睡蓮さまへ
日本版の映画について、雑誌への記事の中でこうコメントしました。
「私は遠藤周作の『沈黙』を篠田正浩監督が映画化した作品を劇場公開時に観た世代だ。
映像の美しさや登場人物の苦悩やキリシタン迫害の残酷さなどに深い印象を受けたけれど、そのテーマである「神の沈黙」についてはストーリーの一要素くらいにしか思えなかった。
踏み絵を踏まないことで自分や仲間の命を危険にさらしたり、その結果、人を殺し殺させる政治のシステムを機能させ続けさせたりすることに意義は感じられず、それを大仰にうち悩む宣教師や信徒の心情も文学的レトリックに見えた。
信仰という心の問題と、踏み絵を踏むというその場限りの形とが秤の両側に置かれる対称性が分からなかったのだ。」
というものです。今は、2/3のブログで書いたように、宣教師が転んじゃいけないなあ、って、結城了悟三みたいな考えになってます。
そのためには、キリスト教徒迫害の種類と文脈を分ける必要があります。
それについては、来月の雑誌や今執筆中の本に書きます。
ブログにも少しずつ書いていきます。
英語系のインタビューとかもいくらか見ています。ガーフィルドのも見ました。イエスと交わるエクササイズがメソッドアクティングだというのは、分かりますが、彼らの信仰告白みたいなものがどう伝わるか、疑問でもあります。疑いと探求という道を進む前に、自分の奥深くに「確信」がないとどうにもならないとは思いますが…。
「私は遠藤周作の『沈黙』を篠田正浩監督が映画化した作品を劇場公開時に観た世代だ。
映像の美しさや登場人物の苦悩やキリシタン迫害の残酷さなどに深い印象を受けたけれど、そのテーマである「神の沈黙」についてはストーリーの一要素くらいにしか思えなかった。
踏み絵を踏まないことで自分や仲間の命を危険にさらしたり、その結果、人を殺し殺させる政治のシステムを機能させ続けさせたりすることに意義は感じられず、それを大仰にうち悩む宣教師や信徒の心情も文学的レトリックに見えた。
信仰という心の問題と、踏み絵を踏むというその場限りの形とが秤の両側に置かれる対称性が分からなかったのだ。」
というものです。今は、2/3のブログで書いたように、宣教師が転んじゃいけないなあ、って、結城了悟三みたいな考えになってます。
そのためには、キリスト教徒迫害の種類と文脈を分ける必要があります。
それについては、来月の雑誌や今執筆中の本に書きます。
ブログにも少しずつ書いていきます。
英語系のインタビューとかもいくらか見ています。ガーフィルドのも見ました。イエスと交わるエクササイズがメソッドアクティングだというのは、分かりますが、彼らの信仰告白みたいなものがどう伝わるか、疑問でもあります。疑いと探求という道を進む前に、自分の奥深くに「確信」がないとどうにもならないとは思いますが…。