-01-28 21:25:43 UTC+9 · 投稿 #308

宗教、信仰としてのキリスト教はなかなかわからない私ですが、なんとなく分かる気もする信仰のあり方もあるんです。例えば、遠藤周作氏の「イエスの生涯」に登場するようなイエスなら全然、自分にとって違和感のないイエス像なんですけどね。

遠藤周作氏といっても、有名どころの小説(沈黙など)を数冊、エッセイを数冊読んだことがある程度ですが、彼のような、ああいうリベラルな信仰のあり方っていいな、と思うことあります。(特に彼のキリスト教、宗教エッセイ「私にとって神とは」は、キリスト教に限らず、あらゆる宗教の入門本になるのでは?と思います)。

しかし、彼が属していたカトリック教会における、遠藤的信仰の立場ってどんなものなんでしょう?やっぱり、少数派?
別のキリスト教サイトではカトリック教会で遠藤的な信仰をあまり期待すると肩すかしを食らう、なんて書きこみがありましたし、名作「沈黙」も華々しい殉教者をひたすら美化した「聖人列伝」を書いておれば、「いい信者」なんて教会から思われた時代に最後は主人公が棄教するストーリーは、猛烈な反発が教会、保守的信徒からあったらしく、ミサで名指しで批判を食らう、なんて出来事もあったそうで。

現在のカトリック教会ではどうなんでしょうね。彼のような信仰、「同伴者イエス」的な考え方って違和感がないものなんでしょうか?まあ、教会により、人により、神父さんにより信仰に対する考えは様々でしょうから、一概にどうこうとはいえないでしょうけど、少なくとも非難を浴びるようなものでなければよいな、とは思いますが。

弱い父ヨセフ

Fusako · 2008-01-28 07:25:43 UTC+9 · 投稿 #307

ずっと前に読み終わりましたが、感想がまとまらずにいました。
あまりにも圧倒的だったので。何が圧倒的かというと、「おまえの子ではないけど、面倒見るように」と言われて素直にその声に従い、辛い旅の間、妻を守り、生まれた子をだいじに育てて、その後はひっそり身をひいてしまう、普通、そんな「父」は有り得ない。それを真正面からとりあげて論じられて初めて、目の前にあったものに初めて驚く、そんな感じだったので。
「自分で見る、自分で考える」人のお話をきく醍醐味を味わいました。ありがとうございました。で、失礼ですが、西成で献身的に活動しておられる渡部宗正師(カトリック)におまわししました。

分かんなくてもいいのでは・・

Sekko · 2008-01-20 21:10:01 UTC+9 · 投稿 #305

最近、キューブラー・ロス『子供と死について』(中公文庫)を読みました。

子供を病気や事故や犯罪で失った親たちがどういう風に生き続けるか、みたいな例がつまってます。

大筋は、子供の肉体は繭であって、死んだ子は蝶になって飛び立った、っていうアレゴリーなんです。今流行のスピリチュアルの、魂が修行のためにこの世に来る、みたいなのと同工です。

私は、こういう魂がなんたら、っていうのはあまり信じられないんです。
まあ、これも証明しようのない話なので、信じてる人はどうぞって感じで、でも、うさんくさいとか思ってしまいます。

でも・・・

もし、今、あるいはこれから、自分の子供を失うような体験をするとしたら、
もう、「蝶々」にまっしぐらだと思います。

多くの親たちを癒してきたこういう考え方があってよかった。
こういう本の存在を知っといてよかった。

と感謝するでしょう。
そしてこの考えに救われるでしょう。

だとしたら、私の「信」は、必要から生まれるのです。

だから、この考え方を知っといて損だとは思わないし、そういう「流派」の中にも、ちゃんとした誠実なのもあれば、親の悲しみにつけこんで、高額で霊媒が死んだ子供と話しさせてくれるみたいな悪質なのもあると学習しときます。

そしたら、いざ、そういう「信仰」を必要とした時に、つけこまれたりするダメージは少ないかもしれない。自分の悲しみを乗り越えて他の人と連帯する方向にいけるかもしれない、って思います。

つまり、そうなると、「教義」の字句の内容が問題じゃないんで、どういう文脈でどういう風に語られ、どういう関係性を生きられるのか、が問題なんですね。
それなしで、字句だけ取り出しても、文脈を共有してない限り、所詮、字句は字句です。

あまりこだわらないで、今は、「学習」だけで、いいのでは?

私は、カトリック主流国でカトリック・カルチャーの人と暮らしてますから、年取ったり死んだり死なれたり、という局面には、カトリック共同体が頼りになるかも、と思ってます。だから、別にカトの人に、「三位一体」って変じゃない?とか言う必要も感じません。

大羊さんはやはり奥様の信仰の関係でキリスト教に近づかれたわけですから、その関係性をいい感じで育んで、長い人生で出会うかもしれない試練を前にした時にささえ合えるような「信仰」を今のところはゆるーく視界にいれとく、だけでいいのでは?

三位一体の不思議

迷える大羊 · 2008-01-20 17:02:21 UTC+9 · 投稿 #304

またまた、すみません。説明が不足してました。「人がウジ虫に」の話はキリスト教に関わりだした初期の話ですけど、未だに解けない疑問だし、キリスト教信仰の根幹にまつわる話、というのはなんとなくわかるので、やはりきっちりした説明をいろいろ聞きたいな、と考えたものですから。まあ、あの頃は「神をとるか進化論」をとるかの話にあまりにびっくりしたので、またまた、わけのわからん話が・・、てな感じで受け止めてしまったんですね。
カトリックのカテキズムの講習はまだ受けたことがないので、どういうものかわかりません。

おっしゃるとおり、基本的人権とか信教の自由とか民主主義などはキリスト教の成果であることはわかりますし、認めてますし、思想とか教養としてのキリスト教は受け入れるのに全然やぶさかではないんです。

しかし、「宗教」「信仰」としてとなると??だらけで。
決して揚げ足とりをやってるつもりはなくて、真面目に勉強したり、調べたりしてるつもりなんですけど、真面目に考えれば考えるほど「えー?」とか「ちょっと待てよ」みたいな話が次々に出てくる、といった感じで。

三位一体もその一つで、理屈そのものもさることながら、不可解なのはキリスト教界(プロ・カト、教会問わず)での扱いなんです。
「真の人、真の神」もそうなんですが、いくつかの教会で学び会ですとか入門講座にいろいろ出てみましたけど、三位一体の話を進んで積極的にする教会って私の知る限りほとんどないんですよね。こちらから切り出さない限り、ほとんどそういう話をしません。

でも、ミサや礼拝に出ればいやでも「父と子と聖霊の御名により」なんてやっているのが目に耳に入ってくるわけで、当然「何、それ?」となるわけで、調べると「三位一体」なんて教義があるわけです。これまた当然「三つで一つってなんですか?キリスト教って神は一つなんじゃないんですか?」という単純きわまりない疑問がわいて聞くんですが、大抵の場合、触れてはならないタブーとはいわないまでも「えー、そんなこと聞いてくるの?」みたいな反応をされます。

その上、返ってくる答えもなんだか要領を得ないものが多く(私の理解度が足りないせいもあるんでしょうが)、聖職者だとか信仰歴の長そうな人でも「人智では到底わからない奥義」だとか「そういうもんだ、として受け入れるしかないね」みたいな、私的には到底納得しかねる答えだったり、ごくごく普通の信徒さんの場合も「そういうもの」みたいな答えが大半。私の知る限りでは、どうも、普段深く考えたことない人がほとんどみたいなんですよね。

だったらキリスト教の本筋とは関係のない(聖書にも出てこないし)ことだし、信じられなくても全然差し支えないんだな、と思ったら「キリスト教の根幹にまつわる」重大な教義で、これなくしてはキリスト教は成り立たない、とまでいわれるわけで、そんな重大な話がなんで「そういうものだ」で済むんだ?ワケもわからず、そんな「黒いカラスを白いといえ」みたいな話を「信じるなら受け入れろ」なんてそんなムチャな、と思ったものでした。

歴史の本をひっくり返して調べると、別にイエスの時代からあった教義でもなんでもなく、ましてやイエスやパウロや使徒たちが言い出したことでもなんでもない、私が読んだ限りでは聖書に出てくる話でもない、325年の二ケア公会議ですさまじい論争の末、やっと決定した教義で、三位一体説をとらず、闘争に負けたアリウス派はあえなく「異端」となる、とあって、なんだ結局、教会内の政治的な事情で決まったことやんか、どうしてそれが今に至るまで神聖不可侵の不磨の大典みたいな扱いをされるんだか?と理解に苦しむところがあるんですよね。

私には宗教的感性が全然ないから、こういうひねくれた見方をしてしまうのかな、とも思いましたが、出典は忘れましたが、イスラム教の開祖、ムハンマドも私と似たような疑問(三位一体の扱いだとかキリスト教はイエス個人崇拝なんじゃないのか?みたいな)を持ちしまいには怒りだしたみたいで、時空を超えて「そうですよね、ムハンマドさんもそう思いますか?」なんて感じで思わず握手したくなりました(笑)。そのせいかどうか他の面はともかく神様に関する定義に関していえばイスラム教ってキリスト教に比べるとちょっと合理的なのはそのせいか、とも思ったりもしました。いや、別にイスラム教の肩を持ってるわけじゃないんですけど・・・。

それよりなにより、子供のころから家の宗教だった、という信者さんはともかく、成人になって自発的にクリスチャンになった人って、私みたいな疑問やら躓きやらって持ったことないのかな?やっぱり宗教って失業、失恋、病気、借金みたいな何か人生上の大きな苦難を経ないと素直に心に入ってこないものなのかな?とも思ったりもします。

いろいろ、教会を巡ったり、勉強もしてみましたが、どうも私には宗教としてのキリスト教は向いてないような感じがしてきました。皮肉や冷やかしではなく、なんで皆さんあんなに受け入れられたり感動したり信じられたりするんかなー、と未だに心理的な面は未だにわからんことだらけです。キリスト教に限らず、宗教全般に関して。

大切なこと

Sekko · 2008-01-20 07:30:23 UTC+9 · 投稿 #303

ここはカテキストさんのサイトでもなく、司祭さんや牧師さんや神学者のサイトでもないので、今大羊さんの関わっている信仰共同体で、何がどういう基準なのかは分かりませんし、私が答えることもできません。
ここで是非お勧めしたいのは、マルシェル・ゴーシェの本なのですが、今アマゾンで検索したら、何と、翻訳が1冊しか出てないようなのです。それも私のお勧めの本ではありませんでした・・・その本を読んでくださると話は早いのですが・・・私の今執筆中の本には解説するつもりなので、もう少し待ってください・・・
ここで大切なとこを押さえときますと、キリスト教というのは、やはり、イエスという人の思想に共感、というところから生まれた宗教ではないんですよ。
当時、思想や生き様に共感した人たちは、死に方にはがっかりしたんです。
その中からキリスト教がキリスト教として成立したのは、やはりイエスが復活したことと、それから彼を神と同格の「主」とみなしたところにあるわけです。
それに比べたら、処女懐胎とか奇跡とかは枝葉です。
で、三位一体で、神が受肉して人になって云々のディスクールですが、これは検証するとか証明できるような問題ではないわけですが、「これを受け入れた世界には何が起こったか」が興味深いところです。
それまでも、人間のいるところ、神とか聖なるものとかの感覚やそれを扱うシステムはどこにでもあったわけですが、そのほとんどは、「聖なるもの」が社会か自然かのどちらかに癒着していたんです。そのどちらにおいても、聖なるものと個々の人間の関係は、個人が聖なるものに従属するものでした。供物を捧げるとか人身御供とか・・・それが龍神さまの怒りを鎮めるためであれ、共同体の秩序のためであれ。あるいは、個人がその個人性を消して聖なるものにフージョンするとかいうイメージでした。
ところが、キリスト教は、神が先に自分の子=分身を人間に贈り捧げたということになり、神と人間の間の相互の「行き来」の関係性が生まれました。
そこで、神は、自然とか社会とよりも、人間と癒着しちゃったわけです。
それでキリスト教には、人間が神を通さなくても自然や社会を組織できるという予知が生まれたので、自然の研究とか管理の発想が生まれ、政教分離の発想も登場してきました。
もちろん、最初は、これでは当時のローマ帝国の秩序には合うはずもなく、壊滅しようと図られたのですが、信者は増えるばかりで、結局コンスタンティヌス帝は、この宗教を利用することにしました。それから1500年以上も、世俗の権威と宗教の権威が住み分けながら拮抗して並び立つ体制ができたんですね。
その中で、宗教の権威=教会も社会に干渉しようとしてきましたし、自然観にも干渉しようとしてきました。
教会は長いことこの癖がついてるので、いまだに世俗を従属させようとする部分もあります。

でも、こういう聖俗の権威同士の葛藤や煩悩にも関わらず、キリスト教は、「神が人間になった」という、そもそもの出発点はなぜか捨てなかったんです。まあ、捨てたらそれはもうキリスト教ではなくなるのですが。

それで、その細々とだけど強靭に受け入れられ手来た信仰のおかげで、自然の驚異もある程度コントロールでき、個人が共同体のいいなりにならずにある程度の自由を生きることのできる「近代文明」や「近代社会」が、キリスト教ヨーロッパに生まれたわけです。

私たちはその恩恵を受けています。
基本的人権とか、民主主義とか、信教の自由とかでさえ、キリスト教の持っていた、この「聖なるもの」と人間の主従関係をとっぱらった「開かれた相互関係」によって少しずつ可能になった成果なんです。
成果、それは弱者にとっての成果ですね。昔ながらの共同体でもその強い側にいる人はいいでしょう。でも、「賤民」に生まれちゃうとか、障害を持って生まれちゃうとか、時には単に女に生まれちゃうとか言うだけで、尊厳や権利を奪われる時代や場所はいくらでもあったわけです。
私たちは、今、アニミズムや汎神論的な世界の方が地球に優しいとか、村落共同体のほうが情があったとか言いがちですが、その中で、弱い者が搾取されたり犠牲に供されることは当然のようにあったわけで、たとえ環境に優しくて共同体のためになっても、私は自分が「龍神の生贄」に捧げられたりするのは嫌です。

こういう経過を鑑みるに、この時代のこの世界に生きることのできた私のような弱者にとっては、イエスという人の生と死が発展的に解消してキリスト教というものになってくれて、それが自由・平等・友愛とかいう近代ユニヴァーサル理念を生んでくれてよかった、よかった、って思うんですよ。

そして、歴史上の具体的なキリスト教権威者がどんな愚行をしたところで、元のイエスの生き方や思想にはすでにそういうユニヴァーサリズムが確かにありました。

だから、イエスのメッセージはそれ自体としても価値を持ち続けているし、その彼の生と死と復活を信仰告白としたキリスト教については、メッセージの内容より、それが開き、導き、可能にした関係性の方が大切だと私には思えるんです。
だから、進化論だめだとか神仏を拝むなとかは「よけいな枝葉」で、「イエスは神が人間の姿になったというのが大事」というのは、根幹ですね。
牧師さんのいうとおり、人間が蛆虫の姿になったとしたら、人間と蛆虫の関係だってラディカルに変わるでしょうね。その時点で、蛆虫は、忌むべき下等な存在ではなくなりますもの。
三位一体を分けの分からないこじつけと見るか、いろんなことの出発点になったキリスト教マジックと見るか、いろいろ考えてみてください。

洗礼の基準って?

迷える大羊 · 2008-01-19 23:05:56 UTC+9 · 投稿 #302

なんだか、私一人でいろいろ書き連ねて、恐れ入りますが・・・。このサイトでさんざんキリスト教へのツッコミやらケチを入れている私。ケンカ、論争をふっかけている、と誤解をされる方もいるかもしれません。

そんなことはないんです。イエス自身の生き方、死に様、思想は共感していますし、尊敬してます(マネは無理ですが・・)。でなければ、いくら妻が信者とはいえ、もっと徹底的に教会との関わりも否定してますし、第一このサイトにも出入りしません。
クリスチャンの条件がイエスという宗教家、思想家の思想、行動、ライフスタイルに共感できるか?ということだけであればとっくに今頃、受洗していたでしょう。

しかし、現実のキリスト教となると、「余計」な話が多すぎる、というのが実感でして・・。処女懐胎だの三位一体だの、イエスは神の子かそうでないか、とか、キツめのところとなると神社、寺で拝んじゃいかんとかいいとか、神をとるか進化論をとるかとか、ありゃなんとかならんのか?というのが偽らざる本音でして(やっぱりケチをつけてるんでしょうか?)。

こちらの板で話題にした「キリスト教はイエス様への個人崇拝?」の疑問もとある教会の牧師さん(表現の通り、カトリックではありません)にぶつけてみたところ、「イエス様は神が人間の姿になったんです、人間がウジ虫になったものなんです、すごいことなんです。」と熱く語られ、困ってしまいました。「あなたも信仰をもてばそう思えるようになります」っていいますが、かえって「そういう問題かなぁ?これは俺のついていけない世界かも・・」と思わされたものでした。

処女懐胎も三位一体も「真の人、真の神」論もすべて理解不能、「イエス様は至って普通の人(だから信じられる)です」といいきってしまう、焼香拒否のクリスチャンに対しては「自分が神を信じるなら、他の人間の信じる神にも礼儀を払わんかい!」といいたくなってしまう・・。唯一クリスチャンとしての条件を満たしている部分といえば、前述したとおり、イエスの生き様、死に様、思想、行動に共感できる、ことくらい。

前述した牧師さんにそういう話をしたところ「それじゃ、ガンジーだとか、仏陀を尊敬するのとレベル的に変わらないんです、単なる道徳なんです」みたいなことを言われ、「それで何がまずいの?」とわけがわかんなくなりました。そういうものですかね?古代や中世の話とか、カルト団体の話ならともかく、現代にそこまで人を神と熱く信じ込めるメンタリティとか信仰って、なんだか想像がつかなくて。まあ、なんでも合理的ならいいって世界ではない、ってことくらいのことはわかりますが、それにしても、、という感じで。

皆さんが洗礼を受けた際、やはり「イエスは神が人の形をとった(実在する人物を神のなんとか、と信じるのは前述したとおりどうにもカルト教団的な感じがして抵抗がある)」と信じてましたか?やっぱり「偉大な宗教家、思想家、その生きざま、死に様に共感する」程度じゃダメなんですかね?

奇跡話とは?2

迷える大羊 · 2008-01-12 20:15:15 UTC+9 · 投稿 #300

皆さん、レスありがとうございます。さすがにこちらのBBSには奇跡話を字句通りに受け取る方はいませんね。まあ、イエスの場合、別に権力者だったわけでもないし、キリスト教団を作ったわけでもない(むしろ、彼は組織化された宗教団体には否定的な感じがするのですが)んで、超人と崇めてもとくに害があるわけではないんですけどね。

イエス、といっても宗教家として活動していたのは数年にも満たない期間だし、具体的な記録も聖書の福音書(それにしても書かれたのはイエスの活動期間より数十年後)しかないんで、人によって、イエス観が様々になってしまうんでしょう。そして、各々が描くイエス像にその人の神に対する見方、期待するものが見えてくるんでしょうね。

ちなみに私は超能力者イエス、には何の興味もなく、かえって胡散臭く思えてしまいます。私からすればイエスは普通の、いや普通以下の弱い人だから信用できて共感できるし、その普通以下の人間がどんなに馬鹿にされようが、屈辱的な扱いをされようが、人を愛することをやめず、ひたすら己の信じる「救世主」の役割を放棄せず生き抜いたところが偉大というか「真の人、真の神」の所以ではないか、と思ってます。

なんか、「救世主」とか「神」に死人を蘇らせるだの、らい病を一瞬のうちに治すだの、水の上を歩くだの、なんて超能力を期待する人って、新約聖書の時代にイエスにイスラエルからローマ帝国を駆逐する政治軍事的な役割を期待し、それが間違いとわかると「うそつき、磔だ」なんて叫んだ一般庶民と似たりよったりの気がしてしょうがないんですよね。

ところで個人崇拝、で思い出しましたが、竹下先生の著作「ローマ法王」によれば、北朝鮮の「教祖」、故金日成首席の外戚はクリスチャンで、その関係か、かの国の食糧難の際には他の国に先駆けてヴァチカンに援助を求めてきたそうですね。かの国の独裁体制がやたらと宗教的なのはそのせい?(やはり、金父子に関する奇跡話が喧伝されているようです)
朝鮮民主主義人民共和国になる以前のピョンヤンはあらゆる宗教が花盛りの土地だったとも聞きますし。

これまた「ローマ法王」からの引用ですが、キューバのカストロも両親は実に敬虔なカトリック信者で本人もカトリックの教育を受けているそうですし、旧ソ連のスターリンも確か神学校の出身だったはずで、宗教、キリスト教が嫌いなはずの旧共産圏の独裁者はなぜか揃いも揃って、人一倍宗教的、キリスト教的な環境で育っているのは不思議といえば不思議。

神に対して可愛さ余って憎さ百倍、ってところがあるんでしょうかね??

奇跡

greencurry · 2008-01-10 23:02:45 UTC+9 · 投稿 #299

奇跡の話といえば、空海も奇跡を起こしたと言われていますね。持っていた杖(?)で地面を叩いたら温泉が湧き出て、人々がそれで癒されたとか。(それ以外の話も聞いたことありますけど覚えてないです、すいません)
私はいわゆる葬式仏教徒ですが、神道の考え方や密教、仏像などには興味を持ってます。空海の奇跡譚も、彼ならそんなこともあるかも・・なんて考えます。でも、私が空海を(大げさな言い方をすれば)尊敬するのに奇跡は必要ありません。
とある新興宗教の教祖(?)にはまっている知人は、その教祖が手品のように手から宝石とかを出したことを「すごい」と言います。だから尊敬に値するのだ、といわんばかりで。私はそれを聞いてMr.マリックもすごいぞ、それがどうした?と思ってしまうのですが、本人はとにかくそれで尊敬しちゃってるみたいです。
これって奇跡に対する温度差かもしれないなーとも思いました。
私にとってはそれが手品であるほうが尊敬してしまいます。
大羊さんの周辺の方々もその辺の温度差ってあるかもしれないですね。知人を見ていて「この人は不思議な話が好きなんだなー」って思いました。あと尊敬すべき対象が「すごい」人であるための単純な根拠みたいなのが必要なのかなーとも。
私はキリスト教徒の方で奇跡譚を信じている方を知らないのでなんともいえないですが、新興宗教の教祖の奇跡を信じることの方がちょっと危険な感じがします。
大羊さんの問いへの答えにはもちろんなってませんが、私もいろいろ考えちゃいましたので。
最後になりましたが、今年もよろしくお願いします。

大羊さんへ

Sekko · 2008-01-08 23:21:59 UTC+9 · 投稿 #297

みなさま、今年も宜しくお願いいたします。

大羊さん、相変わらず「迷える」状態で大変ですね。

イエスの奇跡とか、超能力について、私は、全然、気にしてません。
イエスの奇跡は信仰の対象になっていますが、それは、別に証明の対象じゃないですからね。

ヒーラーといわれる存在は世にいろいろいるみたいだし、ああ、そうですかと思いますが、私は自分にはあまり期待してません。それこそ「信仰が足りない」と思うんで。絶対救ってもらえると思うより、あきらめる方が私には簡単かも、です。

奇跡譚は、まあ、水上を歩くなら、普段歩いて渡れる川が増水して渡れないのに、向こう岸に行きたいって時には便利かもですが、まあ、船って手もあるし、胡坐をかいて空中浮揚なんて、それこそ、何の役に立つのか・・・って感じです。イエスの「超能力」は同時代的じゃないので別に問題ないです。同じ能力を獲得するために修行しろとか教祖の風呂の残り湯を飲めとか言われるのじゃなければ気にしません。別に特に「尊敬」の対象にもなりません。「超」でなくとも、「能力」を尊敬したい人たちは無限にいますけど。

大体、聖書の解釈学の歴史を紐解くと、イエスの「奇跡譚」について徹底的に否定した時代や傾向もありました。あれはいわゆるレトリックで、シンポリックな表現なので文字通り受け取ってはいけないとか、新約の中ではパウロの手紙類が一番古いテキストで、そこには奇跡譚は出てこない、福音書は、原始教会がイエスを救世主とした後で編集された教育的言説なので文学の一種である、奇跡譚はその時代のその地方の文学の流れの中で形成されたのだ、とか・・・

人間が世界を見る視座には、科学的なものと宗教的なものの二つがあります。科学的なものは、仮説をたてて実験的に再現できるなど、試行錯誤的真理であり、宗教的なものは、超越的な視野を持つことです。

ややこしいのは、ここで「宗教的」といったのは、「キリスト教的」と言うことです。キリスト教以前は、アニミズム的、つまり、「呪術的視座」が普通でした。そこにキリスト教が、ギリシャ的な科学観をツールにして、人を呪術的世界から「解放」しようとしたのですね。しかし、ギリシャ的な科学が、コスモスを閉じた秩序と見てその中に人の居場所を見つけようとしたのに対して、キリスト教(ユダヤ教も)は神が人を自由意志を持つ自分の似姿で、自分のプロジェクトに参加させようと、契約をかわした、という考えを打ち出しました。「進歩思想」というのはそこから生まれ、近代科学もそこから生まれたんですね。

でも宗教としてのキリスト教は、世界を超越的に捉えようとしたので、聖書にも世界の呈示はあっても「解明」はありません。ガリレオが地動説を捨てて転向したのは教会の圧力でしたが、聖書が天動説をうたっていたわけではなく、地動説は当時教会が採用していた「アリストテレス的宇宙観」と相容れなかったからなんです。

ギリシャ科学と神学をまぜちゃったところが失敗だったんですね。でも、そうやって形成された西洋科学主義は、結局、近代科学を生んで、今のカトリックでは、「世界の解明」は「科学」に任せるという、宗教と科学を分離するスタンスが普通かと思います。超越の視座と、実証主義の視座、二つのシステム、二つの理解の仕方であり、そのどちらかがどちらかを「従属」させようとする時に無益な対立や戦いが起こるわけです。

日本はアニミズム的呪術的世界を温存してたので、「西洋近代科学=実はギリシャ科学とキリスト教の融合」を輸入した時、「和魂洋才」という二つの視座にあまり悩みませんでした。
呪術と理性は葛藤しなかったんですね。近代西洋で超越と理性が葛藤したようには。
まあ西洋以外のキリスト教文化では、呪術的心性をハイブリッドしてるところは多いですが。また、西洋的世界でも抑圧されてきた呪術的志向が、キリスト教の中の超能力とかオカルトとかを歪んだかたちで引き出しているという動きもあります。

だから、この問題は、すごく複雑なんですよ。この辺のところを解説した本を今書いてるところです。

ガリレオは、地動説は確信してたんですが、「この世には死んだり殺されたりされるに足る値打ちのあるような科学的真実などない」といって、地動説を引っ込めました。「それでも地球は動く」・・・

ですから、大羊さんも、周りに宗教と科学と呪術を混ぜてしまってる人がいても、勘違いしてるんだなあ、とスルーして、あまり悩まない方がいいですよ。

明けましておめでとうございます

vino · 2008-01-08 19:05:43 UTC+9 · 投稿 #296

2008年も滑り出し、子供達の成長と共に、こちらの老い、両親の老い、そして何よりも時間の過ぎる速さを痛感します。 T先生のブログに<ヨーロッパのクリスマスを経験する事は牧師を現役中は無理>なる意味の事が書いてあり、本当にあのお立場は大変な事ばかりなのだと改めて思わされた次第です。 それこそ、遠方に年の多い親御さんがあるなんていう場合は<その節>にも親の死に目にも会えないですし、親子で牧師の場合も親御さんの<偲ぶ会>に欠席して自分の御用を執り行うわけですし、クリスマス疲れの後の気楽なお正月・・・になるのも無理の無い事です。憧れや思い出でと共にどんなものも少し遠くにありてこそ美しいだけで済むのですね。 我家ではお雑煮やお節料理、年賀状なども日本人の普通の家庭の行事として行っていますが、F派の濃い方々ですと、<あれは良いけれどこれはNG>なんて感じで大変なんでしょうか? 勿論、節分だの、恵方巻きなど、サタンだったりするんでしょうか? 悪口になりますが、そして大羊さんの疑問の答えにはならないでしょうが、イエスをあまりにも担ぎ上げるあの方向性は日本史で習った<摂政・関白>のごとき感じを受けてしまいます。お神輿を動かすのは人間であって結局自分の都合の良い方向へ進んでいるだけなような・・・。 今年は特にアメリカで大統領選挙のある年ですし、<モスリムは悪>ってことにしておけば都合よく済む・・・ってなもんでしょう。 人口のわずか1%にも満たない日本のクリ~ですが、明治維新以後、政府のお雇い外国人と交流のあった旧・武士階級から信仰が広まったそうです。あの時代、英語が身近にあったり、ミッション・スクールに通うなどほとんどの庶民には別世界の話ですものね。 今も<高収入、高学歴、高意識>な人が多いと言われているようですし、<敷居が高い>感じなのもこんなところからも来ているのでしょうね。本当に必要なところへは届いていないのかしら?病院やホスピスでの奉仕で日曜も教会には来られない方もK団の信徒にはいらっしゃいます。近所のお年寄りの病院やらそれこそお寺さん通いの運転を引き受けていて自分の教会の御用ができない方もあります。勿論、牧師や皆さんの考え方にもよるでしょうが、<必要とされている場所>で働く事は大切だと思います。だからこそ、<時と健康を感謝して・・・>なる表現も多様されるのでしょうね。 寒い季節です、皆さん、お体を大切に。NAO様、ご無理をなさらないでくださいね。 今年もどうぞよろしくお願いします。

奇跡話とは?

迷える大羊 · 2008-01-06 22:09:37 UTC+9 · 投稿 #294

以前にも似たようなスレ立てましたし、しつこくて恐縮なんですが、私がキリスト教について気になる、いまいち踏み込めないなぁと思うことの一つに「これは個人崇拝の宗教ではないか?」というものがあります。(言い訳めきますが、私だって「彼」のことは敬愛してますよ)

その象徴的な話が福音書に見られる、「彼」が水の上歩いた、とか死人を蘇らせたとかいった類の奇跡話で、私が最初に関わった教会ではどうもこれを字句通り信じているのでは?といった感じの方が少なくないところでした。彼らは「私たちはそういう能力を持つ神様の存在を信じているんです」とか「自分が信仰を託す神様は一番強くて無敵でないと困るんです」とかいうのですが・・。

私からすると、もちろん奇跡話自体が荒唐無稽でダメ、ってこともありますが、キリスト教は現世利益を追い求める宗教でない、といいつつそんなものに憧れる、そういう俗っぽい「超能力」を「教祖」「開祖」に期待するメンタリティが理解不能ですし、それでは「尊師は空中浮揚ができる」とか「うちの総裁はチャネリングであの世の著名人とお話できる」とか「先生は世界各国の大学から名誉博士号を受けた」なんてことを信じて喜んでいる、カルト団体、新興宗教の信徒とレベル的に大して変わらないじゃないか!と思うこともあります。

こういう、カルト団体、新興宗教の教祖様の「超能力」を信じることと、「彼」ことイエスの「超能力」を字句通りに信じることの質的にどう違うのか?おちゃらけでなく真面目に知りたいです。

介護職員の方々

nao · 2008-01-02 10:14:49 UTC+9 · 投稿 #292

私の夫はカトリツクの特養に3年間お世話になりました。カトリツクの施設なので、信徒の方が職員に多いのかとおもつていましたら、事務のかたは殆どカトリツクなのに、現場の看護、介護職員さん達には一人も信者がいませんでした。外部回りのかたには2名いましたが。現場の介護職員さんは実にいろんな宗教にはいつていましたね。宗教にはいつていない人のほうが、すくないのです。あまりよく知られていない、小さな教団がおおかつたです。その方たちの親切さは、見事でした。手かざし、とか、祈りを唱えながら世話するとか。おおきな教団が力を失なつていることは確かだとおもいました。でもその方たちもミサにはちやんと、参加して、共同祈願をいつてくれました。日本て、いろんな宗教が共存できる不思議な国だとおもいました。
大羊さん、足はたいしたことないんです。大腿部骨折で、杖がないとあるけないんです。それだけ。まあ、少しはあるけますが、遠方は無理なので、皆さんがたすけてくださいます。要介護一を頂いています。お掃除、買い物、通院には介助が必要な身ですが、家のことはこなしています。大げさになりましたね。ごめんなさい。
元旦のミサには帰省した若い方々で、教会がいつぺんに若返りました。クリスマスと元旦だけは若い人で溢れますが、それでも少なくなつた印象があります。まあ、配られたおもちは160個なくなつたようですが・・。