アベル症候群
アベル症候群についてのこの論文は、日本語で検索したらwikiなど手軽なものがなかったので拝借しただけで、私は論文の全体を読んでいません。ちらっと眼を通しただけです。
私はアベル症候群という言葉を別のところでも使ったと思いますが、修道女の研究をしている時に出会ったものです。もちろん「カインとアベル」から来ているのですが、普通、「出家」するなんて、俗人から見れば、なんだか世をはかなんで、とか、娑婆で生活する能力がないとか、失うものがない、みたいな感じがするではないですか。それなのに、若くて美しい良家の子女やなどがどうして観想型修道院に閉じこもるのか、そこには病理はないのか、と調べていました。すると、カトリック教会は長い歴史の中で「学習」したのか、そういう精神的に不安定な修道志願者を分別しチェックするいろいろなノウハウがあることが分かりました。その中で「アベル症候群」があったのです。
で、別に「富裕」に限ったわけではなく、「カイン」との関係にあるように、同じ状況の中でなぜだか自分だけえこひいきされている(運命に、親に…)と感じる人の罪悪感のようなのです。
私はもちろん「富裕」という点でバダンテールと比べているわけではありません。(バダンテールはアベル症候群とは縁がないでしょうが)
でも、たとえば戦地の難民と私との差に比べたら、バダンテールやゲイツと私の差はないに等しいでしょう。量の差と質の差の違いです。
起きて半畳、寝て一畳、といいますが、快眠するのに黄金のベッドは要らないし、金持ちが人の倍、飲み食いできるわけでもない。贅沢をしたければシャトーホテルにでもたまに行って(使用人へなどの)責任なく過ごし、たまにミシュラン星付きレストランに行ける方が、「誰にでもわかる富裕者」よりはるかに気楽だと個人的には思います。
でも内戦地や、独裁者の国にいたり、国や家を捨てて逃げざるを得ない人々に突き付けられている「悪」はまったく違います。(与えられた生を安全にまっとうする権利をさまたげるものは「悪」という認識で)
で、そういう他者の不運の知識が私の「罪悪感」の根本で、子供の頃からあったので、「達成の罪悪感」というのは違うと思います。(論文をちゃんと読んでないので分かりませんが)
達成というのは目標を前提としているのではないかと思いますし、第一、人生に「達成感」もないし、目標もないです。そういう意味では「オッサン」脳に関わらず、まったく競争心とかもないので。
まあ普通の意味で、自分勝手、わがまま、甘えるのが平気、いろいろな人を傷つけてきたなあ、という自覚があるので、そして、そういう自覚を促してくれるような「聖人」(スピヌーも含めて)に出会ってきたからというのもあります。
ただ、「地球を救えるか?」に関しては、「考えているだけ」、「言っているだけ」、「書いているだけ」でいいのか? という「行動力のなさ」が罪悪感のもとです。
でもそれが最近解消したのです。そのことについて引き続きブログに書いていきます。
私はアベル症候群という言葉を別のところでも使ったと思いますが、修道女の研究をしている時に出会ったものです。もちろん「カインとアベル」から来ているのですが、普通、「出家」するなんて、俗人から見れば、なんだか世をはかなんで、とか、娑婆で生活する能力がないとか、失うものがない、みたいな感じがするではないですか。それなのに、若くて美しい良家の子女やなどがどうして観想型修道院に閉じこもるのか、そこには病理はないのか、と調べていました。すると、カトリック教会は長い歴史の中で「学習」したのか、そういう精神的に不安定な修道志願者を分別しチェックするいろいろなノウハウがあることが分かりました。その中で「アベル症候群」があったのです。
で、別に「富裕」に限ったわけではなく、「カイン」との関係にあるように、同じ状況の中でなぜだか自分だけえこひいきされている(運命に、親に…)と感じる人の罪悪感のようなのです。
私はもちろん「富裕」という点でバダンテールと比べているわけではありません。(バダンテールはアベル症候群とは縁がないでしょうが)
でも、たとえば戦地の難民と私との差に比べたら、バダンテールやゲイツと私の差はないに等しいでしょう。量の差と質の差の違いです。
起きて半畳、寝て一畳、といいますが、快眠するのに黄金のベッドは要らないし、金持ちが人の倍、飲み食いできるわけでもない。贅沢をしたければシャトーホテルにでもたまに行って(使用人へなどの)責任なく過ごし、たまにミシュラン星付きレストランに行ける方が、「誰にでもわかる富裕者」よりはるかに気楽だと個人的には思います。
でも内戦地や、独裁者の国にいたり、国や家を捨てて逃げざるを得ない人々に突き付けられている「悪」はまったく違います。(与えられた生を安全にまっとうする権利をさまたげるものは「悪」という認識で)
で、そういう他者の不運の知識が私の「罪悪感」の根本で、子供の頃からあったので、「達成の罪悪感」というのは違うと思います。(論文をちゃんと読んでないので分かりませんが)
達成というのは目標を前提としているのではないかと思いますし、第一、人生に「達成感」もないし、目標もないです。そういう意味では「オッサン」脳に関わらず、まったく競争心とかもないので。
まあ普通の意味で、自分勝手、わがまま、甘えるのが平気、いろいろな人を傷つけてきたなあ、という自覚があるので、そして、そういう自覚を促してくれるような「聖人」(スピヌーも含めて)に出会ってきたからというのもあります。
ただ、「地球を救えるか?」に関しては、「考えているだけ」、「言っているだけ」、「書いているだけ」でいいのか? という「行動力のなさ」が罪悪感のもとです。
でもそれが最近解消したのです。そのことについて引き続きブログに書いていきます。