Dieu n’est pas féministe.
竹下先生
ご著書『女のキリスト教史』、拝読しました。新書本という体裁ながら、マリアからスタートしてマリアに辿り着くという意味で、先生の今までのお仕事の集大成(の骨格)と言っても良いものであると認識しています。「À Notre-Dame de la Médaille miraculeuse」という扉の言葉がそれを象徴しているように思います。
特に印象に残ったのは、現世利益的土俗宗教から普遍的世界宗教への、超越性に向けての飛躍の契機に、マイノリティとしての「女」を見ておられることです。一般的には、ここに「死」あるいは「来世(天国)」の概念を置くところなのでしょうが、ここに「マイノリティとしての「女」」を入れ込むことで、普遍性・超越性の問題だけでなく、逆に「マイノリティ」や「女」をも再考に付すものを読み取ります(それが最終章に繋がるのでしょう)。ただ私としては、先日の東京・真生会館でのお話、すなわち「マイノリティ=女」をさらに環境問題と結び付けることの方に、いかにも先生らしい、腕力で強引に捩じ伏せるような、そしてそれゆえある種のロマンを感じさせられるような論理的展望に、より大きな快感を感じるのではありますが、、、。近い将来にその問題を前景化した本を出されることと思っています。
また、特に最終章で強調される、俗流フェミニズムに対する批判、先生と同じくパリ在住で作家活動をしておられる中島さおりさんなんかも、形こそ違え、基本的に同じ主張をしていると認識しているのですが、これほど(キリスト教史と結びつけつつ)論理的に明快に論じておられることに、(肉食系男子の私としては)胸の梳くような快感すら覚えます。俗流フェミニズムは「他者」というものを認めようとしていないと、私には思われるのですね。そしてその姿勢は、結局アメリカ的金融資本主義に加担するものでしかない、ということに意識的ではないと思うのですね。絶望的にまで掛け離れた「他者」、それに敢えて係わろう働き掛けることこそが「隣人愛」であるはずなのに、そしてそれがあってこそ人間が人間であるはずなのに、「女」を解放するつもりの主張が実はその前提である「人間」を抹殺するものであることに、あの人たちはどうして気付かないのでしょうか? ホモソーシャルな世界というのは、男にせよ女にせよ、どこか気持ち悪い? フランスでもgalanterieという言葉はすでに死語になったと聞いたことがあり、悲しくなりました。 faire la cour àとはまさに宮廷人の振る舞い、『源氏物語』の世界、、、。
(中島さんと共に)「パリに住む女」の面目躍如という思いです。しばらく前に親しく付き合っていたあるフランス人女性が、「アメリカでは、地下鉄の中で男が女を見つめると、女はポリスに電話をする。これはアメリカで女性の地位が低い証拠だ。」と憤っていたことを思い出します。
Marche avec nous, Marie, sur nos chemins de foi,
Ils sont chemins vers Dieu, ils sont chemins vers Dieu.
ご著書『女のキリスト教史』、拝読しました。新書本という体裁ながら、マリアからスタートしてマリアに辿り着くという意味で、先生の今までのお仕事の集大成(の骨格)と言っても良いものであると認識しています。「À Notre-Dame de la Médaille miraculeuse」という扉の言葉がそれを象徴しているように思います。
特に印象に残ったのは、現世利益的土俗宗教から普遍的世界宗教への、超越性に向けての飛躍の契機に、マイノリティとしての「女」を見ておられることです。一般的には、ここに「死」あるいは「来世(天国)」の概念を置くところなのでしょうが、ここに「マイノリティとしての「女」」を入れ込むことで、普遍性・超越性の問題だけでなく、逆に「マイノリティ」や「女」をも再考に付すものを読み取ります(それが最終章に繋がるのでしょう)。ただ私としては、先日の東京・真生会館でのお話、すなわち「マイノリティ=女」をさらに環境問題と結び付けることの方に、いかにも先生らしい、腕力で強引に捩じ伏せるような、そしてそれゆえある種のロマンを感じさせられるような論理的展望に、より大きな快感を感じるのではありますが、、、。近い将来にその問題を前景化した本を出されることと思っています。
また、特に最終章で強調される、俗流フェミニズムに対する批判、先生と同じくパリ在住で作家活動をしておられる中島さおりさんなんかも、形こそ違え、基本的に同じ主張をしていると認識しているのですが、これほど(キリスト教史と結びつけつつ)論理的に明快に論じておられることに、(肉食系男子の私としては)胸の梳くような快感すら覚えます。俗流フェミニズムは「他者」というものを認めようとしていないと、私には思われるのですね。そしてその姿勢は、結局アメリカ的金融資本主義に加担するものでしかない、ということに意識的ではないと思うのですね。絶望的にまで掛け離れた「他者」、それに敢えて係わろう働き掛けることこそが「隣人愛」であるはずなのに、そしてそれがあってこそ人間が人間であるはずなのに、「女」を解放するつもりの主張が実はその前提である「人間」を抹殺するものであることに、あの人たちはどうして気付かないのでしょうか? ホモソーシャルな世界というのは、男にせよ女にせよ、どこか気持ち悪い? フランスでもgalanterieという言葉はすでに死語になったと聞いたことがあり、悲しくなりました。 faire la cour àとはまさに宮廷人の振る舞い、『源氏物語』の世界、、、。
(中島さんと共に)「パリに住む女」の面目躍如という思いです。しばらく前に親しく付き合っていたあるフランス人女性が、「アメリカでは、地下鉄の中で男が女を見つめると、女はポリスに電話をする。これはアメリカで女性の地位が低い証拠だ。」と憤っていたことを思い出します。
Marche avec nous, Marie, sur nos chemins de foi,
Ils sont chemins vers Dieu, ils sont chemins vers Dieu.