2006年の投稿

ユニヴァーサリズム

Fusako · 2006-04-10 23:23:23 UTC+9 · 投稿 #51

別のことを調べていて、フランスのユニヴァーサリズムについて触れた文章に行き当たりました。先日出ていたセゴレーヌ・ロワイヤルさんはPACSの方ですよね。で、これはフランスの同性愛者の問題についての研究者が書いたもののようですが、PACSは、フランスの実際的ユニヴァーサリズムの例である、というものでした。
http://www.ambafrance-jp.org/IMG/pdf/Pacs.pdf

ユダについて

Sekko · 2006-04-10 17:39:42 UTC+9 · 投稿 #50

「ナショナルジオグラフイツク協会」は4月9日、15日、27日にこのテーマでTV番組を放映し、その後5月3日号でユダの福音書のダイジェストを発表するといっています。この中でユダは、裏切り者から「英雄」さらに「聖人」として復権という機運があります。
しかしこの福音書はすでに2世紀からリヨンの司教エイレナイオスの異端論によって伝えられていて、325年にニカイアの公会議によって、他の30ばかりの外伝と共に正典から外され失われました。1978年になってエジプトの洞窟から農民が1部を発見、おそらくグノーシス派の一派カイン派のものだと思われています。カインの子孫と称するこの一派は、3世紀から4世紀ごろに、この「ユダの福音書」を手写したようで、元は、正典の4福音書と同時期(1世紀後半)にギリシャ語で書かれたものだと見られます。
この手稿の現在の所有者で、エジプト政府に返還を決めているスイスのMaecenas財団で分析されるまでに手稿は痛みました。16年もアメリカ系銀行の金庫に眠っていたため、パピルスが乾いて、上部は裂けたそうです。キリスト教考古学者らが改めてユダの立場について研究しましたが、それ以来巷に出てきた「ユダ擁護」の本はすべて、イデオロギーの色のついたものです。ピエール=エマニュエル・ドザの『ユダからホロコーストへ』は、教会がユダをスケープゴートにして、反ユダヤ主義に必要だったユダヤ人像を生み出し、それがヒトラーにまでつながったとします。ニコラ・グリマルディ(『Le livre de Judas』Puf)によれば、ユダは、イエスの教えがモーセの教えと合致しているか審査してもらおうとしてイエスを司祭に引き渡したのだ、神の意思を確認したかったのだということです。今出ている本のたいていは、学問的考証の影に反教会主義が見え過ぎているものが多そうです。
でも西方教会ではユダだけじゃなく、ユダヤ人全体が「イエス殺し」「神殺し」という汚名をずっときせられてきました。それは、西方教会を担うローマ人が、ローマ総督ピラトがイエスを有罪にしてローマ式の十字架刑を執行したというイメージを嫌って、「イエスの死を望んだのはユダヤ人」という印象を強める必要があったからでしょう。日本人などの眼から見たら、イエスだって、12使徒だってユダヤ人なのに変だなあと思うのですが、コスモポリタンでギリシャ的なパウロが普遍宗教のキリスト教を創っていったこともあって、イエスのユダヤ・ローカル性からローマ世界帝国領内の人々の眼をそらせるために、「イエスを殺したのはユダヤ人」という形を強調したのでしょうか。今もホロコーストの後遺症が大きいヨーロッパの反ユダヤ主義の根は、キリスト教の「神殺しのユダヤ人」史観そのものにあったので、「ユダ」という一人の裏切りにあったのではない、ユダの裏切りの物語は、イデオロギー的ではなくむしろ人間的な物語としてインパクトを持ち続けてきたと思います。でも私が『キリスト教』でちょっと書いたように、ユダの名前が「ユダヤ人」と重なるのが皮肉でした。彼がシモンとかヨハネという名だったら、大分変わってきたとおもうんですが。
それで、またアメリカですが、アメリカのメディアが今急にこのことを大スキャンダルであるかのように言い立てるのは、ひとつにはユダヤ人コミュニティのロビーイングの力に支えられたイデオロギー的なものだと思いますし、キリスト教が原理主義的に政治勢力となっているアメリカだからこそ効果があるのですね。フランスでは、One of them という感じです。でも、『ダ・ヴィンチ・コード』の大成功以来、フランスでも、宗教無教養派がアメリカ由来の「スキャンダル」に飛びつく傾向があるので、この『ユダの福音書』を種にしてまたダン・ブラウン、または第二第三のダン・ブラウンがベストセラーを書けばいいなという雰囲気ですね。
カトリック自体は、すでに4世紀の時点で、この福音書を正典とは認めないという立場を決めてしまっているわけですから、それを前提に発展しているので、個人の信者が動揺するとかは基本的にありません。信仰は考証や証明とかではないし、真実とは史実とイコールでもないのですから。

ユダの談合

Nao · 2006-04-10 16:44:54 UTC+9 · 投稿 #49

4/7,読売朝刊から。
米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフイツク協会」は6日、1700年前の幻の「ユダの福音書」の写本を解読したと発表した。イエス・キリストの弟子ユダがロ-マの官憲に師を引き渡したのは、イエスの言いつけに従つたからとの内容が記されていたという。解読したロドルフ・カツセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。

イエスはほかの弟子とは違い教えを正しく理解していたとユダを褒め「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と,自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。

竹下先生
このことはフランスでは、どんな議論になつているのでしょうか?これからなのでしょうが、フランスの論議がでてきましたら、是非ご紹介いただきたくぞんじます。

日本の若者の状態

Fusako · 2006-03-19 12:58:07 UTC+9 · 投稿 #48

鬱、とか、生活についてこちらに書くきっかけになった竹下さんの本は「カルトか宗教か」でした。「家族政策」と全然関係なさそうですが、風が吹いて桶屋になり、ついでに鬱となったのは、特に日本の失業者、とりわけ若年層を考えてのことでした。
フランスでは、今、暴動に続いて初期雇用契約で若者がまたまた行動していますね。日本では、ニート・フリーターという、若年の失業者・非正規雇用者がこれも大きな問題になっていますが、政策なんてないに等しいです。特に、これを「鬱」と言うべきか、「引きこもり」などの生きる意欲に欠けている若年が大量にいるのに対して、全国にNPO頼みの委託施設をわずかに数十箇所指定し、それも効果が疑わしいし、失業対策に本腰を入れるなら強化しないとならない職安は民営化し、そうでなくとも労働法と関係ない口入産業の派遣・請負業ばかりがはびこっています。人を転がす口入産業、金を転がす銀行(儲かる企業だけを向いている)と高利貸(セーフティネットのない社会で市民にはこれしかない「消費者金融」)ばかりが肥大化する社会。
特に若い層が、まともな賃金と労働時間でまともな生活ができる社会でなければ、子どもも持てないし、Joie de vivre なんてないですよね。
そういう中で、これは計量化できないけれど、日本の若者の「心」ってどうなってきているのか気になっています。欧米ほどの暴力的カルトではないけれど、もともと、あまりものを考えず、自力で生活できる意欲にも乏しく成長している日本の若年の中にはびこっている、あるいは、若年の中にできている空洞に入り込んでいるもの、それが気になっています。

十字架の聖ヨハネ

あんとに庵 · 2006-03-19 09:19:54 UTC+9 · 投稿 #47

う~む。鬱を巡るお話面白いです。わたくしも鬱傾向があるので。
「十字架の聖ヨハネ」が現代では鬱と診断されてもおかしくないというくだりに。おおう!と。
あのメンタルは画家が作品に悩む時によく体験する精神なんですね。「暗夜」を読んだ時の規視感といったら。
そしてアート論評に書かれた「怠惰との親和性」というのはもう痛いほど経験中と申しますか。(その辺り、怠惰とメランコリアについてもっと読みたいなぁ・・・)ダ・ヴィンチの作品の少なさも関係してるんでしょうか?ダ・ヴィンチのような天才ではありませんが、作品へ向えない、そのエネルギーの枯渇というのはよく体験します。ことに最近その傾向が強いのですが、鬱だな・・と思ったり致しますね。逆に作品を描くパワーってどの辺りから来るのかと自分でもわからない時がありますし。まぁマイブームがなんらの形で生じている時というのは作品に向える。そういう時は大抵操に入った状態かもしれません。マイブームの時の活動力は鬱時の10倍はあります。近年ではフィリッポ・リッピがマイブームだったことがありイタリアでリッピばかり見ていたりとんでもない分厚い画集を買い漁り、揚げ句の果てに絵柄までリッピになり、カルメル会にあこがれ、なんだかもう大変でした。しかし鬱になるとそういう意欲が全然無くなり草食動物化します。仕事の意欲も枯渇して困りますね
そういえば鬱の言葉が低気圧と関係があるとのこと。私は低気圧になると鬱状況に陥ります。何故かそうなりますね。かといって晴れたら操になるかというとそういうわけでもないのですが。

ジャミソンの本

Sekko · 2006-03-19 01:35:33 UTC+9 · 投稿 #46

私の買ったジャミソンの本はMasakoさんの書かれた自殺の本とは違う自伝のようです。一番よく読まれているという話だったので選びました。まだ全部読んでませんが最初はかなり違和感がありました。この本がこんなに人気を博したのは、「こんな病気を抱えている人でも社会的に立派に成功し幸せになれるんだ」と励みに思う人か、「こんなに立派な偉い人でも、実はこんなに苦労しているんだなあ」と自分を慰める人かどっちかに受けたような気がしたのです。躁の初期に一種の啓示を受けることへの著者の自覚にも、不思議に共感できませんでした。それに、躁で舞い上がって、浪費したら、頼もしい立派なお兄さんが飛んできて借金を清算してくれるんですよ。いや、別に、彼女が躁の落とし前をつけないことに嫉妬しているのではなくて、結局、彼女が金のあるWASPで、若くて頭がよくて、金髪碧眼の美女であることがすべてを変えるなあと思ったのです。
どんなに躁鬱が実存的に苦しくても、金や権力やコネや若さがあれば、かまってもらえる。(アル中から復帰して大統領にもなれる。)しかし、年寄りや障害者や貧乏人の欝とか、女子供や凡人の躁は、無視されたり制裁されるだけ。結局、普通の世界の差別構造が、より先鋭化するのが「病気」というフィールドなんだなあという思いです。

面白いですね

古川利明 · 2006-03-14 13:15:43 UTC+9 · 投稿 #45

この躁鬱論議が面白かったので、私もチョット書きます(笑)。しかし、アフガニスタンから来た人への、フランス人の「楽しみ以外のセクシャリティにいったい、何があるんだ」との発言は何ともスペシャルですよね。もともと明治以前は日本のカルチャーもセクシュアリティに対して、もっとオープンだったと思うんですけど、例の「富国強兵路線」で、そういうものを「いかがわしいもの」と抑圧してきた部分はありますよね。かび臭い儒教的な発想を引っぱり出した部分もあるかもしれませんが、結構、アングロサクソン的なピューリタリズムもあるかもしれませんね。フランス人に比べて、日本人に鬱が多いというのは、そういった社会に存在するさまざまなタブーの存在とも関連があるような気がしますが。

躁と鬱

Fusako · 2006-03-13 21:30:39 UTC+9 · 投稿 #44

鬱ときくと、ラフマニノフの曲をなぜか連想しますが、ラフマニノフには躁の要素はないような。昨年聴いたエレーヌ・グリモーのショパンがラフマニノフのような音で、色で言えばグレイでしたね。
こういうあっちこっち不安定に揺れ動くロマン派と違って、古い曲はバランスのとれた端正なものばかりのような印象があります。
忙しかった一日を終えての四方山話です。

躁について

Sekko · 2006-03-12 06:47:24 UTC+9 · 投稿 #43

ジャミソンの本、検索するとあまりにも面白そうだったので、今日早速、パリの本屋で仏訳を入手しました。彼女が躁欝で、躁の状態を知る故に、この病気を後悔しないみたいなことが興味深いと思ったのです。「普通」と「欝」の2状態の人には、欝からの回復が目標になりますが、「躁」の味を知っている人は欝のどん底にいても躁へのノスタルジーがひそかにうずいているので。そして、いったん躁になったときは、それも、周囲との状況とは全く隔絶してたりするので、欝のときに労わっていた家族は、ちょっと呆然として、躁を素直に喜んであげられない、「普通」を分け合えない断絶があります。「躁」は同情を得られない分、ある意味、欝より孤独であり、欝の予感があるので「生き急いでしまう」面もあります。この辺を
ジャミソンがどうとらえているか興味深々です。すべて「養生」は「中庸」にあり、それを侵犯して生きる躁鬱は、スリリングでもあります。(もちろん「生活苦」に由来する思いつめとは別の問題です。しかし、どちらも、あまりにも人間的な現象です。)

実存の深淵

Masako · 2006-03-10 13:00:47 UTC+9 · 投稿 #42

下記のジャミソンの本は未読ですが、衝撃を受けたのでよく覚えているのですが、
パラパラと見たとき最初の方に、自分は深く鬱からくる自殺の誘惑と
戦っていて、同じ誘惑にさらされている友人ととにかく何らかの兆候が
相手にあったら何としてでも阻止しあうという約束をしていた、という
くだりがあって、ここを読んだ時、実存の深淵を垣間見たような、非常に深い
苦悩を感じ衝撃を受けたことを思い出しました。
「存在苦」と言えばよいのでしょうか、
そういう苦悩です。

ジャミソン自身、躁鬱病に苦しみながら、精神科医として素晴らしい仕事をしつつ
著作活動をしていて、アメリカでは非常に読まれています。

「早すぎる夜の訪れ―自殺の研究」
ケイ ジャミソン (著), Kay Redfield Jamison (原著), 亀井 よし子 (翻訳)

生活苦

Sekko · 2006-03-10 06:07:44 UTC+9 · 投稿 #41

すみません。哲学宗教の質問箱だったので、欝は、理由のない、不条理な、「小さな死」のような、文化の比較を超絶したあの鉛のような鬱病を念頭においていたので。別に理由がはっきりしている欝の方が「軽い」とか治りやすいとかしのぎやすいと思っているわけではありませんが、理由なき欝の孤独は、社会状況や個々の生活史とは関係のない、人間の実存の深淵と結びついているようで、時々考えこんでしまいます。こういう欝の体験者がいらしたらコメントください。
今TVのニュースを見てたら、フランス人の健康調査があって、自分が欝状態にあると感じているフランス人は8パーセントいて、その中の38パーセントが医者に通うとありました。言葉は低気圧と同じDepressionなので、イメージ的には「落ち込み」に近いですけど。
昨日見た別の番組で、アメリカ人が自国とフランスとを比べて、アメリカは野心があればどんどん昇れるけれど、そこから落ちたりすると悲惨だ、それに比べるとフランスは負けたり失敗したりすることに寛容で、成功者の方がむしろ嫌われると言っていました。
日本はむしろフランスの方に似てる気もしますが、日本の方が「世間体」を気にしてと言う要素は大きいでしょう。「生活苦」にぴったり当てはまる言葉は確かにフランス語にないし、「Joie de vivre 」にぴったりの日本的表現もすぐに思いつきません。きっと、フランスでは、きれいな服を着ておいしい物を食べて、飲んで、おしゃべりしてというのが長い間、王様から庶民までの分かりやすい幸せと善のコンセンサスだったのに比べて、日本では、武家に寡黙で質素な儒教文化が浸透して、着飾っておいしいものを食べるのは遊郭とかの「悪所」で、素直に喜びというより「遊蕩」のイメージがあったので、ずれているのですね。
失業したりの純粋な生活苦というのはどの国にもあるし、そのために社会から疎外されるのは特に先進国の問題ですね。日本風の熟年離婚はあまりこちらでは聞きません。普通退職金というものはありませんし、相手が嫌になったら熟年まで我慢するという発想は多分ないです。日本は戦後の高度成長期に、専業主婦を夫婦のモデルのようにして社会が成り立っていたから、育児の途中で離婚したら母子の生活が成り立たない現実があって、それで熟年まで待ったりするんですね。フランスに5年住むアフガニスタンの学生が、初めてパリに来たときメトロの中でキスするカップルを見て驚いた、誰も気にしていないのにも驚いた、セクシャリテが楽しみのためにあるのだと知った、と言ったら、周りのフランス人は笑いました。彼らには楽しみ以外のセクシャリティが可能なのか一瞬分からなかったのです。アフガニスタンの学生は、僕の国では子供を作るためのものだと思っていたと答えました。フランス人たちはみんな虚をつかれた感じでした。彼らにとってはセクシャリティは「おいしい食事」と同じカテゴリーに入っていたようです。

鬱、続き

Fusako · 2006-03-09 23:10:27 UTC+9 · 投稿 #40

お返事をありがとうございました。でも、わたしがおたずねしたかったのは、そう、日仏、ないし、日欧の違いですね。Joie de vivre という言葉を見て、日本でそれに当たるのは何かしら、と考えました。で思い浮かんだのが、全く逆の「生活苦」、で、日本人はこれで鬱になり、自殺するんですよね。もう一度ひっくり返すと「生活苦」という言葉がフランスにあるか、ということになりますね。
日本の鬱の場合、「生きる意欲」がなくなる、というより、「これでは生きてゆけない」と思いつめてのもの、で、欝であることがわかったらクビになる、と思いつめてひた隠しに隠してどんどん悪化する、とかね。病気ですから休みます、というAbsenteismeは日本ではあり得ません。
わたしは、あまり日本人ではないので、一時鬱になりましたが、それは友情の破綻によるものでした(ずっと後からわかった)。でも、たいていの日本の鬱、って(「メンタルヘルス」というのが最近の用語)、仕事や勉強がらみ、金がらみ、です。仕事がらみ、というのは、前回書いたように、業績不良だの、いじめ・セクハラで鬱になる現象。日本には、仕事をやめたらヨーロッパ型の生活扶助や失業手当がありませんし。そういうものがあって消費者金融というか「高利貸」に頼らないですめば、とか、フランスの家族手当ほどの現金給付(子ども一人に月額二万弱?)があればどれだけの子どもが育てられるか、とか、お金だけの問題ではないのですが(お金を出すシステムは国民の合意にもとづく社会政策から導き出されるわけですし)、考えています。これまた全然違う話題ですが、熟年離婚も、生活できるお金が保障されれば離婚する、という話です。

欝の比較文化

Sekko · 2006-03-08 07:32:16 UTC+9 · 投稿 #39

北欧やフランスの特徴的な欝にはやはり、冬の日照時間が短くて、それがホルモンだか脳内物質の分泌だかに影響して、というのがあり、ハロゲンランプとかを毎朝2時間照らして治療したら緩和するというのはよく聞きます。ここのとこずっと天気が悪く、雨の翌日たまに青空が出ると、芽の出かけている木々が嬉しそうなオーラを出しているのに初めて気づきました。木は危険を察知すると化学物質を出してコミュニケートするとか聞いてましたが、嬉しい表現もあったとは、驚きました。全部の木じゃなくて、同種の木が集まっているところにたまに。
というトンでも話はこれくらいにして、私は、このごろ、鬱病も自閉症などコミュニケーションと同じように、グラデーションを成していると思っています。普通に活動意欲のある部分から、まったくゼロになるところまで、漸進的にグラデーションがあると。それで、意欲の針が、職場の問題とか家族の問題とか、体の不調とか、日照時間の短さなどによって、どんどん、あるいは少しずつマイナスの方にぶれていく欝も確かに存在します。この契機は文化によってすごく差があり、カイロのスラムで何十年もヴォランティアをしていたシスター・エマニュエルが言っていたように、すごく貧しい生活でも、それが欝の契機にはならないで全員インがヴァイタリティに満ちている場所もあり、戦争中で空襲されて逃げているとか、収容所の中とか、サヴァイヴァルのアドレナリンが出ているような状況でも、欝への傾斜はないようです。何らかのきっかけでマイナスに傾斜していく場合も、少しずついい方に引っ張るより、ショック療法というか(たとえば家族が事故にあうとか、事件を起こしたとか、自分の体の方がSOS を出すとか、天災に巻き込まれるとか)、背に腹は変えられないというような状況にあって驚いて針がプラスの方へ向かうことの方が多いようです。欝に向かっていても、安定剤のような薬を飲んでいない限り、意識は明晰な人がほとんどですから、ケースバイケースで、カウンセラーを受けさせたり、原因を取り除く(太陽灯をあてるなどもふくめ)工夫を周囲の人ができればいいのですが。人の心をもっとも動かせるのは人の言葉だったりするので、適切な言葉を探して声をかけるというのが効果を発することもあります。
しかし、体験のない人には想像しにくいかもしれませんが、欝の中には、意欲の針が、何の契機もなしに、グレーゾーンを通らずに、ぽんと、限りなくゼロに近いところに振れてしまうものもあるのです。これは前にも書きましたが、人生のアクシデントとしか言いようのないものです。ホルモン変化(つわりや更年期など)や他の病気が原因の時もあり、それは、じっとやり過ごして原因が取り除かれるとけろりと治ったりするのですが、うつ状態にいる人は、いつか治るという見込みや希望を自分では感じられないので、頭で理解できるように情報を与えるべきです。
そうでなく、ただ、まるで遺伝子にプログラムされていたかのように、青空が広がろうと、健康状態がよかろうと、ただ、ぽんと針がマイナスに振れる時、これが一番、周囲の理解を得られにくいこともあってつらいし、文化や生活史から隔絶しているので、手のつけようがありません。活動意欲ゼロの上に孤独を抱え込みます。しかし、このタイプの中にも、周期性をつかんで、小康状態のときにいい仕事をするとか、意欲がなくても機械的に普通の生活をするとか、いわば「高機能鬱病」の人もいます。こういう人は、グレーゾーンを通過してきた個人的痛みやつらさがない分、一種抽象的な「死」と共存しながら、結構長く生きたりもできます。自殺する意欲もない時より、小康状態の時の方が危ないので、小康状態の時をどうやって管理するかが大事です。理由はなくとも、生れたからには生きて、自分の中の「生命」の部分に水をやって育て、他者との関係を結び、「死」の部分は覆いをかけて、繁茂しないようひ弱にしておく、と心がけるといいですね。
って、あまり答えになってませんが、要するに、欝や自殺で比較文化が成立するような部分は、まだ、他者が助けになってあげられる段階なので、問題解決のためにみんなで力をあわせましょう。リストラや借金、老いや病気、私たちや私たちの大切な人にもいつでも襲いかかり得ることです。私で役にたつことがあれば、心の問題でもこのコーナーでどうぞ声をかけてください。

鬱の話

Fusako · 2006-03-07 23:43:53 UTC+9 · 投稿 #38

たまたま竹下さんのご本を読んだので。フランスの少子化対策、じゃあない(「少子化対策」は日本での用語でした)「家族政策」について調べていて、ついでにあれこれで、竹下さんの本に行き当たりました。
で、家族政策と離れて、「鬱」の話。日本で鬱、自殺は増えています。で、欝はたいてい職場がらみか、或いは、これはあまり表に出ていませんが、家庭がらみですね。職場の問題は、教員・公務員・自衛隊に鬱が多い。企業にも増えていて、要するに仕事が回らないので問題になっています。民間ならとっとと首にするのを、公務員では解雇できないので、公務員の鬱が問題になるわけです。
自殺は経済問題。自殺も、「死んだことになっている」、つまり、戸籍から抹消されたホームレス(フランスで言えば、SDF、sans abris)も、借金(消費者金融という「金貸し」)苦からの逃避が、これも、仕事がらみですが、多いようですね。
フランスや北欧もけっこう「鬱」があるとはききますが、日本とはかなり違うのでは?

私もアルザスは・・・

古川利明 · 2006-02-01 21:16:22 UTC+9 · 投稿 #37

竹下さんの「アルザスはフランスではない」という発言に思わず驚いてしまって(笑)、哲学・宗教の話題から外れてしまいますけど、ひとこと。私もフランス国内はだいたい回った(つもりな)のですが、それでも「空白域」がまだ少しあって、その一つがアルザスです。東部地域のミュルーズまでは行ったというより、クルマでかすっただけですけど、その北、例えばストラスブールなんかは自慢ではないですが、一度も行ったことがありません。そもそもドイツ自体、まともに滞在したことがなくて(それはイギリスも同じ)、ポーランドは何度も行っているのに、ドイツはいつもワルシャワから(直通の夜行バスで)通過してしまうため、自分の中にはドイツはベルリンも含め、「街の記憶」というものがありません。ストラスブールあたりだと、食事なんかもドイツ料理そのものだ(じゃがいもにソーセージ、サワーキャベツ)とか聞きますし、「最後の授業」じゃないですけど、「フランスの中のドイツ」なのでしょうかね。しかし、そんなことを言ってしまったら、ペルピニャンはスペインですし、マントンはほぼイタリアですので、「国境」っていうのも、人間が便宜上、人工的に引いたものに過ぎないんだなあと思います。ユーロも流通して、前みたいな両替の煩雑さやパスポートコントロールもなくなったことですし、今度そっちに行ったら、たまにはフランスの国境の外に出てみようかなあ、と思っています。

アルザスは・・・

Sekko · 2006-02-01 02:50:46 UTC+9 · 投稿 #36

アルザスは冬すごく寒くて、夏すごく暑いので、春か秋がお勧めです。時期がわかれば、パリの宿泊先とかアレンジできますよ。アルザスはホンと、フランスじゃないですね。長崎も日本じゃないなあと思いましたけど。日本の自殺率の高さと少子化とセックスレスが関係していて、Joie de vivre が欠けているという推測は怖いです。実は私も、「それを言っちゃおしまい」というので言うのを控えていますが、日本って決定的に変と思うことがいくつかあります。
熟年離婚のことなどはこちらでも報道されてショックだという人がたくさんいます。昔よく「亭主丈夫で留守がいい」とか「仕事とSEXは家庭に持ち込まない」などという言葉がありましたが、この二つもすごく深いところで怖いですよね。
まあ病気としての欝はもう人生のアクシデントとしか言いようがない側面もあるので、ケースバイケースで対応し、自傷や他傷を事前に防ぐため周囲がベストを尽くすしかないとは思いますが。でも適切な言葉のコミュニケートによって回復することもあるので、そういう言葉を模索していくことは大切だと思います。

下記、1行目のみ引用です

Masako · 2006-01-30 22:16:46 UTC+9 · 投稿 #35

すみません、下記の1行目のみ、その下の竹下さんの言葉の引用です。
<マークがわかりにくくてすみません。

ガリシェ師のお話たいへん感動的でした。
「信仰の暗夜」、十字架のヨハネとか思い起こさせられて、懐かしい気がしました。
「暗夜」とは何の関係もありませんが、少しは体調も回復したので今年は久々に渡欧して
憧れながら行ったことがなかった、コルマールへ行ってみたいななどと
考えています。イーゼンハイムの祭壇画を一度見てみたくて。

メランコリア考

Masako · 2006-01-30 22:08:49 UTC+9 · 投稿 #34

>
メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、
最近どうしてこんなに「鬱病」が増えているのだろうと思っていたのですが、「神なき時代の病」とみると、納得できるようなところもたしかにありますね。「存在」の病がprescribeされるレヴェルへと矮小化されたというか。でもそれなら、「神」について西洋人ほど突き詰めた思弁をしない日本人に鬱病が増えているのもちょっと不思議な気もします。生きる意欲の希薄さというのが日本的な「鬱」なのかもしれません。日本人の近年の自殺率の高さを「日本人総鬱病」説で説いている人もいますが、それはあたらないにしても、高率な原因は巷間いわれるような経済的な問題やリストラ云々でなく、現代日本人にはjoie de vivreが欠けているからではないかと推測しています。何でもmake loveの年間回数の最高がギリシャ人で最低が日本人だとかいう、ちょっと笑える統計が最近出ていました。このひとつをもって日本人総鬱病とはいえませんが(joieにはいろいろあるので)、少子化の一因は社会システムだけでなくここにもあるのでは。

落ち込むことんついて

Sekko · 2006-01-29 02:17:44 UTC+9 · 投稿 #33

一日って、年平均したら、半分は夜ですよね。それで、普通の人は、日没の後も人工の光でまだ起きていて、睡眠というブラックアウトを日に7、8時間に抑えているわけですが、昼ばかりだと地球は焦げつき、夜ばかりだと凍りつくというわけで、起きている時間も、その半分くらいは暗くても自然かなあと私は思うのですが。そう、「普通の状態」があってそこから落ち込むというより、光になったり陰になったりするのっぺりした一日の中で、ブラックアウトの睡眠を楽しみ(小さい頃から、毎日やってくる、寝ることの不思議が、気になって気になってしかたなかったんです)、その中で、たまに他人との関係で、傷つけられたり、元気ををもらったりというのはあります。傷ついた時は、猫みたいに傷口ぺろぺろやって寝て治し、元気なときはそれをおすそ分けするためにわりと外へ出しちゃう方なので、外から見てると「いつも元気」っぽく見えるのかも。でも基本的に今落ち込んでるとか元気とか、「自分の状態」の把握に興味を持たないようにし、あるべきモデルも想定せず、自分の心身状態に関して、ぼーっとした距離感しか持ってません。もちろん病気になったら薬を飲むとかの最低限の対症療法はしますが、健康法もなし、健康診断もせず、です。
最近、エルサレムから数キロのアブー・ゴシュの修道会の院長が変わりました。この修道会は、12世紀にマルト騎士団が建てた教会にあって、現在10人の修道士が住み、今年創立30年を祝います。30年前に、ノルマンディのベネディクト修道会の院長が、世界の分裂の元は、初期キリスト教とユダヤ人の分裂のせいだと言って、ユダヤ、イスラム分け隔てなく門戸を開き地域社会に尽くそうと、この地に4人の修道士を派遣したのです。今回新院長になったのは、最初の4人の生き残り2人農地の一人、シャルル・ガリシェ師です。
何で、急にこんなことを書いているかといいますと、このガリシェ師の略歴が紹介されてるのを見てちょっとびっくりしたからです。「1976年、アブー・ゴシュ着任」の後、「1993年、鬱病」とあるのです。その後は、「1996年、パリ、サンタンヌ病院精神科看護師」「1999年、サンテ刑務所付き司祭」「2004年、イスラエルへ帰還」「2005年、アブー・ゴシュ修道院の院長に選ばれる」です。
聖職者(しかも修道院長)の略歴に、鬱病なんて病名を書くなんて・・・でもわざわざ書くということは、それが彼のキャリアにとって大きい意味を持ち、最終的にはポジティヴだったからだろう・・・それにしても・・・一昔前なら、ここは「信仰の夜」と書かれるところだったろうに・・・と感慨を覚えました。逆に、十字架のヨハネからリジューのテレーズまで、聖人聖女を訪れ苦しめた「信仰の夜」、あれも今なら、鬱病と診断されかねない。信仰にも、昼もあれば夜もある。輝く光に照らされる人ほど、夜の冷たさも、睡眠でブラックアウトできずにひっそり絶えなければならないこともあるのだろう。アート評論のところで書いた12月の展覧会で、メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、鬱病へと変化していくさまをいろいろ見ましたが、神学にまでなっている「信仰の夜」も、ひょっとして鬱病に?
それで、このガリシェ師がどうして欝になったかといいますと、ノルマンディから一緒に来てイスラエルで17年苦を共にしたアラン修道士の死を看取ったからです。それを振り返って彼は、「信仰は死別の時に役に立たなかった、死はいつも試練だ。しかし、英雄的に喪を生きない、とあきらめて、抵抗せずに受け止めたら、死は新しい生をくれる」と言っています。彼は、2004年にイスラエルに戻り、もう一人の同士である前院長の死を看取り、今度は「欝に落ち込む」ことなく、新院長の任を引き受けたわけです。
ヴァチカンの聖人認定審査の基本は、英雄的な徳性とか、英雄的な信仰です。だから殉教者などはそれだけで、英雄性が認められるわけですが、この「ヒロイック」というのは、他者のために身を捧げると思えばいいのですが、「強い」とか、「負けない」とかと解釈しちゃうと、夜が来たとき眠れなくなって、「信仰の夜」や欝に突入するのですね。
ちなみにこのガリシェ師は、1997年の復活祭の夜、ひどい狂乱状態で精神科に運ばれてきた女性が叫んだのを聞いた時に、本当に立ち直ったと言います。看護師がその女性の身につけていた十字架だか聖画のメダルだかを取り外そうとすると、彼女はすごい勢いで、「だめ、これは私の全部だから!」と拒否したというのです。狂乱の中でも残る分かりやすい信仰、小さなオブジェの中にでも自分の全部を託すことができる人の心の不思議、そこにガリシェ師は夜明けの匂いをかぎつけたのでしょう。
そんなわけで、ショックはできるだけ抵抗せずにやり過ごし、夜が来たら目を閉じ、それでも体調や体質やらの具合で落ち込んでしまったら、それを厳しい目で見ないで、ぼーっと育てていけば、いつか新しい光が差してくるかもしれない、というのが、ガリシェ師に学ぶ欝の正しい過ごし方、でしょうか。
くみんさんの憧れの質問の答えは、フランス語の質問箱のほうにしますね。

あこがれ

くみん · 2006-01-26 19:57:34 UTC+9 · 投稿 #32

ピアニストです。フランス人にどうして日本人のピアニストはロマン派が好きなのかと聞かれ、「ロマン派に憧れているから」と答えようとして辞書を引き、J'aspire と答えたら、全然通じませんでした。なぜですか。

落ち込むこと

yoshi · 2006-01-26 19:53:13 UTC+9 · 投稿 #31

竹下さんでも落ち込むことってありますか。

いろいろと考えさせられます

古川利明 · 2006-01-20 20:52:40 UTC+9 · 投稿 #30

「一夫一婦制」をベースに置く「婚姻制としての男系」の根っこにあるものとして、「財と権威の蓄積」という分析は、「うーむ」と考えさせられます。結局、集約的な農業生産の開始とともに、財産の蓄積、そしてそれとリンクしている貨幣が生み出され、そこから貧富の差や統治機構、さらには「システムとしての男系」が生まれてきているんでしょうね。私の大好きなジャン・ジャック・ルソーしかり、また、レヴィ・ストロースなんかもそうだと思うのですが、そういった「文明の進展(?)」という視点から、婚姻(家族)制度をみているんですよね。本来はそうした研究を専門にしているアカディミシャンこそが、現在の「女性(女系)天皇制」のギロンに一石を投じてもよさそうなのに、例によって、「見ざる、言わざる、聞かざる」ですものね(笑)。「天皇」と聞いただけで勝手に「タブー」だと思い込んでしまっているんですから。「諸君」や「正論」「SAPIO」といった「マッチョ大好き雑誌」はそもそもああいうノリなのは、私はアレで全然、かまわないと私は思うのですが(桜井よしこ等の主張も含めて)、「世界」や「論座」あたり(のツッコミ)がヒドイですよね。フランス同様、いまの日本の左派が腰抜けなのも、こういうところにも一因があるように、私には思えるのですが(笑)

男系について

Sekko · 2006-01-18 02:50:19 UTC+9 · 投稿 #29

仕事が押せ押せになってきて、じっくり書けないのですが、このテーマは確かに面白いですよね。あの時お話ししたように、「男が自分の財産や権威を子孫に継承させる」必要が生れた時に、「子孫の確定」のために制度としての婚姻がどの文化でも生れているので、要は
妊娠の管理であり、「一夫一妻」の「一夫」の部分が重要なのですね。「一妻」かどうかは経済力によるだけだったりします。あるいは「一妻」が子供を生産できない時ですね。女性の結婚はたいてい、ヴァージンロードを父親に連れられて夫に渡されるのに典型的に見られるような、「財」の移動でした。
確かにそういう意味では、聖母マリアが処女であり続けたというのは、「父なる神」の権威を「子なる神」に移行させるためには絶対必要だったのでしょう。それから言うと、男であるイエスには、子供がいては困るという論理は必ずしも成り立ちません。イエスは「教会」と結婚し、キリスト教徒はみなイエスの子というイメージ、聖職者や修道者の独身制や「イエスの花嫁」という表現も、「一夫」が重要なのであって、「妻子の数」はどんなに多くても問題ないのでしょう。
一神教が「一夫」への貞節をベースにしているとしたら、多神教社会では、もっと母系が残ってもよさそうでしたが、結局、財と権威の蓄積が男系を生むのですね。ヨーロッパでは、財と権威の継承権としての王家の系図はいつまでも残しているから、傍系はいくらでもあって、あまり直系にこだわらないというのはあります。フランスでさえ、今王政復古しても全然平気というか、誰が王になるかという順番は自明のものとしてあります。
感動的だったのは、敬虔なカトリックだったベルギーの先王ボードワンで、愛する妃(スペイン人)との間に子供ができず、すごく悩んだ末、「ベルギー国民の父」となる道にたどりついたことです。一妻を守ることを、一神を守ることに重ねて霊的な権威を増幅させていき、霊的な財を増やして、弟だったか、次の王に無事引き渡すことができたという感じですね。これがサウジアラビアとかになると、部族国家をまとめるために、アブドルアジズが各部族と姻戚関係を作り、何十人という子孫がいまやネズミ算式に1万人を越す王族になって、強固な消費者のマーケットを形成し、まあ、事実上「一神」を守るというイメージも薄れ、それが、原理主義者を刺激して、という事態になっているので、ベルギーとは対照的です。
カトリックが国教のモナコは、独身で即位したアルベール公が、他に子供もいる黒人女性と婚外子(男子)をもうけていたことが分かったのですが、これをすり抜けるレトリックも面白いものでした。まあ、ヨーロッパの王家は、王権神授説時代から、独身制の聖職者に対抗して霊的権威をいかにシェアするかというのが課題でした。
日本では、天皇家はそのまま祭司としての権威を保持し、しかも一神教じゃないから、教会との拮抗や一神教の霊的権威の獲得のために知恵をしぼってきたヨーロッパの王家のような基礎体力がないのかも。王族の「臣籍降下」という感覚はなく、プリンセスは結婚してもプリンセスのままだし「臣籍」じゃなくて「親戚」の世界。分かりやすいのか分かりにくいのかよく分かりませんよね。他に考えることもないではないのですが、とりあえず無難なセンでやめときます。

男系の起源とは

古川利明 · 2006-01-16 17:35:45 UTC+9 · 投稿 #28

日本滞在中は、竹下さんの知人の方とも一緒に表参道のカフェで、例によっていろいろなお喋りを楽しめて、満足しています(笑)。その中で竹下さんに伺った中に「結婚制度の起源にあるものとは」という問いに、「父親の画定である」との答えに「なるほど」と思いました。といいますのは、今、「女性(女系)天皇の論議」がウルサイですが、要するに「男系天皇の血」をこれまでに維持できてこれた最大の理由は「側室(制度)」の存在ゆえなんですよね。つまり、これまでは「オトコの天皇」は、「男子」が生まれるまで側室を何人も持って、子作りをすることができたから、「男系の血」というのは保たれてこれたんですよ。しかし、近代の「一夫一婦制」のもとでは、そんなことはできませんから、「天皇制(王政)」と「近代(の婚姻制度)」はそもそも両立しえない運命にあるんですよ。ここの部分は敢えてというか、「わざと」一連のギロンから避けているんですよね(右派・保守も、左派系フェミニストも)。これは竹下さんの領域ですけど、キリスト教にはマリアの「処女懐胎」のエピソードがありますよね。あまりうまく質問ができなくて申し訳ありませんが、そこらのあたりから「婚姻制度」と「男系」というものを斬っていったら、竹下さんの目からはどのように映りますか。欧州にまだ存続している王政のあるところもあるので、そこらあたりも睨みつつ、ぜひ、竹下さんのお考えを聞かせてください。