1 2 3 4 迷える大羊 · 2008-08-27 23:02:25 UTC+9 · 投稿 #368
我ながらいろいろ細かく突っ込みすぎなのか、と思わないでもないですが、それは聖書とかイエスってイメージとその実態のギャップが結構あるからなんですよね・・・。 聖書といえば、世界一のベストセラー、世界人口3分の1の人間にとって「聖典」であり、人類を代表する世界宗教「キリスト教」の大元なわけで。また、教会によっては「誤りなき神の御言葉」で「聖書にどう書いてあるか?」でその行動、思想を決めてしまう、人生の規範とする人々が多くいる。極端なところでは「聖書はすべて事実が書いてある」とし、よって「創世記の記述と矛盾する進化論は間違っている、人の倫理を乱す、学校で教えるな、学校で創造論を教えろ」などと言い出す人々までいるわけで。 こういう人々を輩出する聖書って一体何が書いてあるのかな?、まさか、すべて事実が書いてあるとは思わないにしても、さぞかし、練り上げられた完璧なストーリー展開、涙なくしては語れないストーリーがてんこ盛りで、人間や神のあるべき理想の姿が高らかに歌い上げられている・・、に違いない、と思って読んでみた、そしたら、あまりにも、とまではいわないにしても、何か違うんで戸惑ってしまう、というのが実感なのですよ・・。 もちろん、イメージ通りのところもあります。十戒の8割方は正しいと思うし、預言者たちだっていいことを言うことはいっている、イエスの道徳、倫理的な教え、生き方はもちろん敬意を払うに値するとは思います。 だけど、そのストーリーというか、話の組み立ては結構アバウトでいい加減なところがあるし、旧約聖書は下ネタ、暴力の連続、これを信仰している、というクリスチャン、ユダヤ教徒は一体何を信仰しているんだ??と思ってしまう。 イエスも「左の頬をぶたれたら、右の頬を・・」などと言っている先から神殿で大暴れ、ムチまで作って持ち込んで、振り回して、完璧な確信犯・・。親子仲は悪そうだし、自分を受け入れない町に呪いの捨て台詞を吐く上、弟子に自分のことを「あなたは神の子」なんてわざとらしく言わせる・・・。マリアには教会の伝承とは裏腹に「聖母」を思わせるエピソードがほとんどない・・。宗教画や教会で語られる、優しげで慈悲にあふれ、意地悪くいえば、ちょっとナヨっとしたヤサ男風のイエスは一体何なのだ?どこからそんな人物像が??と思ってしまう・・・。 今まで、思い描いていた、キリスト教とかイエスとかとは違った姿がいろいろ出てくるんで驚くんですよね、聖書をちゃんと読んでみると。でも、いろいろ、文句を言わせつつも読ませてしまう聖書というのはやはりすごい本なのかもしれません。 「弱い父ヨセフ」、読みますね。ヨセフもマリア以上に聖書では影が薄く、聖書記述と教会の伝承との差が目立つ人物だし、タイトル通り、なんだかぱっとしないイメージですね。 今度、教会の神父さんにもいろいろ聞いてみます。でも、揚げ足とりと思われて嫌がられるかな??
Sekko · 2008-08-25 05:37:33 UTC+9 · 投稿 #367
返事遅れてすみません。ひと言じゃいえないし。 聖家族信仰の成立については、私の『弱い父ヨセフ』(選書メチエ)を一度読んでください。『聖母マリア』には聖母の位置づけの変遷をちょっと書いています。 私の了解しているキリスト教は、別に聖書のコンテンツを理性で理解して納得して、たとえばイエスがちょっと変な言動をしても、「これには自分の分からない深い意味があるんだろうな」とか、「まあ、これは不問に付しとこう」とか思ってめでたく信仰成立ってものではないです。 キリスト教の成立したヘレニズム世界はストア派の論客がたくさんいて、福音書の伝承の変なとこはすでに批判されたりもしてました。だから「神の子」の言動にふさわしく改竄するとか、いろいろな手があったかもしれないのにそのまま残したのは、使徒たちや初期共同体の中にも大きな疑問符があったわけで、でもそれをはらんだままでスタートしたということは、ヘレニズム世界の弁証法的思考があったからです。その緊張と本質的な不安が、キリスト教を育てたんだと思います。 無理があるけど、確かに使徒や初期の信者が確かに信じたと思えるのは、イエスの死と復活と昇天で、ほんとに何が起こったのかは今となってはわかりませんが、それを軸にパウロが各教会に手紙を書きまくったのが、キリスト教の核をなしているわけで、その結果どうなったか、というところが私には興味があります。そしてそのパウロは、聖母がどうしたかとか、復活前のイエスがこう言った、ああ言ったとかはほとんど問題にしてません。その意味では、後からの神学的整合性の追求は別として聖母の処女性とか、イエスの言動とかは、本質的ではないと思います。 聖書に出てくるとこだけ読んだら、私だって、あんな息子、あんまり欲しくないし、あんなこと言われたらむっとしますけど、まあ、普通の人の言動ですら、文脈を無視したり視座を定めないと、どうにでも編集されちゃいますからね。 イエスとパウロによって人は、「法」からは解放され、ただ、「愛」についてのみ責任を要求されました。そのせいで生まれたのが「秩序」より「緊張」です。 これが、キリスト教世界観が円環でなく螺旋であるゆえんですね。 私は、弁証法的思考法にはまっているせいか、「答えがない状態」が嫌ではないです。すべて、答えのある状態とは、多分弱者に抑圧的に働くと思うから。 これからも大羊さんは、いろんな答えを知ろうとして「迷える羊」であり続けるでしょうが、そこで見つかるのは、いつも、「答え」ではなくて、「新たな問い」でしょう。でもその問いはどんどん深くなると思います。それが本当にキリスト教らしい旅だと私は思いますけどね。
迷える大羊 · 2008-08-21 22:43:47 UTC+9 · 投稿 #366
実はこれ、別のキリスト教関係のウェブでも出した話なんですが、いろいろなクリスチャン、キリスト教関係者の見解が知りたいということで、ここでもお話させていただきます。 それはイエスの母マリアの位置づけ、です。カトリックのマリア崇敬は有名で、中にはイエス差様よりマリア様の方が好きなんじゃないの?といいたくなる人もいますし、教派にもよりますが、プロテスタント教会でも処女懐胎は感慨深く語られる出来事です。 でも、実際に聖書読むと、処女懐胎がはっきりと描かれるのはルカの福音書だけ、そのルカにしても聖母マリアが「活躍」するのは、誕生時だけであとは至って影が薄いような・・・。もう少し母親らしく、イエスを叱ったとか諭したとか庇ったとかいう、親子らしい触れ合いのドラマがあったってよさそうなものなのにそこら辺の話が全然ない。ルカに一つだけ、少年イエスが神殿で親から離れて、学者たち(だったかな?)と議論する、なんてエピソードがあって、ルカはイエスがいかに神秘的で賢い少年であるかを説明したいようですが、どちらかといえば、生意気な印象を与え逆効果のような気も・・。 とにかく、福音書全体を通じて少年時代、青年時代のイエスについての部分がまるでスカスカで、母のマリアがイエスをどんなふうに育て、どんな影響を与えたのかまるでわからない。 親子の触れ合いどころか、福音書中のイエスの言動を見ると、家族とか血縁というものに対して非常に冷淡な考えを持つ人物、彼自身の家族関係自体、あまりうまくいってないのでは?との疑惑に駆られるセリフや描写が少なからずあって、例えば、「私が来たのは地上に平和をもたらすためではない(中略)人をその父に、娘を母に、嫁を姑に、こうして自分の家族が敵になる」とか「私より自分の父母を愛するものは私にふさわしくない」、なんてどこかのカルト教団の教祖のような怖いことをいってますし、イエスが群集に語りかけているときに彼の兄弟と母(聖母マリア)が外にきて話したがっていて、それを誰かがイエスに知らせると「母って誰?兄弟って誰?」などと実にそっけない返事をしてます。これには後に、「天の御心を行う人こそが私の兄弟、姉妹、母」というフォローが入るのですが、こんなときにあてつけがましくいわんでも・・、との感が否めないです。 さらに問題は「復活」の時で、聖母、聖家族信仰の観点からすると、イエスは復活したら、真っ先に母親マリアの前に参上すべきでは?と思うのですが、真っ先に参上するのはマリアはマリアでも「マグダラのマリア」の前であって、聖母マリアの元に参上した記録がどの福音書にもない・・。 福音書の後は使徒言行録を皮切りにパオロやその他、使徒たちの記録と手紙になるわけですが、これも不可解なのは、使徒言行録とか使徒の手紙にこの処女懐胎(イエスの奇跡の数々もですが)が全然出てこないこと。ひょっとしたら触れられているのかもしれないですが、少なくとも目につくような分量、形では見当たらない。 使徒たちはイエスを神の子、メシアと主張するために旧約聖書の記述の引用をしきりにしていて、それはそれで間違いではないと思うのだけれども、どうして福音書に書かれた処女懐胎という劇的な生まれ方を話さないのだろう?と思ってしまいます。まさに彼が神の子、メシアであることを証明する決定打であるはずなのに?。 私はキリスト教とか聖書について専門の教育を受けたわけではありませんし、聖書って私にとって決してスラスラと読みやすい文書とは言い難いので、何かと勘違いとか読み落としをしていることがあるのかもしれません。 でも、読んだ限りだと聖母とか聖家族、ましてやマリアの無原罪ってどこからどう出た話なのかがわからないし(神学的な理論づけはいろいろあるようですが)、私などよりずっと聖書を読み込んでいるはずのカトリック信徒やクリスチャンの皆さんがどうして、こうした聖書の記述と矛盾することなく、聖母マリア、聖家族信仰を保てるのかがわからないんです。 お断りしなくてはなりませんが、あくまで「わからない」のであって正しいとか間違っているとかいっているわけではありません。また、人の信仰心にチャチャを入れるつもりは毛頭ありません。 その辺の「信じる気持ち」を教えてもらえないものでしょうか?単純に信仰心というものを知りたいだけで、繰り返しますが、いいとか悪いとか、あれこれいうつもりは全くありません。
nao · 2008-08-18 16:21:00 UTC+9 · 投稿 #365
途中で投稿になつてしまい、しりきれトンボになりました。司馬遼太郎の「空海の風景」は近所の真言宗の若いお坊さんに勧めていただきました。「やはり小説風のもののほうがよみやすいですよ」と20代のお坊さんがいいました。昭和50年度初版のものが2005年新装改版になり字が大きくて、よみやすくなりました。司馬遼太郎記念館は近いので、何度もいつてますのに、この本のことを、今はじめて知りました。夢中になつて読ませる迫力があります。空海という人のことも我が家が真言宗で菩提寺が高野山にありますのに、しらべたこともありませんでした。でも今回「両部は不二である」という空海のことばにつよく惹かれるものがあります。しかし即身成仏だけはどうしても解りませんし、惹かれません。すごい教養と鋭い政治感覚、宗教的天才、理論家としての天才性。三筆のひとり。というようにものすごい人だつたんですね。 先生がどのような古代劇をお書きになられるのか、非常に興味がありますし、そのお芝居の日や場所がはつきりしましたら、サイトにいれてくださいますよう、おねがいいたします。 日本に帰国してからの空海にも興味はつきません。「曼荼羅」についても、勉強したいとおもつております。今度高野山にゆくときには観るものがちがつてみえるだろう、とこの本を読みながら、その日が楽しみになつてきました。いつもきちんと、お返事いただき有り難くおもつております。
nao · 2008-08-18 09:35:26 UTC+9 · 投稿 #364
呉音と漢音があることも、中国語の読み方もなにもわかりませんでした。ありがとうございました。これからは先生にならつて、「けいか」とよむことにします。そのほうがよみやすいものですから。
Sekko · 2008-08-18 02:53:00 UTC+9 · 投稿 #363
ええと私は「けいか」で行こうと思っています。 理由は、種智院大学学長の頼富さん(この方のお寺が私の母の実家の檀那寺でした)が監修されている一般向けの空海入門書で「けいか」とルビがふってあったからです。これからやるかもしれない仕事の参考図書としてそれを渡されているので。 今の中国語のピンイン表記では「hui-guo」となりますが、「hui」は、日本語表記するとフェイとかフイとかホエとかホェイとか、いろいろですね。空海と恵果の出会いを中国の古代劇にすることを考えているので、そしたら、読み方も古代風になるのかもしれません。 「恵」を「エ」と読むのは呉音で、もとは「ウェ」ですね。真言宗や一般に仏教は呉音を使うことが多いので、司馬さんが取材した時に真言の人は「えか」って言ってたのかも知れません。「けい」は漢音で、今は、一般的に、中国人の名の日本語読みは漢音ですることが通例なので、「けいか」でいいのだと思います。漢音はもともと7、8世紀に遣唐使が伝えた読みで、唐音は鎌倉時代以降で禅語などが中心と聞きますから、空海は「恵果」のことを「けいか」に近い呼び方をしていた可能性はありますね。恵果あじゃり(変換できません)という時も「空海と恵果」という時も、「けいか」の方が語呂がいいので「けいか」でいいんじゃないかしら。司馬さんの『空海の風景』は、30年前に読んだ時は、なんだか想像ばかりでたゆたいすぎていて、はっきりしないなあ、感情移入できないなあ、と思った記憶があるんですが、今読み返してみると、すごいなあ、空海のように神話や信仰の対象になってるような人を作品で料理するにはこれくらいの洞察と距離感が必要なんだなあ、と感心しています。こういうスタンスの人のイエス伝も読んでみたいくらいです。
nao · 2008-08-17 21:05:41 UTC+9 · 投稿 #362
空海に密教世界の両部(金剛界と胎蔵界の世界観)をすべて伝えた「恵果」の呼び名はなんというのでしょうか?梅原猛、末木文美士は「けいか」、司馬遼太郎は「えか」と呼んでいます。どちらも正しいのでしょうか?中国ではどう呼ぶのでしょうか?
迷える大羊 · 2008-07-21 20:32:49 UTC+9 · 投稿 #361
って、時折、こういう宗教問題を取り上げることありますね。「こういう宗教問題」というのは、かつてのオウムのように、誰が見ても、はっきりとヘンだ、カルトだ、とわかる教団とか宗教ではなく、一見するとまとも、派手な反社会的行動を取っているわけでもない、それどころか、世間一般のウケも良い団体に潜む問題とか悪だとかといったものですね。 今回はプロテスタントの所謂「単立教会」が遡上に上ってましたが、詳しい年月日は失念しましたが、数ヶ月前には日本キリスト教団とかカトリックとか聖公会、ホーリネスなどなど、いわゆる老舗の伝統的教会のそれもしっかり遡上に載せておりました。アエラ以外の他のメディアにはあんまり出てこない種類の記事なので、「あれ?」と思ってつい読んでしまいましたね(他はそもそもキリスト教会自体に無関心だったり無知だったりで・・)。 私の読んだところ、アエラの前回、今回に共通する論調としては・・、 キリスト教は日本では人口比1%以下の極めてマイナーな世界、にも関わらず、欧米先進諸国の文化に連なっている、ミッションスクールの質の高さ、なども相まって、そのイメージは高く、存在感もある、しかし、そのイメージに惑わされず、自分の考え、目と耳でよく見極めないと、中にはとんでもない教会、聖職者も存在しますよ・・、 といったタッチ、趣旨ですね。 「正統派云々」という話も、記事で取り上げた問題ある教会、聖職者が生き延び続ける理由として「「正統なキリスト教会」であることを掲げている点が指摘できる」とアエラ誌が推理、結論しているところからきてます。 まあ、人間は「性善説」より「性悪説」で見た方が後々の失望が少なくていいかもしれませんね。その点、キリスト教の人間観察は鋭いと思います。だからこそ、宗教に限らず、不祥事や人の悪に対する抜本的な対策は是非キリスト教会の側から出てくれば、と期待したりするのですが。 な~んて、こんなこというなんて、少し前の私からは考えられないことで、なんだかんだいって私もキリスト教の世界に染まってるんだなぁ、と思っちゃいました(笑) >B16 どこかで、SEKKO先生もおっしゃっていたことですが、やっぱりこの方、「KY」なんじゃ?決して悪い人ではないことは分かるんですが・・。
Sekko · 2008-07-21 16:21:38 UTC+9 · 投稿 #360
アエラの記事は読んでないので細かいことはわかりませんが、今朝のラジオで、オーストラリアのカトリック青年の日の行事の最終日に教皇が、みんなの期待していたように、聖職者の不祥事についての謝罪をした、って言ってました。謝罪できるトップ(その身辺はきれいだと認められている)がいるというのはこういう時、確かに分かりやすいですね。でも、プロテスタントの牧師さんたちはその成り立ちから言って信者代表の立場だから、シンボリックな意味は担いにくいです。 どんな仕事でも、立場や肩書きが責任感や使命感や自律を促したリ育てたりってことはあるでしょうが、やはり、心の問題に関しては、サービスや救いを求める側が、相手の人間性を直接見て判断するしかないですね。でも、弱っていて救いを求めている人にはそういう判断が難しいかもしれないし、だからこそそれにつけこむようなのは許せないですが・・・ 宗教機関の「正統派」をブランドと見なして、消費者の信頼を裏切ったとか、モラルの低下みたいにも見えますが、宗教帰属が消費行動になること自体がおかしいとも思います。行きずりの寺社におまいりしてお賽銭を上げて頼みごとをしても、帰属感はないから、その一時の安心感やら希望を買った消費みたいなもんで後腐れはないですが、要は、何につけ、「人間のやっていること」に「期待」してはだめということだと思います。キリスト教的には信仰と期待はセットになっていますが、それは基本的にはこの世を越えたところでの救いの話ですから。 ともかく、正統派とか何とか言う「ブランド」に関係なく、サービス機関としてかかわるなら「消費者」の方にもそれなりの意識の高さや分別力が必要出し、ある機関が道を外さないように、また弱者を守るためには、最低限の法の規制や枷や監査機構は必要でしょうね。 カトで私が最近気になったのは、復活祭に教皇がエジプト系イタリア人ジャーナリストに洗礼を授けたことです。その人を取り巻くイスラム環境的には改宗は死に値するそうで、JP2は、そのために、ムスリムの改宗洗礼にたいしてすごく慎重だったそうなんですが、B16のやり方は挑発じゃないかという意見もありました。そっと内輪でやればいいのに・・・ 良心に恥じるところがないからって堂々とやるのも困りものです。 フランスには8月にダライラマが来て、9月に教皇が来るというんで、宗教とか平和とか外交とか政教分離とかについていろいろ考察が促されるでしょうしそれは楽しみです。
迷える大羊 · 2008-07-21 10:08:21 UTC+9 · 投稿 #359
アエラ誌の記事や塩梅さんのお話を伺うと、宗教団体にも一般企業のISOや金融取引法に基づく「内部統制」の仕組みに相当する規格を導入した方がいいんじゃないか?と思えてきますね。 例えば、~規格に基づいた審査を受けその資格を取得している教会、団体なら とりあえずおかしなことはないだろう、みたいな目安になるんじゃないかな?信者(消費者)にとっては。まあ、実際は言論、思想、信仰の自由の問題が絡んで難しいし、それが本当に有効に機能するかはわからないけど、何にもないよりマシかなぁ、なんて思ったんですけどね。 ISOとか、「内部統制」ではその企業の業務・活動内容、財務内容について、第三者にも一目で分かるよう文書化、担当者以外の第三者がチェックに入るようなシステム作りが求められます。半年ぐらいに一回くらい、規格に沿った企業・活動運営が行われているかどうか。外部の関係機関の監査が入ります。(まあ、これはこれでいろいろ問題はありますが) それに絡んで「コンプライアンス」、というと難しそうですが、要は「法令順守」ですね、に対しても企業社会は日々うるさくなってきています。 元々、アメリカのエンロンの粉飾決算だとか、日本では、西武鉄道、カネボウ、ホリエモン、村上ファンドなどの問題があって、声高に叫ばれるようになったわけですが、宗教界だって、これだけ不祥事が出れば、似たような流れ、動きがあって然るべきなんじゃないかなぁ、と思うんですけどね、キリスト教系団体、仏教系団体、その他を問わず。 「うちはそんなことやってないから大丈夫」とか「正統派の教会だから安心」なんていうんじゃなくて・・。 結局、宗教界、キリスト教の世界といえども「神の目」があるから安心、ってことはまったくなくて「第三者の目」がないと、ロクでもないことをやる人間が必ず現れる、というのは俗界と全く同じで、なんだかなぁ、という気がしましたね。
塩梅 · 2008-07-21 09:06:03 UTC+9 · 投稿 #358
カト関係の掲示板でこういう話をするのも何なんですが…。 何だか申し訳ありませんです。>All 大羊さま> 多分、今回「アエラ」掲載の関係、あれは非常に残念です。 事の推移を見守っていましたが、かなり昔に聴講生として通っていた神学校ほかお世話になっていた聖職者・共同体(少なからないのです)が俎上に上がっていますので、かなり悲しく思っています。勿論、被害者になられてしまった方々に関しては…当方はあのような肉体的な暴力といった仕打ちは受けたことはないけれど、非常にお気持ち察するところがあります。 プロテスタントというのは、カトリックみたいなヒエラルキー的な人間組織の頂点に立つバチカンみたいなところがない(そもそも聖座の腐敗へのアンチテーゼみたいなところが大きいか)、あと明確な教会法であるとかそういうものも無い。ある意味…教会運営が個々の教団・そして教会の良心にひたすら任されている状況だと思います。あと教団にいられなくなったら、どこの教団にも属さない「単立」という形も取れてしまいます。 そんな中できちんとした活動を行っている教会もあるんですが、やはり何かあったときのチェック機能が甘くなってしまうのかな…とは。で、やっぱりH派・S派関係で、信仰そのものというよりいわゆる「カリスマ牧師」およびその共同体への依存に持ち込んでしまっている教会があるとは思います。気付く人は気付くんですが、やっぱり「傷つくような何か」があってのことなので…その後はトラウマとの闘いです。 で、多分、俎上に上がっている教会の元・信者さんもこれからその辺が大変だと思うんです。受け入れてくれる教会があるか、聖職者及び共同体がそういった問題に関する理解度が少しでもあるか…そういうところで。受け入れ自体は多分にプロテスタント教会のお仕事になると思いますが、やはり問題のある共同体にいたとか母教会(洗礼を受けた教会)に問題があった場合に「まず、受け入れてもらえない」という問題が出る可能性があるかな、と。 そういう経緯もあって、私の場合は最終的にカトリックに飛び込んだので…。 ただカトリックに飛び込むのは(本当に知らない世界だったので)それこそ「清水の舞台から…」と言った気持ちで、最初カトリック教会にお電話して「行ってもよろしいでしょうか?」と。受話器を持つ手がプルプル震える、そんな感じでした。 ただ、個人的にカトリック教会にお世話になるとき、神父さまに言われたのは、 「以前の教会へのアンチテーゼでは(改宗は)ダメですよ」 と。そこら辺を解決するのに、私の場合は随分時間がかかりました。何年単位のことでしたが、やっぱりそれで良かったんだと思います。それと結局は洗礼の有効性などの問題があって、受け直しなんですが…かえってそれもいいかな、と。
迷える大羊 · 2008-07-20 23:49:20 UTC+9 · 投稿 #357
以前、こちらのBBSで塩梅さんが過去に在籍されていた教会の様子について発言されていたことがありましたが、その様子が異様で、「正統派」となっていることになっている教会にも極めて運営が怪しげなところがあると知り、驚いたことがありました。 そしたら、最近になって朝日新聞系の週刊誌「アエラ」が7月28日号でまさにその問題に触れていました。タイトルは「キリスト教会の「カルト化」。牧師に対する個人崇拝、ささいな理由で行われる体罰。時代錯誤な「悪霊払い」による「病気治療」、「皇帝牧師」の乱れた異性関係などなど・・・。そういった問題で係争中の教会を中心に取り上げていました。 それが、大多数の主流派教会で関係を否定される「エホバ」「モルモン」「統一教会」ではなく、「正統派」ということになっている、つまり、三位一体の教義をとり、「異端」ではない聖書を使う教会なので驚きます。 それにしても、記事中にもありましたが、教会らしい建物をもち、聖書をひいてもっともらしいことをいう「牧師」を純粋な人はつい信じてしまうみたいですね。 教会はともかく「聖書」が清廉潔白で道徳的な話ばかり、と信じている人が多いのにはとにかく驚きます(かつての私もそうだったけど)。もちろん、そういう面もあるのだけども、実際のところ、旧約は下ネタ、暴力ネタが極めて多い文書だし、新約になると大分大人しくなるし、イエスの教えは傾聴に値するものが多いけど、そのイエスにしても過激発言(例・私と父(神)は一体だ! ヨハネ福音書より)が結構あるし、決して単純な勧善懲悪の本、文書じゃないのに。 とにかく良くも悪くも使えるのが「聖書」という書物で、その諸刃の剣、取り扱い注意な面をもっと既存の教会はきちんと求道者とか信者さんにきちんと説明すべきなんじゃないかなぁ、とも思いましたね。きれいなところ、カッコいいところばかりを読み上げるんじゃなくて・・。 記事の締めくくりとして 櫻井北海道大大学院教授のコメントが掲載されてまして、要約すると・・、 ・牧師の言うことであってもむやみに従わず、自分の頭で考え、納得した上で信仰を持つこと ・いろいろな教会を比較し、一番しっくり行くところを選ぶのがベター、そういう行動を不信仰などという牧師がいたら、その教会は止めた方がいい とのことでした。それにしても、以前にも「アエラ」誌はこうした特集を組んでましたし、キリスト教会と何かあるんでしょうかね?
迷える大羊 · 2008-05-25 21:58:53 UTC+9 · 投稿 #355
私事でなんですが・・・。最近、仕事で内部統制関係の仕事をすることになったんですが・・。 まず、内部統制って何なのか、といいますと、ここ10年来のアメリカではエンロン、ワールドコム、日本ではカネボウ、などの巨額の粉飾決算、三菱自動車のリコール隠しなど、上場企業、株式市場の信頼性を揺るがす不祥事が相次いだことを受けて、アメリカで「サーベンス・オクスリー法(発案した議員の名らしいです)」略してSOX法が2002年に成立、その動きを受けて、日本でも06年に金融商品取引法、いわゆるJ-SOX法が成立しました。 ということで、日本でも上場企業ですとか、その関連企業は、簡単にいえば、この法にのっとって、正確な財務情報の提供、不祥事防止の体制つくりなどが必要となってくるわけですが、これが、いたるところで責任者、上長のチェック、承認、文書による証明の連続で、純粋な日本人的発想だと、人間関係で築かれる信頼関係とか、話し合いですますところも徹底的にチェックで正直、面倒というか、余計な仕事が増えて、うっとおしいですし、あまり人を信用しないシステムというかなんというか、まあ、不祥事防止の為にできた制度だから当たり前ではあるんですが、それにしても、徹底しているというか・・。 これまた、欧米生まれの企業活動の品質規格であるISOもそうで、これまた、責任者のチェック、承認、文書による証明の連続で、参ってしまいます。 これって、キリスト教の原罪思想、つまり、人はほっとけば神から離れていく生き物なのだよ、みたいな考え方がやっぱり元にあるんだろうか?とふと考えるのですが、どうでしょうかね?あと、契約に関する考えなんかも・・。 とにかく、一般のごくごく普通の日本人の感覚からすると、そこまでせんでも、みたいなところがあるのは確かですね・・。
Sekko · 2008-05-08 18:13:34 UTC+9 · 投稿 #353
「山鳩一つがい、または家ばとのひな二羽」は、レビ記で「産婦が貧しくて子羊に手が届かない場合は」という、貧乏人のオプションなんですよね。この辺が将来のイエスの物語の伏線にもなってる感じかな。 「産婦が貧しくて」とありますが、では父親は関係ないとして、マリアの実家のヨアキムやアンナは裕福なようだったから、何で実家が子羊を調達しなかったのかなあと思うんですけど。やはりイエスの出生がいまいち「誰の子か分からない」という感じで、ヨセフの手前、実家がおおっぴらに祝福しにくかったんでしょうか。と、つまらぬことをいろいろ考えてしまいます。
nao · 2008-05-08 17:22:06 UTC+9 · 投稿 #352
お忙しいなか、早速お返事いただきまして、ありがとうございました。当時、トラウマはまだなまなましかつたわけですから、初子はまず、神殿へ・・と急いだことでしょう。「山鳩一つがい、または家ばとのひな二羽」ときめられた捧げ物をしたということですから、財源となつたことでしょう。当時の様子を描いてみるのも楽しいことでした。有り難くおもつております。
Sekko · 2008-05-08 16:25:27 UTC+9 · 投稿 #351
イエスの場合についての特別なことは知りませんが、これは当時の感覚ではただの「お宮参り」みたいなものだったと思います。 形としては出エジプト記の13章、レビ記の12章にある規定を守ったわけで、産婦の妊娠出産による穢れの清めの儀式、贖罪の儀式がメインで、穢れを解消してコミュニティへ復帰するというシンボリックな意味、それから事実上は捧げものが神殿の財源の一つになっていた、最後に、イスラエルの神の「初子」に対するこだわりの現れでしょう。エジプトを出たときにユダヤ人以外の家庭の初子を神がことごとく殺したというエピソードが、さすがに集団トラウマになって、その犠牲を忘れないように、自分たちの子も神に捧げ続けるという形をとったように思われます。現実には出産後の節目であり、子供の将来も祝福してもらおうという、古今東西変わらぬ普通の行事だったと思うんですが。もちろんイエスの場合それがいろいろシンボリックな意味を持ってくるわけですが。
nao · 2008-05-08 09:23:23 UTC+9 · 投稿 #350
お返事いただきありがとうございました。また質問です。 マリアは聖書外典によると、3歳で神殿奉献され、神殿に移ります。この奉献は神殿に身柄をうつしますので、巫女のような生活になつたものと想像しております。イエスも奉献されますが、これは「長男はみな主に聖別されたものととなえられねばならない」というユダヤ教のしきたりに従うものであつたようです。辞書を引くと「聖別」とは人の場合「祈祷、儀式などによつて、神の礼拝、神への奉仕のために捧げる行為をいう」とあります。そうすると、長男の生活には他の子とちがつた義務が生じてきたのでしょうか?聖別されても儀式だけうけたのか、特別な神への義務が生じたのか、よくわかりません。細かいことで申し訳ありませんが、教えていただけますと、ありがたいです。
Sekko · 2008-05-03 23:19:06 UTC+9 · 投稿 #348
すみません、本が手元にないので〈お貸ししたり差し上げたりしてすぐなくなるんです)、どの箇所かは分かりませんが、Pelerinage officiel というフランス語が出てきたときにそれをそう訳出したんだと思います。今聖域は300名近い常勤職員のいる会社のような組織があって、聖域主催の午後の聖体行列とか夜の蝋燭行列とかは混乱が起きぬようにセキュリティとかがすごくよく管理されてるものです。他のグループの行列とか巡礼も、ある程度の規模以上なら届け出てオーガナイズされてると思います。司教区が主催するような巡礼は、宿泊のこともありますから当然、聖域と連携してるでしょうね。聖域のカレンダーに明記されてる巡礼のことだと思いますが、確認しないと分かりません。 狭い意味での「公式の巡礼」とは、タルブ=ルルド司教区の主催する巡礼という意味かもしれません。たとえば、ルルドの第一回「公式巡礼」は1864年4月4日とありますから〈下にコピーしときます)。 La première apparition de la Vierge à Bernadette remonte au 11 février 1858. La commission d’enquête, nommée par l’évêque de Tarbes, Mgr Laurence, conclut en janvier 1862 à l’authenticité des faits. Depuis 1858, en dépit de la fermeture de la grotte de Lourdes par les autorités municipales et préfectorales, le mouvement de prière et de conversion, popularisé et rendu public par des guérisons éclatantes, n’a jamais cessé. Le premier pèlerinage officiel remonte au 4 avril 1864, à l’occasion de la bénédiction et de l’inauguration solennelle de la statue de Notre-Dame de Lourdes à la grotte des apparitions, cette première procession donne le branle à toute une série de pèlerinages paroissiaux. La crypte, commencée en 1863, est consacrée le 21 mai 1866, la ville de Lourdes est reliée par le train à Bayonne depuis 1867 et à Toulouse l’année suivante. Les Assomptionnistes parisiens prennent la direction et l’encadrement du premier pèlerinage national de 1873.
Sekko · 2008-05-03 22:42:26 UTC+9 · 投稿 #347
私の立場でお答えしときます。別にその筋のお墨付きではないのでそのつもりで。 キリスト教に関しては、紀元1世紀にパレスチナで生きたナザレのイエスという人間が「人間でありそのまま神である」という信仰が基盤になっているわけです。 そこのところは一応おいといて、ともかく「神が人となった」というのですが、すべての「人」は社会的歴史的存在なので、ナザレのイエスがどういう時代のどういう場所でどういう伝統と共同体意識の中に生まれたかということは彼の「人間」の部分にとって大きい意味を持っています。 たとえば、ある人が突然「神懸り」になってそれ以降は生き神として機能し、それ以前の個人史は問題にならないとか、逆に、生まれた時から「神の化身とか生まれ変わり」であり普通の人間の文脈からは超越しているんだというタイプの宗教もあるでしょう。 でも、キリスト教では、ナザレのイエスというユダヤの歴史や伝統を背負って生きて死んだ男が神としていかにして普遍宗教の核になったかを、弟子たちが書きとめたわけです。彼らの宗教がはじめにユダヤ人の間で形成されたことは、イエスが救世主となることを「ユダヤの聖典の成就」であるという「後付け」がなされたことを示しています。 それで、旧約聖書の部分は、それが「文字通りの絶対真実」というプレゼンテーションではなく、イエス・キリストがどういう「時代と文化の文脈に生まれたのか」、そういうコンテキストの中でその民族的枠をどのようにして突破して普遍宗教〈地縁血縁を救いの条件にしない宗教〉に展開していったかの道筋を残す部分です。イエスの教えや行動は、他の普遍宗教の開祖と同様その社会では革命的であったにせよ、だからこそ生きた時代や伝統からインスパイアされたものであります。 旧約聖書があるからこそ、イエスがどういう人間であり、弟子たちがどういう風にイエスを理解したかが私たちにも追体験できます。 新旧聖書のおかげで、イエスの人間としての文化的社会的ルーツをも知ることができ、それを、使徒たちや初期教会の人たちが、どのように新しい世界観を提供し、戒律主義や偶像崇拝や権力維持に陥りやすい人間の性向からその犠牲者である弱者を解放していくシステムを作ったのかがよく分かります。 人はどのような身分に生まれてどのような能力を持っているかということでは評価されず、それをいかにして運用するか〈=自分より弱い者に仕えるか〉が大事なのだというガイドラインを示した点では、「・・・するなかれ」の古典的で形骸化しやすい戒律主義から一歩進んだ倫理感も提供しました。 キリスト教の歴史の中では、聖書を文字通りに解釈してそれを知識や行動規範としておしつけるというような蒙昧主義や教条主義も何度もありましたし、今もあると思います。逆に、それに反発して、すべてはシンボリックだとか比喩だとか、神話だとか、文学だとか言って、「イエスという手本にすべき立派な人間の物語」だとか、その他多くの道徳や宗教や哲学のテキストの一つに過ぎない、と位置づけるとかの、矮小化や相対化の流れもたくさんあります。 いろんな読み方読まれ方をすること自体は、他人に抑圧的にならない限り、別に自由でいいんじゃないでしょうか。 けれども、 旧約の世界に養われて、 新約の世界が突破して、 時空を超えたメッセージとして、 今、現在も、平和と利他の実現のためにキリスト教を生きている人も実際にいるわけです。 そういう存在の根っこの部分で人を連帯に導くために突き動かす力は、聖書には充分あると私は見ています。 各派教会筋の方にはそれぞれの立場上いろいろあるのでしょうが、大羊さんは、今の所、とりあえず、旧約はイエスの人間の部分の理解とキリスト教の生まれたユダヤ世界の共同幻想〈と言って悪ければ伝統的世界観とか歴史観〉を知るための資料集、新約はその中で生まれたイエスの生と死と復活が、旧約的文脈の中でどのようにして世界宗教となるほどの信仰の普遍性を生んだのかを語ってくれる「証言」集、というスタンスでお付き合いすればいいんではないでしょうか。 見方を、あるいは崇め方?を押し付けられても、別に、それで信仰が深まるとかいう問題ではないと思いますけど。それで信仰が深まるならただの洗脳でしょ。 あと、新約に関しては、逆説的な表現が結構多く、それが魅力にもなっているので玩味できるのでは? このテーマについて、私にとって聖書はこうだったけど、今はこうなった、という体験談とかあればどうぞ。アドヴァイスの場であっても論議の場にはしたくないのでよろしく。
nao · 2008-05-03 22:16:31 UTC+9 · 投稿 #346
竹下先生のご著書「奇跡の泉ルルドへ」のなかに「公式巡礼」「公式行列」という言葉が度々でてきます。「公式」というのは、どういうことなのでしょうか?だれかが組織してくる巡礼、行列なのでしょうか?私は10年前、日本の枢機卿と共に25名で巡礼しましたが、そのような巡礼は「私的」というのでしょうか?「公式」と「私的」の違いをご教示くださいませ。 大羊さんの問いにはいつも啓発されております。信者になつて、「このような問いに自分はどう答えることができるだろうか?」と考えてしまいます。でも残念ながら答えの言葉がまつたくでてきません。何故なのか?いつも悩んでいます。プロの司祭様たちがこのサイトをご存知なら、ご登場ねがいたいものです。
迷える大羊 · 2008-05-02 23:38:05 UTC+9 · 投稿 #345
キリスト教、宗教の話をしていつも言われるのは「これは単なる道徳律とは違うんです」ということ。例えば、聖書について「確かに今から見ると変な話も多いですけど、人を裁くな、とか、神の国はあなたがたの間にあるとか、いろいろいいことも書いてありますよね~」というふうに話をすると「ええ、でもそれだと論語などと変わらないんです。単なる道徳なんです」ということを、これまた教会、教派問わずいわれます。 で、この信仰・宗教と道徳・哲学との違い境目とか違いって何なのでしょう?信仰・宗教として聖書を読むとするなら、現代、あるいは未信者の感覚からしてどんなにメチャクチャなことが書いてあっても「神の御言葉」「神の霊感によって書かれた」として受け取らなくてはいけないんでしょうか? あくまで、書かれた状況や時代を鑑みて「著者はなんでこう表現したのかな?」とウラを読みながら、その意図を考えていく、なんて読み方は邪道になるんでしょうかね? いや、自分としては至って普通のことを言っているつもりなんですが、「宗教・信仰」の世界では通じない話なのでしょうか? またまた、すみませんが、どなたかお教え下されば幸いです。
迷える大羊 · 2008-04-22 00:01:59 UTC+9 · 投稿 #343
毎度、ありがとうございます。やっと、まともな回答にありつけましたね。今までは「俺、そんなにイヤなこと、変なこと、無茶なこと聞いてるかぁ?」といいたくなるような反応が多かったですから。 先日行った某教会の信仰入門の先生もとにかくこの件に関しては、とにかく神といったら神なの的な答えで聞く耳もたず。ああ、説教もうまいし、70代とは思えないはつらつとした方で、いい先生、と思ってたんだがなぁ、とちょっとがっかりしたところでした。 (単に忙しいのに、苦手なところをしつこくつっつく私がうっとおしかったのかもしれませんが・・) 三位一体、イエス=神で人で、の教義そのものより、こういう実際のクリスチャンたちの反応の方が私にはよっぽど不可解で謎に満ちてます。変なたとえですが、八つ墓村で触れてはならないタブーに触れた金田一耕介の気分でしょうか。何かタタリでもあるんですか?と聞きたくなります。 でも、この疑問ってある意味、クリスチャンの個人単位での性格とか信仰のあり方を計るリトマス紙になりそうですね。以下、私の独断と偏見で分類します。 1.「よくわかりません、知りません」 素直でいいと思います。聖職者であってもちっとも恥ずかしいことではないと思います。そんなことで「牧師のくせに」とか「神父のくせに」なんて思ったりしません。 別にキリスト教とか教会はオタク的な知識を競う場ではないと思いますし、~を知ってるからすごい、とかエライといった世界でもないと思いますから。でも、キリスト教の肝心かなめの部分がそれでいいのか、という一抹の不安は感じる。 2.「これは人間業ではわからない奥義で云々」 ホントかぁ?やたら話を仰々しくして誤魔化してない?本当はあなたもよく知らなくて勉強してないでしょ?といった疑いを持ってしまう。教義そのものの説明は難しくても、そんなものが教義になったワケぐらいは教えてくれたっていいでしょ?と思ってしまう。実際、SEKKOさんはきちんと御説明されているわけだし。 3.「これは信仰なのだから」 とにかく受け容れろ、丸呑みしろ、とのお答え。だけど、大してわかってもいない、実は心の奥底ではあんまり納得もしていないことを信じたフリをするというのは自分に対しても神様に対しても不誠実じゃないですか?との感想を持ってしまう。 4.「問答無用、神といったら神だ」 私にとって最悪です。こんなこという牧師や神父さんは他にいくらいいところがあっても一発で幻滅してしまいそうです。信仰って無理やり自分にマインドコントロールをかけることなんですか?と思ってしまう。 まあ、くどいようですが、あくまで私の偏見ですから。月並みですが、人間、年齢、身分問わず素直なのが一番いいですね、という結論になるのでした(そういうお前はどうなんだ、というツッコミはなしで・・) SEKKOさん、是非、三位一体、イエス=人であり神であり、について本書いて下さい。楽しみにしてます。
Sekko · 2008-04-20 20:29:13 UTC+9 · 投稿 #342
「何度もすみません」どころか、大羊さんが今まで質問をしてきたギョーカイの人々がこの大切なところにちゃんと答えられてない方が大問題です。 私は、考えれば考えるほど、ナザレのイエスを神とした三位一体の神学の意味に感動しています。詭弁とか、単なる伝統とか、深く追求しないで敬して遠ざけるっていうようなものではありません。 今の私たちから見ると、古代の人たちはこうこうだと言われたら何でも受け入れたけれど現代人には納得できないものは呑みこめないよな、と思うかもしれませんが、昔から、三位一体が「なんか変だ」「無理がある」と思う人はいくらでもいたわけです。いやむしろその方が多かったでしょう。それですごく論争が起こり、325年のニカイア公会議で司教たちの多数決で「イエスは神」としたわけです。その時点ではそう認めることの必要性がいくつかあったわけです。しかし、キリストは神とは別の被造物で神の養子になっただけとするアリウス派系統の力は依然として強く、皇帝コンスタンティヌス2世もそっちを支持しました。 今のキリスト教でもエホバの証人なんかはイエス=神を認めてなかったと思います。とにかく、「三位一体」って無理があるんじゃない? という疑問は、キリスト教の成立の歴史と同じくらい古い疑問出し、解決していない問題だと言えるかもしれません。 だからこそ、ニカイア公会議から100年以上も経った後でまた、451年のカルゲドン公会議で、改めて、「イエス=キリスト=神ではない」説が弾劾されました。でもそのおかげで、この二つの公会議の間に、この教義を確立した教父たちが出て、とてもすてきな三位一体弁護論を繰り広げています。私は特にナジアンズのグレゴリウスが好きで、彼の論議の展開を見ていると、イエスの死と復活の物語が今日的に有効であり得るには、三位一体のダイナミズムが絶対必要だったんだなあ、と納得できます。あの時代の最高の知性たちが、どうしてもこの教義をたてなければ呪術的な古代世界から弱者を解放できないと考えたのは、理解できるんです。そして今も、残念ながら世界中で弱者が抑圧されてる現実は変わっていないので、この考え方を継承するのは意味があると思います。私にとっては結果オーライだなあって。 今、たとえば「教祖が神だという強弁」を誤解されないようにとキリスト教関係者が及び腰になって人間イエスのすばらしさだけ強調したり、あるいは、三位一体のような教義は禁域に隔離して祀っておくだけみたいな態度をとるのは不思議なことです。 このことについて、少しだけ、『カトリック生活』(ドンボスコ社)の5月号(発売中)と、次号(5月10日発売)に書きました。 >で、皆さんにお尋ねしたいのですが、「イエス=人であり神であり」とか >「三位一体」とか、未信者からすると奇妙奇天烈な教義が成立した過程、 >歴史を詳細に、それでいて、未信者にも分かりやすく解説した本ってない >ものでしょうか? あくまで、歴史と過程です。 という大羊さんの質問にどなたか答えてくださるとうれしいです。 なければそのうち私が書きますよ。
迷える大羊 · 2008-04-20 10:20:52 UTC+9 · 投稿 #341
もう、何回となく同じ話をして申し訳ないのですが、自分にとってキリスト教最大の障害は、イエスを実質上、神そのものズバリ、としてしまうこと。 もちろん、別にイエスが嫌いとか反発してるわけじゃありません。その行動思想はおおいに学ぶところあり、と思ってますし、宗教家としての偉大さは全く疑っておりません。聖書のいい部分は存分に認めてます。 しかし、神そのものずばり、でその教祖様が奇跡を巻き起こすとなると、(もちろん、皆が皆、字句通りとっているわけではないことはわかりますが)どうしても世間を騒がせる怪しい教団、ヤバイ宗教の「教祖」を連想して「うぇ」となりアレルギー反応をおこすのです。現代人でなく、二千年前の人間にだって理解に苦しむ考えで、聖書を読むと、やはりイエス=神の子論に対する信者以外の人々の反発、冷笑の反応はいたるところにでてきますよね。 一体、この辺どう考えてるんだ、ということをプロ・カト問わず、牧師、神父、信者の皆さんに聞いてみましたが、彼らにとってイエス=神はあまりに当たり前すぎて、「神といったら神なんだ、わかんなきゃいい」という問答無用のお答えか、普段、あまり深く考えていなくて、説明できないか、あるいは、やはりクリスチャンにとってカンに障る話なのかイヤな顔をされてしまうか、のいずれかです。 「これは信仰なんだから」ともいわれますが、イスラムは開祖ムハンマドと神をきっちり分離してますし、開祖様の奇跡談なんてほとんどないですが、ちゃんと宗教、信仰として成り立ってるじゃない、とも思っちゃいます。 いずれにしても、私の満足のいくお話って得られないのです。揚げ足とり、意地悪をしているつもりはなくて、真面目に考えてるからこそ出てくる疑問なんですが、やはり、言い方がマズいのかな?とも思ってしまいます。 で、皆さんにお尋ねしたいのですが、「イエス=人であり神であり」とか「三位一体」とか、未信者からすると奇妙奇天烈な教義が成立した過程、歴史を詳細に、それでいて、未信者にも分かりやすく解説した本ってないものでしょうか? あくまで、歴史と過程です。教義そのものは真面目に考えるとおかしくなりそうなのでパスします(笑)。 多分、私みたいな考え方ってちょっと「アリウス」派っぽいのかも。世が世なら追放刑だとか火あぶりの刑になるのかな?冗談のつもりですが、「神といったら神なんだ」といった問答無用の反応をみると、まんざら冗談ですまないような気もします。
迷える大羊 · 2008-04-18 22:39:27 UTC+9 · 投稿 #340
確かにSEKKOさんが御存知の教会のような自然発生的な奉仕が理想的ですよね。 思うに日本人は真面目に考え、組織をかっちり作りすぎて、却って身動きが取れなくなっている、みたいなところがあるのかも。でも、日本ではカトリックとかクリスチャンってマイノリティ、至って特殊な存在なので、なかなか同じようにはいかないでしょうし、ちょっと考えがまとまりませんね・・。 ちなみにマンションの管理組合の後継者は、人の善意とボランティア精神に期待することは諦め、規約と法を前面に出し、半強制的に決めることとしました。古参の住民の方に相談したところ「そんな、まともに頼みにいったってダメよ」といわれ、そうしました。 なんだか、キリスト教の性悪説がなんとなくわかる、というかほの見えた一瞬でしたね(大げさな・・(笑))
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